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前回までの話
世の中には、
自分の心が服に表れている人と、
自分の心が服に表れていない人がいる。
自分の心が服に表れている人は、
その人がイメージするその人自身(自己イメージ)と、その人が着ている服がぴったりと一致している人であり、
それは服が似合っている人である。
逆に、自分の心が服に表れていない人は、
その人がイメージするその人自身(自己イメージ)と、その人が着ている服が一致していない人であり、
それは服が似合っていない人である。
「服の似合わなさ」は絶対的なものではなく、
『今現在「服が似合わない」状態にある』という状態像である。
そしてその「服が似合わない」状態は、自己イメージと服の不一致が、違和感を醸し出している状態である。
自己イメージは、他者によって作られる。
特に養育者(多くは母親)との関わりによって、自己イメージの雛形が作られる。
自分が自分を評価するというのは、自分の中に存在する内的な他者が、自分を評価しているという状態である。
よって、一人でいるときに「自分は服が似合わない」と感じている人は、
自分の中に存在する内的な他者との間に表されている服に納得ができず、
違和感を感じている状態、というわけである。
そしてその違和感は、やはり現実に服が似合わないという状態を作り出す。
養育者の言葉という呪い
たとえば、「あなたは服が似合わない」と幼少期から常に養育者に言われながら育った子がいるとする。
そのような子は、「あなたは服に自分の心を表すことができない」という呪いをかけられているのと同じであり、
その呪いが解かれない限り、その子はどのような服を着たとしても、服に自己イメージを表すことができなくなってしまう。
そして、自己イメージと服の間に表れた不一致は、違和感を生み出し、
今現在「服が似合わない」状態にある』という状態像を作り出す。
「あなたは服が似合わない」という直接的な表現でなくても、「服が似合わない状態」は作り出される。
たとえば、「あなたって、何考えてるかよくわかんない子ね」という言葉を常に養育者から浴びせられながら育った子がいるとする。
これも、根本は、「あなたは自分を適切に他者に表現できない」という呪いをかけられているということであり、
「服に自分を表現する」というのも他者への表現であるわけだから、
上の例と同じように、その子はどのような服を着たとしても、服に自己イメージを表すことができなくなってしまう。
このように、「自分は服が似合わない」という自己評価や自己イメージは、養育者の言葉が大きく影響を及ぼしているのである。
自己と経験の不一致〜by カール・ロジャーズ〜
次回は少し服から離れたところの話に移って、
また服の話に戻ってきたいと思う。
お時間のある方は是非、よろしくお願いします。