僕って、なんだろう。
大学生になった僕は、ひとりぼっちだった。
入学してから僕は誰とも口を聞かなかった。半月くらい会話らしい会話を誰ともしなかった。
大学では誰も僕を知らなかったし、誰も僕に関心を払わなかった。
教室でも、廊下でも、電車の中でも僕はずっとひとりだった。
初めて食堂に行った時には一緒に食べる人がいない自分に気がついて、ひどく惨めな気分になった。
また周りに惨めだと思われるのが恥ずかしくて悔しくて、二度と行けなくなった。
一人暮らしに期待してみたけれど、何も起きなかった。何もかわらなかった。
大学生活への微かな淡い期待は見事に裏切られた。
周りの人間は楽しそうなのに、輪に入っていく事ができない。入り方もわからない。
誰ともなんの関係も築けない。知り合いすらいない。
僕はどこにいても他人だった。
消えてしまいたい。
そう思っていた。
そんな時に、僕は彼女に話しかけられた。
「君、私と同じ学科だよね。教室で見たことあるもの。これ、無料だから良かったから見にきてください」
そう言いながら彼女は僕にチラシを渡してきた。チラシを受け取る時、彼女の手が僕の手に少し触れた。
ドキッとした。
顔を見ると彼女は同期の女の子だった。いつも女の子3人組で教室の前の方に座っている。
彼女は演劇部に入部し、1ヶ月後に新人公演があるのだと言う。
僕はこの大学に自分の事を知ってくれていた人がいた事にびっくりした。そして嬉しかった。その日は興奮して眠れなかったし、頭の中が幸せな気持ちで満ち溢れた。
それから僕はいろんなことを考えた。
絶対に観に行に行ってあげよう。チラシを見ると3回公演があるらしい。3回とも見に行ってあげよう。
花を買って行ったら喜ぶのかな。皆の前で渡したら女の子だし喜ぶかな。それとも恥ずかしがるだろうか。
服装はどうしよう。僕は今まで親の買い揃えた服しか着た事がない。
この土日で買いに行こう。一人暮らしをする時に少しまとまったお小遣いをもらっていたからそれを使おう。
どんな服がいいのだろうか。
もしも彼女と同棲できたら楽しいだろうな。
その時は料理を作って欲しいな。
洗濯もして欲しい。
一限をしょっちゅう寝坊するだらしない僕を、朝起こしにきて欲しい。
好かれたい。
好きになって欲しい。
手を繋ぎたい。
付き合いたい。
キスしたい。
抱きたい。
抱きたい。
抱きたい。
頭の中で彼女のことをずっとずっと考えていた。
次の日、授業が終わると僕はそっと彼女の後をつけた。彼女は大学の外れにある大講堂と呼ばわれる施設に入って行った。
どうやらそこが演劇部の練習場所になってるらしい。暫くして大きな声が聞こえてきた。
あ!え!い!う!え!お!あ!お!
