【番外編】明るい未来のために‥‥『おーい、大丈夫かい、人類!?』(by 分身主義)
文系だったジジイ(筆者)は、芸術を通して世界を平和にできると考えていたが、やがて「世界平和のためには”本能”の研究が不可欠だ」と考えるようになった。それが科学の勉強にのめり込む最初のきっかけだった。
(この記事は社会に対する愚痴や批判ではありません。世界を平和にしたいと何十年も考えてたどり着いた「分身主義」の集大成として書きます。なので長文です。ごめんなさい。読むのに35~40分ほどです。コーヒーでも用意して時間のある時にゆったりとお読みください。【17.646文字】)
🔖① 世界平和のための本能分類表
「本能」の研究をしようと思い立った当時のパソコンは、電話回線を使用する「ダイヤルアップ接続」で通信料は莫大にかかったし、1ページが表示されるまでに画像が重ければ普通に1分くらいかかっていた。それに、情報量が少なすぎて、検索してもほとんど知りたい情報は得られなかった。
だから、下図の「世界平和を阻害する本能」の分類表というものを完成させるまでに、いくつかの図書館に足を運ぶことになった。
また、学者の間では「本能」というあいまいな用語は、その頃ではほとんど使われなくなっている、ということだったので、古臭い本を引っ張り出して調べることになった。
本能について書いてある本と言っても、もちろん動物の本能についてで、人間の本能について研究されているものなど、その頃一つもなかったと言っていいくらいだった。(自分が探せなかっただけかもしれないが‥‥)
たぶん、人間は理性的・社会的な動物と言われるくらいだから、動物の本能が自然界の海水のようにしょっぱいままだとしたら、人間の本能は飲料水のように人工的に薄められ消毒されているイメージがあったのかもしれない。
だから、世界平和を希求する人たちはたくさんいても、そしてその人たちが自分の人生をかけて世界を平和にするための活動をしていたとしても、その人たちの中で、戦争や犯罪や様々な人間の悪行が「本能」に起因している、とジジイのように直感する人もいなかったのだろう。
本能とは何かと一言で言うと、「遺伝子に刻まれている行動に関与する情報である」と言える。
あるいは、「生まれる以前の《環境》に作られた、行動に関与する”記憶”である」とも言える。
蜘蛛が誰にも教わらずにあんなに巧妙な蜘蛛の巣を張るのも、サケが生まれた川に帰ってきて産卵をするのも、誰かに教わったわけではない。
遺伝子に刻まれている情報(=生まれる前の《環境》に作られた記憶)が、その時点の《環境》に反応した行動なんだ。
動物にとっては悪いことでもなんでもない「本能」だけど、それが人間になると途端に邪悪と結びついてしまうのは何故なのだろう!?
これが今回の記事のテーマでもある。
そして、人間になると邪悪と結びついてしまう「本能」だけど、その同じ「本能」が、善行としか結びつかなくなるという奇跡の話をしようと思うんだ。
この自然界は、常に変化している。そして遺伝子もほんの少しずつコピーミスをして書き換えられていると言われている。(科学的な視点から見れば、ミスという言葉は不適切ですが‥‥)
その中で「生存に都合の良い”適応”」をした遺伝子が子孫を増やし、「生存にネガティブな”適応”」をした遺伝子は消滅して行く。
ちなみに、1億6千万年という長きに渡って栄えていた恐竜が絶滅したのは、環境に適応できなくなったからではなくて、その時の環境に適応したからだ。これを勘違いしてはいけない。この自然界には環境に適応しないふるまいは一つも起こらない。当たり前の話だよね。
「恐竜は環境に適応できなくなったから絶滅した」などと言う科学者はダメだ。人間の価値観で自然界を解釈してしまっているんだ。
話を戻そう。
書き換えられていく遺伝子の中で、「その環境にとっての生存に、都合の良い適応」をした遺伝子が子孫を増やし、「その環境にとっての生存に、ネガティブな適応」をした遺伝子は消滅して行くという自然界の掟の中で、当たり前だけど、引き継がれる遺伝情報というものは、世代を重ねるにつれて、増々、利己的なものに向かっていく性質を持っている、とジジイは考えている。
人間だってそうだよね。
災害の中で助けを求めている人を助けようと行動をしてしまう人より、自分だけ助かろうと逃げる人の方が生き延びる確率は高い。(だから最近はそのような行動が推奨されている)
また、思いやりがある人より利己的な人の方が、お金持ちになる確率は高いし、今のお金社会では悩みも少なく生きやすい。(だから現代はこのお金社会に馴染めない繊細な人や、お金の戦いに敗れる傾向のある控え目な性格の人はますます生きづらくなる)
つまり、動物も「自分」を守るための利己的行動を取ったり、捕食や生殖を成功させやすい行動を取る「遺伝子」の方が引き継がれ繁栄していく確率は高い。そのように「遺伝情報」は淘汰されて、ますます利己的に行動する動物が栄えて行くことになる。これが自然界の摂理だと思える。
だけどこの自然界の摂理を批判する人など一人もいないよね。
自然界の掟に則って引き継がれる遺伝子というものがあって、その遺伝子に行動をコントロールされているだけの動物を、一体、誰が批判できるだろう。
しかし、同じように人間が利己的な行動をしたら批判の対象になるのは何故だろう!?
