祖父の話

ふと思い出したこと。確か中学1,2年生の頃に祖父の家に行った時。まだスマホも持っていなかった頃のお話。

午後から徒歩で10分くらいのスーパーに買い物に行った帰りだと思う。現役時代、祖父が何の仕事をしていたかさえ知らなかったので聞いてみることにした。返ってきたのは、印刷業という言葉だった。父親の仕事も大して分かっていない、労働なんぞ頭の片隅にもなかった僕にとって、祖父が一体何をして働いていたのかなど知る由もない。コピー機にひたすら紙を通す作業でもしていたのだろうか。50年前だからって、いくら何でもそれだけでは仕事にはならないか。

さて、そんな話がしたかったわけではなく本題はここからである。これ以上業務内容に言及することはできないが、昭和ならでは(?)の面白い話をしてくれたのが印象に残っている。

ある日電車が大幅に遅延したらしい。国鉄の時代であったから、今よりも会社に行くのにはずっと難儀しただろう。携帯電話などもちろんあるはずもないので、一報を入れることも困難である。そこで祖父は何をしたかというと、最寄り駅に着いたのち遅延証明書をもらうなりカフェへと直行したらしい。いわゆる、典型的なサボタージュである。至福の(?)ひと時を過ごした後は普通に出勤したらしいが、何とも言えないエピソードである。

これだけ聞いても大した話には思えないが、何がそんなに印象的だったかというと、普段とのギャップに驚いたのである。別に非の打ち所がないとまでは言わないが、家事もしっかりこなすし、しっかり者であることは間違いなかっただろう。子どものころ朝ごはんを食べたら、いつも掃除をしていたのを覚えている。3年くらい前に亡くなったが、勤勉な姿は今でも尊敬している。ほとんど勝てないと分かっていながら将棋を指したのも覚えている。そんな祖父の口から仕事をさぼっていた話を聞いて、何というか形容し難い感情を覚えた。肯定も否定もないが、人間とはこういうものなのかと悟った気がした。だがしかし、何とも粋な小噺のようにも思える。

現代に当てはめてみると、例えばZoomでのオンライン授業などがあげられるだろうか。カメラをオフにしている限り向こう側は見えないので、真面目に授業を受けているか、はたまたスマホゲームでもしているかは分からない。どれだけの人が耳を傾けているのだろうか。ちゃんとやっていない人を批判する気などさらさらない。おそらく、自分が生きてきた限りで、推測に基づくがかなりの信憑性をもって言いたいのだが、人間とはそういうものである。

何となく話を飛躍させてみる。ひょっとしたら、この世の人間など大して差がないのかもしれない。Homo Sapiensという種の個体差にすぎないのだから。微細な違いを血眼になって探すのに労力を割く方がよっぽど無駄であろう。人間関係での悩み事なんて、抱えている方が悪いに決まっている。批判の的になるかもしれないが、表現の自由に守られているため安心して発言させていただく。

世界は非対称だ。物理学においても対称性が破れている。芸術においても逆柱のようなものが見受けられる。西洋のことは一旦おいておくが。同様に、人間も非対称だ。不完全だ。故に、その事実を認めることから始めなければならない。大人になるというが、子どもの頃から形成されてきた価値観とはいかにちっぽけなものであるかを思い知らされる毎日である。

まもなく22歳になろうというところである僕だが、そろそろ経年劣化が始まってくる脳みそに鞭を打って、一生懸命になって人生を過ごしてみる。この世の真理の1つや2つさえまともにわかりゃしないこの一生命体に、自ら価値を見出すという半麻薬的行為を伴って、これからの世界を楽しんでゆく義務を課す。祖父はその人生を大いに全うしたのであろう。自分だけの軌跡を辿って。


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