僕はそれを聞きながら、彼女をすごいと思った。大学で知り合いを作り、やりたいことを見つけ、そのために努力している。人前で舞台に立つために、こうして練習をしている。
僕に彼女は眩しかった。
応援してあげたい。辛いことや嫌な事があったら僕が元気づけてあげたい、そう思った。
次の日から僕は授業が終わると大講堂の近くに行った。そして演劇部の練習が終わるまでずっと彼女の声を聞いていた。
授業をサボった日も、彼女の声を聞くためだけに学校に出かけた。
彼女は僕に芝居を見に来てと言った。だから今、彼女は僕のために頑張っているのだ。
それに応えて僕も一生懸命応援する。
この時間は彼女と繋がる大事な時間だ。
彼女と出会ってから毎日が充実していた。止まっていた時間は今は流れている。毎日毎日が新鮮だった。
発表が終われば彼女も時間もできるだろうから早速遊びに誘ってみよう。劇も見に行くし、その時に花も渡すし、知らない中じゃないんだからきっとOKしてくれるだろう。
僕は大学の授業中も、後ろからずっと彼女を眺めている。
僕と彼女が付き合ったら、いつも一緒にいるあの2人から揶揄われるのかな。
きっと馴れ初めとか聞かれるのだろう。女の子は恋愛話が好らしいからな。でも参ったな、そんな時はなんと返したらいいのかわからないぞ。うまく返せないと、それでもまた揶揄われるのかな。
そんなことを考え、昔読んだ恋愛漫画を読み直したりした。
お互い大学生なんだし、遠くに遊びに行ってもいい。彼女と行きたいところ、したい事が頭の中に次々と浮かんできた。
彼女に部屋の合鍵も渡すことになるかもしれないと、鍵を作りに行ったりもした。
ある日、彼女が男とキスをしているところを見た。
その日も練習が終わって、大講堂から部員が帰り始めていた。
彼女はいつも何人かで帰宅するのだが、その日は男と2人だった。
そんなこと初めてだった。
もしかしたら男は先輩で無理やり誘われたのかもしれない。断れなかったのかもしれない。だとしたら何かあればその男から僕が助けてあげなればと、気を張った。
2人は道を外れ人気のない方に歩いて行った。
僕は身構えた。
2人は立ち止まった。彼女はその男に笑顔を向けた。そして男は彼女にキスをした。
その瞬間、目の前が真っ白になった。カミナリが落ちたと言われても信じただろう。頭を思いっきり殴られたような、染みるような熱い痛さを感じた。
「穢い」
初めは呟きだった。
「穢い穢い穢い!!!」
でも気がつくと大声で叫んでいた。
無理やりキスされたのなら、体は穢れているが心までは穢れてはいない。
まだ、まだ、彼女が、謝るなら、許せないわけではない。一生懸命謝るなら、反省するなら、我慢できないことも、ない
でも彼女はそれを受け入れている。恐らくあの男が好きなのだ。僕ではなく、あの男が好きなのだ。好きなのは僕ではないのだ。
その瞬間吐き気が込み上げてきた。
僕は騙されていてのだ。
彼女は、僕にチラシを渡してきた時にはもう、この男を好きでいたのかもしれない。キスしていたかもしれない。もう肉体関係もあったかもしれない。
それなのに僕に話しかけ、手に触れて、僕を騙したのだ。
もしこれから僕が彼女と付き合ったとしても、彼女が僕を好きなったとしても、
彼女の心は、一度あの男を好きになった後の心なのだ。
彼女にキスしても、あの男が口付けた後の唇なのだ。
彼女を抱いても、あの男の色が着いた体なのだ。
僕は初めてなのに、彼女は初めてではないのだ。
なんなんだこれは!
強烈な眩暈と吐き気と頭痛に襲われた。同時に心を強引に握りつぶされるような苦しみも襲ってきた。
もし彼女と付き合ったら、あの男は僕を馬鹿にするだろう。自分のお下がりの女と付き合う愚かで、自尊心のない人間だと鼻で笑うに違いない。
もし彼女を抱いても、彼女は過去の男と僕を比べるに違いない。
そんな屈辱耐えられるわけがない。許せない。絶対に許せない。
彼女はなんと汚いのだろう。忌まわしく不浄で存在自体が穢らわしい。周囲に腐臭を撒き散らすゴミのようだ。
彼女の触った場所、歩いた道、そもそも存在自体が穢らわしい。そこに存在するだけで周囲を穢していくように感じる。
吐き気が際限なく込み上げてくる。
許せない
不潔
軽蔑する
卑しい
いやらしい
騙しやがって
淫乱
尻軽
穢らわしい
消え去って欲しい。
存在ごと消えて欲しい。
頭の中にいろいろな感情が駆け巡る。気が狂う。次から次へと湧いてくる感情が消化できない、抑えきれない。
「穢い!」
僕はもう一度叫ぶ。何も見えない。
穢れのない彼女はもう永遠にいないのだ。
あの、綺麗で透明で純粋だった彼女は消えてしまったのだ。
彼女はいなくなってしまったのだ。
彼女は穢れたのだ。
もう彼女がこの世に存在したことを認めるのも嫌だ。恥だ。恥辱だ。屈辱だ。
存在してはいけなかった。
彼女は存在ごと消さなければならない。
記憶消し去らねばならない。
僕は、ひとりぼっちだ。
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