例えば、蜘蛛が生存のために巣を張って獲物を捕らえるように、人間が、欺罔(ぎもう:虚偽の事実を信じさせること)の網を張って他人の財産を奪い取ったとしたら、誰も「なんて巧みな欺罔の網なんでしょう!」などと褒める人はいない。
動物の驚くべき本能の話をあと二つ。
ピグミーチンパンジーのメスは、オスが食べ物を手に入れたのを見ると近づいて行って手を広げて、ちょうだいをして、お礼に交尾をさせるらしい。
(これを学習の賜物だと考える人もいるだろうけど、もし学習であったとしても、動物は人間のように学校などでカリキュラムの中で学ばされるわけではないので、元々そのような学習を成功させるような遺伝子情報(=本能)が備わっていたと考えられる)
カッコウは他の鳥の巣に卵を産み、その鳥に自分の子供を育てさせるが、カッコウの雛には、首の後ろに卵を乗せるための凹みがあり、卵から孵ったばかりのカッコウの雛は、誰に教わったわけでもないのに、他の卵をその凹みに乗せて全部巣の外に放り出してしまう。
(首の後ろに、たまたまそれを成功させる凹みがあるカッコウの雛が、その時点の《環境》に適応し、遺伝子が引き継がれたので、以後、そのような形状を持つものが繁栄しているのだろう)
どちらも人間にありがちな行動だ。
彼らの行動を咎める人は誰もいないよね。
でも同じ行動を人間がおこなったら批判されるのは何故だろう。
🔖② 無意識の「本能の自我」が、意識的な「観念の自我」に変わる
動物には「自我(自分という意識)」は、ない。
つまり、はっきりとした「自・他」の意識がないんだ。
京都大学霊長類研究所元教授の正高信男分身さんは、「サルには自意識はありません! 自意識は人間だけにしかありません!」と言っている。
サルは、人間のように「他人という鏡」に映っている自分を見て自分を知るどころか、実際の鏡に映っている自分の姿を見ても自分であると認識できずに、本能のおもむくままに威嚇したりする。訓練しても、自分と鏡の中の像との等価関係を結べるようになるだけのようだ。
ムツゴロウ動物王国の畑正憲分身さんも「動物には自我という概念はない。本能としての自我があるだけ」と言っている。
この「本能としての自我」こそ、先ほどジジイが、「引き継がれる遺伝子というものは、世代を重ねるにつれて、増々、利己的なものに向かっていく性質を持つ」と言ったもののことだ。
ジジイは、動物の「本能としての自我」というこの言葉を受けて、「動物は自然界と地続きである」と形容することにしている。
しかし、しかしだ。
人間は言葉を用いるようになったことで、動物時代の「自然界と地続き」であった「本能の自我」に対して、「自分」という名前をつけてカッチリとギブスを嵌めてしまった。つまり、無意識の漠然としていた「自然界と地続きの自我」が、意識的な「観念としての自我」となって立ち現れた。
そのことにより、「自・他」の意識を持つようになり、それにより生まれた人間特有の文化によって、動物時代よりも、本能を意識的に強めたと言える。
🔖③ 人間は本能が薄まったのではなく、本能を意識的に強めた動物である
「本能としての自我」と「観念としての自我」の違いは、意識しているかどうかの違いである。
つまり、動物の無意識的な本能行動に対して、人間の本能行動は、「観念としての自我」のせいで、意識的に、より強化されたものだと言える。
例えば、肉食動物は生存のために捕食(他の動物を捕らえて食うこと)をするけど、人間はただ動物を食べるだけでなく、意識的に食べる。
煮たり焼いたり、想像力を使って、味付けをして、見た目も食欲をそそるように工夫して食べる。しかも捕獲したり屠殺するような危険で汚いプロセスは他の人に任せて、「観念としての自我」が快く感じる部分だけをいただく。
つまり、「食欲という本能」を、より高い次元で発揮させるための環境を作り上げているんだ。
「食欲」は生存に最重要な本能の一つだ。人間はその「本能」を意識的に工夫し、より強い「食欲」に強めていると言える。
先ほどの肉食動物は生存に必要な量だけ食べれば、後は、目の前を獲物が通り過ぎてもそれ以上は食べない。
だけど、人間は想像力を使って、「食欲という本能」を意識的な演出・加工することによって高めるので、必要以上の量が差し出されても本能を萎えさせることもなく食べ続けてしまう。
どうですか!?(ゴクリ)
食欲という本能が刺激されまくり、幸せホルモンが放出しませんか? 料金も本能の増大にかなり貢献していそうです。お店や料理の画像を載せればよだれが出そうです。
例えばクジャクのオスは見事な羽の模様を見せびらかせてメスを魅きつけるらしいけど、意識的に模様を描き替えたりはしないよね。人間の場合は、より魅力的な羽に作り替えようと演出・加工する。
例えば、化粧をしたり、肉体改造をしたり、整形したり、ファッションの力を借りてさらに異性を魅きつけようとする。このように人間の本能はどこまでもエスカレートする。
