愛と哀しみの「今どきの若いもんは」
これまで綿々と続いてきたように、これからも変わらず続いていくだろう。
誰もがそう思っている。
まさか、自分が生きているこの短い間に、これが途切れてしまうことなどないだろう。
誰もがそう信じている。
昨日のあいつまで大丈夫だったのに、今日になって、あなたは駄目です、システムが変わりましたなんてことはないよね。
誰もがそう願っている。
変化っていうのは、目に見えないくらい少しずつ少しずつ変わっていくものだろう。
巨大な隕石でも衝突しない限り、突然シャットダウンされるようなことはないんだろう。
いろいろ世の中は便利になってきたし、新しいものも出てはきたけれど、それも階段を一歩ずつ登るように進化してきたじゃないか。
確かにこれまではそうだったのかもしれない。
そんな時代には、世代論も活発に戦わされて、それも無意味ではなかったのかもしれない。
「今どきの若いもんは」
と、おじさんが集まれば、愚痴と同時に自慢話に花が咲く。
「俺たちの頃はよー」
それに続く、かなり盛られているに違いない武勇伝。
若い人たちには辛かったこんな現象も、お互いにひとつの流れの中に繋がれているという認識があればこそだ。
その、例えれば目に見えない糸のようなものに、みんながつかまっているに違いない糸のようなものに、僕たちは限りない安心感を持っていた。
そして、その糸は無限に続く糸だと信じて疑わなかった。
「あの若いもんも、この道を歩いてくるに違いない。この糸をたどってくるに違いない」
だが、そろそろその糸の先はほつれかけてきているのではないだろうか。
もしかすると、ほつれかけているというのは、楽観的にすぎるかもしれない。
もう、糸はそこで終わっているのではないか。
その先は今日まで、あるいは明日まで。
若いもんは、もうその道を歩いてはこない。
その糸をたどってはこない。
これは、悲観論でも何でもない。
地球を取り巻く環境も変わってきている。
この猛暑の中で、
「俺たちの頃はよー」
など通用するはずがない。
仕事の環境も変わっている。
変わっているというよりも、それまでになかったものになりつつある。
家族のあり方にしてもそうだ。
デジタル機器は多くの価値観を変えてきた。
今のデジタルネイティブと呼ばれる人たちが今の僕たちの年齢になる頃には、あるいはもっと早くに、多くの価値観は入れ替わっているだろう。
そこでは、人間や、命や、世界に対する考え方、あり方も今からは想像もできないものになっているに違いない。
それは、いいとか悪いというものではない。
認識の土台が変わってしまっているのだ。
それは、フーコーのいうエピステーメーのようなものかもしれない。
もはや、
「今どきの若いもんは」
などと振り返っても、そこには誰もいない。
むしろ、
「今どきのおじさんたちは」
と言われて、小さくなるしかないのではないか。
いや、そんなおじさんなどいない世界を、若者はどんどん作り上げていく。
場末の安酒場の片隅。
時代に取り残されながらも、なぜか生き残ったひとりのおじさん。
背中を丸めて、小さな声で、
「今どきの若いもんは」
その呟きの裏には、かつての傲慢さなど微塵もなく、果てしない悲しみと後悔が隠されている。
そんな光景が目に浮かぶ。
その時代が、今の僕たちの価値観からして、いい時代なのかどうなのか。
それはわからない。
ただ、変わらないものもある。
生きているのは、間違いなく人間だ。
笑顔もあれば、涙もある。
悲しみもあれば、喜びもある。
価値観は違えど、幸福も不幸もあるだろう。
そこに、細い糸がつながっていることを期待する。
それが人間の手では断ち切ることのできない糸であることを願いつつ。