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自分のことについて聞かれたとき
自分のことについて聞かれるとき、如何ようにも答えられるなあと感じて、いつも何も答えられない。
全く思っていないことをでっちあげて答えることはないにしても、ぼんやりと感じているものを表す言葉は、ほぼ無限にあるような気がする。
言葉にしてみて、やっぱりこれは違ったなあ、なんてことはしょっちゅうあるし、ぴったり表現できたと思っても、1ヶ月後にはなんだか違っているように思えてきたりもする。
そんな日々を過ごしていると、ペラペラとすごいスピードで質疑応答に答えている人の存在を、俄かに信じられなくなる。
ほぼ無限にある答えの中から、今この場にふさわしい答えを届ける。
目の前にいる人が欲しがっていそうな答えを届ける。
それは別に、自分だけがそうしているわけではなく、ほとんどの人が意識的に、あるいは無意識的にやっていることなのだろうと思う。
ではなぜそれが気になるのだろう。
別にそういうものだと割り切って、その場の雰囲気に合わせて答えていればいいだけであろうに。
そこにはやっぱり、主人公的な人への憧れがあるんだろうなと思う。
誰に聞かれても、どのような雰囲気でも、同じことを同じように答える。
そんな主人公。
本屋大賞で話題になった、宮島未奈氏の「成瀬は天下を取りにいく」の主人公成瀬も、そんな主人公だった。
このような本が売れるということは、多くの人の中に、主人公的な人への憧れが潜在的にあるのだろうなと感じた。
強くて、まっすぐで、誰に聞かれても、どのような雰囲気でも、同じことを同じように答える主人公成瀬。
だけど、最後の章に、成瀬自身の心情の描写があり、そんな主人公も揺れることがあるということが描かれる。
このあたりが、現代っぽいなと思ったりもして。
全く謎の、強くてまっすぐな主人公ではなく、少し人間的な部分も見せる。
社会がそんな主人公を求めているのだとしたら、自分も、自分が持つ答えの中から、「強くて、まっすぐで、誰に聞かれても、どのような雰囲気でも、同じことを同じように答える。けれど少し人間的な部分も見せる」ような成瀬的な答えを手繰り寄せて、世の中に届けてやろうかと思ったりもする。
そんな成瀬的な答えを自分の中に探ってみて、しばらく探したけれど結局ひとつも見つからなかったときに、自分の器を知るのであった。