お金が存在しない動物たちは高価な持ち物を身につけたりしないけど、人間たちは、他者より高価な持ち物を身につけて優位に立ち優越感に浸ろうとする。本能の喜ばせ方を心得ているんだ。
策略で他者を貶めようとしたり、論争で相手を論破しようとするのも、他者より優位に立ちたいという欲が、意識や感情が伴うことで、動物より強まっているせいだ。
さらに言えば、性欲という本能だ。人間は他の動物と違って交尾(性交)の方法もいろいろ試したり工夫したり、人間特有の「感情」なども加わることで本能をさらに演出・加工する。それにより、発情期だけ交尾をする動物たちと違って、年中、より強い快感を得ることに成功した。
そのせいで、人類の「性欲という本能」は、より強まり暴走しやすくなってしまった。
「自然界には敵は存在しない」と現代科学では解明している。
動物番組などを見ると、弱い動物が、強い動物に捕食されないように逃げ回ったりしている場面がよく映し出されるけど、自・他の意識がない彼らにとっては「敵」という概念はない。弱肉強食という自然界の摂理の中で各々が、その時点の状況(これをジジイは《環境》と言っています)に本能的に反応して、そのように行動しているだけだ。
でも、言葉を持った人類は「敵」という観念を作り上げたことによって、(人間特有の)怒りや恨みなどの感情なども加わり、闘争本能や、群居本能や、防衛本能や、探求本能などありとあらゆる本能を極限まで高めてしまった結果、「敵」と見なした人たちを壊滅させるほどの殺戮兵器を作るまでになった。
さっきも言ったけど、「自然界には敵は存在しない」と現代科学では解明している。人間だけがそこに「敵」という幻想を見てしまうんだ。
人間は本能が薄まったのではなく、本能を意識的に強めた動物であるという意味がわかっていただけただろうか。意識的に演出・加工し、人間特有の「感情」なども加わり、動物時代よりもさらに暴走させることに成功してしまったということだ。本能の喜ばせ方を知ってしまったからなんだ。
元々の動物たちの遺伝情報は、自然界の流れの中で「個体」が生き延びる方向に引き継がれてきた。
しかし、人間の場合は「個体」である「自分」を意識することになり、自然界の流れの中でではなく、人間界という独自に作られた世界で、知能を使って「生き残る方向」に本能は強化され変革されたと言える。
ちなみに、「生きたい」とか「死にたい」というのは本能ではなく人間特有の「感情」だ。本能にはただ単に「生きるため」のプログラミングがされているだけだ。
もちろん「死ぬため」のプログラミングもされているので、最終的に個体としては消滅していくわけだけれど、これも、種としては「生き残る方向」に引き継がれていると言える。遺伝情報が柔軟性を持つことで「生存に、都合の良い適応」の幅が広がるからだ。
もう一つ蛇足だけど、人間だけに特有の「自死」というものは、「攻撃・破壊本能」に、その時点の《環境》に浮かび上がらせ・られた「死にたい」という感情が加わって強められてしまった行動だと考えられる。(このように「自殺」も《環境》にやらされた行動なので、本当は、すべて「他殺」であるとも言えるんだよ。これは大事な視点だ)
さて、本能というのは、遺伝情報が受け継がれていくうちに限りなく「利己的」に近づいていく性質のものである、と考えられるが、人間の本能は、現代ではまさに「利己的」の極みまで来てしまっている。
他人をやたらと批判する社会になってしまっているのがその証拠だ。
ジジイの子供の頃には考えられないくらい、今では、批判し合い、猜疑心を抱き合いながらギスギス生きる社会になってしまっている。
後で話すけれど、こんなことをしていては自分で自分の身体を傷つけているばかりで、早く何とかしなければ人類は間違いなく破滅してしまう。
🔖④ 本能とは遺伝子に刻まれている行動の情報
下図は先ほど提示した図だけど、あくまでもジジイが世界平和を見据えて作った、独自の本能分類表だ。ちなみに、括弧でくくっている本能は、イコールという意味ではなく、含むという意味だ。
覚え方は、この頭文字をとって「し、とう、さ、ショ。ぐん、ほう、たん、ぼう」と覚える。(意味はまったくありません💦 また、記述も変化を持たせて覚えやすくしただけです💦)
この分類表は、動物の本能を元にして作ったものだけど、例えば犬などの「追跡本能」(逃げる獲物を追う本能。突然走り出したり、走り抜けようとする人を咬捕しようとする)は、もちろん人間には当てはまらないので削除した。
この分類表は一応「世界平和を阻害する‥‥」なので、世界平和に害悪となる順番に並べている。ジジイの独断と偏見は大目に見てください。言い訳のように聞こえるかもしれないけど、分類することが重要なのではなく、最終的には、人間の行動はいかに本能に支配されていたかを知ればそれでいいんだからね。それでは一つ一つ簡単に説明しよう。
【a.支配・被支配本能】
人類の平和にとって害悪の高いものの筆頭に挙げたのは、この本能だ。
