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心の違和感

先日、大学に海外の講師を招いて講義をするという研修があったため、参加をしてきた。

そこには学生も参加をしていたのだが、学生は、講義の際、PCを起動させ、常にGoogle翻訳とChat GPTをウインドウで開き、講師の話を翻訳にかけながら、要約していた。

私はその光景に驚いて、講義後に、その大学の教授に驚きを伝えた。

すると、もうそのような光景は一般的だという教授の話であった。

さらに驚くべきエピソードとして、こんな話をしてくれた。

その大学の教授が、ゼミの学生にモラハラをしたとして、学生相談室にクレームが入ったとのこと。

その時に資料として提示されたのが、Chat GPTに状況を記載した結果の「これはモラハラです」という回答だったとのこと。


学生がモラハラだと感じたことは、きっと嘘ではないだろうし、もちろんその気持ちを否定するわけではない。

ただ、その自分の気持ちを保証するためのものとしてAIを使うというのが、なんだか少しゾクッとして背筋が寒くなった。

もしそのAIが、「それはモラハラではありません。あなたが考えすぎです」みたいな回答をしたとしたら、どうなったのだろう。

世の中のことに対して、AIから明確な回答が与えられていく。

よくわからないとか、曖昧とか、揺れとか、ブレとか、例えば昨日はこう思っていたけど、今日は正反対のことを思っているとか、人と人との間の違いとか、ズレとか、そんなのを排除した回答が与えられていく。

そんなのは人間的ではないから、いつかきっと揺り戻しが来るはずだという議論もあるけれど、きっとこの流れは、止めようのない流れなんだろうと思う。

だとすると、それがスタンダードになった世界で、私たちはどう自分の心と、そして他人の心と、向き合っていけばいいのだろう。


曖昧なものが排除された世界では、誰が見ても明確な結果(お金持ちとか、地位とか、名誉とか、知名度とか)が重視される世界になりそうな気もする。

「負けるが勝ち」とか、「美しく散る」とか、そんな美学はなくなって、「絶対に負けられない戦いがそこにある」とか、「何がなんでも(場合によっては汚い手を使ってでも)勝つ」みたいな価値観が、広がっていきそうな不安がある。

社会の流れは止められないにしても、その時に、個人個人の心に生じるちょっとした違和感に、寄り添うことができるような、そんな心理士でいたいなあと思う。

そのためにも、自分の心の違和感にも、敏感になっていたいなあと思う。


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