見出し画像

分身主義宣言!

(表紙絵:森川寛 分身 / 文章:徳永真亜基 分身)
この作品は、2002年制作の『人類の育てた果実』を基にして、2003年2月11日から2008年2月25日の約5年間にわたり計106回発行したメールマガジン『世界を平和にする「自己愛的生活」』の中の前編の28回分をまとめて『分身主義宣言!』というタイトルに改題したものです。
【156.464 文字】



NO.1(創刊号) 自然界からの贈り物 2003.02.11

みんなが仲良く手をつながなければ 世界を平和にできません!
でも きっと 僕たちは 手をつなげます。
だって 僕たちは 一つ だったんです!!

宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
443光年離れたところにいるM45プレアデス星団(昴)さん、聞こえますか? こんにちは! あなたの分身、徳永真亜基です。

プレアデス星団


『世界を平和にする「自己愛的生活」』の創刊号に相応しい、明るい内容のメルマガをお届けします。

このメルマガは『人類の育てた果実』を齧ってくださった方にお送りする、世界を平和にするための実践編です。まだそちらを見てくださっていない方には少しわかりづらいかもしれません。


それでは早速始めます。
僕は勉強のやり過ぎ(⇐ 嘘)で、小学三年生くらいから近眼になってしまい、現在は家にいる時は眼鏡、外を出歩く時はコンタクトレンズを使用しています。

先日、ショッキング\(◎o◎;)/! な出来事がありました。

まだ五ヶ月くらいしか使用していないソフトコンタクトレンズが、キズや汚れで見えづらくなってきたので、新しいものに交換することにしました。
いつも行くコンタクトレンズ店は、眼科医とレンズ販売店が別々の階になっていて、新しいレンズを作るには、まず眼科医で処方箋を書いてもらう必要があります。

眼科医で検眼をしてもらったところ、右だけ1度数上げることになりました。

書いてもらった処方箋を持って、販売店に行き、新しいレンズを購入し、その場でそれをはめて、さあ帰ろうという時に、なんとなく右目と左目の見え具合のバランスを、店内の遠くの壁に張ってあるポスターを利用して確かめてみました。

すると、1度数上げた右側の目でポスターを見ると、とても良く見えるようになったのですが、それと比べると左の目ではあまりクリアーに見えないので、買ったばかりの新品のレンズをはめたまま、もう一度眼科医に戻り検眼をし直してもらいました。

結果は、左目はコンタクトをはめることによる乱視が出てしまうらしく、それを矯正するために左も1度数上げた方がいいということでした。(初めからそうしてよねっ、モゥ、メンドクサイ!)

新たに書き直してもらった処方箋を持って、別の階にある販売店へ向かうためエレベーターに乗り、行き先階のボタンを押し、ドアを閉めるボタンを押し、ドアが閉まってエレベーターが動き出したのを確認してから、何気なく、手に持っている処方箋に目をやりました。

そして、本当に何気なくですが、その紙っぺらを使って左右の目のバランスを確かめてみました。

ショッキング\(◎o◎;)/! な出来事が起こったのは、その時です。

今度は逆に、遠くが見づらい左の目で見ると良く見えるのに、遠くが良く見えるようになった右側の目では読みづらくなってしまったのです。

これはもしかして‥‥、僕はエレベーターが行き先階に着くまでに、何度も何度も何度も何度も確かめて見ました‥‥が、やっぱり事実は変わりませんでした。

ああ、ついに僕にもやってきたのです。つまり、老眼ということです。(v_v)
ちなみに僕は今年で46歳になりました。

でも気持ちは26歳です。(笑)

その足ですぐ眼科医に引き返し、この46年間の僕の身に初めて起こった記念すべき実体験を教えてあげると、別に驚いた様子もなく(嘘でも驚いてほしかったヨ、ホント。だってそれまで26歳のつもりだったんだから‥‥)、どちらかを選択するしかないというあっさりした返事が返ってきました。

つまり、遠くを良く見えるようにするには近くを犠牲にし、近くを見えるようにするには遠くを犠牲にするということです。

僕は、即、遠くを犠牲にして近くを見えることを選択しました。\(^o^♪エライ!
これから始まる老眼生活を受け入れた瞬間です。

あなたが10歳代や20歳代の方なら、こんな話はまだまだ先の話で、必要もないことかもしれません。もし僕が20歳代だったら、こんなメルマガ、即刻、解除しているかもしれません。‥‥でも、ちょっ、ちょっと待ってください! 僕は今、ある安心を手に入れました。

そのことを聞いていただきたいのです。

みなさん、健康とは何でしょうか!?
どんなに医術が発達しても、僕たちは完璧な健康を手に入れることはできません。

それは永遠に続く、朝と夜、光と闇、警官と泥棒、子(ねずみ)と亥(いのしし)の追っかけっこです。

もし、永遠に手に入れることのできない健康というものが幸福の条件の一つだとしたら、幸福はいつまでたっても手の届かないところにあって永遠に追い続けなければいけないことになります。

それに、若いうちは、少々の怪我や病気は気にも止めませんが、誰にも間違いなく、ちょっとの怪我や病気が生死に関わることになる老いは訪れます。

今まで、僕たちは病気や老いを嫌悪してきました。
アメリカ的な価値観、つまり、力(power)、健康(health)、富(wealth)を求めて生きてきました。
そのことによって、様々な物が発明され、学問や医療が、さらには文化や文明が発展したと信じて疑わない人がたくさんいます。確かにその通りかもしれません。

でも、そのことが僕たちの心の中に、無用の焦りと不安を育成してきたことも見逃さないで下さい。

力、健康、富を追い求めてきたせいで、軽蔑(けいべつ)されてきた、弱さや病気や老いや貧しさでしたが、もしかしたら、それらは僕たちの心にとても「大切」なものだったのではないでしょうか?

僕たちは、とても大切なものを煙(けむ)たがって生きてきたのではないでしょうか? もっと、仲良くしなければいけないものだったのではないでしょうか?

今、老いに直面した僕だから気づいたことがあります。聞いてください。

老いとは、そして病気とは、決して恥ずかしいことでも嫌悪することでもなく、それは「自然界に適応して現れた一つの現象」です。

自然界にとっては死も生も、病気も健康も、老いも若さも、そして悪も善も、みんなみんな適応している状態です。
それに判定を下すのは人間の勝手な想像力です。

だったら、これからは人間を中心にして判定を下すのではなく、自然界に合わせた判定をしてみたらどうでしょう。
どのみち、僕たちの行動は全て、自然界に支配されていたんです。もっとわかりやすく言えば、この脳を取り巻く環境に僕たちの行動の全ては支配されていたんです。だったら、自然界を好きになる気持ちを持って生きた方が良さそうです。

生や、健康や、若さが、自然界がくれる贈り物であるように、死も、病気も、老いも、自然界がくれる贈り物です。

そのことを感謝の気持ちで受け入れた時、僕の心に変化が訪れました。

今まで、社会に適応するために、自然界の振る舞いの半分を嫌悪して気を張って生きていた状態から、ふんわりと解放されるような気持ちが生まれてきました。

今、僕はある種の諦めと同時に、むしろ心の安定を手に入れることができたんです。

それは、この人生において大いなる喜びでもあります。

何故なら、あらゆる病気と仲良く生きていける、本当の心の強さを手に入れたからです。この先、僕の身体にどんな変化が起きようとも、動じない安定した心を手に入れました。
たとえ、目の前に死が待っていようとも‥‥。(^0^)/

そして何よりも僕の心の中に、病気や老いや弱さを持った人たちを軽蔑せず、受け入れてあげる気持ちも生まれました。

だって、僕たちは一つだったんですもの‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

創刊号ということで、ちょっと長くなりました。ごめんなさい。でも、もうちょっとだけ聞いてください。

今の社会に適応しようと頑張っている方たちが、たくさんいらっしゃるのは知っています。
すんなりと今の社会に適応できる方がいるのに、その反面、今の社会には適応が困難な方がいるんです。精神的に、あるいは肉体的に‥‥。

その人たちは、たまたま今の社会がその人の脳や身体にとって生きにくいだけだったのかもしれません。今と違う時代に、今と違う社会に生まれていれば良かったのかもしれません。それだけの話かもしれません。
でも、この時代この社会に生まれてしまった以上、この社会に適応しようと頑張るしかありません。

すんなりと今の社会に適応できる方たちを、あるいはその逆に、今の社会に適応できるように自己を変革しようと努力をされている方たちを、冒涜(ぼうとく)するつもりも、迷わせるつもりもありません。

だけど、今の社会が、この自然界にもたらされる二面性の一方向しか見ていないことは事実です。

力、健康、富だけでなく、弱さや病気や老いや貧しさを大切にする心が欠けています。それは今の社会を作っている僕たち一人一人の心に欠けているものです。

僕たちの心が、ギザギザな形をしているのはそのせいです。世界が平和にならないのは、そのせいです。
僕たちの心をまあるい完全な形にするために、そして世界がまあるく手をつなげるように、今こそ自分を、そして社会を客観的に眺めることが必要です。

客観的に眺めるとは、自然界に生かされている僕たちを、「科学の視点」で観察し理解することです。この僕たちを取り巻いている自然界は、僕たちをどのように動かし、僕たちをどのように育んでいたのかを知ることです。


初めに、あなたに覚えておいて欲しい言葉があります。

「この宇宙のあらゆる現象は、それが自然界に適応している姿である」という言葉です。
これから何度でも口にすると思います。そう、自分自身に言い聞かせるためにも。

目に見える現象も、目に見えない現象も、あなたの一挙手一投足、あらゆる現象がです!!
戦争も平和も、死も生も、悪も善も‥‥です!!
あらゆる宗教も、哲学も、学問も‥‥です!!

何故なら、この宇宙は全て素粒子の演じている劇場だから、でしたね。そして、僕たち人間はみんな、この自然界の法則というシナリオに則って、素粒子が演じさせられている劇場の中の配役の一つだったから、でしたね。
素粒子は、自然界に適応しない振る舞いは一切しないものです。

自然界という母の胸に抱かれているのを、心から実感することができたその時に、初めて僕たちは深い安心感に包まれ、真の幸福(共感)を感じ、世界を平和にするための初めの一歩を踏み出すことができます。

僕は、そのことをこのメルマガを通して実践し、証明してみたいと考えています。
焦らず、押し付けがましくせず、希望を捨てずに‥‥!


NO.2 自然界に適応している姿 2003.02.18


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
土の中のミミズさん、ミンミン蝉の幼虫さん聞こえますか? 眠っているみみずくさん、起きてください! こんにちは! あなたの分身、徳永真亜基です。

創刊号に、「初めに、あなたに覚えておいて欲しい言葉があります」と書きました。
「この宇宙のあらゆる現象は、それが自然界に適応している姿である」という言葉です。

ある日、二つ違いの姉が、ため息混じりに言いました。
「ふう、これが限界!」
見ると、前曲げの屈伸をしていました。「ほら、年々硬くなるわ。もう、ここまでが限界!」
若い頃はダンスに夢中になっていた姉でしたが、年には勝てないのでしょう!?

僕はにこやかに言いました。
「身体が、自然界に適応しているんだね!」
すると、姉は、目をまん丸にして僕を見つめ、「適応していない、んじゃない!」と言いました。

僕は、姉に負けないくらい目をまん丸にして、「シゼンカイに、適応してる、んじゃない!」と言い返しました。

姉はさらに目をまん丸にして、もう一度、「適応して・い・な・い、んじゃない!!」と言いました。

僕も負けじと、もっともっと目をまん丸にして、我慢強く言いました。
「シ・ゼ・ン・カ・イ に、適応してる、んじゃ‥‥」
「適応していない、んじゃない!!」 今度はすかさず姉の答えが返ってきました。二人の目は落っこちてしまう寸前です。

僕は、それ以上続けるのをやめました。
やっぱり、『人類の育てた果実』を齧っていない姉には通じないのです。
それに、老眼でも僕の目はまだ役に立っています。落っこちては大変ですから。

今、何気なく「役に立っている」と書いてしまいましたが、姉が「適応」と考えているのは、この「役に立っている」といった意味合いでした。
つまり、社会や日常の生活に適応しているという意味合いです。
ボケや衰えは、現在の社会システムから見れば不適応の状態として、やがて他の場所に隔離されちゃうからです。


でも、「適応していない」と見るのは、人間(社会)を中心として見た場合の解釈です。
この辺のところを、自然界中心に変えてみると、自分の身体はたとえどのように変化しようと自然界に適応している、と考えることができます。

でも、勘違いしないで下さい。

僕は、あらゆることを成り行きに任せ、決して柔軟体操なんてしちゃいけない、なんて言っているんじゃないんですよ。

硬くなった身体に若さを取り戻そうと柔軟体操を始めるのも、それも科学的に見れば、その人の環境がその人の脳に「柔軟体操をしよう!」という意思(意志)を浮かび上がらせて、それによって取らせている行動でしたね。つまり、誰がどのような行動を取ろうと環境にやらされているという意味で、自然界に適応している現象だということです。

ちなみに、この「意思(意志)」という表記の仕方は、次のような理由からです。この言葉はこれからもたくさん出てくると思います。

「意思」は「何かをしようとする気持ちや考え」という意味で、また「意志」は「何かを成し遂げようとする強い気持ちや考え」という意味です。僕の言う「イシ」はどちらにも使えるので「意思(意志)」と記述しています。
ただし、「イシが強い・弱い」という場合は「意志が強い・弱い」と書きます。「意志」は英語で will と言い、「意思」は intention になります。


ところで、自然界から謙虚に学ぶ科学は、この宇宙がビッグバンによって生まれたことの動かぬ証拠を僕たちに突きつけています。

それによると、今僕たちの目の前で起こっているあらゆる現象は、約140億年前のビッグバンの時に存在した素粒子と、ビッグバンの瞬間の力と方向性が、約140億年経った今も消滅も衰えもせずに様々な振る舞いを展開している、僕たちは常にその姿を見ているに過ぎないという解釈が成り立ちます。

その振る舞いは、当然、ビッグバンの瞬間の力と方向性に作り出された、一定の方向性に支配されているため、その一つ一つに対して人間は〇〇の法則などと名前をつけたりしています。