人間には他人を支配したいという欲望があるけど、それと同時に他人に支配されたいという欲望もあるようだ。それを被支配本能と呼ぶことにした。
この相反する欲望が出会うことで、この関係は成立するものだと思う。
誰かさんの支配欲を陰で支えているのは、その他大勢の人の被支配欲かもしれない。カリスマを作り出す集団心理に似ているかも。
ここに「含む」として書いている求愛本能とは、動物の求愛行動のようなものではなく、愛を求める(愛されたい守られたいという)本能のことだ。
愛する本能は「c.差別本能(母性本能を含む)」の方に入れた。
動物や人間の求愛行動の方は、「性本能」と書いた方だ。
ちなみに、恋人同士の愛というのは、支配と被支配の揺らぐ関係(いつでも入れ替わる柔軟性に富んだ微笑ましい関係)で成り立っている‥‥よね。普通は。
なぜこの「支配本能」を害悪の筆頭に挙げたのかというと、植民地支配や奴隷制が「悪」であることは、過去の歴史が証明している。
「被支配本能」というのは、支配下に置かれた人たちや奴隷になった人たちのことではありません。また、支配的な人を前にして、その人に服従してしまうのとも違います。こちらは、危険を回避するような(h.防衛本能)になります。
「被支配本能」というのは、自分を支配し時に庇護してくれる人に、ある種の好意を感じてしまうような本能のことです。しかし、この支配者が暴君だった場合、彼の行為を陰で支え、おこぼれをもらう立場になります。この本能が「支配本能」に油を注ぎ、むしろ植民地支配や奴隷制を成功させていたとも言えます。
【b.闘争本能】
これが希薄な人は、スポーツ界ではものにならない。運動神経はまあまあなのに他人と競い合うと駄目な人は、この闘争本能や自己顕示欲(こちらは、d.所有・獲得本能に含めました)などが希薄だ。
世界平和にとって害悪の高いものの第二位に挙げたが、この本能を強く持っている人はそうでない人と比べてどのような行動を取りやすいか、ということを考えていただければ想像がつくと思う。
ここに含む、緊張・興奮本能というのは、人間が、戦争や荒々しい祭りや危険なスポーツやバトルゲームなどが好きなのは、本質的には緊張や興奮を求める本能があるとジジイが思うからだ。
【c.差別本能】
ゾウアザラシという動物は、たくさんの群れの中で生活しているにもかかわらず、母親は自分の子供をちゃんと見分けられる。自分の子供以外の子供が側にきても、知らん振りなので、場合によっては彼女の重い体重で踏み潰してしまうこともあるそうだ。
だから、この本能がなければ自分の子どもを育てられない。従って種の繁栄も途絶えてしまう。それで、母性本能もこの「差別本能」に含めた。人間に置き換えても、なんとなく、わかりそうな気がするよね。
差別って聞くと、無差別に悪いことのように反応してしまう人がいるけど、実はこれも生存のために必要な本能なんだ。
【d.所有・獲得本能】
これはもちろん、例えばお店で素敵な洋服やバッグを見つけたら自分のものにしたくなる、というような本能。格好いい車が欲しいとかね。
優越感を得たいとか権力を握りたいとか承認欲などは、この「所有・獲得本能」に入れていいと思う。ナルシシズムや自己顕示欲なども、他人の注目を「獲得」したいという意味でこれに入れる。
【e.群居本能】
動物だと群れを作って生活をするということだけど、人間に当てはめた場合「人と同じことをすることによって安心を得る」というような意味で用いてみた。付和雷同はある意味、安心を得るための本能から来ているのかもしれない。
【f.放縦本能】
勝手気ままに行動することだけど、怠惰なんかも、これに分類されるのではないかと思われる。
要するに、仕事したくないから会社に行かないというのは、ある意味勝手気ままで、ある意味怠惰だものね。だから「放縦本能」に含めた。
この「f.放縦本能」より「e.群居本能」を上位に置いたのは、どちらかというと、勝手な行動を取るより、自分のしっかりした考えを持たず群れる方が、危険だと、ジジイは思っているからだ。
「e.群居本能」は、自分では周りの人と同調しているだけなのに、気づかないうちに悪が増幅されてしまう可能性を秘めているんだ。例えば、イジメなんかは、自分がイジメられる側にならないようにイジメる側と同調しているうちに、深刻な事態に発展してしまっている。
SNSの誹謗中傷なども「正義のために書き込みをしている」などと信じている人を突き動かしているものは「e.群居本能」とも言える。本当は正義なんて、「自分側が正義と信じているもの」でしかないんだ。
【g.探求本能】
好奇心(珍しい物事・未知の事柄に対して抱く興味や関心)のようなもの。
例えば「歴史」などはその欲求を満たすための学問だけど、それによって不要な遺恨を招くこともある。世界平和に害となる本能の下位の方に入れたけど、やはり侮れないものだ。
実は、歴史とは、理想や政治のために捏造される”物語"に過ぎない。正しい歴史など一つもない。どうしても、その歴史家の世界観や倫理観のようなものが反映されてしまう。死人に口なしというように、歴史とは立場によってまるっきり正反対の解釈が可能なものだからだ。
