ひとりで生きていくこと
ひとりで生きていくこと、についてたまに考える。
タイに留学に来てから早五ヶ月半以上。
この五ヶ月半の中で二回、とんでもなく気分が落ち込んで涙がたくさん出てくることがあった。
一回目は九月から十月にかけて。
なんで気分があんなにも落ち込んだんだろう?十二月後半から一月頭にかけて圧倒的にハイモード、無敵モードを維持していた時はよくわからなかったのだけど、新年初めを少し過ぎたあたりでまた些細なことを引き金にしてとんでもなく落ち込んだ。その時に改めて自分のことについて見つめ直してみることにした。
留学に来て初っ端、八月は全てが楽しくて仕方なくて、負の感情はほとんど感じていなかったと思う。
だけど九月くらいから。なんだかものすごく寂しくて仕方なくなった。
恋人もちょうどその時期は特に忙しくて、あまり甘えることができなかった。もっと時間を取る努力をしてほしかった。相手が全部悪いわけではないのに相手への不満がどんどん募っていくのもキツくて、そして少し物事が重なって別れた。
妹は受験生、母も大忙し、父も仕事に家族のサポートで忙しい、家族にもあまり頼れなかった。電話をかけるのも避けた、LINEもあんまりしなかった。様子を聞かれることもそんななかった。
同じくらいの時期から、一番こっちに来てから頼りにしていた友達に距離を置かれているような気がし始めた。すごくショックだった。
風邪も引いて、生理にもなって、沈み切ってちょっと人間を辞めベッドに張り付いていた数日間、安心できる人との通話での会話を欲してたまらなかった。正直、発狂するかと思った。笑
「自分の機嫌は自分で取る」
「ひとりでも生きていけるようになる」
それが正義とされる世の中。
自分の機嫌は確かに自分で取れるに越したことはない。でも、「ひとりで生きていく」って一体全体どういうことなんだろう??
人間を辞めている間、誰かと喋ること、それは私にとって生きることなんだと強く感じた。
それは悪いことなのだろうか?人は本来人と生きていくものなのではないか?
恋人に甘えることはいけないのか?そもそも恋人ってなんなんだ?恋人だからこそ応援したいと思えるような人間になりたい。でも、恋人だからこそ辛い時支えてほしい。
そんな感じのことがずっと頭をぐるぐるとしていた時間だった。
人間関係のことを考え、自分の人との付き合い方の下手さを考え、生き辛さを感じ、、、落ちて落ち切った後は逆にちょっとやる気が出てきて立ち直った一回目。
二回目は先述したようにしばらく「ハイモード」を維持した後の急落下。
さっきとはまた違うひとりの頼りにしていた友達との距離が突然開いた気がしたことが引き金だった。(実際に距離が置かれたかどうかはわからない。元々気にしすぎるところもあるから。)
「気にしない気にしない」そう思うと逆になんか気になってっちゃうよね。落ちて行って、ああ結局またこの時間が来てしまったなどと思いながら考えて気付いた。
寂しさ、落ち込みの原因は「自分の居場所がないという意識によるもの」だ。
なんで居場所がないように感じるのか?
「仲が良い友達が居るとは思えないから」
「サークルにちゃんとコミットしていないから」
「サークルは演劇サークルで、公演単位にメンバーも入れ替わりし、終わってしばらくしたら距離が空いてしまうから」
仲が良い友達が居るとは思えない。中学生なってくらいから謎に私を取り巻くこの悩み。悩みなのか?解決しようとしてる?あんた?って感じだけど。
部活が同じ、コミュニティが同じ、目指しているものが同じ。そういう時は仲良くなれたり、本当に仲が良い!と思えていたとしても、それが終わってしまうと、同じ問題を抱えなくなると、その関係がなかなか続いていく気がしない。大学生になってから余計にかも。元々転勤族で、転校も複数回していたから、ある場所で親友になった子がいても、距離が開く中で連絡を取らなくなったことが多々あったのもそう思う原因かもしれない。知らないけど。
そもそも私は人とあんまりLINEをしない。友達からも来ない。私自身何か特定の話題がない限り、何を喋って良いかわからなくなるし、嫌いとか返信したくないというわけじゃないけど、未読を溜めてしまうことも多々ある。
「絶対にLINEする友達がいる」わけでもなく、「いつメン!!」みたいな人たちがいるわけでもなく、何か仲良しグループに所属しているわけでもなく、きっと周りにいる人たちにとって「二年に一度、一年に一度くらい会えたら良いよね」くらいのポジションを維持している。
そのくらいの距離感が私も好きだし、それで会えたらそれだけでとても幸せ。
十分。なのに、それはそれで「自分にとっての恒久的な居場所」があるとは思わせてくれないのだ。
別れた恋人とは毎日LINEをしていた。義務感とかは私には特になく、普通に何でも報告したくなるから当たり前のようにLINEをした。
先述のように友達とは普段LINEをしない。
だけど今まで恋人も含め、SNSという媒体を使うようになってから、「誰かしら、ひとり」毎日のように連絡する人が殆ど常にいた。中学生くらいからだ。転校するタイミングで疎遠になったり、気付いたらちょっと距離が開いていたり、新しい環境で新たに友達になったり。なんだりかんだりしてずっと同じ人じゃないけど。
なんでも適当なことでも送れる相手。相談とかもできる相手。普通の友達には対面でならいくらでも話せるけど、わざわざ会っている時間以外で何かをたくさん送ることはできない。だけどその「ひとり」にならできる。
信頼できるから?自分のことを引かずに受け止めてくれるから?