人間が発見して名前をつけた法則も、まだ発見されず名前のない法則もひっくるめて、あらゆる振る舞いを起こす一定の方向性を「自然界の法則」と試しに言ってみます。

そうすると、今僕たちの目の前で起こっているあらゆる現象は、全て自然界の法則にコントロールされて起こっている、と言い表すこともできます。僕たち人間の身体も、ビッグバンの時に存在した素粒子が「自然界の法則」に制御されて組み合わされ、変化しているその一時期の姿です。

僕たちが思考したり行動したりすることも、「自然界の法則」に則って変化している素粒子が作り出している、一時的な現象です。
僕はそのことを、「適応」という簡単な言葉で表現しています。あんまり難しい言葉を作り出しても仕方ないですからね。

僕たちは、自然界に適応しない行動は一切できません。当たり前ですよね。僕たちは自然界に適応して生まれてきたのだし、自然界に適応して死んでいくだけなのですから。全てが自然界に適応している姿。これが本当の科学の視点です。

もし、そのことが理解できない科学者がいらっしゃったら、受けて立ちます。(*`へ´*)
科学は自然界を唯一師と仰ぐものなので、これが理解できない人は、科学とは何かという根本すらわかっていないと言えます。でも残念なことに、そのような科学者も結構多いように思えますが‥‥。

月にロケットを飛ばすことだって、自然界に適応した働きをする機械を作っているだけです。
そのロケットが途中で爆発してしまっても、適応しなかったから爆発したのではなく、そのロケットの自然界に適応した姿が、爆発という現象をもたらしたわけです。

あなたの目の前のパソコンだって、特別なことをしているわけではありません。自然界に適応した働きをしているだけです。
パソコンを考え出した人だって、自然界に適応した(制御された)行動が、たまたまパソコンを作るという行動をしただけです。

つまり、僕たちの身体が硬くなろうと、だからと言って柔軟体操を始める行動を始めようと、その全てが自然界に適応しているということです。
僕たちは行動までも自然界にコントロールされている、ということなのです。

「自然界にコントロールされている」という意味が漠然とし過ぎて理解しづらいなら、「この脳を取り巻く環境にコントロールされている」と言い換えてもいいです。五感を通して入力されてくる情報や身体内部から送られてくる情報、いわゆる最終的に脳に集められてくる様々な情報、それによって僕たちの脳に記憶が作られ、行動も取らされているのです。

さて、今の自分の行動や身体の状態を、これが自然界に適応して現れた姿なんだという「意識」を持って眺めてみてください。
他人の行動や身体の状態を見る時も、それが自然界に適応して現れた姿なんだという「意識」を持って眺めてみてください。
すると、自分の中の何かが変わってきます。

その時に感じる不思議な感覚こそが、僕たちが幸せをつかむために、そして世界を平和にするために必要な感覚なんです。

世の中が、人間中心、自分中心に回っている現在、この自然界中心の視点は、なかなか持ちにくいものです。
でも、焦らずにやっていきましょう!!

『世界を平和にする「自己愛的生活」』は、まだ、始まったばかりです。

まずは、「この宇宙のあらゆる現象は、それが自然界に適応して現れた姿である」という言葉を記憶させてください。
あなたの脳に‥‥。
今はあまり実感できなくてもかまいません。
このメルマガを読み続けてくだされば、必ず実感できるようになるはずです。本当は、こんなことを言う自分自身に言い聞かせているんですから。

自然界という母の姿を知った時、僕たちは一人の例外もなく、一人の不公平もなく、その胸に抱かれていたことを感じます。
それは、僕たちが、この宇宙の全てのものとつながっていたことを知り、共感を感じる瞬間です。

その時、初めて僕たちは深い安心感に包まれ、敵などどこにもいなくなり、真の幸福感の中で、世界を平和にする初めの一歩を踏み出すことができます。

幸福感とは、脳の物理・化学作用が作り出す幻覚です。
脳の感じる幸福感の最高のものは、そして決して色あせない永遠のものは、それは「共感」です。

共通の関心事で集まった人たちが感じる実際的な共感ではなく、全人類が深い部分でつながっていたと感じる普遍的な感覚としての共感のことです。
僕たちは、必ず、真の幸福を手に入れて、世界を平和にできます。

だって、僕たちは一つだったんですもの‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

僕自身のことで言えば、僕は若さを保つために、柔軟体操もするし筋トレもします。
それは、現在の僕の脳が、そのような行動を取りやすい脳になっているからです。

その逆に、わかっていても面倒くさがってやらない人もいます。それは、その人の脳がそのような行動を取りやすい脳になっているからです。僕たちは、その行動を自分の脳に操られています。

でも、脳を操っているのは、その脳を取り巻く環境です。

その脳を取り巻く環境というのは、要するに「自然界に適応して起こっている様々な現象」のことです。

宇宙が生まれてから、この140億年くらいの間に起こった全てのことや、遺伝や、自分自身の肉体も、その人の脳を取り巻く環境に含まれます。

脳を取り巻く環境は常に変化しています。
すると脳は変化し、僕たちの行動も変化します。

僕の脳を取り巻く環境に、この僕に『人類の育てた果実』や、メルマガ『世界を平和にする「自己愛的生活」』を書かせる変化が訪れているということは、全ての人類の脳にも、「世界を平和にする行動」をとるような変化が訪れていると見て間違いなさそうです。


NO.3 特別な存在(1) 2003.02.25

みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
人類の育てた果実」、無料なので、是非、齧ってみてくださいね。

早速、齧ってくださった kaori さんから嬉しいメールが送られてきました。

マーキーさんの論文、初めて知る言葉が多くて私には難しいけれど新鮮です。
耳障りのいい言葉が頭の中でリフレインします。
「クォーク、クォークね‥‥クォーク、‥‥で、クォークって何だっけ?」
と、ご丁寧にボケてみたり、してます。昨日バスに乗ってた時。
面白くて目に不健康です。今も、ずっと読んでて簡単には止まらないの!
やっと中断してメール書いてます。
徳永さん、ホントに面白いです。
まるで立花隆みたいですね。(=知の巨人)尊敬の念が沸き上がってきました。

立花隆さんを出すなんてちょっと誉め過ぎ。でも本当にありがとうございます。本だったら、このまま帯キャッチに使えます。
このキャッチだけでベストセラーになりそう。(笑)

でも、安心してください。本にはしません。してくれません。したいのは、世界を平和にです。


2月13日(木)、NHK教育で放送されたETV2003のタイトルに惹かれました。『いのちがけで教える(絵をとおして育つ心の教育)』
新聞の番組欄には、そう書いてありました。

番組を見た方、いらっしゃいますか?

僕はこれからの教育は、先生対生徒、大人対子どもではなく、同じ弱さを自覚した人間同士の助け合い、にならなければいけないと考えています。

大人であろうと先生であろうと、そんなのは子どもよりほんの少し長く生きただけの、まだ何一つ解決されていない未熟な、たくさんの問題を抱えている、同じ人間という動物です。

自分の未解決のままの弱さをさらけ出して、その問題に真摯(しんし)に取り組もうとしている嘘のない大人たちの姿を見た子どもたちに、他人を馬鹿にしたり、差別したり、ひねくれたり、非行に走ったりする心が生まれるはずはないと信じます。

教育の崩壊が取りざたされているしらけた時代ですが、この時代に、教育が成立するのは、その瞬間だと思います。

子どもたちの心の中に、先輩である大人たちを信じてもいいかな、という希望が生まれくれるはずです。こいつらになら、僕の悩みや懐疑や不安を打ち明けてもいいかな、一緒に考えてくれるかなって頼ってくれるはずです。

自分の弱さをさらけ出すとは、ある種、命がけでなければできません。放っておけば、人間は自分を守るために威厳や権威などにしがみつき、自分の弱い行いの正当化をしてしまうものだからです。

学校が、ちょっとばかり長く人間をやってきた人と、人間になって間もない人との心の交流の場、そして助け合いの場になれば、つまり、僕たち大人がそこまで降りていくことができたなら、僕たちの抱えている様々な問題の多くが嘘のように消失するのにな、と思います。

僕たちの抱えている問題(心の問題も社会の問題も)の多くは、僕たちが自分の弱さや自分の中に温存している悪を認めたがらないところから発生しているからです。

そんな意味から、「いのちがけで教える」というタイトルに惹かれたのです。それと、僕は、中学の美術教師になろうと頑張っていた時期もあったので、「絵を通して育つ心の教育」という副題にも感じるものがありました。


番組は、中学校の元美術教師、太田恵美子さん(62歳だそうですがとても若々しい方です)が、実際に、ある学校を借りてかつての授業を再現し、その授業風景を見ながら、精神分析学者、河合隼雄(かわいはやお)さんと太田恵美子さん本人が対談するという内容でした。

NHKのホームページには、お二人のことが次のように紹介されています。

「『どんな子どもでも、やれば出来る。正しく導きさえすれば‥‥』神奈川県で美術の授業を通して、行き詰まっていた中学校に活力を吹き込んだ太田恵美子さん。満州からの悲惨な引き揚げ経験、2人の子どもを連れての離婚、そして、スーパーでバイトしながら死に物狂いで勉強し、42歳でつかんだ美術教師の仕事。
太田さんは、自分自身が将来どう生きたいかを3年間かけて作品に仕上げていく、という自主的調査研究の授業を通して、子どもたちの心の中に「自分の気持ちを伝える」喜びを芽生えさせてきた。
一方、去年1月に文化庁長官に就任した河合隼雄さんは、大学時代、進路に迷ったあげく、1年間引きこもりになった経験を持つ。日本人で初めてユング派精神分析家の正式資格を取得し、これまで、数多くの子どもたちの悩みと向き合ってきた。
苦難に満ちたみずからの体験を通して『人に認められる喜びを子どもたちにも経験させたい』と願う太田さん。『21世紀は自分で考え、判断して行動する子どもを育てなければいけない』と考える河合さん。2人の対話を通して『教えること』『育てること』の意味を考える」

実は、インターネットで調べていくと、この太田恵美子さんという方は、山本美芽(みめ)さんという可愛らしいお名前のフリーライターの方が書いた『りんごは赤じゃない(正しいプライドの育て方)』という本で紹介された方だとわかりました。

リンゴは赤じゃない

楽天ブックスのスタッフの方が書かれた、この本の書評の一部を紹介させていただきます。

「教育に関する本を読んで久しぶりに感動しました。この本は太田恵美子さんという美術教師のお話で、この人の教育方針が全編にわたって書かれています。この先生というのが『美術コンクールを総なめにした公立中学のカリスマ教師』(帯キャッチより)だそうで、受験と関係がなくもっとも生徒が授業に打ち込みにくい美術という教科を通じて、いかに人を育てたかという教育法が書かれています。(後略)」

もう一つ、河合隼雄さんの文章を是非読んでみてください。↓

http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/454401-9.html


さて、前置きが長くなりました。番組の話に戻します。
僕は、このように自分の経緯と照らし合わせて興味を持ち、番組を見たのですが、ところが見ているうちに、何かとてつもなく奇怪なものを見ているような気がしてきたのです。
(つづく)


◆◇◆編集後記

最近のテレビ番組の作り方は、姑息(こそく)ですよね。いい場面でサッとCMに入っちゃうと思いませんか!?(怒)
あれって、悔しいけど、チャンネルを変えられないしテレビから離れられなくさせられます。(悔)
それに、最近はやけにCMの回数が多いし、CMの時間も隠微に少しずつ長くなっているように感じます。(憤)

でも、ちょっとそのテクニックを真似てみました。(笑)
今回は、笑って許してね。
次週を楽しみにしていてください。大どんでん返しが起こるかも!!

‥‥起こらないかも。(v_v)


NO.4 特別な存在(2) 2003.03.04


みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
先週にも書きましたが、僕は、中学の美術の先生になろうと頑張っていた時期がありました。

実際に教員採用試験も受け、採用も決定しました。しかし、採用試験から決定通知までの間には何ヵ月もかかります。
僕は、面接で緊張して失敗してしまったので、完璧に落ちたと思い込んでいたし、一緒に暮らし始めた女性がいたので、早く一定の収入が欲しかったこともあり、採用通知が来るまでの何ヵ月間も待てずに、普通の会社に就職してしまっていました。

その何ヶ月かの間の生活の激変に伴い、心境の変化が生じてしまいました。先生をやることに迷いが生じてしまったのなら、さっさと辞退するべきなのでしょうけど、そう単純には割り切れませんでした。

それまで、先生になろうという夢を持って、他のものを犠牲にして?頑張ってきたことを思うと、簡単には捨てられなかったのです。

教育委員会の方からの電話に、「少し考えさせてください」などという申し出をしてしまいました。
そんなわがままを聞き入れてくださって、根気強く待ってくださいました。

もちろん真剣に考え、いろいろな人にも意見を求めました。
三度目の電話の時には、どこかの学校の校長先生からでしょうか、年配の方の声で、「もう、あなたの席も決まっているので、早く決定してくださいよ」と言われました。

僕は、自分の迷いが多くの人に迷惑をかけていることに気づき「申し訳ありません。いろいろ考えたのですが、やっぱり辞退させてください」と答えてしまっていました。

電話口の人は(たぶん)しばらく呆然と口を開けていましたが、(たぶん)みるみるうちに目がつり上がり、(実際)大声で、「あんたのような人は、何をやっても駄目だ!!」と怒鳴って電話を切りました。

僕が何に関しても、いつもこんなに優柔不断なのは、完璧主義すぎるからだと思います。選択を迫られた時、いつも、より完璧な方を採りたいと思い、迷い続けるのです。要するに、欲深なのです。


「何をやっても駄目」な僕は、普通に就職したことで、普通の意味で言えば、それなりに社会には貢献してきました。

しかし「何をやっても駄目」な僕が、改心したわけでもなく、「何をやっても駄目」な僕は、「何をやっても駄目」な僕を未だに引きずっています。
それが、今ではこの僕の、その日からちょうど二倍生きてきたこの僕の、唯一の誇りです。

冗談ではなくて本気で言っているんです。こんなダメ人間ですが、完璧を求めていつも迷いながら歩いてきたせいで、辿り着けた場所があったからです‥‥。

さて、NHK教育で放送されたETV2003『いのちがけで教える(絵をとおして育つ心の教育)』を見ての感想のつづきです。

落ち葉を拾ってきて、それに耳をすませてみたり、穴があくほど眺めたり、齧ったり、匂いをかいだり、撫でてみたり、五感を総動員して感じたままを絵にするという授業でした。
絵を描き始めた生徒の間を行き来していた太田先生が、しばらくして声を上げました。

「みなさん、ちょっとこちらに目を向けてください。今、〇〇君が、こんな心配をしました」
生徒たちが、先生の方を向くのを待って、ゆっくりと話し出しました。
「〇〇君は今、僕はみんなと違うのかなあ? って言いました。‥‥でも、違っていていいのです!!」

感動的な場面です!