過去に起こったことを研究することは楽しいことだけど、やるなら、その好奇心を満たす目的のためだけに行うべきだ。要するに、シャーロックホームズなどのあの楽しい探偵小説を読むように。
皆さんが勘違いしていますが、本当は過去の歴史から学ぶべきものなどほとんどないと言ってもいい。過去の戦争も語り継ぐことで、それを知らなかった世代にも新たな遺恨を植え付けるという逆効果にもなりかねない。
過去の歴史に、「善・悪」や、「被害者・加害者」などの評価をしては絶対にいけない。どちらかの立場に立たなければ、評価などは絶対にできないものだから。
我々の行動は、本能を含め、その時の《環境》に取らされていると、科学は解明しているが、その意味で言えば、過去の歴史の過ちは、その時代という《環境》を作っていた全世界の人が「加害者」であり、全世界の人が「被害者」だったのだから。
その理解を持たない限り、人類は戦争という過去の過ちを乗り越えることはできない。
【h.防衛本能】
危ない場所や意地悪な人には近寄らない、などというようにあらかじめ危険を回避したり、不安・葛藤・ストレスなどから自己を守ろうとして働く本能のこと。
心理学で使われる、投射・退行・抑圧・昇華・合理化などといったものは、この防衛本能が生み出すもの。
支配的な人を前にして、その人に服従してしまうのは、一種の防衛本能。
これは、自分から支配されたいと思う「a.被支配本能」とは別のもの。
【w.その他‥‥摂食・休眠・模倣・遊戯】
特定の状況下以外ではそれほど害のないものや、基本的な生命維持に関するものなど。「摂食」とは食事を摂ること。「休眠」は休むことと眠ることという意味で使っている。
それほど害のないものなどと言ってしまったけど、特定の状況、例えば食事を摂ることや眠ることを疎外される状況に陥れば、人間は結構凶暴になるので、侮れない本能。
やっぱりどれも、本能である限り、悪と縁が深い(この意味は後で説明します)ものであると言える。
この分類は、人類の平和にとって害悪の高いものからの順で分けたつもりだけど、人と人との愛や母性本能など一見害悪とは対極にありそうに考えられているものが、1位と3位に入っているのを見逃さないでほしい。
愛を求める気持ちや母性本能は諸刃の剣と言える。
強すぎる愛国心が戦争を招いたり、強すぎる動物愛護団体が過激な行動に走ったり、男女の愛がお互いや、他の誰かを傷つけたりすることはよくある話だ。
それに、ある人への愛が満たされなかった場合、ストーカーや殺人にまで発展してしまうのは、やっぱり「愛」とはそもそも本能から来ているものなので、利己的なものであり、悪と縁が深いものであるからなんだ。
🔖⑤ 本能分類表を実際の行動に当てはめてみる
これらの分類でわかることは、我々人間の行動は、いかに「本能」に支配されていたかという事実だ。実際の行動を当てはめてみればそれがわかる。
このように見てくると、いかに人間の行動が、動物だった頃の「本能」に支配されていたかがわかる。それどころか人間特有の「感情」や「思考」なども加わって、動物だった頃の「本能」を強めていた。
もし人間からこれらの本能を取ってしまったら、何にもせず無気力にジッとしているだけかもしれないと思う。
これらの行動をとった人は、もし理由を求められたら、ちゃんとその行動をとった理由を説明できると思う。それは、言葉を持った我々の脳が、この「本能」に突き動かされてとっている行動に対して、後付けの理由をくっつけたり正当化したりしているからだ。それが今言った、人間特有の「感情」や「思考」というものだ。
本人としては自分の意志でやっていると信じているのだから、やっかいでもある。
最近(と言うわけでもないんだろうけど)、ショッキングな事件が多発している。
公職にある政治家がたくさんの賄賂を自分の懐に入れた(a支配、d所有・獲得、e群居)とか、国民の安全を守るべき警察官が盗みをしたり(d所有・獲得)、人殺しをした(a支配、b闘争、d所有・獲得)とか、聖職者であったはずの学校の先生がわいせつ行為(a支配・性・求愛、d所有・獲得、g探求)に及んだりとか。
でも、我々の行動は本能に突き動かされているということなら、彼らだけが特別な人間なのではなくて、その本能は誰の遺伝子にも書き込まれているものだ。その本能が発現するかどうかというのは、その置かれた《環境》による。
ところで、この世界にはたくさんの職業があり、その中で働いている人もいろいろな性格の人たちがいる。楽しく働いている人もいれば、辞めたい辞めたいと思いながらも我慢して働いている人たちもたくさんいる。何度も転職を繰り返す人もいる。
だけど政治家という職業は、一度就職したら、他の仕事と違って、なかなか辞めたがらない仕事らしい。辞めろと言われても何らかの言い訳をして続けたい優越感を持てる居心地の良い職業なのだろう。それは政治家に共通しているところらしい。
