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多様性の時代〜ぺこぱの登場を通して見る現代論〜

もう1年半くらい前のことになる。

2019年末のM-1で、

ぺこぱが世の中に衝撃を与えた。


それは、別の言い方をするなら、

ぺこぱが共感される世の中になった、

ということでもある。


ぺこぱの登場を、

何人かの有名人は、

多様性の時代がきたと評した。


「多様性の時代がきた」


人間には、

異質な者を排除するという機能が、

本能的に備わっている

という話をどこかで聞いたことがある。


2019年、

人間は、

その本能に打ち勝ち、

異質な者を

受け入れられるようになったのだろうか。


2019年、

人間は、

異質な者を

受け入れられるようになり、

そして、

誰も傷つけない、

優しい生命体になったのだろうか。




異質な者を受け入れる世の中。

(それを多様性の時代と呼ぶ人もいる)

確かに表面上はそうなのかもしれない。

表面上は異質な者を受け入れる、

そういう時代になっているのかもしれない。


しかし、

「では本質的に人間は優しくなったのか?」

と問われると、

それはよくわからない部分もある。



異質な者を受け入れるようになったという現象

これは、

『人間が優しくなったから、異質な者を受け入れるようになった』

というより、

『所属意識がなくなったから、異質な者を排除しないようになった』

という方が近いのではないかと感じる。


「多様性の時代がきた」

この現象は、ひとえに、


『人間の所属意識の欠如』

がもたらしたもののように思える。


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異質な者を受け入れる。

知らない人だから受け入れられる。

ただ、少し、距離は、取るけれど。

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それは、

受け入れるというより、

排除していないだけ。


知らない人だからどうでもいい、

気にしていない、ということ。


人は、所属意識があるから、

その自分の所属の中の異質な者を排除したい

という意識が働くのだと思う。


所属意識がなければ、

排除したいとも思わない。

それはただ、

自分とは関係のない人だから。


排除するとは、

自分のスペースから何かをおしのけて

そこからなくすこと。


だから、Aさんを排除する、というとき、

Aさんはまず自分と同じスペース、

つまり自分と同じ所属集団の中にいることが前提としてある 。


最初から同じ所属集団に存在しないAさんを、

排除することなんてできない。


Aさんを排除するためには、

まず関わる必要が出てくる。


排除するために

関わる必要があるのなら、

「排除しない」


言い換えるなら

「排除すらしたくない」


それは、

表面上は、

「排除していない」


もしかしたら

「受け入れている」ようにも

見えるかもしれない。


ただ、このような姿勢でいる人を、

私は優しいとは思えない。


人間が優しくなったのではなく、

ただ人間が人間を捉える

その在り方が変わっただけの話。



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そんな世の中の流れの中で、

ぺこぱが現れた。

ぺこぱの漫才において、

ツッコミはボケ(間違っている人)を正そうとしない。

もちろん排除しようともしない。

ボケであるしゅうぺいは『変なやつ』であり、

ツッコミの松陰寺と同じところには所属していない。


同じところに所属していないため、

松陰寺はしゅうぺいを排除しない(排除できない)のである。

決して優しいから受け入れているのではない。


さらに、

ボケ(間違っている人)の行いを正して、

自分たちの所属集団に迎え入れることもしない。


ぺこぱの漫才を通して見ても、

やはり、

人間が優しくなったのではなく、

ただ人間が人間を捉える

その在り方が変わっただけだと思える。


そんな、少し時代遅れのぺこぱの話。



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