多動性・衝動性(ADHD)ってなんだろう〜「発達障害」と診断された人のための「発達障害」の説明書11〜
一緒につくるマガジン
【「発達障害」と診断された人のための「発達障害」の説明書】と題して、マガジンの連載をしている。
このマガジンは、『一緒に作るマガジン』という設定。
「受け身ではない、主体的な学びの機会を作りたい」
という思いからの『一緒に作るマガジン』。
マガジンの作成に読者が参加してもらうことで、きっと、受け身ではない、主体的な学びの機会が作れる。
もし何か質問が出たら、次回はその質問について取りあげた記事を書きたいし、もし自分の記事を取り上げても良いという方がいれば、次回はそれについて一緒に考えたい。
そんな風に、発達障害のことについて読者と一緒に考え、理解を深めていきたい。
ここでの皆さんとのやりとりこそ、リアルな「発達障害」の説明書になり得ると考えている。
「発達障害」の説明書、よかったら、一緒に作りましょう。
多動性・衝動性ってなんだろう
今日は、ADHDの「多動性・衝動性」という特性について考えてみたい。
『多動性・衝動性』と言われてどんなことが思い浮かぶだろう。
じっとしていられない
衝動買い
考えるより先に身体が動く
考えるのではなく感じる…
様々なことがイメージされるかもしれない。
改めて、多動性/衝動性ってなんだろう。
ADHDの診断基準(DSM -5)で示される多動性/衝動性としては以下のようになっている。
多動症および衝動性:以下の症状のうち 6 つ(またはそれ以上)が少なくとも 6 カ月持続したことがあり,その程度は発達の水準に不相応で社会的および学業的/職業的活動に直接,悪影響を及ぼすほどである.
(a)しばしば手足をそわそわ動かしたりトントン叩いたりする,またはいすの上でもじもじする.
(b)席についていることが求められる場面でしばしば席を離れる.
(c)不適切な状況でしばしば走り回ったり高い所へ登ったりする.
(d)静かに遊んだり余暇活動につくことがしばしばできない.
(e)しばしばじっとしていないまたは“まるでエンジンで動かされているように”行動する.
(f)しばしばしゃべりすぎる.
(g)しばしば質問が終わる前に出し抜いて答え始めてしまう.
(h)しばしば自分の順番を待つことが困難である.
( i )しばしば他人を妨害し,邪魔する.
日常場面で見られる多動性・衝動性の例としては、具体的に以下のようなものが挙げられている。
・教室,職場,その他の作業場所で,またはそこにとどまることを要求される他の場面で,自分の場所を離れる
・レストランや会議に長時間とどまることができないかまたは不快に感じる(他の人達には,落ち着かないとか,一緒にいることが困難と感じられるかもしれない)
・他の人達の言葉の続きを言ってしまう
・会話で自分の番を待つことができない
・列に並んでいるときに待つことが困難
・会話,ゲーム,または活動に干渉する
・相手に聞かずにまたは 許可を得ずに他人の物を使い始めるかもしれない
・青年または成人では,他人のしていることに口出ししたり,横取りすることがあるかもしれない
前回の不注意の特徴と同様、これら多動性・衝動性の特徴も、誰にでも当てはまるようなことが書いてあるかもしれない。
しかし前回も述べたが、診断がつくかどうかについてはその程度と、それが生活に支障をきたしているかというところがポイントとなる。
つまり、これらの特徴があればADHDというわけではなく、同年代の人と比べて明らかに頻度が多かったり、程度が相当だったりして、さらにそのことで生活に支障をきたしている場合には、ADHDの診断が検討されるということである。
ここからは、多動性と衝動性について、それぞれの特徴とどのような困難が起こりやすいのかということについて考えていきたい。
力を制限される多動(ADHD)の子どもたち
多動とは、文字通り「多く動く」ということ。
ADHDの子どもたちは、動くことで脳に血流を送っているとも言われる。
そのような子どもたちに対して、動くことを抑えるよう指導するということは、その子たちのパフォーマンスを落とすということにつながるかもしれない。