だから政治家という人たちの「本能」を考えたら、彼らに共通の特徴的な傾向が見えてくるかもしれない。
そう考えて調べて行ったら、驚くことに、政治家になるには上位4位(a~d支配、闘争・攻撃、差別、所有・獲得)までの本能が強いのはもちろんのこと、政治家を全うするためにはa~wの全てが必要だ。
本能の強い人たちが政務に携わっているという特徴が見えてきた。本能が強いとは、行動力があるとか欲が強いとも言い換えられるからね。
だから、世の中が「悪」に満ちていようと不思議なことではない。(*政治家が悪いと言っているわけではないよ。後で説明するけど、彼らの行動も《本能》とその時点の《環境》にコントロールされているだけなんです)
政治家になる最も大切な資質は二つある。一つは金集めがうまいこと(a支配、b闘争、d所有・獲得)。もう一つは嘘をつくことがうまいこと(h防衛、b闘争)。
これらに秀でた人物が人を動かして、世の中を自分の描いた理想に近づけることのできる人たちだ。(*本当は彼らが世の中を動かしていたのではなくて、我々の作り上げる幻想(=錯覚)に政治家は動かされていたんです)
いや、もう一つある。
権力欲(a支配、b闘争・攻撃、c差別、d所有・獲得)などの本能が強いこと。これが第一条件だ。それがなければ、まず政治家になんかなろうとも思わないはずだよね。(*本当は、《環境》が、彼を政治家にしていただけなんですよ)
政治には金集めが大切なことだと言うなら、政治家と裏金とは切っても切れない関係にあるわけだ。そして嘘がうまいという点から、「私はそんな金を貰った記憶はありません」とふてぶてしく嘘をつけるのもうなずける。
そういうことをうまくやる人たちが政治家になるものなのだから。(*繰り返すけど、《環境》が彼を政治家にしていただけですよ)
その逆の人を考えてみればわかる。
権力欲がなくて、嘘を付けなくて、金集めも下手な人なんて、始めから政治家になんかなろうとはしないだろうし、政治家になろうと思っても無理なのはわかりきっている。たとえ何かの間違いで政治家になったとしても、彼を選出した人たちに頼りなく思われてしまう。
だけど、そんな人を頼りなく思ってしまう(c差別、h防衛)自分を責めようとは、誰も考えない。むしろ見返りを期待して、不正を犯してしまう可能性のある政治家に一票を投じてしまう(d.所有・獲得、c.差別、e.群居、h.防衛)かもしれない。
例えば、ある政治家の発言や行動を考えてみてください。
これまで見てきたように、確信に満ちた発言や行動ができる彼らは、普通の人より本能(a~wの、支配、闘争、差別、所有・獲得、群居、放縦、探求、防衛 = し、とう、さ、ショ。ぐん、ほう、たん、ぼう)が強い人たちということには疑問の余地はないよね。
本能とは「遺伝子に刻まれている行動に関与する情報」と定義したけど、それは遺伝子という記憶媒体に「記憶」されている内容とも言い換えられる。
人間(動物)の行動をコントロールしている「本能」というのは、生まれる前の《環境》が作る「記憶」で、生まれた後の「記憶」は、現在の人間が作っている人間界という《環境》が作る。
つまり、人間(動物)には、2種類の「記憶」があり、どちらも《環境》に作られるということだ。(環境にないものを記憶できるわけはないのだからね)
1.生まれる前の《環境》に作られる「記憶」(本能のこと。先天的)
2.生まれた後の《環境》に作られる「記憶」(体験によって作られる。言語も含む。後天的)
そして、その時点の《環境》から何らかの刺激(=情報)が入力されると、脳内に作られていた2種類の「記憶」との相互作用によって「意志」などが生まれ、それによって行動が引き起こさせ・られていたと考えられる。
行動はすべて《環境》にコントロールされていた‥‥、なんて信じがたいかもしれないけど、これが最新の科学が解明している人間の行動のメカニズムなんだ。ジジイもここに辿り着いた時には驚いたけどね。
政治家は《環境》に作られていたということは、彼を取り巻く《環境》の一つでもある「あなた」も関与していたのですよ。政治家はみんなで作っていたという意味をわかってもらえましたか?
もっとも、政治家という職業がない《環境》からは、絶対に政治家は生まれて来ないよね。そこにみんなが作った政治家という職業があったからだよね。
「愛」とか「防衛」とか「正義」とか、普通は邪悪を遠ざけるものだと思われていたものも、実は本能的・利己的なもので、むしろ邪悪と縁が深いものだった。
また、スポーツや勉強で競い合っていい成績を残した場合、普通は褒められ、称えられるものだろうけど、実は本能(b.闘争・攻撃、d.所有・獲得)に支えられていた利己的な行動である以上、これも邪悪と関係が深いことを知ってほしい。
では、動物にとっては悪いことでもなんでもないこれらの「本能的な行動」が、人間になると途端に邪悪と結びついてしまうのは何故なのだろう!?