これまでずっと、その「ひとり」に私は安定した居場所を求めて、過剰に体重をかけすぎていたのかもしれない。
そしてその「ひとり」の優しさに甘えているだけだということをずっと分かってはいたのだと思う。
恋人に関してはそこまで考えてなかった(てへ)し、恋人との付き合い方は一生の人類の謎だと思う。(単位を大きくするな)
それに、そうやって仲良くなる人たちに対しては、最初「この人と仲良くなりたい!!」と思わせる、何か惹かれるものがあったのは確かでだから、ただ「甘えたいから」と始まったわけではない。はず。
次はしばらくやってた、友達を頼りすぎずに、でも自分の居場所を作るための分散の方法。
今までも使っていたけど、タイに来てからは特に、インスタの「親しい友達のストーリー」を使いまくっていた。日々のことをつぶやいた。考えていることをダラダラと書いた。それっぽい言葉を並べて書いた。
個人的にLINEをしたりDMをしたりするまではちょっと気が引けるけど、そのままの自分自身を見せても引かなそうな人、興味を持って興味を持たないでくれそうな人、そんな一種「何でも見せれる気がする」友達たちだけを「親しい友達」に追加してただ読んでもらう。リアクションはなくても、返信がなくても、既読がつくことで誰かが私のことを見守ってくれている、そんな気持ちになれる。
わざわざ相談はしに行かずに、でも自分の気持ちを吐き出せるから、相手の時間も奪わなくて済むし、気が楽。
割と頭が良いやり方なのでは?とも思うけどずっとなんだかどこかが引っ掛かり続けていた。
「なんか、私、キモい」
あっさりした使い方をしてますって顔をして、結局本当に自分の嫌なところを全部さらけ出せるわけではなかった、自分自身のことを知ってほしいと思っていたから、「こう見られたい」「こう見られたくない」という自己顕示欲が働いていたのだなあと気付いた。
そっかそっかだからキモいわけだ!!
まあどこかで絶対わかっていたんだけどね。
ずっと渦巻く「なんとなく気持ち悪い」。これを解消するために一月上旬の沈んだ時期に思い切って友達をみんな「親しい友達」から解除することにした。自分の他のアカウントだけを追加して、今までと同じように使うけど、友達には見せないようにする。
そうするとその「なんとなく気持ち悪い」は消えたし、意外とそれでも十分自分の心にとって良いことが分かった。
自分の思考を文字化するのが好き。それは多分本当!だけど見せる相手を作ってしまうとどうしても自己顕示、自己承認欲求が働いて見栄みたいなものを張ってしまうのだなあ。まろを。
それにしてもなんでそこまで私は「人との関係の中に居場所を求める」のだろうか。
突然話が飛ぶようだけど、私の趣味は、「食べること」「歌うこと」「演劇をすること」「何もしないをすること」だ。
「歌うこと」はひとりでやるだけじゃなくて誰かに聞いてほしいし、そうなると周りから自分の歌がどう映るかはやっぱり気になるし、「演劇をすること」も役者としての自分が上手いと思われるか、下手と思われるか、脚本を書いた時はお話が面白いと思ってもらえるか、好きになってもらえるか(オーディエンスのみじゃなくて一緒にやる人たちも同様)は正直めちゃくちゃ気になる。し、まだまだだから落ち込むことも多い。
私のやる「歌うこと」と「演劇をすること」はただ自分がやって満足するだけじゃなくて、「他者の評価」が自分にとっての「楽しい」や「幸せ」にどうしても繋がってしまうのだ。
幸せの完全なる「自給自足」ができない。(まあひとりでやってるだけでテンションぶち上がることもあるし、自分の曲は大好きなんだけどね!)