子どもたちは、大人に叱られたくないから、自分で動きを抑えることを学ぶ。
動きを抑えて、パフォーマンスを制限された状態で毎日を生きるようになる。
そうすると、パフォーマンスが制限された状態が、その子たちにとっての「普通」となる。
そして大人は、自分の指導の成果で『子どもが落ち着いた』と評価する。
しかし、その子たちは、本来であれば、もっとパフォーマンスが発揮できるかもしれないのである。
たとえば、動きを抑えることを学び、60%くらいのパフォーマンスしか発揮できないことが「普通」となっている子どもたちが、「動く」という自由を得た場合、100%のパフォーマンスを発揮できるかもしれないのである。
大人は、指導によって、子どもの本来の力を制限しているかもしれない。
トラウマを植えつけられる衝動(ADHD)的な子どもたち
衝動性とは、よく考える前に身体が動いてしまう性質。
衝動性は、自分でも考える前に動いてしまうため、前回の『不注意』の記事で書いたように、失敗体験を積みやすい。
自分でもよくわからないまま動いてしまって落ち込んでいるところに、さらに周囲から叱責を受けるのである。
そのダブルパンチで自信を無くしてしまうという子どもは多い。
しかし、この衝動性が強いタイプの子どもたちに接する人たちの困りは強い。
周囲の人たちにしてみれば、何回言っても子どもの行動が変容していかないというわけである。
大人に指導され、子どもは頭でわかったとしても、次の場面ではまた考える前に動いてしまうわけだから、行動は変容していかない。
結果、「言ってもわからない子」というレッテルを貼られてしまう。
「言ってもわからない子」として放っておかれるのはまだマシな方で、中には先生の「俺がなんとしてでもこいつを変えてやる」という厄介なこだわりを引き出してしまうこともあり、そうなると指導という名の下に、いじめに近いような状態が引き起こされることもある。
そうなると、その子の中にはトラウマとして深い傷が残ってしまうことになる。
ADHDの人の話を聞いていくと、このようなトラウマが隠れたエピソードが語られることが少なくない。
大人は、指導によって、子どもにトラウマを植えつけているかもしれない。
多動性・衝動性(ADHD)を持つの子どもたちの支援とは?
かと言って、子どもたちの力を制限することや、トラウマを植えつけるかもしれないことを恐れすぎてしまうと、私たちは何もできなくなる。
人と関わるということは、その人に何かしらの影響を与えるということであり、それがプラスに働くこともあれば、時にはマイナスに働いてしまうこともある。
大切なのは、自分の行動が、その人にどのような影響を与えているかということを意識的に振り返ってみることだと思う。
自分のやっていることが絶対に正しいのだと自信を持っている人に限って、子どものことが見えていないことが多い。
人と人との関わりなのだから、思うようにいかなかったり、迷ったりするのが当然で。
カウンセリングでも、クライエントが迷っている時は、その迷いがカウンセラーにも伝わり、カウンセラーも一緒に迷う。
でもその一緒に迷うというプロセスが大切で、そのことがクライエントの理解につながる。
『今まさに私が迷っているように、クライエントも迷っているのかもしれない』
とクライエントの迷いを共感的に理解することができる。
自分がまったくブレない人、まったく迷わない人というのは、相手を理解するための材料を一つ失っている状態とも言えるかもしれない。
自分の状態をモニタリングして、それを相手を理解するための材料としながら、相手の状態に思いを馳せる。
その上で何をやるか、何をやらないかを決めていく。
そんな丁寧な関わりができれば、子どもの能力を制限したり、子どもにトラウマを植えつけたりという可能性は少なくなってくるような気がする。
自分を見つめることで相手を理解するようなそんな支援を、私は心がけたいと思う。
次回予告
次回は、LD(学習障害)の人の支援について考えたい。
お時間のある方は是非、よろしくお願いします。
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