僕も美術の先生になろうと思っていた時、「生徒一人一人の個性を引き出してあげるような授業をしたい」と思っていました。右へならえ的な反応をするつまらない人間には、育ってほしくありませんでした。
自分の生き方に自信と誇りを持つと同時に、他の人の生き方も尊重できる人間に育ってほしいと思いました。

そして、小さなものにも感動できる豊かな感性を育ててあげたいと思いました。

「それでいいんだよ。君は決して間違っていない。君は他人(ひと)と違っていいんだよ。それは、とてもすばらしいことなんだ」
僕も、そんな言葉をかけてあげることのできる先生になりたかったのです。でも、今の僕の目には、違和感を持って映る映像でした。

番組は進み、最後は、自分の描いた絵に物語を付け、みんなの前での発表です。教壇に向かって両手を広げて、太田先生は言いました。
「さあ、この上に立ったら、もう、あなたはスターです!」

表情豊かに、愛情たっぷりに、大きな身振り手振りで話される、とても若々しい太田恵美子さんに好感を持ちました。

僕は、彼女の秘められたメッセージに心を揺さぶられながらも、彼女は、何かとてつもない奇怪な力に突き動かされているんではないか、というような違和感(危機感?)がこみ上げてきて、素直に感動できないんです。

先生になろうとしていた頃の僕だったら、素直に感動していたでしょう。でも、今は、人類の育てた果実を齧ってしまった僕です。

忘れかけていた記憶を取り戻すために、早速、図書館に行き、教育関係の本を手当たり次第に開いてみました。
そんな中で、僕の中にあった直感が、次第に確信へと変わっていきました。

1872年(明5)、日本に学制という法律ができました。これはフランス、イギリス、アメリカなどの欧米諸国の学校教育制度を折衷(せっちゅう)する形で作られたものです。それまでの日本には、読み・書き・そろばん、などを習わせる寺子屋とか藩校しか存在していませんでした。
このころから様々な形で、日本の教育は欧米に影響を受けてきました。

しかし、決定的な影響は言うまでもありません。敗戦後、アメリカ占領下で行なわれた教育改革期です。
敗戦の翌年、1946年、アメリカの教育使節団が日本にやってきて、それまでの軍国主義的・国家主義的教育システムを解体させ、自由化と民主化を迫りました。

先生という職業は、自分なりの信念を持っていないと、なかなかできない仕事です。でも、その信念とは、自分の内側から自ずと湧いてくるものなのでしょうか?

そうではなくて、生まれ育っている社会環境やイデオロギーが、その人の脳に「信念」という、ある種の偏見を作り上げているだけなんです。

戦争に負けるまでは、軍国主義的・国家主義的教育システムに突き動かされて、それを自分の信念として、多くの先生が授業をやっていました。
戦争に負けたら、今度は一変して、画一的教育はいけない、個人の表現の自由を尊重した創造的な教育が一番、というようなアメリカ的イデオロギーが脳内にたくさん入り込んできて、今度はそれが自分の信念となり、それに基づいて授業をやっています。

それだけの話で、どちらの教育が良いか悪いか、という問題ではありません。良い悪いは、その置かれた「時代」や「社会」が決定するものです。

つまり、戦争中には軍国主義的・国家主義的教育システムが良しとされ、敗戦後には自由主義的・個人主義的教育システムが良しとされただけです。

取り敢えず、アメリカ的に洗脳された脳を持つ僕たちは、軍国主義的・国家主義的教育システムには否定的な反応をして、自由主義的・個人主義的教育システムに肯定的な反応をするように改造されています。

そうすると、みんなと同じではなくて、より個性的で独自的であることが望まれ、そしてついにはスターになることが良いことだという錯覚を奨励することになります。
みんなが、いわゆるアメリカンドリームを目指して競争をする、奇怪な流れが出来上がります。

アメリカの個人主義が「個人を尊重する」という意味であって、ただの自分勝手ではないと主張する人はたくさんいます。
もちろん、個人主義と自分勝手とは違うけれども、何故、個人を尊重するかと言うと、その背景には、自分が尊重された扱いを受けたいという気持ちがあるからです。

自分を犠牲にしてもいいから他人を尊重してあげたい、などという個人主義は見たこともありません。
つまり、いくら美化しようとも、個人主義の背景には利己主義があるわけです。

自由主義も民主主義も、その根本は個人主義と同様で、自分自身を守る気持ちから生まれたものです。

自分自身が何者かに拘束されたり弾圧されたくない、という強い「自意識」があって、それであらかじめ打っておく手段が個人主義、自由主義、民主主義です。
やっぱり、根本にあるものは利己主義です。

個人主義の夢見る幸福を考えれば、そのことがはっきり見えてきます。個人主義の夢見る幸福、それは、財力を持つことです。
だから、そこには自ずと競争が生まれます。
他の人と違う発想ができない人間はあまり価値がない、他を圧倒する専門的な知識や技術を身につけられない人間はあまり価値がない、という価値観に振り回された競争が生まれます。


競争社会で自分が幸福になるということは、間違いなくどこかの誰かを不幸にします。逆に、どこかの誰かが幸福になれば、自分が不幸になります。
競争とはそういうことです。

個人間の競争とは別に、集団間の競争もアメリカでは盛んです。
『アメリカの教育』(喜多村和之編・弘文堂)という本の中で、バーバラ・フィンケルステインさんが、次のような言葉を書いています。

「学校間で競争させることは集団を団結させる。生徒は同一のユニフォームを着て、日々の練習に没頭し、お互いの成功を助け合い、コーチの指導の下での厳しい訓練にも自発的に従う」

逆に言えば、個人主義を標榜(ひょうぼう)するバラバラな人たちが団結するためには、彼ら全員の敵を想定させるしかないとも言えます。
つまり、敵国を想定することが、個人主義のアメリカを団結させるためには不可欠な要素なのです。

だから、個人主義が世界を平和にしないのは当然の話です。

個人主義の競争の中で勝利者となった人とは、財力を手にした人たちです。その人たちの中には、彼らの善意から、自分が幸福と信じるものを、みんなにも享受してほしいと考える奇特な人たちがいます。

自分が信じる幸福を広めることによって、結局は、個人主義・自由主義を装った、強力な「財力システム」ができあがってしまい、社会に限りない格差が生まれてくることになります。


精神分析学者、土居健朗(どい たけお)氏は、次のように言っています。

「アメリカという国は自由平等の国と言われているけれど、自由の理想は何かと言うと権威に依存しないこと、つまり自律的であることだ。
だけど、実際にはより自律的な人に、それほどでもない人が支配されている社会にすぎない」

僕の言うことを誤解しないでくださいね。

僕は決して戦前・戦中の国家主義、あるいは全体主義がいいなどと言っているのではありません。その最たるものがファシズム(独裁体制)ですから‥‥。だから、他の人と違っていてはいけない、などとは間違っても言うつもりはありません。

ただ、他人と違うことをことさら煽り立てることに、違和感、危機感を感じているんです。

国家が関与して、その権力で画一的、同質的に押し込める教育には危機感を感じますが、その逆に、個人主義をことさら煽り立てる教育にも危機感を感じるということです。
それが、人類の育てた果実を齧った僕の直感だったようです。

僕たちは、ことさら個人主義を煽り立てなくても個人主義的傾向を持っているし、ことさら同質性を強調しなくても元々同質なのです。

科学の視点で、宇宙の歴史の中での自分たち人間の生まれてきた過程を知ればそのことがわかります。
僕たちは同質の物(原子)から生まれ、そして部分という自我(これは実は錯覚なのですが)を持つ存在に到ったからです。


国家主義の呪縛(じゅばく)からは一気に解放された日本ですが、今では、しっかりと個人主義の呪縛に取り付かれてしまったようです。

そのせいで美術教育は、独自性を強調し過ぎて、一人のスターや芸術家を作り上げるような、あるいはコンクールで優勝する絵を描かせるような方向に流れているように感じます。

あの日からちょうど二倍生きてしまった、二度と先生になれない「何をやっても駄目」な今の僕が、そのせいで誰よりも回り道をして『人類の育てた果実』を齧ることになってしまったこの僕が、その教室で、もし一言言わせていただけるとすれば、次のように言わせていただきたいと思います。

ただし、この一言は、今までどんな先生も、どんな大人も口にしたことがない言葉です。今まで誰も口にしたことのない、「僕たちの自己愛が世界平和へとつながるための言葉」であることは前もって言っておきます。

「みなさん、ちょっとこちらに目を向けてください。〇〇君は今、他人と違う発想をした自分を心配しました。でも、そんな心配は無用です。君たちの絵は、たまたま今、君たちの手を通して画用紙の上に描かれたというだけであって、絵というものはね、たとえそれがどんなものであれ、それは、みんなの発想のたまものなんです‥‥」


例えば、描くために拾われてきて、そして今、目の前に置かれているたった一枚の落ち葉も、長い年月をかけて、その環境に育てられてそこに存在しているわけです。

たった一枚の落ち葉でも、今ここに存在するためには、必ずビッグバンから始まって、その後どこかで途切れることなくずっと続いてきたこの宇宙の歴史、そして祖先からの長い長い過去の歴史があって、つまり、この宇宙の全てがつながりあって初めて、そこに存在しているわけです。

微妙な色の変化も、縮れた形、虫に喰われた穴の形一つとってみても、もちろん人間の感覚ではとても知覚できないような偏西風や温暖化やエルニーニョ現象の影響や隕石の影響など、その落ち葉を取り巻く環境の全ての長い長い歴史を一手に引き受けて形作られた造形です。

落ち葉


このことが理解できない大人はほとんどいないはずです。

それなのに、科学的に見れば人間もこの一枚の落ち葉も存在的には同じはずなのに、それが人間のことになると、途端に理解できなくなってしまうから不思議です。

自分が生まれるに至るそれまでの長い長い宇宙の歴史は全く無視して、自分の遺伝子を運んできてくれた祖先たちの歴史も無視して、「自分には、何にもよらない自分発の意思があり、自分はその自分発の意思によって主体的に行動をしている」と勘違いしてしまうから不思議です。

実際は、僕たちが絵を描く行為一つにしても、一枚の落ち葉と同じように、描いている人が今この場所に存在するまでの、この宇宙の過去や全ての人とのつながりで、描くという行為を行わされていたのです。
そして描かれた一枚の絵は、その人に関わった人や関わらない人も含めて、過去の人々も含めて、世界中のみんなで描き上げているのです。

どんなに個性的な芸術家と呼ばれた過去の人たちも、まったくの自分発のオリジナルで描いた作品など一つもないことを、今こそあなたに理解してほしいと思います。

例えばゴッホとか、ユトリロとか、ピカソとか‥‥個性的な芸術家たちでさえも、彼らの作品は本当は、彼らを取り巻く芸術家たちや環境の総力の結集で、たまたま彼らの手を通して描かれていただけだったのです。

つまり、今まで芸術家と呼ばれていた人たちは、いわば、彼を取り巻く環境と彼の作品の仲立ちをする「媒体」だったのです。

なぜなら、一枚の落ち葉と同じように、この宇宙の過去や全ての人とのつながりがなければ、彼はそこに生存すらしていなかっただろうし、絵という文化がなければ、絵を描くという行為もやらされていなかったはずだからです。


「いいですか? みなさん、大事なことなのでよく聞いてください。君たちが絵を描くということはね、実は、ここにいる友達全員の人生や、宇宙万物の過去を背負って、みんなの発想を背中に受けてやらされていたんです。たった一枚の絵を描くだけなのに、君たちは、本当はそんなにすごいことをやっていたんですよ。
僕は、絵を描くことを通して、君たちにその神秘に気づいてほしい。その感謝の気持ちをこめて一枚の絵を描いてほしい。そのことが、これからの世界を平和に導くための君たちに必要な意識なんだ」


ある国の一人の子どもが成長して、世界中の人に崇拝される大スターになるよりも、その方が、どんなに素晴らしいか、このメルマガを読んでくださっているあなたにも気づいてほしいと思います。

一人一人がみんなの発想を代表して絵を描いているという意味において、未来ではなく今この瞬間に、すでに誰もが分け隔てなく平等にみんなの英雄だったということに、今こそ気づいてほしいと思います。

次週は、このことを、ある映画を例に挙げてもう一度考えてみたいと思います。
「特別な存在」の最終回です。 ‥‥たぶん。

可愛いデイビッド少年の愛を求める必死の叫びに、おもわず涙が出てしまったときのために、ハンカチかティッシュ、用意しておいてください。
(つづく)


◆◇◆編集後記

僕たちは、アメリカから押し付けられた個人主義的感覚から、今では自分が「特別な存在」であると言われると、うっとりしてしまう脳に改造させられています。

だけど、個性的、独自性を強調することで、一部のスターや芸術家を崇拝する気持ちが生まれてしまったり、人と人との競争を煽ることで、ひどい時には敵を作り、それにより戦争に至る心理にもつながっていたのです。

これからの教育は、「特別な存在」を強調するものではなく、大人も自分の弱さや温存している悪を見据えて、共に支え、助け合うべきものにならなければいけないことをわかって欲しいと願います。

今までは、自分たち大人を完成品と見なし、子どもを自分たちのような完成品に導くことが「教育」だと思われていました。

だけど、大人と言っても子どもよりもほんのちょっと長く生きただけの話です。

しかも、子どもと同じで何一わかっていなかったのに‥‥。
いや、道義的には子どもよりもむしろ後退しているとも言えます。世の中を見回すと、子ども時代には禁止されていた悪い行為が、大人になることでむしろ許可されてしまうことになってしまっているようです。

そんな「悪」を許されてしまった大人たちが、どうして自分たちを完成品と言わんばかりの大きな顔をして、将来はそんな自分たちと同じような完成品になるようになどと、いったい、僕たちはどの面(つら)下げて子どもたちを導けるというのですか!?