それこそ、人間という動物だけが持った「理性」のせいだったんだ。
「理性」は、野蛮な「本能」を抑制しているという考え方は、とんでもない勘違いだったのだ。
🔖⑥ 理性こそ、この宇宙で唯一の障害
「この宇宙で適応していない状態で存在しているものは一つもない」
当たり前の話だよね。さすがに猫にはわからないけど、人間なら、子どもでも大人がちゃんと説明すれば、すぐにわかることだ。
その意味で、正常者と異常者という分け方や、健常者と障害者という分け方もあまり適切とも思えない。自然界から見れば、みんな正常者でみんな健常者だ。
科学的に見れば、どんな人の身体的特徴も、その身体が、その時の《環境》に適応して生まれてきた身体的特徴だ。
ただ、多数派の価値観から見るから異常に見えたり、また多数派の行動に合わせて生活に便利な道具や生活の環境が作られていくので、少数の人がその中で行動しにくい(=障害となる)状態を強いられているだけだ。
それがわかってきたから、徐々に、少数の人でも行動しやすい環境が作られ始めている。障害とならない生活環境ができれば、障害者と呼ばれる必要もなくなる。
『五体不満足』の著者、乙武 洋匡分身さんは、心のバリアフリーを成し遂げるためにも、障害者と言われる人たちの側の意識の変革が必要だと言っている。
彼は言う。「太っている人、やせている人、背の高い人、低い人、色の黒い人、白い人、その中に手や足の不自由な人がいても、何の不思議もない。よって、その単なる身体的特徴を理由に、あれこれと思い悩む必要はないのだ」
「病気」だって科学的な言葉ではない。科学的に言い直せば「適応症状」というのが正解だ。その身体がその《環境》に、ちゃんと適応した状態が、今我々が「病気」などと呼んで嫌悪し遠ざけようとしているものだ。
(病気ではなくてそれが適応している状態だから、治療を施してはいけないと言っているわけじゃないので誤解しないで下さい。「適応=快適」という意味ではない)
医学者たちは、「病気とは、科学的に言えば適応症状である」ということがわからなくなってしまっているから、医学の世界は「死」を遠ざけようとばかりしている。自然界様の声を謙虚に聞くための科学ではなくて、人間の声だけを聞く傲慢で非科学的な世界にいる。
もう一度言います。
我々人類も含めて、この宇宙の万物が、この宇宙の法則に則って作られコントロールされているものである限り、存在しているすべてのものは適応している状態(あるいは現象)と言っていい。
自然界から見たら、異常も障害もない!
だけど、いいですか!?
ここからが大事だ。
だけど、この宇宙の中に、唯一「障害」となるものが作られてしまった。
なんだと思いますか!?
それこそ、自然界から迷子になっている人間だけが持つことになった「理性」だ。
理性とは、この定義からもわかるように、言葉を持った人間だけが持つものだ。
そして人間とは、「理性」という、自然界を生きるには唯一の「障害」を抱えてしまった動物だった、と言える。
何故なら、「理性」がなければ、他の動物のように本能に任せて、その時その時の《環境》に反応して行動していればいい。
しかし人間は「理性」を持ってしまったために、善悪の判断や論理的な思考により、やりたくても我慢しなければならなかったり、やりたくなくても頑張ってやる必要が生まれた。
それに動物のままなら、本能に従ってただ生きていればよかったものを、他人を思いやる優しさを持ってしまって余計な心配事を背負い込むことになったり、自分の人生に対してもあれこれと思い悩んだりで、「人間としての生」を生きるということは、苦難の連続だ。
これをジジイは、自然界を生きるには唯一の「障害(=生きにくさ)」と捉える。
ここだけ見れば、「理性」は、野蛮な「本能」を抑制していると考えるのも、あながち間違えてはいないような気がする。(「番外編-2」へつづく)
🔖 (絶対読んでほしい)追記
ジジイが20年以上も前に、図書館で古い本を引っ張り出してきて調べた「本能」だった。
その頃は「本能」という言葉にこだわるジジイのことを、まるであざ笑うかのように、「今の科学者は本能などというあいまいな言葉は使わないよ」などと言って、科学者はそれぞれの研究の細部に突き進んでいたような雰囲気だった。
もちろん、その方たちの緻密で粘り強い実験や観察によって、動物や昆虫の本能行動が、今ではこんなにも解明されてきたのだ。ジジイのような人間が何千万人いようと、こんな偉業は成し遂げられなかっただろう。
だけどジジイがいつも言っているように、科学は近視眼的に掘り進んだトンネルをスタート地点に戻って、全体を俯瞰して見なければいけない。
それを、やっと成し遂げてくれたのが、先日(2021/8/19)出版されたばかりのこの本だ。待ちきれずに、発売一ヶ月前から予約して手に入れた本だった。
『本能―遺伝子に刻まれた驚異の知恵』(小原嘉明 著)
豊富な実験や観察で明らかにした事実を拾い集め、そこから俯瞰して眺めた風景を「本能」という言葉で包括した素晴らしい本だ。
動物のあらゆる不思議な行動は「本能(=遺伝子に書かれている行動の情報)」に、いかに支配されていたかを証明してくれている。また、今回のジジイの記事ほどではないけど、人間の行動の多くも、「本能」に支配されていたことにも触れてくれている。
表紙には、動物の本能に対して「これは奇跡だ!」と書かれているけど、ジジイに言わせれば、「この本こそ奇跡だ!」と言っていいほど貴重な本だ!