そして小学四年生くらいから友達の影響でアメーバピグを始め、アメブロを始め、小六にはこれまた友達の影響でTwitterデビュー、中学?高校?くらいからインスタも始め、、、今はこうやってnoteもしている。
それらも全部趣味だと言えると思う。人よりもゲームをしたり、ドラマを観たり、スポーツしたり観たりをそんなしないで、その代わりにこんなネット社会にどっぷりと浸かってきた。
これらの文字を書いて人の見えるところにドン!と出すのも、周りからの目を意識しているのは間違いなかったのではないか。
最近はTwitterもそこまで使わないし、インスタも親しい友達使わなくなったし、noteも使い方には気をつけてる(つもり)だから、SNSを使った自己承認欲求の爆発は避けられてきてるかも、しれないけど、私の趣味はネットを使ったものも、それ以外のものも、「私」と、「オーディエンスの誰か」がいることで成り立っていたものだったんだ。
結論!私が極端に「人との関係の中に居場所を求める」(友達は少なくても良いと思ってるくらいのはずなのに)のは何故なのか、は、自分を構成する、自分を幸せにするために持っていた趣味が、ほとんど全て「誰かからの肯定」の下に成り立っていたから!!
なんじゃないかしら!
考えてみたら、、、という感じだから、実際どうかはわからないけど。
私はきっともっと自分だけで幸せになれる、他人任せにしなくて良い趣味を増やすべきなんじゃないかな。
すでに持っている「美味しいものを食べる」はそのひとつ。
美味しいものはひとりだけで食べるんでも十分幸せになれる。だけど誰かと食べ物も幸せも共有しながら食べれたらもっと幸せ。
誰かの存在は、幸せを作ってくれる存在なんじゃなくて、それを上増ししてくれる存在。
今まで私はスポーツ観戦にも興味なかったし、ドラマは高校生になるくらいまでは観たいもの観せてもらえなかったから興味なかったし、漫画は一時期ハマったけど、ハマってる自分に多分酔ってたし、音楽も聴くよりやることが好き。あんまり外に向けた関心がない。
無理に何かに夢中になろうとしたところで、趣味ってそういうふうにできていくものではないかもしれないけど、もう少しくらい外に目を向けてみて、何か新たに触れてみるのも良いのかもしれないね。
こういう趣味も、ひとりだけででも楽しいし、だけど誰かと共有できたら嬉しいものでしょ?
身体動かしてそれ自体に楽しさを覚えるとかも良いかもしれないし、ダイエットして綺麗になってくのを楽しむのも良いかもしれないし、最近はメイクが楽しいからもっと試してみても良いかもしれない。
何か誰かの評価や目なんて関係なく、自分ひとりででも自分を喜ばせられるものを増やせたら、趣味を増やせたら、もしかしたら私はもっと上手く「ひとりで生きていく」ことができるのかもしれない。
経済面も親に頼りまくり、脛を齧りまくりだし、周りに支えてくれる人たちがたくさんいるのはわかっているから、これができるようになったとて、とても「ひとりで生きています」なんて言えはしないんだけど。笑
誰かに頼ること、誰かと助け合うこと、それはきっと生きてく上で欠かせないことだし、そうやってお互いを支え合える、高め合える仲間や恋人、家族が居たら最高だと思う。
最近、周りに「いつでも相談してね」「落ち込んだ時は話を聞くよ」そう言ってくれる友達がちらほら増えてきて、本当にありがたいな、幸せだなと思う日々です。家族もまじで沈んでることを知った時は電話してきてくれたりもする。優しさに囲まれて生きている。
けど、私はもしかしたらもう少しくらいは「ひとりで生きていく」楽しさを覚えた方が良いのかもしれない。そしたら「居場所」を相手に無理をさせるくらいに求めることはなくなって、自然とお互いの「心地良い居場所」を作ることができるのかもしれない。
まだわからないし、そんな上手くやれるかなんてわからないけど!心から愛せる人に出会って心から自分という人間も無条件に愛されたいけど!!
なんだか、少し新しい発見だったんです。試してみてまあその通りに行かなかったら、それはそれで、そんなもんということで!
だからね、「ひとりで生きていくこと」って、本当に全部を自分で背負い込むことじゃなくて、自分を自分で幸せにしてあげることなのかな〜なんて良く巷でも長らく言われているようなことを、改めて自分自身で実感したのでした。
自分を自分で幸せにしてあげること、できてた気がしてたけど、意外とできていなかったんだな、私は。
さ〜て、どこに目を向けてみようかな!
そして美味しいものをたっくさん食べたい!!
太らないように運動もできたら良いな!!
とは言えど食べに行ったりするのはお金がかかるからなあ、、帰ったらまたバイトしなきゃなあ、、、、(あはははは社会復帰できる気がしなーい)