もし僕の言っていることが間違っているというのなら、どうしてこの「大人の社会」には、詐欺や略奪や侵略や殺人や陰謀や戦争など数え切れないほどの犯罪がまかり通っているのでしょうか!?
「自分たち大人の代表者とも言うべき政治家たち」の軽率な言動やルール違反や平気で嘘を付き合う行為が、何故なくならないのでしょうか!?

これは偉そうに、僕以外の大人に言っているのではなくて、僕の中にもまだそのような悪が温存していて、環境さえ整えばいつでも犯罪を犯してしまう危険性を秘めているから言っているのです。

子どもたちはそんな「俄(にわ)か完成品」から、いったい何を学びどこに導かれたらいいのでしょう!?

まだまだ僕たち大人は完成品などではありません。
しいて言えば、僕たちは、今はまだ子どもも含めて、その先の「大人の大人」を目指さなければいけないんです。


NO.5 特別な存在(3) 2003.03.11


こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
「特別な存在」は、今回が最終回です。


みなさんは、『A . I .』という感動的な映画、観ましたか?

画像21


あのスティーブン・スピルバーグさんが公開前に製作過程を完全に隠して非公開にしてまで、しかも日米同時上映、すなわち全世界においてこの映画に対する何の予備知識も与えない状態にしてまで、人々に何かを訴えたかった、感動させたかった、という映画です。

映画史上不朽の名作と言われた『2001年宇宙の旅』(1968年.アメリカ・イギリス合作)でメガホンをとった、故スタンリー・キューブリックさんが長年暖めてきた構想を、スティーブン・スピルバーグさんが映画化したとも言われています。

話は現在から1000年後の未来から始まります。
どの家庭にも、お手伝いロボットなどがザラにいる環境です。

地球温暖化で水位が上がったため、海に接する大都市は水没の危機にあり、人口制限がなされていました。
しかし科学の進歩はめざましく A.I.(Artificial Intelligence:人工知能)や人工生命体が開発され、子供を作れない夫婦は A.I.の子供を持つことができました。

ヘンリー(サム・ロバーズ)とモニカ(フランシス・オコナー)夫妻の子供は、不治の病で治療方法が見つからないため、病院で冷凍保存されていました。
モニカは週末ごとに病院へ行き、眠っている子供に、ただ本を読んで聞かせるだけ‥‥。精神的にかなり限界がきていました。

そんな折、夫が勤務する会社のロボット開発チームが完成させた「子供の身代わりロボット」を試験的に夫婦に提供されることになります。

そのロボットが、“愛”をインプットされた A.I.の少年、デイビッド(あのシックス・センスで不思議な能力を持つ少年を演じたハーレイ・ジョエル・オスメント)でした。

最初は、「ロボットなど愛せるのだろうか」と不安だったモニカでしたが、次第に本当の親子のような関係となっていき、明るい生活が戻ってきたかに見えました。

ところが、不治の病で諦めていた実の子供が、新しい医療技術の治療で家に戻ってきます。

その子がちょっと性悪(しょうわる)で、人間ではないデイビッドに当てつけるように『ピノキオ』の本を持ってきて母親に読ませたり、あるいは、いろいろと母親に嫌われるようなことをさせようとします。
ついに両親の誤解を招き、デイビッドは工場に戻されることになります。

ただし、一旦、愛する対象(この場合は母親のモニカ)をプログラムされると変更修正はできないので、不要となったデイビッド型のロボットは廃棄処分される規定になっています。

モニカはドライブに行くと嘘をついてデイビッドを車に乗せ、工場に連れて行こうとします。デイビッドは久しぶりにママの愛を独占できてはしゃいでいます。
そんな姿を見てか、(やっぱりこの子を廃棄処分にはできない)と思い、その手前の森にデイビッドを降ろし「逃げなさい! 人間に捕まらないように!」と言い残して、涙を流しながら去っていきます。

デイビッドは、母親が読んでくれた物語『ピノキオ』の中に現れた妖精ブルー・フェアリーがピノキオを人間にしてくれた話を思い出しました。
「人間になれば、お母さんはきっとボクを愛してくれるはずだ!」ということを思いつき、妖精を探そうと決心します。

その森には、たくさんの不良品になった片端(かたわ)のロボットが棄てられていました。

その中には、人間の女性のセックスの相手をするために作られたロボットもいました。ジゴロ・ジョー(ジュード・ロウの巧みな演技が映えます)です。
彼は、人間の女性を殺したという濡れ衣を着せられ、警察に追われて森にまで逃げてきたのでした。

ロボットを目の敵(かたき)にする人間の団体があって、彼らは棄てられたロボットを捕まえては、残虐な方法で破壊して楽しむキチガイじみたショーを開催していました。

デイビッドもジゴロ・ジョーも捕まってしまい、ついに彼らが見世物になって破壊される番がやってきました。
しかし、必死で命乞いをする人間そっくりの少年を見た観客たちは騒ぎ出し、主催者は石を投げつけられ、間一髪二人は逃げ延びます。

デイビッドは、奇妙なことに、このクールで二枚目のセックス・ロボット、ジゴロ・ジョーと友達になり、手助けをしてもらいながら、一緒に妖精を探す旅に出ます。
こんなのが、この映画の大筋です。

妖精を探す旅の途中、ジゴロ・ジョーが言います。「人間はみんな、我々メカを目のかたきにしている」
すると、デイビッドは立ち止まって、叫びます。
「ちがう! ママは僕を愛している! 僕が “ユニーク”(ママにとって、かけがえのない存在)だからだ!」

でも、ジゴロ・ジョーは冷たく言います。
「人間は君の“サービス”を期待しているだけだ。それは愛とはちがう」

さあ、あの可愛い顔をしたデイビッドが、その小さな身を震わせて叫ぶんです。
「ちがう、ちがう! ママは僕を愛している! 僕を抱いて、日に100回も愛してるって言ってくれるんだ!」

僕は、溢れる涙を抑えることができませんでした。

人間の身勝手で愛をインプットされ、人間の身勝手で棄てられたデイビッド。それでも、母親を疑うこともなく、愛を信じ続けるデイビッド。

僕の心の中には、今も彼が叫んだ言葉が突き刺さっています。
僕はユニークなんだ!‥‥ユニークなんだ!‥‥ユニークなんだ!

でも、違うよ、デイビッド!
その時、涙を流しながら、僕の心は、人間デイビッドに向かって違う言葉を叫んでいました。
君は決してユニーク(特別な存在)なんかじゃない! そして、君は今、決して一人ぼっちなんかでもない!

僕は、彼に負けない声で、スピルバーグさんに、キューブリックさんに、そして世界中のみんなに叫びたいんです。
お願いしたいんです!

僕たちは決して一人一人が「特別な存在」なんかじゃない!

僕たちはみんな、思考も行動も、自分の脳を取り巻く環境にやらされていただけだったんだよ。そのことに早く気付いてください!

僕たちの思考も行動も、世界中の総力によって取らされていただけだったんだ。そのことに早く気付いてください!

それでもどうしても特別な存在だと思いたいなら‥‥それは‥‥、

僕たち、この地球に住む「人類」こそが、理性を持ってしまったことで、動物の中でも一風変わった弱さを持ってしまった、ユニークな存在(=特別な存在)なんです!!

つまり、僕たちは一人一人が特別な存在ではなく、「全体が特別な存在」だったんです。

動物の中で理性を持ってしまったことで、唯一弱さを持ってしまったから助け合わなければ生きれないんです。愛という言葉の力を借りなければ生きれないんです。ロボットの力も借りなければ生きれないんです。

弱いから、自分の存在を、特別なものだと鼓舞(こぶ)していなければ生きれなかったのです。



その事実に気づいて謙虚になれた時、この宇宙の中で僕たち人類が背中を向けてしまったものたちが、向こうから手をつなぎに戻ってきてくれます。

だって‥‥。
だって、僕たちは初めから一つだったんだから!! ‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

『A.I.』は、2001年6月30日、日米同時公開だったそうですが、僕は、それから一年半後の、2002年のクリスマスイヴに、ビデオを借りてきて妻と二人で観ました。

1000年後の未来を想定したはずの映画でしたが、その映画の中では貿易センタービルが二つとも、まだちゃんと立っていました。
2001年9月11日に起こった同時多発テロは、映画公開中の惨事で、時代がSFを追い越してしまった瞬間です。

同事多発テロ

あの大惨事をテレビで見た日から一週間、僕は今までで最も寡黙な時を過ごしました。その事件のことは一切口にしなかったし、何をしても心ここにあらずで、何もかもが虚ろで、まるで自分も破壊されてしまったような感じでした。

僕たち人類は、長い年月をかけて培ってきた知恵で、あの惨事を引き起こすような高ぶった感情を鎮(しず)めるべきでした。
何が同時多発テロを引き起こしてしまったのでしょうか?

それは、僕たち一人一人がまだ「特別な存在」で、まだ自分の弱さをさらけ出せなくて、うまく手をつなげないでいるからです。

「特別な存在」は今回で終わります。


NO.6 自己愛が世界を平和にできるの?(1) 2003.03.18


こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
今日は、このメルマガのタイトルでもある「自己愛」について深く深~く、考察していきたいと思います。

まず、自己愛=エゴイズムとか、自己愛=ナルシシズム⇒自己陶酔⇒うぬぼれ、などというイメージがありますよね。

また、自己愛=自分を好きになる=自分を信じる=自分を受け入れる、こんなイメージもあります。

そのようなイメージを持たれている、人間の行動の根源でもあるこの「自己愛」を、もう一度、根源に立ち返って、考えていきましょう。

自己愛というものを説明するためには、まず、「自我」というものから説明しなければなりません。
自我とは、「自分と区別される対象の存在を知り、これが自分という存在であると自分で思い込んでいるところのもの」のことです。

僕たち人間は、超簡単に言ってしまえば、ビッグバンの時に存在していた素粒子がやがて天体を作り、その天体が超新星爆発を起こして、その時飛散した原子が長い間かかって、いろいろと組み合わされているうちにできたものです。そして、僕たちが死ねば、僕たちを形作っていた原子は消失してしまうのではなく、他のものにリサイクルされるわけです。

原子が長い間かかって、いろいろと組み合わされているうちにできたものが人間だなどと言っても、初めから人間の形をしていたものがパッと出現したわけではありません。

現在最も注目されている仮説は、生命は自己複製することができるRNAから始まったとする「RNAワールド仮説」があります。
たぶん、人間とは似ても似つかない、鎖状の形をした目に見えないほど小さな分子だったんでしょう。

自己複製を繰り返していくうちに、突然変異とその時の環境などが作用しあって、現在のような多種多様な生物が作られたと考えられます。
僕とあなたとは、どこまでも過去に遡っていけば、共通のRNAから生まれていたのかもしれません。

でも、僕たちはお互いに違う肉体という境界線で仕切られているので、赤の他人だという固定観念を持っています。

例えば、一卵性双生児を考えてみてください。
一卵性双生児は、1個の受精卵から生まれたもので、まさにクローン人間です。持って生まれてきた遺伝子は全く同じで、親でも二人の子供を識別出来ない程、外観的性格的によく似ています。

しかし、彼(彼女)らは、それぞれが肉体という境界線で仕切られていますし、一方の子どもの肉体が感じる痛みや快感は、もう一方の子どものものではありません。

その自分と区別される対象の存在を知ったところから、僕たちの脳は勘違いを起こし始めました。
「これが自分という存在である」
という勘違いです。この勘違いが「自我」です。

勘違いという言葉は不適切のようだけど、実は脳の性格をうまく言い表しています。

脳の神経細胞は、他の神経細胞からの刺激を、ひたすら次の神経細胞に伝えるという作業(反応)をしているだけですが、それがたまたま長期増強(=記憶)という特性を持っていました。
記憶は、言葉と相まって連想や想像や思考などという、いわば幻想を生むことになりました。自我というのも、そうやって生まれてきた幻想です。

だから、勘違いという言葉は、結構うまい表現だと気に入っています。
勘違いではあったんですけど、いったん作られた勘違いは現実そのものになります。

人類の育てた果実』を齧ってくださった方には通じると思いますが、僕たちの現実とは、脳が過去の記憶に基づいて見ている幻覚のことでしたね。
そして、この勘違いは、実際に物の形や現実までをも変化させる力を持つのでしたね。
まあ、こんなのが「自我」です。

これを踏まえた上で、一言で、自己愛を定義すれば次のようになります。

自己愛というのは、この「自我という勘違い」を持った人間が、その自分と信じているものに対して抱く「強烈な関心」のことです。
決して、ナルシシズムや、うぬぼれや、自分を好きになるなどという表面的な言葉で片付けられない根ぶか~いものです。

自己愛とは、人間が行動を起こす最も核となるようなもので、自己愛を持たない人間はいません。言い方を換えると「自分を愛していない(=自分に関心のない)者はいない!」

と言えます。

もし、本当に「自分を愛していない(=自分に関心のない)」人がいたとしたら、これほど生きやすいことはないはずです。
人の全ての悩みは、また精神的な病の全ては、自己愛があるために生まれてくると言っても過言ではありません。

「自分を愛していない(=自分に関心のない)」人がいるとすれば、それは、第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所に入れられた人たちかもしれません。

ノルウェーの女性、シルヴィア・サルヴェーゼンさんが、強制収容所に入れられた時のことを、後年、次のように語っています。

「その有様は、まるで地獄図のように私の眼に映りました。(中略)けれども、それだけが私を驚かせたものではありませんでした。最も驚いたのはその人たちの目の表情でした。彼女たちは『死人の眼』としか表現しようのない眼つきをしていました」(みすず書房『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著)


彼女たちの脳の中で、最高レベルの自己防衛のメカニズムが発動したのだと思います。苦痛を遮断する機構が働き、自分に対するあらゆる興味、関心、要求が打ち消されたのです。
つまり、自己愛がアンインストールされたのだと思います。

これほど生きやすいことはないということを脳は知っていて、極限の不安と恐怖と失意と苦痛の中で、それを実行したんです。

もう一つ、わかりやすい例を挙げます。

自分の目の形が嫌いとか、自分の鼻の形が嫌いなどという気持は、本当に自分を嫌いなのではなく、自分を愛しているからなんです。

ところが、あなたの職場に嫌いな上司がいたとします。
その上司がヒゲを剃り忘れているのを見て、(気持ち悪いなあ、ちゃんと剃ってくればいいのに)と思ったとします。その気持ちは、上司を愛しているからではありません。単純に、彼が嫌いだからです。

なぜ嫌いかと言うと、その上司の容姿や言動などが、自分の本能(甘え)を最も居心地の良い状態にさせてくれないから、嫌いなのです。

もし、その嫌いだったはずの上司が、自分の仕事を認めてくれるような言動をしたり、あるいは、焼き芋かケーキなんかをくれたとしたら、きっとその日から嫌いな上司ではなくなるはずです。
人間って、ずいぶん身勝手に他人の評価を行なっているものです。

自己愛というものは、他の対象物に対する愛とはちょっと違っていて、複雑に入り組んで、隠され偽られて、屈折しているため、表面的には自己嫌悪という形で現われる場合もあります。

でも、これは自己愛がない状態ではなく、むしろ強烈な自己愛があるための現象なんです。

このことを勘違いしないでください。
と言っても、勘違いこそが脳のおかぶでしたね。(笑)

だから、「もっと自分を愛してあげましょう」という励ましの言葉は、「自己愛を持ちましょう」という意味ではありません。
自己愛は勧めてくれなくても、元々誰にでもあったわけですから。

「もっと自分を愛してあげましょう」という励ましの言葉は、自分に対して、ねじくれた興味や関心ではなく、素直な肯定的な興味や関心を持ちましょう、という意味に捉えればいいと思います。

自分に対して素直な肯定的な興味や関心を持つことは、心の健康にとても役立ちそうです。
初めに書いた、自己愛=自分を好きになる=自分を信じる=自分を受け入れる、このイメージです。

でも、自己愛=エゴイズムとか、自己愛=ナルシシズム⇒自己陶酔⇒うぬぼれ、などというあまり良くないイメージもあります。
一体、どっちなんでしょうか?