この本をみんなにも読んでもらいたい。
そして、「本能=遺伝情報」が、動物に奇跡的な行動をさせる力を持っていることを知って、そこから類推することで、人間の日常の行動も、「本能」に支配されていたと考えても少しも不思議ではなかったことが理解できる。
人間は「本能が薄められた動物である」などという神話から卒業してほしい。
人間は他の動物と何ら変わらない本能を温存した動物なんだ。
それどころか本能を強めて、もはや「利己的傾向」は末期的な状態まで来てしまっている動物だったんだ。
ただし彼(著者:小原嘉明分身さん)の俯瞰して見ているものは「本能」についてだけだ。先ほどの図を切り取った下図のオレンジで囲った「本能」について(A-①)だけだね。
これが科学者という方たちの限界なのだろう。ある意味、近視眼的な作業を繰り返さなければここまで解明することはできないのだから。
ちなみに、(A-②)の習得的な部分(学習や経験によるもの)に関しても、この本でも少し触れている。
そこでは、「その学習を可能にするような(背中を押すような)「本能」的なものが、元々ある」と考えるジジイの仮説を援護してくれている。
動物は、人間のように学校のカリキュラムに則って学習させられるわけではないから、元々「本能」の中に、そのことを学習させる力を内包しているはずなんだ。
人間にしても、いくら上から教えられても「遺伝情報」にそれを取り入れるものが書かれていなければ、身につかないのは誰もが経験済だろう。
例えば、どんなに練習しても、体操の選手のような動きが誰でもできるようになるわけではないし、誰もが好奇心いっぱいの研究者になれるわけでもない。
先ほど、「これが科学者の限界」と言ったが、その一段上から俯瞰して見渡せるようになれば、人間の行動を支配していると思われていた「自分の意志」と思われていたものさえも、実は《環境》に浮かび上がらせ・られていたものだと気づくに至るはずだ。
「意志」だけではない。
人間の脳に浮かび上がる「すべての幻想(=感情、意識、認識、連想、想像、思考、意思‥‥など)」も、全部、《環境》に浮かび上がらせ・られていたものだったと見えてくる。
例えば、ジジイが、今、この《環境》に、脳内でいろいろと思考させ・られながら、日本語の文法に則り言葉をつなげさせ・られて、指の筋肉を動かせ・られてパソコンのキーボードを叩かせ・られて、脳内で組み立てた言葉を視覚化させ・られているという行動も、実は、すべて《環境》にコントロールされていたんだよ。
そのようにして、今、この記事は書かれている、ということなんだ。
ちょっと考えてくれればわかるはずだけど、ジジイが生まれた《環境》にドイツ語はなかったので、ジジイはドイツ語で今のような思考をすることはなかった。それに、ジジイが生まれた《環境》に「平和」という概念がなければ、こんな記事も書かなかったし、noteがなければ、もちろん今、この文章はない。
もっと言えば、ビッグバンがなければ、ジジイは生まれてもいないし書いてもいなかったよね。
そして、今この《環境》というのは、世界中の(宇宙万物の)みんなで作っているものだよね。だから、言い方によれば、「この記事は世界中のみんなが書いている」とも言えるんだ。
あなたが話すどんな一言でも、本当は世界中の(宇宙万物の)みんなで作っているんだ。その関係性をどうしてもわかって欲しい。
それが理解できれば、我々は、この《環境》の下、分身である万物が手をつないで一つになることができる。
その一つになったものこそ、「真実の自分(=全身)の姿」だったと「科学的覚醒」をするところまで行け着ける。
これは、万人が納得するしかない「科学的事実」なので、まずは、それを知った人たち(=科学的覚醒をした人たち)が数人出て来れば、あっという間に世界中に広まるはずだ。
そこに至れば、もう世界は放っておいても平和になるしかない。
▶▶つづく(番外編-2)
★★★ 関連記事(保存版) ★★★
📌分身主義とは(ジジイの遺言書-10-)
📌真の科学とは何か?(ジジイの遺言書-7-)
📌個人主義から分身主義へ(ジジイの遺言書-8-)
★★★ 未来モデル小説 ★★★
『ブンシニズム・ドット・ネット』
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。