本当の自分探しとは自分の性格や適性を知ることではない
(この記事はマガジンの『科学が教えてくれていたこと』の中の第二話として執筆しました)
プロフィールにも書いたとおり、子供のころからずっとこの社会や人間の行動に嫌悪感を持って生きてきた。
どうして人間には権力を持ちたがる人たちがいて、その人たちは人を支配したり、物を独占したりしたがるのだろう。
どうして同じ人間同士なのに、互いに傷つけ殺し合う戦争や紛争があるんだろう。
どうして人間関係のトラブルやイジメや差別がなくならないんだろう。
どうして人間は、身分制度や階層・階級などの序列を作りたがるのだろう。
どうしてこの社会には財閥や天下りやコネやツテなどの不平等なシステムが存在し、それを利用する人がいるんだろう。
どうして人間は自国の利益ばかり考えて、地球環境問題をいつまでも解決できないんだろう。
どうして、どうして、どうして‥‥。
子供のころから不快に感じることだらけだった。
これもプロフィールにも書いたけど、「自分が好きになれる『美しい世界』に世界の方を改造する」ためにまず始めたことは、人間がそのような行動を取る原因を突き止めることだと思った。
そのために僕は人間の「本能」というものに当たりを付けた。
人間の本能が諸悪の根源なのではないだろうか、という予感があったからだ。
そこで僕は図書館に何度も足を運んで「人間の本能」というものを調べ始めた。
インターネットが発達している今の人たちから見れば、とても非効率だけど、当時のインターネットの回線は電話回線を利用したダイアルアップ接続で、今から見たら信じられないくらい遅かったんだ。
例えばこの記事の中の画像だって、容量が大きなものだったら、モザイク模様のようなものから始まって、徐々に細部が表示されだし、全体が鮮明に見えるようになるまで1分くらいかかることもあった。
さらに、利用料金は電話の通話料金で、つなげている間どんどん課金されるので、接続してリンク先が表示されたら一旦接続を切ったり、紙に印刷をしてそれを読むような工夫をしている人もいた。印刷代の方がよっぽど安く済んだからなんだ。
それに、情報量も現代とは全く違って、検索してもなかなか思うような情報は手に入らなかった。
今、同じ調べものをしようと思ったら、そのころ一ヶ月くらいかけた努力が、自宅にいながら一日で完了するかもしれないよ。まったくね。
ところで、「世界平和の実現」というミッションのために、人間にはどのような「本能」があるのかということを研究して、自分なりに『世界平和のための本能分類表』なるものを作った。
『世界平和のための本能分類表』
a.支配・被支配本能(性本能、求愛本能も含む)
b.闘争本能(攻撃・破壊本能、緊張・興奮本能も含む)
c.差別本能(母性本能も含む)
d.所有・獲得本能
e.群居本能
f.放縦本能
g.好奇・求知・探求本能
h.危険回避・防衛本能
w.その他、摂食本能、休眠本能、模倣本能、遊戯本能
(これらは順序にも自分なりの意味があるんだけど、事細かに説明するのはここでの主旨ではないので省略します)
ところが、これらが世界を平和にできない原因であるということがわかったとして、「美しい世界にするために、みなさん自分の本能というものに向き合って、少しでもそれを人間的な理性をもって克服していきましょう」などと呼びかけても、まったく誰も聞く耳を持ってくれないに違いない。
と言うことは、この研究は無意味だったということだ。
それに本能というものはもともと人間に備わっているものなので、それを責めたところで始まらない。
それに本能が悪だというなら、本能で生きている動物はすべからく悪ということになるぞ。それはおかしい。
動物には善悪の基準がないから善悪の判断をしない。
善悪の判断をするのは人間だけだ。
、、、と言うことは、もしかしたら、本能こそ諸悪の根源だと考えていたのは間違いであったかもしれない、と考え始めるようになった。
本能とはむしろ正反対の、善悪の判断をする人間だけに備わっている「理性」に属する側のものの中にこそ、諸悪の根源があるのではないかという予感が、自分の頭の片隅に浮かび始めていた。
ある種の動物が言葉を持つことで人間になったわけだけど、それと同時に、その人間の中に生まれた「あるもの」‥‥もしかしたらそれこそが諸悪の根源かもしれない。
その予感が的中しているのかどうか知りたくなった。
そこから僕の快進撃が始まる。
本能をつかさどる脳の働きから始まって、遺伝子や細胞や筋肉の働き、そして人間が出現するまでのことを遡ってビッグバンにまでたどり着いた。
それらがわかるともっと深く知りたくなり、芋づる式に、ついには宇宙論や量子論や電磁波など勉強することがどんどん増えて行った。
今考えても、そのどれもが世界平和というミッションには必要不可欠なことだったと思う。
そして今思うと、それこそが僕の「自分探しの旅」だったとわかる。
その頃、若い人たちの間で「自分探し」という言葉が流行っていた。
四国八十八か所を巡り歩くお遍路のようなものをする若者も増えていたそうだ。
だけど敢えて厳しいことを言わせてもらうとすれば、それらは「自分らしさ探し」に過ぎないと思う。
海面からほんの少し姿を見せている『氷山の一角としての自分』だけを対象に探求している。
要するに、自分の性格や適性を知って進路決定や職業選択や自己実現などの拠り所にするための自分探しであり、あるいは『僕が僕である証』、『自分が生きた証』が欲しいための自分探しなんだ。
それらは多分に「個人主義的」な自分探しだと思う。
本当の自分とは、海面下に広大に広がる氷の全体像を探ったり、その氷と海水との関係を研究したり、その氷がどこで生まれ、どのように運ばれてきたかを調査したり、海水と大気との関係、宇宙との関係、とどこまでも科学的方法論によって探っていくことでしか見つけることはできないはずだと思うんだよ。
その全部を調べて初めて本当の自分探しをしたと言えるんじゃないだろうか!?
そして、その自分探しをしたおかげで、もしかしたらこれこそが諸悪の根源ではないかと予感していた「あるもの」が僕の前に姿を現した。
それは「錯覚の自我」だった。
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『ブンシニズム・ドット・ネット』
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。