自分を愛した方がいいのか、愛さない方がいいのか、はっきりしてもらいたいものです。

そして、ついでにと言ってはなんですが、この自己愛が世界を平和にしてくれるかどうかもはっきりしてもらいたいです。

そのことを考えるための、とてもいい参考書が見つかりました。五木寛之さんの『愛に関する十二章』(角川書店)です。

愛に関する12章


これは、次の12の章に分けて書かれています。

第1章、自分を愛する
第2章、同姓を愛する
第3章、家族愛
第4章、人間愛
第5章、小さいものへの愛
第6章、恋愛
第7章、仕事への愛
第8章、性愛
第9章、物への愛
第10章、言葉と愛
第11章、静かなる愛
第12章、新しい愛の形

この中で、このメルマガと最も関連のある、「第1章、自分を愛する(ナルシシズムが教える愛のレッスン)」を取り上げて、次週、先程の疑問に答えていこうと思います。


◆◇◆編集後記

生命体の起源に関する仮説は、原始の海に、まず自分自身を触媒として自己複製するRNAが生まれたことから始まった、とする「RNAワールド仮説」が、現在最も注目されています。
興味があったら、「RNAワールド仮説」で検索をしてみてください。たくさん見つかりますよ。

現在の生物からも、触媒作用を持つRNA“リボザイム”が発見されていて、この仮説の裏付けとなっています。

でも、注意することは、インターネットに溢れている情報を、全て鵜呑みにしたり、自分の思想に都合のいい部分だけ取ってきたり、こじつけ解釈したりしない、ということです。

それと、仮説であるなら、あくまでもその立場を固持して、その後の推論を行なわなければいけません。

科学は、宗教のような強引なこじつけはいけません。
何も言わずに信じていれば救われた時代は、終わりつつあります。
現代は、信じるものは救われる、ではなくて、信じるものは騙される時代です。


NO.7 武装解除させるための攻撃 2003.03.25


こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
きょうは、前回のつづき「自己愛が世界を平和にできるの?(2)」をお送りする予定でしたが、戦争という緊急の事態が起こってしまったため、急きょ『武装解除させるための攻撃』と題したメルマガをお送りします。

米英軍の攻撃は、ついに、日本時間20日午前11時半(バグダッド時間同日午前5時半)ごろ始まってしまい、イラク戦争(第二次湾岸戦争)へと突入しました。

イラク戦争(第二次湾岸戦争)とは、アメリカ合衆国が主体となり2003年3月20日から、イギリス、オーストラリアと、工兵部隊を派遣したポーランド等が加わる有志連合によって、イラク武装解除問題の大量破壊兵器保持における進展義務違反を理由とする『イラクの自由作戦』の名の下に、イラクへ侵攻したことで始まった軍事介入である。

湾岸戦争

それなのに不謹慎にも、僕はその日の朝、とてもすがすがしい気持ちで目を覚ましていたのです。
幸福な夢を見ていたせいです。

僕の夢というのはこんなものでした。

* * * * * * * * * * * *

もはや、フセインさんがみんなのために亡命してくれるなんてことは、100%望めないことでした。
米英軍の空母や潜水艦や巡洋艦がペルシャ湾、地中海、紅海に配備され、砂嵐の中を突き進んだ戦車や兵士はイラク軍を完全に包囲し、攻撃は秒読み段階に入っていました。

そして、運命の瞬間がやってきました。
先陣を切って数十発のミサイルが打ち込まれ、それに続いてまた数十発。世界各国の報道機関が、運命の瞬間を報道しました。
世界中に緊張が走ります。世界中がミサイルの行方を見守ります。

ところがミサイルは、どこにも誰にも命中しなかったのです。設計ミスでも故障でも技術不足でもありません。
そのミサイルの中に詰め込まれていた火薬は、なんと花火だったのです。

地球上の全ての生物が、イラク上空に次々と打ち上げられていく花火を見上げています。

テロリストもその肩にかけた銃の重さも忘れて、イスラム教徒も祈りの手を休め、生徒も先生も授業の手を休め、キツツキも木を突くのを忘れ、サルは手にしたバナナを思わず落とし、ライオンは噛みついていたシマウマを放し、噛みつかれて血をたくさん流していたシマウマは空を見上げて「ああ、なんて綺麗なんだろう」と言いながら死んでいき、数万年も眠っていたマンモスは目を大きく開き、マグロは回遊を忘れて海面に顔を出し、活火山も活動するのを忘れ、杉も花粉を飛ばすことを忘れてしまうほどでした。

テレビ画面の前で、口を開けてあっけにとられている僕たちの目にブッシュさんが映り、おもむろに演説を始めました。

「全世界の皆さん、我々は今、自国の有する全ての武器を捨てています。これが、我々の意思表明です。
我々は、平和のために武器が必要だと信じてきました。
しかし、これからは、平和にはあなた方の『平和を祈る気持ち』が最高の武器になると信じます。
あなた方の『平和を祈る気持ち』は、我々のどんな武器よりも確実に、イラク軍の武装を解除させることでしょう。
北風はどんなに強く吹いても、旅人の衣服を脱がせることはできませんでした。我々は今、武器を捨てて新しい時代に入ろうとしています。
武器を捨てることへの恐怖を乗り切れるかどうかは、この時代に生きる全ての人類の善意に委ねられています。
我々は今、一つの大きな賭けをしようとしています。
武器を捨てた今、我々は一つにならなければ乗り切ることができません。我々はどんなことがあろうとも、今日のこの日を忘れてはなりません!
我々が、そして人類が、自ら選択したこの日を!!」

ブッシュさんは、人を食ったようなあのサル顔をほころばせてウィンクしました。
僕たちは、ブッシュさんに食われたのではなく、まさに一杯食わされたのです。

大空一杯に繰り広げられる花火の饗宴(きょうえん)は、その夜も延々と続いていました。いつしか、米英の兵士たちは軍服を脱ぎ捨て、ジーンズとTシャツに着替えています。
あらかじめ、どこかに用意しておいたようです。

それが彼らに与えられた本当の任務だったからです。

アルカイダは、今では銃を持つ手に花を持って踊っています。アリもキリギリスのバイオリンに合わせて踊りだしています。

今夜だけはアリだって無礼講(ぶれいこう)です。

「世界各国から武器という武器が、イラクに向けて移動を始めました」と各国の報道機関は叫んでいます。

「やがて、地球始まって以来最大の、花火の饗宴が見られることでしょう!」
と、声をからして叫んでいます。


* * * * * * * * * * * *

僕は目が覚めた時、ブッシュさんは本当にそんなすごいことを企んでいるんではないだろうか? っていう予感がしていました。

世界中に撒き散らした物議は、その企(たくら)みを成功に導くために、世界中の関心を最大限に集めるための作戦だったのかもしれない、なんて想像して、なんだかウキウキしていました。

でも‥‥、現実は‥‥、違いました。

ブッシュさんがそんな洒落たパフォーマンスをするには、まだ機が熟していなかったんでしょう。
人類の「平和を祈る気持ち」は、まだまだ弱すぎて、賭けに打って出るには時期尚早です。

自分中心、人間中心、民族中心、国家中心とか、そんな狭い視野でしか、僕たちにはものが見えていないんです。


現実のブッシュさんは、こんな演説をしていました。

「我々は、イラク軍に大量破壊兵器の武装解除をさせるための攻撃を開始した。国民の皆さん。我が国と世界に対する危険は、克服されるだろう。我々はこの危険な時を耐えしのぎ、平和達成の仕事をやりぬく。我々は我々の自由を守る。他の人々に自由をもたらす。そして我々は勝利する。我々は勝利する」

今回の戦争で、早くも危惧(きぐ)していたことが起こっていると聞きます。多くの民間人が死傷した、ということです。

このような時に決まって言われる言葉があります。
「戦争は、老人や子ども、それに何の罪もない人々を巻き込み犠牲にする」

僕はあなたに質問したいと思います。
あなたは、この紋切り型の言葉に賛同できますか?
こんな甘やかされた言葉がまかり通っている限りは、戦争は絶対になくなりません。

彼らだけが戦争の犠牲者なんかじゃない!!

戦争に参加している人はもちろん、僕やあなたも、そして戦争に反対している人も全てが一緒になって、今の戦争を引き起こしているんです。
僕たち全員が加害者であり、そして全員が被害者なんです。この意味をわかってほしいんです!!

『人類の育てた果実』を齧ってくれた方にだけ通じる話をします。

戦争は、一部の人間が起こしているのではなく、ビッグバンが放ったシナリオです。素粒子たちが、宇宙という劇場でシナリオ(=自然界の法則)に基づいて演じさせられているのです。

僕たちは、言ってみれば全員が戦争の加害者であり被害者だったんです。

そのことに気づいた時、自らの無力さとあきらめを知った時、心細さに僕たちは身を寄せ合って生きようとします。
一人では生きていけないという弱さを認め合った時こそ、むしろ武器の不必要な世界がやってくると僕は信じています。
何故なら、みんながみんなを弱いと知っている、これほどの安心はないからです。

僕は今、力なく、それでもまだ確かに信じています。
世界中の人が、『人類の育てた果実』を齧ってくれる日は近いと‥‥。みんなが同じ気持ちになれる日は近いと‥‥。

だって、僕たちは一つだったんですもの。(v_v)


◆◇◆編集後記

夢は潜在意識からのメッセージや警告である、という言葉があります。僕が見た夢、それは何を意味していたのでしょうか。
僕には、それが意味しているものがわかりました。
みなさんも、一緒に考えてみてください。

世界中が一つになるために、人類が捨てなければならない「武器」とは何だったんでしょうか?

銃の重さを忘れるテロリストや、祈りを忘れるイスラム教徒や、授業の手を休める生徒や先生や、忘れられた授業や、仕事を忘れるキツツキや、食べることすら忘れるサルや、落とされたバナナや、シマウマを放すライオンや、綺麗だと言いながら死んでいくシマウマや、悠久の眠りから目を覚ますマンモスや、回遊を止めても死ぬのを忘れてしまったマグロや、活火山や杉の木は何のために夢に現れたのでしょうか?

彼らは、自分に与えられた任務をほっぽらかしても構わないほど大切なものを見つけたのです。

このところ、みんなが、戦争をなくそうと口々にいろいろなことを言い出しました。学者さん顔負けの難しい専門用語を並べて、僕を感心させてくれます。でも、目を外に向けて批判している限りは、何十年、何百年経っても戦争はなくなりません。

人類の「平和を祈る気持ち」指数は、僕の予想では、まだまだほんの0.01パーセントくらいだと思います。
99.99パーセントの人は、自分の生活が大事で、そんなことには無関心か、戦争が起きた時だけ、仲間はずれにならない程度に話に参加するくらいじゃないかな、と言ったら言いすぎでしょうか?

戦争に対する好奇心や興奮を隠すために、平和を願う素振りをしている人もいそうです。

賭けに打って出るにはまだまだ低すぎる「平和を祈る気持ち」指数ですが、だからといって、冷たい北風が「平和を祈る気持ちを持とう!」とどんなに強く吹いて呼びかけても、誰も従わないでしょう。
平和の「へ」の字も関係ないといった顔をして、平気で町にゴミを捨てたり、道につばを吐く自分本位な人はいなくなりません。

戦争をなくす方法はたった一つしかありません。
それは、外に目を向けずに内に目を向けるように呼びかけることです。
それは世界平和という遠い目標を掲げなくても、もちろん、自分自身が幸せになるためという目標でいいんです。

あるいはもっと安っぽい動機、自分自身が生きていく上で得をするためという目的でもいいんです。

ただ、闇雲に中途半端な自分探しをするのではなく、内に向けた目が捉えた光景が、実は外であったということに気づいてもらう必要があります。
洋服を裏返すように‥‥。

外に明るく開けた世界を発見して、そして自分が全ての人と、この宇宙のあらゆるものとつながっていたことを実感して、お腹の底からジーンと暖まるような感動を体験してもらうことです。

人の心を動かすことができるのは、冷たい北風ではなく、「感動」だけです。

人類の「平和を祈る気持ち」は、押し付けられるものでも、難しい言葉を理解しなければ持てないものでもなく、その時体験した感動で得られる「幸福感(=共感)」から、自然にこぼれ出てくる笑顔のようなものです。
内から湧き出る喜びと同じものです。

生きて、そして死んでいく、そんな劇的な舞台に、配役の一人として選ばれ、その劇をより良きものにするために、世界中の人たちと共同作業で作らされているという「共感(=幸福感)」です。


NO.8 武装解除させるための攻撃(2) 2003.04.02


こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
今日こそは、「自己愛が世界を平和にできるの?(2)」をお送りする約束でしたが、急いで書いておかなければならないことができてしまいました。

それで、「武装解除させるための攻撃」のパート2になります。
約束を破るのは大っ嫌いなんですが、忘れないうちに書いておかなければならないので、本当にごめんなさい。
これも、戦争という不測の事態が、僕の脳にまで及ぼした悪?影響です。

前回のメルマガ(NO.7)の編集後記に次のように書きました。

人類の「平和を祈る気持ち」は、押し付けられるものでも、難しい言葉を理解しなければ持てないものでもなく、その時体験した感動で得られる「幸福感(=共感)」から、自然にこぼれ出てくる笑顔のようなものです。
内から湧き出る喜びと同じものです。

そう! 生きる喜びには、難しい言葉はいりません!
僕は、『人類の育てた果実』を齧った(体験した)後、自然に笑顔がこぼれてきました。

ここでいう「生きる喜び」とは、決して「死」を否定したものではありません。むしろ、生死を超えてあらゆるものとつながっていることを感じる喜びです。だから、町を歩いていても、すれ違う人みんなに挨拶をしたいような気持ちになってしまいました。

『人類の育てた果実』を齧ってくださった方から「目からうろこが落ちました」、「良かったです」という、いくつかのメールもいただきました。
でも、たいていは「ちょっと難しい部分もありましたけど‥‥」という言葉が付け加えられていました。

僕は決して難しい言葉は使っていません。使いたくはないし、もし使いたくても使えません。それなのに難しいと感じさせてしまうのは、どうしてなのでしょうか?

