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橋口亮輔「二十才の微熱」(1993)

自主ゼミの四年生が卒論で橋口亮輔さんの「ぐるりのこと」を分析していることもあり、ふと思い立って「二十才の微熱」を二十年ぶりに観た。

オランダに住む四十代で社会人の今の私は、当時、東京の西の端で二十代の大学生であった私が、この作品を見た後、寄る辺のない、不安定で、それなのになぜか誰かにそっと寄り添われてもいるような感覚を抱いたことを懐かしく思い出すのだ。
そして、今の私は、当時の私がそのふわふわとしたほんのりとあたたかな感覚を全身で受けとめ、自分の生きる支えを見つけたかのように感じたことも思い出している。

周囲の同級生たちが次々と就職を決めていく中で、なんの覚悟もないままに大学院進学を決めてしまった私は、そうした自らの選択に甚だ不安を抱いていた。それでも、当時から鼻持ちならなかった私は、自分の将来への不安を、内定を決めて天下を取ったかのように自信に満ちた笑顔を見せる同級生たちにも、新卒という切り札を捨てて大学院へ進学しようとする娘の愚かな選択に猛烈に反対していた両親にも打ち明けることができなかったのだ。
だから、私は、自分の選択は間違っていないのだと、これが私が「好きなこと」なのだと、私はそのような確固たる意思を持つ人間なのだと、自らに繰り返し言い聞かせ、実際にそのように振る舞っていた。

でも、本当は、私は不安で堪らなかったのだ。同級生たちが何者かになっていく中で、自分だけが何者でもないままであることに。大学院進学という、同級生とは異なる道を選んだことで、自分の「個性」や「好きなこと」をさも見つけ出したような気持ちになっていたけれど、実際には、「大学院生」という社会的肩書きが、本当は何者でもない私にかりそめの輪郭を与えてくれているのにすぎないこともわかっていた。
すなわち、私は、確固たる内実を持たない不定形な何かでしかなかったのだ。自分という存在の何もなさ、虚無、無。そのことに向き合うことがおそろしくて、研究者という未知なる個性に私はすがっていただけなのだった。

だから、そのような時に出会った「二十才の微熱」は、自らのとりとめのなさ、存在の耐えられない軽さを優しく受けとめてくれるような気がした。
「二十才の微熱」は、「誰を好きになり、誰とセックスをするのか」というとても個人的な事柄ですらも、「ホモ」(今では侮蔑語であると理解されているけれど、映画の中で用いられているので、ここでは踏襲する)であるのかどうかという社会の規範に絡み取られ、いつしか個人から遠く離れた問題になってしまうことを切ないほどに美しく描いている。

同性/異性の相手だから、好きになるのか。同性とセックスすることがすなわち、同性を好きになるということなのか。好きであれば、セックスをしなければならないのか。一人の人だけを好きにならなければならないのか。友達と、恋人と、伴侶と、結婚相手と、そのように名のつく人間関係を結ばなければならないのか。
映画を観ている間中、そうした問いが次々と湧きあがって、泡のように消えていったのを今でも覚えている。

主人公たちは、自分がゲイであるかどうかという周囲から要請された問い以上に、そもそも自分が何者なのかという切実な問題に向き合っている。そして、この映画の素晴らしいところは、彼らがそうした問題に取り組んだ末に、確固たる内実のある自分を見出したという形で終わらない点である。おそらく、主人公たちは、他人がもしくは自らも自分に貼り付けてきたレッテル(社会規範)を、まるで薄皮を剥がすようにして一枚一枚剥いでいき、やがて、何者でもない自分に出会ったのだろう。そして、輪郭すらもおぼつかない、不定形な自分という容れ物に、再び社会の言葉や規範を注ぎ込むのではなく、その柔らかで空虚な自分をただ愛しむことにしたのではないだろうか。

何者かである自分を尊ぶのではなく、何者でもない自分に向き合い、そのことを愛することが私にはできているだろうか。二十年ぶりに、自分に問うている。

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