鬼子母神とザクロの実 2016.01.21
刃物を振り回して人の子をさらい、その血肉を食べ、残った骨をザクロの木の下に埋めてはまた、子どもを拐かし食らう。かつては夜叉。そして根元に子らの骨が埋まったザクロは、今も血の味がするという。
見かねたお釈迦様が500人もの子どもを持つ夜叉の末の子を隠したことで、親の悲しみを身をもって思い知り、その後はザクロを食べながら子守の神として生きた鬼子母神。
「誰かの心を傷つけないように配慮する」それはもう、SNS云々ではなく、人として生きてく上での道徳だと思っています。匿名性の高いTwitterやinstagramでは、特にその配慮が欠けているシーンに出くわします。相手の素性が判らないのだから、気が合わないと思えば自由に離れることができ、そして二度と交わらないことは比較的容易です。故意を以てして相手に傷を負わせたいのなら別ですが、そうする前に関わらないという選択はできるのです。残念ながらネットだけ、文字だけの繋がりでは個人の本質を見抜けない場合の方が多く、また、別人格として生きている人もいます。それは自由で、縁のある人が関われば良いことだと思います。
私は、SNSに友人を持つことについては、「実際にお会いしたことのある方」と限定する気のない立場でいます。実際にお目にかかったことのある人だけとしか友人にならないのは、思いもよらない方とお知り合いになれるというFBの醍醐味を経験出来ないからです。当然、見誤れば己が傷を負う。自業自得のそのリスクは覚悟せねばなりません。もし、図らずもトラブルが起こってしまい、私の中の夜叉が目覚めたのであれば、それは、私の仕事と家族と自分自身を守るため。後悔はしません。誰だって自分の中に夜叉が棲んでいることくらい判っています。けれど簡単にそれを「しない」のは、自分が「人として真っ当な道を歩みたい」という倫理を持っているからに他なりません。
先日、一度もお目にかかったことのない人と操めごとが起こりました。この経験は私の大きな症痕で、この先も折に触れ傷むに違いありませんが、私はこの痛みを知っているからこそ自分に関わる人を大事にしたいと思っています。
現世では赦されないでしょうが、来世再来世に転生した時には、大きく熟れて割れ、中に抱いた真紅の宝石を見せるザクロの成る枝を刺青で私の肩から右の利き腕にかけて彫ることにしましょうか。
私は誰も傷つけたくないから、その前に気付くことができるように..。