その原因の一つは、前回のメルマガでも書いた次のような部分ではないでしょうか?

戦争は、一部の人間が起こしているのではなく、ビッグバンが放ったシナリオなのです。
素粒子たちが、宇宙という劇場でシナリオ(=自然界の法則)に基づいて演じさせられているのです。
僕たちは、言ってみれば全員が戦争の加害者であり被害者だったんです。

これは、僕たちが何を考えどんな行動をしようと、それらは自然界にやらされていたことだったという意味です。
つまり、僕たちは自然界に踊らされているロボットのようなものだったということです。体中に張り巡らされている神経系の中を電気が流れて、僕たちの筋肉も動かされているので、まさに電気で動かされているロボットだったのです。

僕は先ほど、「急いで書いておかなければならないことができた」と言いましたが、それさえも「自分の意志」で判断し行動に移したというよりも、実は自然界様に踊らされている行動だったということです。自然界という言葉が範囲が広すぎてイメージがつかみにくいなら、「僕の脳を取り巻く環境」と言い換えてもいいです。

恐らく、多くの人が難しいと感じたのは、このことが実感できないからではないでしょうか?

僕たちの脳には、記憶によって「方向性を持って流れるベルトコンベア」が作られていて、そこに言葉という音刺激がやってくると、ベルトコンベアがある方向性を持って言葉たちを運び、僕たちの脳に意思(意志)を浮かび上がらせます。
それによって先ほど、僕は「急いで書いておかなければならないことができた」と言わされ、このような文章を書かされているわけです。

何度も言いますが、僕たち人間はみんな、この自然界の法則というシナリオに則って、素粒子が演じさせられている劇場の中の配役の一部だったのです。
僕たちの行動は、ビッグバンから連綿と途切れることなく続く環境に、決定的に操られています。このことが、科学が僕たちを導いてくれた結論です。

この真実を理解することを、僕は「科学的覚醒」と呼んでいます。

現代科学が導いてくれた、この「僕たちはみんな自然界に踊らされているロボットのようなものだった」という真実を受け入れるには、ちょっとしたハードルを越える勇気がいります。

これは、ある種の人々(例えば現代の価値観が生み出した社会システムによって、何らかの恩恵を受けている人たち)にとっては、全く受け入れがたく、反感すら抱くものかもしれません。
それは何故なんでしょう!? その人たちが頑なに固持しているもののせいじゃないかと思うのです。

前回のメルマガで、最後にみなさんに、次のような質問を投げかけました。

僕が見た夢、それは何を意味していたのでしょうか。
僕には、それが意味しているものがわかりました。
みなさんも、一緒に考えてみてください。
世界中が一つになるために、人類が捨てなければならない「武器」とは何だったんでしょうか?

世界中が一つになるために、人類が捨てなければならない「武器」とは?
ヒントは、今まで僕たちの身を外界の脅威から守ってくれていたものです。

僕がブッシュさんに「世界平和のために武器を捨ててください」とお願いしたら、「何を平和ボケした日本人が、寝ぼけたことを言っている。顔を洗って出直して来い」と言われてしまうかもしれません。

でも、僕はこの46年間、毎日欠かさず顔を洗ってきましたし、一度も武器を手にすることもなく、またその必要性を感じることもなく日本では生きてこれました。

つまり、寝言を言っているのは僕だけではなく、ブッシュさんさえも、武器がなければ生きていけないという固定観念(=夢)の中でうなされて、毎日、寝言を言っているんです。

僕たち人類は、武器を捨てて生きていくことが不可能なのではありません。
その方法を知らないだけです。

では、僕たちが、平和のために捨てなければいけない武器とは?

それは、尊厳、プライド、財産‥‥、など、今まで僕たちの身を外界の脅威から守ってくれていたものです。

僕たち現代人は、尊厳、プライド、財産‥‥、などという鎧(よろい)を身に付けることで安心して生きているんです。
始めは弱い自分を守ってくれるための鎧でしたが、今ではそれが勇気を与えてくれることをいいことに、神様を蹴散らし、自然界を支配下に置こうとまでしています。

僕たちは顔を見合わせると、右手を掲げて次のように挨拶をします。
「わたしの尊厳、万歳!」
「わたしの尊厳、万歳!」
そして小さい声で、ついでに「あなたの尊厳も万歳!」と付け加えます。

あっちでもこっちでも、尊厳という言葉は重宝されています。

尊厳死、尊厳なる生命、尊厳ある生き方、尊厳、尊厳、尊厳‥‥。
インターネットで検索してみてください。尊厳が大威張りしています。尊厳という言葉さえ使えば、なんだかとても善良なホームページででもあるような感じがします。

確かに、極悪非道な人が、絶対に使いそうもない言葉です。それは、今にもくずれそうな僕たち人間の脆さをガッチリとガードしてくれます。

だけど、決定的に科学の法則(一定の方向性を持った力)に支配されて、自然界様に踊らされている配役に過ぎない僕たちに一体どれ程の「尊厳」があると言うのでしょう!?

全世界に、平和を願う人はたくさんいます。今、平和への関心が高まっています。

でも、誰もが外に目を向け、外に発信をしています。

僕には苦手な経済論のようなものを駆使した平和論もあり、その勤勉さには頭が下がります。でも、やっていることは、地震によって倒壊した建物につっかえ棒をしたり、改築をしたりしているようなもので、誰も土台に目を向けようとしていません。

土台とは僕たちがその上に建物を建てるための「僕たちの意識」のことです。それさえしっかりしたものであれば、たとえ自然界の脅威である地震に遭っても、恐れることはないのです。

自分の内の「意識」を、自然界にしっかり根差したものに変えない限りは、決して戦争をなくすことはできません!!
そして、この自然界に根差した意識の変化のことを、僕は先ほども言ったように「科学的覚醒」と呼んでいるのです。

平和を願う全世界の方々にお尋ねします。あなたは、「自分の尊厳」を捨て去る勇気がありますか!? 酵素パワーの入った洗剤でゴシゴシ洗うように、真っ白の謙虚さを取り戻すことができますか?

「尊厳」などという言葉が必要とされた理由は、それは、放っておくと人間はあまりにも簡単に他人を踏みにじってしまうからです。
社会秩序を維持するためにそのような言葉で食い止める必要があったのです。

善良そうな言葉ではありますが、実は、人間の良心をとことん信じない猜疑心の塊から生まれた言葉だったわけです。

でも、僕たちはそんな言葉を押し付けられなくても、もっと自然に他人を尊重し、信じ、助け合う気持ちを持てるようになれます。

一人では生きていけないという弱さを認め合った時こそ、むしろ、本当の強さを手に入れ、武装しなくても互いに尊重し合える気持ち(ここでは慰め合うような気持ちのこと)が湧き上がってくると僕は信じています。

「尊厳、プライド、財産」などという武器を捨てて丸腰になった時、僕たちは、初めて、心細さにこの身を寄せ合って生きようとします。

(だから、前回の言葉をもう一度繰り返します)

何故なら、みんながみんなを弱いと知っている、これほどの安心はないからです。

あなたは、それでもまだ、自分は強いと言い張りますか?
弱さを見つめる勇気もない癖に。

僕たち人間一人一人は、確かに弱いけれども決して一人ずつではありません。この宇宙と共にあります。僕たちは宇宙全体で一つだったのです‥‥。


◆◇◆編集後記

最後にきて、僕は反省しなければなりません。
あたかも、偉そうに自分が考え、訴えているような錯覚をしてしまいましたが、実は、僕は自然界様に、あるいは僕の脳を取り巻く環境に書かされているんでした。
ごめんなさい。(・_*)\ペチ

今、僕の脳を刺激して、このような反応をさせる(文章を書かせる)波が、僕の周囲に押し寄せていることだけは確実のようです。
次回は、絶対、「自己愛が世界を平和にできるの?(2)」をお送りすることを約束します。⇐ と自然界様が僕に書かせました。


NO.9 自己愛が世界を平和にできるの?(2) 2003.04.08


こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
今日こそは、NO.6の続きです。

三週間も経っているので、忘れちゃったと思います。ごめんなさい。
五木寛之さんの『愛に関する十二章』(角川書店)の中の、「第1章、自分を愛する(ナルシシズムが教える愛のレッスン)」を参考書にして、自己愛について考えていくという約束でした。

五木さんは、アメリカの社会学者、ルイス・マンフォードさんの書いた、
『人間 ― 過去・現在・未来』という本を読んで、その中のナルシシズムについて書かれている言葉が印象に残ったそうです。

ルイス・マンフォード

彼(マンフォードさん)は、ナルシシズム(=自己愛)を全面的に肯定しているわけではないけれども、自分を愛するということは、他人を愛することに比べて、それほど難しくないから、まずそこから出発したらどうか、と提案しているのだそうです。


その自分に対する愛情というものが自分の心を満たした時に、今度はそれが自分という小さな入れ物からあふれ出て、自然に他人の上にも注がれるのではないか、という希望的観測です。

ここで五木さんは、次のような言葉を持ち出しています。
「自分を愛せない者は他人を愛せない」
五木さんは、これが愛の定義に関する最も基本的なルールと考えていま

1、自分を愛することは他人を愛することに比して難しくない
2、自分への愛が満ちた時、それはあふれ出して他人にも注がれる
3、自分を愛せない者は他人を愛せない

これらの言葉、ちょっと覚えておいてください。

さて、僕は前回(NO.6)、自己愛とは自分に対する強烈な関心のことで、自分に関心のない人はいないから、その意味で自分を愛していない人はいないと書きました。

この、自分に対する強烈な関心であるという意味の「自己愛」を、ここでは仮に根源的な自己愛と呼ぶことにします。
これは誰の深層にもどっしりと腰を据えていて、決してどこへも行かず常に不変のものです。

自分に対する愛というものは、他の対象物に対する愛とはちょと違っていて、複雑に入り組んで、隠され偽られて、屈折しているため、表面的には自己嫌悪という形で現われる場合があるけれども、でも、これは自己愛がない状態ではなく、むしろ強烈な自己愛があるための現象です、と書きました。

だから、よく言われる「もっと自分を愛してあげましょう」という言葉は、根源的な自己愛のことを指しているわけではなく、自分に対してねじくれた興味や関心を持つのはやめて素直な肯定的な興味や関心を持ちましょう、という意味に捉えればいい、と書きました。

それで、「根源的な自己愛」に対して、周囲の状況や自分の気持ちの持ち方によってころころと変化する自分への愛を、「お天気屋の自己愛」と仮に呼ぶことにします。

なぜこんなことを、わざわざ確認しておくかと言うと、このマンフォードさんと五木さんの使っている「自己愛」を僕なりに説明したかったからです。
要するに、先程の言葉、

1、自分を愛することは他人を愛することに比して難しくない
 2、自分への愛が満ちた時、それはあふれ出して他人にも注がれる
3、自分を愛せない者は他人を愛せない

で使われている「自分を愛する」という言葉は、根源的な「自己愛」を指しているのではなく、表面的な、お天気屋の「自己愛」を指して使っていると捉えれば、よく理解できるからです。
だから、自分を嫌いになったり好きになったりできるんです。

彼らの用いている「自己愛」が「お天気屋の自己愛」だと考えると、次の言葉の意味も理解できます。
五木さんは、自己愛の効用について次のように書かれています。

「シャネル、エルメス、ルイ・ヴィトンなどの高級ブランドや、ジャガー、ベンツなどの高級外車を持つことによって、傷つけられた自己愛、満たされない自己愛が憤怒というマイナスの行動に走ることを阻止する場合がある」

自己愛憤怒とは、自己愛が満たされなかったり、傷つけられた時に、相手に対して感じる憤懣(ふんまん)やるかたない思いのことで、これがしつこく残ると、相手を怪我させるような行動を取らされることもあるとても危険なものだそうです。

また、次のような例も挙げています。

「自分が贅沢な車に乗っていると、割り込まれても案外寛大になれる。自己愛憤怒の回避が行なわれ、かっとなってキレるということも少ない」

僕は、これを読んで、ある女性タレントの方が、テレビで面白い話をしていたのを思い出しました。

「ある日、道でパッタリと、主人の昔の女と出会ったんです。その時、私は、高級ブランドの洋服を着ていて、勝った、と思えました。ああ、あの時、ブランド物を着ていてよかったわあ(笑)」

僕は、これを聞いて大笑いをしてしまいました。とてもうなずける話ですよね。

ちなみに、この前、テレビである医者が、「ブランド物には脳内神経伝達物質のセロトニンを放出する働きがあるということが実験で証明された」と言っていました。
セロトニンは脳の喜びの部分を活性化し、不安や怒りの部分を沈静化します。セロトニンの低下と“うつ病”との関係は、よく言われていることです。

どうしてブランド物には、このような魔力があるのでしょうか?

ちょっと長い引用になりますが、とても興味深いことを五木さんは書かれています。

「なかなか手に入らない高級ブランドを手にすると、まず人々の注目を集めます。それを持つことで、優越感を味わい、自尊心や自己評価も高まり、人々に認められたいという野心が満たされるわけです。また、ブランドを崇拝している場合、ブランドの持つカリスマ性、エネルギー、理想、憧れ、羨望といった要素がそれを持つことによって、自分の中に入り込み、自分まで力を持っているような感じになります。
(中略)
例えば、ルイ・ヴィトンのバッグを持っていると、そのヴィトンの価格が自分のランクと重なりあって、なんとなくそのバッグに似合ったライフサイクルを気取るということも時にはあるのではないでしょうか。それは学歴や肩書きとも同じではないかと思います。学歴とその人の本当の学力、教養とは異なる場合がありますが、学歴、キャリア、肩書きなど、目に見えないものを手に入れることによって、自分が大きくなったり、力強く感じたりするわけです。
そのような、自分に力を与えてくれるものに頼ることは、普通は軽蔑される場合が多い。しかし、手段としてそのような人間の心理を利用する方法もないわけではありません。それはあくまで本人がそのことを意識して利用する場合だけのことですが。
(中略)
本当に自分に自信があれば、ブランドにも頼らず、高級外車をひけらかすことも必要なく、自然体で充分に自己愛を充足できるという意見もあります。しかし、そのような自然体でいられる人は少ないからこそ人は悩むのです。少なくとも、私のようないいかげんな人間は、些細なことで自己嫌悪に陥ったり、他人と比べて、自信喪失に悩まされることが多い。そのようなちっぽけな自己でも、『いいんだ。これでいいんだ』と、言い聞かせながら、ときには、モノの力を借りながらでも、今の自分を愛していく。そういいうことが大切なのではないかと、秘かに考えているのです」

確かに、おっしゃることはよくわかります。
自分という狭い世界だけに関して言えば、かなりの成功を収めています。
確かに、自分を癒し、穏やかで幸福な心持ちで生きるための方法論としては優れたものですが、ただし、ある視点が欠落しています。

この、お天気屋の自己愛は、自分という狭い世界にしか目が向けられていなくて、この視野の狭さが周囲にどのような影響を与えるか、そしてもっと言えば、そんなもので世界を平和にできるのか、という踏み込んだ考察が避けられています。

それではここで、最初の言葉を検証していきましょう。


1、自分を愛することは他人を愛することに比して難しくない‥‥のか?

「愛する」の反対語は、「憎む」ではありません。
「愛する」と「憎む」は反対語のようでありながら実は大変よく似ています。どちらも激しい感情を誰かに向けるという点で同じです。

「愛情」の反対は「憎悪」ではなく、まるで相手に目を向けない状態、まったく心を動かさない態度、すなわち「無関心」ということです。

もともと、自分には拭おうにも拭い去れない「強烈な関心」があります。だから、おだてればヒョイヒョイ木に登るのも、実にうなずける話です。
ただし、このおだては、優越感や他人を見下す気持ちを快く刺激してくれている点に注意してください。
こんな自己愛が世界を平和にするでしょうか?

2、自分への愛が満ちた時、それはあふれ出して他人にも注がれる‥‥のか?

自分への愛が満ちた時というのは、自分の優越感や他人を見下す気持ちがそそられたことにより、お天気屋の自己愛が満足している状態です。

この時あふれ出し、他人へ注がれる愛は、それは優越感や他人を見下す気持ちが自分にもたらす「余裕」から注がれる愛です。それが寛大さに見えるだけです。
僕は、気品のある金持ちが一見他人に優しく、寛容であるのを知っています。でも、そういう人ほど、貧乏人を心のどこかで蔑んでいることも、財産を失った時に豹変することも知っています。

また、空手などを習っていて自分の腕力にちょっと自信がある人は、自分より弱そうな人とは喧嘩をしないことも知っています。
でも、これらは、優越感や他人を見下す気持ちが自分の余裕となって、心を穏やかにしてくれているだけです。
こんな自己愛が世界を平和にするでしょうか?


3、自分を愛せない者は他人を愛せない‥‥のか?

確かに、自分に対してねじくれた興味や関心を持っている人は、他人に対しても優しい気持ちを持てないかもしれません。

そんな余裕もないからです。

極端な話、自分は誰からも嫌われているなどと思っている被害妄想の人が、他人を愛せるはずはありません。
しかし、その逆に、優越感や他人を見下した気持ちで自分を愛せるようになった人に優しくされても、なんか嘘っぱち‥‥って感じがしませんか。
こんな自己愛が世界を平和にするでしょうか?


確かに、カッとなってキレることが抑えられれば、他人に対する危害も一時的に回避され、世界が平和になりそうです。

だけど、先程の女性タレントさんや高級外車に乗っている人の他人に対する寛大さというのは、それは相手に対する優越感や見下すような気持ち(余裕)がもたらすものです。

自分の中にある激しい嫉妬を、一時的に抑えこんでいるだけなんです。
だから、もし、相手が自分よりも優れていると見れば、むしろ、より激しい嫉妬に火をつけてしまいます。
たとえ、その場がうまく平和におさまったかのように見えても、優越感や見下しが根底にある限り、世界平和には程遠いと思います。

人間社会を根底で動かしているものは、ルサンチマン(恨み、妬み)かもしれません。これはある意味、鋭く真理を突いています。

でも、真理というものは星の数ほど存在するんです。

少なくとも、「ルサンチマンが人間社会を根底で動かしている」という言葉が真理である間は、見せかけの世界平和しか作れません。


女性タレントさんが、ご主人の元カノに感じた優越感や、元カノを侮蔑する心が、世界を平和にするはずはありません。
優越感に支えられた偽りの愛を、いくら他人に注いでも世界を平和にはできません。

そして、世界を平和にできない優越感から来る幸福感は、最終的には自分をも幸福から遠ざけてしまいます。

では、自己愛は、世界を平和にできないのでしょうか?
ついに9回目で、このメルマガは廃刊に追い込まれたのでしょうか? 次回で、その結論を書きます。
まだまだ廃刊にはしたくありません。
まだまだ購読解除もしてほしくありません。m(__)m


◆◇◆編集後記

「女性タレントさんが、ご主人の元カノに感じた優越感や、元カノを侮蔑する心が、世界を平和にするはずはありません」

と書きましたが、僕はその女性タレントさんのことは、大好きなんです。
彼女の性格や人柄からにじみ出たユーモアは、世界を平和にするもっとも有効なものだと考えています。
彼女の「その時、自分は高級ブランドの洋服を着ていて、勝った、と思えました」という言葉は、ユーモアにあふれていて、むしろ高級ブランドの洋服を皮肉ってさえいます。

彼女のユーモアの才能に激しく嫉妬します。
‥‥ああ、この嫉妬がいけないんでしたね。

でも本当に、あなたを煩わすルサンチマン(恨み、妬み)のない夢のような世界が作れるんです。本当に本当です。
このメルマガをNO.20くらいまで読んでくだされば、わかっていただけると思います。
その前に購読解除した人は、損をすることになりますよ~。


NO.10 自己愛が世界を平和にできるの?(3)2003.04.15 


こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
今日は、自己愛が世界を平和にできるかどうかの結論です。
このメルマガの結論次第で、このメルマガの存亡が決まるかもしれないほどの重要なタイトルです。慎重に書かなくては‥‥。(^_^;)

前回、五木寛之さんの語る自己愛(勝手に、お天気屋の自己愛と呼ばせていただきましたが)を読み直していて、ある言葉を思い出しました。

それは『なぜ生きる』(1万年堂出版)という本の中の「限界効用逓減(げんかいこうようていげん)の法則」という言葉です。

これは簡単に言うと、こういうことです。

僕たちは、美味しいものが食べたい、流行の服が着たい、車が欲しい、恋人が欲しい‥‥という欲望を持っていて、それが満たされた時に、つまり不満や苦痛が解消された時に、気持ち良さを感じます。
それが幸福感です。

でも、この気持ち良さは束の間のものです。
のどが渇いた時のコーラは、実に美味いものですが、100%渇きがなくなってからのコーラは逆に苦しみに変わります。

痒いところを掻くのは気持ちいいですが、掻き続けると、やがて痛みに変わります。

美味しいものも腹いっぱい食べたら、もう見るのも嫌になります。

高価な車を手に入れれば、やがて維持費や接待費が生活を苦しめます。

彼女ができてしまえば、いずれ束縛という苦痛に変わります。
(これは失言でした)(>。≪;)

不満が解消されると、今度はそれが苦痛に変わるわけです。これを「限界効用逓減の法則」と言うそうです。そして、こんなものに捕らわれている以上、本当の幸福を永遠につかむことはできない、と書いてありました。

僕は、常に、本当の幸福は財物でも健康でもなく、人間同士の共感だと言ってきました。
僕たちの脳内に、幸福の化学物質がくまなく行き渡り、嬉しくて抱き合って飛び跳ねたくなるような状態です。

ただし、共感にはほんのちょっとした共感と、永遠なる共感があります。
ほんのちょっとした共感というのは、「ねえ、この椿の花見て! こんなきれいな椿、始めて見たわ!」「ほんとだ、とてもきれいだね」という他愛もない共感のことです。

こんな他愛もないことで、人間って幸福な気持ちになれるから不思議です。

これは、言わば日常茶飯事の幸福です。僕たちが相手に対して素直な気持ちであれば、この共感は、たいてい誰かと共有することができるものです。

志を同じくする者同士で作るサークル活動、などに積極的に参加することでも得られるかもしれません。
だけど、これは永遠不変の幸福ではありません。誰にでも平等なものでもありません。

前回、「お天気屋の自己愛」という言葉を使わせていただきましたが、こちらは、「お天気屋の幸福」って感じです。
結構その日の気分で左右されちゃうこともあります。

誰にも平等に降り注ぐ、永遠不変の幸福感、限界効用逓減の法則なんてものがこれっぽっちも通用しない幸福感とは、どのような共感から生まれてくるのでしょうか?

それが、全人類が深~い部分でつながっているという潜在意識に訴えるような共感のことです。

バロック音楽で常にうなるように流れている、あの通奏低音(つうそうていおん)のように、深い部分で曲を一つにまとめ上げているような共感です。
全人類どころか、宇宙に存在するありとあらゆる物とつながっていると感じ合える時の共感のことです。

あなたに質問します?
あなたは、存在を否定されても生きていけますか?
人類の育てた果実』を思い出してください。

僕たちの「存在証明」とは、脳が行なう自己(自我)証明そのもののことです。存在を肯定されなければ生きていけない理由は、時代とともに僕たちの錯覚の自我意識が肥大してきたからです。

つまり、脳がそのような脳に変化してきたということです。
今の僕たちの脳というコンピューターに、存在を肯定しなければこのプログラムの全ては穏やかに作動しない、という条件が付加されているということです。

「存在の肯定」、これこそ「共感」の別の呼び名だったわけです。

この誰にも平等な、いつもどんな時にも僕たちの心を満たしてくれている幸福感を得るにはどうしたらいいのでしょうか?
それは、残念なことにただ待っていても得られません。
風呂上りに、極上に冷えた生ビールを飲んでも得られません。
「自分探し」をすることで掴み取る以外に方法がない共感です。


五木さんは、自分を愛するためには、その前提として「自分をよく知る」ことだと書いています。
それは、「ある種の趣向をもっている自分をひっくるめた自分をよく知る」ということだそうです。

これはどういう意味でしょうか? 自分なりに考えてみました。

ここに、パチンコが好きでやめられない人がいるとします。
パチンコにはまってしまった人は、借金をしてまでもやるようです。
僕はその理由を、所有・獲得欲、闘争欲、放縦欲などが快く刺激され、その刺激に溺れて依存症に陥るからだと思います。

五木さんの言う意味は、そんな強い欲望を持った自分自身を知り、それに支配されている弱い自分をまるごと受け入れ、そして愛する、という意味だと思います。

でも、僕の言う自分探しとはこんなものではありません。
自分探しをする必要性は、自分を愛する(ごまかす)ためではなく、むしろその逆で、どうしようもなく「自己愛」に捕らわれている自分の姿を見つめることだと僕は考えます。
つまり、「お天気屋の自己愛」ではなく、「根源的な自己愛」を知ることです。

そして、もっと大切なのは、その自己愛に捕らわれている自分の姿をどこまでも追っていった先に見える光景が、世界に、そして宇宙に通じていたという発見をすることです。

その時、根源的な愛(拭おうにも拭い去れない、自分への強烈な関心)が、宇宙にまで拡大します。

次のような場面をイメージしてみてください。

僕たち人類は、一人一人が別々の境界で仕切られた別個の物体です。
あなたという境界線で仕切られた一個の物体が、蟻んこのように小さくなって、暗い穴の奥深く潜り込んでいきます。
自分探しの旅の始まりです。

どこまでもどこまでも暗闇の中を突き進んでいくと、やがて向こうに仄かな灯りが見えてきます。
その灯りに向かってひたすら突き進み、ついにその向こう側に飛び出した瞬間、外界のまばゆいばかりの光に包まれ、あなたの身体は光に溶けます。
あなたはその時気づきます。あなた自身がそのまぶしい光そのものだったということを。
これを僕は以前(NO.7)で「洋服を裏返す」と表現しました。

この光に包まれた瞬間の感動を体験するには、ちょっと面倒ですが、自分自身で真っ暗な自己の内部(洋服の中)に潜り込んでいかなければいけません。
「人類の育てた果実」を自分の手でもぎ取って、齧ってもらわなければなりません。

一人一人が別々の境界で仕切られた別個の物体である僕たちは、この宇宙を構成している部品のようなものかもしれません。
しかし、僕たちは、宇宙を作るという目的のために用意された部品ではありません。僕たちの存在そのものが、たまたま現在の宇宙を作っているということです。

車を作るという目的のためには、細かな部品がたくさん用意されます。
その部品は、ナットにしろ、ワイパーにしろ、タイヤにしろ、交換可能です。

でも、目的の存在しない宇宙には、あらかじめ用意される部品は存在しません。もし、宇宙を構成している部品が交換されたら、それは今とは違う宇宙が作られてしまうことを意味します。つまり、あなたという部品は、現在、この瞬間の宇宙そのものだとも言えるわけです。

僕たちは「全体から見た一個の部品なんかではなく、その部品がたまたま現在の宇宙という全体を構成している」ということです。

これは、あなたという一個の宇宙を考えてみても同じことが言えます。

あなたを構成している細胞 > 分子 > 原子 > 素粒子という部品は、あなたを作る目的を持って用意されたわけではなく、たまたまその部品があなたという宇宙を成しているだけです。そして、あなたという宇宙が分解されたら、部品は違う宇宙を構成することになりますよね。

あなたという存在は、この連鎖の中に生まれてきた一つの過程に過ぎなかったわけです。その意味で、あなた(を構成していた素材)は、形を変えて永遠に生き続ける(変化し続ける)とも言えるわけです。
現代科学が解明したこのビッグバン宇宙がある限り、あなたは永遠に形を変えて生き続けるということです。

ちょっと難しい表現になってしまいました。

結論を書きます。

シャネル、エルメス、ルイ・ヴィトンなどの高級ブランドや、ジャガー、ベンツなどの高級外車の持つカリスマ性に頼って、お天気屋の自己愛を満たすことは、確かに生きる喜びや安心感を与えてくれます。
だけど、それが一時的な生きる喜びであって、しかも自分だけ癒されればいいというジコチューなものであったことに気づいてください。

長い目で見れば、それは世界を平和にしないどころか、争いの種を撒く生きる喜びに過ぎなかったんです。
僕たちが求めているものは、「永遠なる生きる喜び」であり、「共感を伴った平等なる生きる喜び」であり、「世界を平和にする生きる喜び」です。

僕たちが手にしたい幸福とは、貧しくても、不治の病に冒されようとも、半身不随になろうとも、想像を絶するナチスの収容所に入れられようとも、どんな境遇に置かれても何が起ころうとも動じない、むしろ、病気や死さえも喜びに変えてくれる、本当の幸福です。
僕たちの心を照らし続けてくれる灯りです。

この身を焦がす激しい嫉妬からも解放され、自分を愛するように周囲に愛を降り注げる穏やかな心を手に入れることです。
それは、自我が拡大し、自分を愛することと他人を愛することが、同じ一本の線でつながった「自己愛」だからこそ得られる幸福です。

僕たちは、きっと、うまく洋服を裏返すことができます。
僕たちが宇宙と融和できる日は、そう遠くありません。

だって、僕たちは一つだったんですもの‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

このメルマガのタイトルの、「世界を平和にする自己愛」の意味を理解していただけましたか?
僕は、世界を平和にする「自己愛」と、そうでない「自己愛」とを区別したいと思ったので、こんな長ったらしいタイトルをつけたのです。

ところで、洋服を裏返すと書きましたが、僕は時々洋服を後ろ前に着てしまいます。
以前、昔の会社の後輩のところへ泊めてもらった時のことです。朝、洋服を着る時、後ろ前に着てしまったのを見られて「こんな人始めて見た」と笑われてしまいました。
僕は、その人は一度も後ろ前に着たことがないというので、逆に「そんな人始めてだ」と驚いてしまいました。

この前、あんまり寒かったので、ズボンの下にタイツを履いてみました。
出先でおしっこが我慢できなくなり、トイレに駆け込み、チャックを開けて手を差し込み目的のブツを取り出そうとするのですが、なかなかたどり着けません。しばらくして、タイツを後ろ前に履いていることに気づきました。
その時、慌てたのは言うまでもありません。

洋服を裏返せた時、本当の幸福に出会えると書きましたが、洋服を後ろ前に着てしまったことに気づいた時は、とても不幸で悲しい気持ちになります。
ましてや、タイツを後ろ前に履くことは二度と経験したくありません


NO.11 世界に一つだけの花 2003.04.22


みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。早速ですが、あなたに質問します。
あなたが癌になり、余命数ヶ月と宣告されました。さあ、その時あなたはうろたえるでしょうか?
落ち込んでしまうでしょうか?

ところで、今、「癌になり、余命数ヶ月と宣告されたら‥‥」と言いましたが、SMAPのメンバーの一人、草彅剛さん主演のドラマ、『僕の生きる道』見ましたか?

僕は、ドラマはハマっちゃったり、変な洗脳を受けたりするのが嫌で、最近はなるべく見ないようにしているのですが、このドラマの紹介を見てしまったのが運のツキでした。

高校教師という堅実な仕事に就き、無難に平凡に生きてきた28歳の男が、ある日、癌で余命一年と宣告される話だというのです。
先程の質問に、このドラマはどのように答えてくれているのか、何だか知りたくなり‥‥ついに見てしまいました。

案の定、このドラマの主人公が癌の宣告を受けた時は、落ち込み、自暴自棄になります。

それで、片思いをしている同僚の女教師に強引に迫ってみたり、今までコツコツと貯めていた貯金をおろして豪遊してみたり、ついには無断欠勤をし、行き着いた先の崖から海へと身を投じるのです。

一命を取り留めて運ばれた病院から、彼はふと母親に電話をしました。
「母さん。僕が生まれた時どう思った?」
彼は、母親の言葉を聞いて電話を切ってから、号泣しました。
「そうねえ‥‥、やっと会えたねって‥‥。それからこの子のためなら自分の命を捨てられる‥‥そう思ったかな」

退院後、彼は授業をしに教室へ向かう廊下を歩いています。
手には、カバーのかかった本を持ち、その表情には、ある決意のようなものがみなぎっています。
授業が始まると、いつものように生徒たちは、生物の授業とは関係ない、受験科目の勉強を始めました。それまでの彼なら、見て見ぬ振りをしていたのですが、その日は違いました。

僕の生きる道

「机の上の物をしまってください」

「‥‥」

「聞こえませんか? 机の上の物しまってください!」

生徒たちはしまう様子もなく彼の言葉を無視していました。

「しまいなさい!」
彼は一向にしまわない生徒に大声で言いました。
教室のそばを通っていた同僚の女性(後の婚約者)は、驚いて教室の中を覗き込みました。
ようやく生徒たちは、机の上の勉強道具をしまいます。
彼は、カバーのかかった本を手にして生徒たちに話し始めました。

「ここに一冊の本があります。この本の持ち主はこの本を読みたいと思ったので買いました。しかし、今度読もう今度読もうと思いつつ、すでに1年が経ちました。
この本の持ち主は本を読む時間がなかったのでしょうか? 多分違います。読もうとしなかった、それだけです。そのことに気付かない限り5年経っても10年経っても持ち主はこの本を読むことはないでしょう」
彼は、手にしていた本を教壇の上に置きました。

「受験まであと1年です。みなさんの中にはあと1年しかないと思っている人もいるかもしれません。でもあと1年しかないと思って何もしない人は5年経っても10年経っても何もしないと思います。
だから1年しかないと言っていないでやってみましょう。この1年やれるだけのことやってみましょう」


これがこのドラマの始まりであり、このドラマが一番言いたかったことです。第11話まで続く、感動的なドラマでした。
僕は、これを書いている今も、一つ一つのセリフを思い出して涙が出てしまうほどです。

ところで、今日のメルマガのテーマは、ドラマ『僕の生きる道』ではなくて、その中で歌われていたテーマソング「世界に一つだけの花」なんです。
これがまた、つい口ずさんでしまいたくなるような、いい曲です。

「世界に一つだけの花」

花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど  どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて 争う事もしないで
バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている

それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で 一番になりたがる?

そうさ 僕らは
世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい

(中略)

小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
NO.1 にならなくてもいい もともと特別な Only One

ほら、今あなたも思わずメロディーに乗せて読んでしまったでしょう?
確かにメロディーも綺麗で、自然に口ずさみたくなります。
でも僕には、ちょっと引っ掛る部分がありました。

そんな時、タイミングよく、このメルマガを購読してくださっている方から次のような言葉が届きました。

送り主は corruptmen さん(18歳、男性)という方です。

『僕の生きる道』というドラマは来週最終回ですね。
私は最初からずっと見ています。
そしてドラマの主題歌でSMAPさんが歌っている「世界に一つだけの花」という曲は売れているらしいですね。

ところで、この曲で「NO.1 にならなくてもいい。もともと特別な Only One」という歌詞があるのですが、ここに(特に「Only One」という言葉に)なんか引っかかります。

「NO.1 がとても素晴らしい」という価値観だけでは世界が平和にならないということは、最近、皆が気が付いてきて「Only One」という新しい価値観が注目されてきました。

一見、この言葉はとても良い響きを持っています。
「ひとりひとりが特別でみんなかけがえの無い存在なんだ」ということが、この言葉には、込められているのかなぁ?
と私は思いました。
みんなが特別な存在だなんてとても素晴らしいことです。

でも本当にそうなのか?
なんか違うんじゃないか?
という気がしてなりませんでした。

昨日届いた徳永さんのメルマガ「NO.5 特別な存在(3)」を見て、本当は人類みんなが(というかすべての物質が)ひとつなんじゃないか、人類みんなで「一つの花」ということなんじゃないかなぁ、と思いはじめてきました。


突然の雷に打たれたように、全身にビリリッと電気が走りました。そうだ!これこそ、僕が言いたかったことなんだ!
corruptmen さんは、僕の考えていることを、さりげなく、しかも僕よりも上手に表現してくれたんです。


今、僕の前に『ぼくは12歳』という本があります。
これは、作家、高史明(コ・サミョン)さんのひとり息子さん、岡正史君が、書き残した詩集です。
書き残した、という意味は、彼は12歳にして自ら命を絶ってしまったからです。
その中に「ひとり」という詩があります。

ひとり
ただくずれさるのを
まつだけ

たったこれだけの詩です。でも、この詩が書かれた秘密をお話します。

高史明さんは、息子さんが中学に入学した時、
「今日から中学生になるんだから、これからは自分のことは自分で責任をとりなさい。他人に迷惑をかけず自分のことは自分で責任をとるならば、これからは一切干渉しない」と、語ったそうです。

高史明さんは、このように言われた息子は(自分のことを、一人前の大人として認めてくれ、尊重してくれた)と喜ぶと思ったのかもしれません。
励ましの言葉だったはずです。

でも、言われた本人は喜ぶどころか、その後に、この短い詩を書き残して死んでいったのです‥‥。(v_v)

高史明さんは、この時のことを、何度も講演で後悔と共に語っています。
その時の言葉が、息子さんを突き放し、追い込んでしまったんだ、と思っているようです。

もう一度、「世界に一つだけの花」の歌詞を読んでみてください。その中に次のような言葉があります。

そうさ 僕らは
世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい

あなたは、この言葉を言われて励まされているように感じますか?
この言葉に勇気づけられますか?
この言葉に癒されますか?
僕は、この励ましの言葉の中に、高史明さんが息子さんを突き放し追い込んでしまった言葉と同じ種類の、悲しい善意を感じます。


もしあなたが、この歌詞に励まされるというのなら、それは厳しい競争社会を生きるあなたの心(脳)が、長いこと「NO.1」を求めることを強いられてきて、それを至上の価値観にさせられていて、だけどそのことに強いプレッシャーを感じてもいたという証拠です。

「Only One」という言葉は、あなたの存在それ自体が特別で、もはやあなたは押しも押されもせぬ「NO.1」だったんだよ、って慰めてくれています。

結局は、「Only One」は形を変えた「NO.1」なんです。

確かに、「Only One」という言葉は、僕たちの心を励まし、勇気づけ、癒してくれます。それは前回(NO.10)のメルマガにも書きましたが、僕たちの脳が時代と共にそのように変化してきたからです。
難しい言葉で言えば、自我の意識が強くなり過ぎちゃったんです。

自我とは、僕たちの脳の中で「自分、自分、自分‥‥」と主張している声のこ とです。だから、脳は、「自分の存在が他とは違う特別な存在である」というパスワードを入力しなければ、うまく作動してくれなくなっちゃったんです。

「Only One」という言葉は、僕たちの脳を癒し、うまく作動させてくれる優秀なパスワードですが、欠点もあります。それは、自分の脳を癒し、うまく作動させることだけを考えて作られたパスワードだからです。

「Only One」という言葉は世界を平和にしてくれません。
そのことに気づいてください。

他人と比較しないでもいいと言われればプレッシャーがなくなるけど、みんながみんな、その花(自分)を咲かせることだけに一生懸命になったら、一体、世の中、どうなっちゃうでしょうか?

世界を平和にできない一時しのぎの癒しは、すぐにあなたに跳ね返ってきて、結局はあなたを幸せにはしてくれません。
あなたを、心の底から励まし、勇気づけ、癒してくれるのは、こんな一時しのぎのごまかしのパスワードなんかではありません。

今、あなたに本当のパスワードをお教えします。
それは「愛すべきモンスター!」というパスワードです。

今、あなたが憧れる NO.1 を思い浮かべてください。
松井選手でも、ミシェル・クワンさんでも、ビートルズでも、浜崎あゆみさんでも、ボブ・サップさんでも、‥‥誰かを思い浮かべてください。
あるいは、WORST.1 を思い浮かべてください。ヒットラーさんでも、林真須美さんでも‥‥。

いいですか? その人たちはあなたの分身なんですよ!
SMAP の一人一人のメンバーも、この歌を作った槙原敬之さんも、実はあなたの分身です。
みんな、あなたの分身なんです!
つまり、みんなあなたが作っている「愛すべきモンスター!」なんです。

ええーい! ここまで言ってしまったからには、もっと言ってしまいます。今日は、手の内を全部公開しちゃいます。

うつ病も、アダルト・チルドレンも、人格障害も‥‥、その人だけの脳の病気ではなかったんです。脳の病気を治そうとして個人的に薬を与える治療法は間違っています。
脳は、世界とつながって世界を反映して、初めて存在するものですから。

夢物語を語っているわけではありません。科学が語る物語を語っているんです。
人類が育てた果実」をもう一度齧ってみてください。
あなたの身体(実体)も、あなたの心(幻想)も、決してあなたが作っていたのではなく、あなたを取り巻く環境や情報が作っていたものでした。
だから、あなたを取り巻く環境や情報が変化すれば、あなたも変化するのです。

あなたは自分で生まれてきたわけでもないし、あなたを生んでくれた両親だって、自分で生まれてきたわけではありません。あなたは一人で生きているのではないし、決して一人でなんか生きれません。あなたの個性は、あなた一人で作られているのでもありません。

あなただって、みんなの分身としてこの世に存在しています。

だとしたら、あなたの憧れる NO.1 の人たちや、あなたの嫌う WORST.1 の人たちは、やっぱりあなたの分身だったんです。

僕たちの脳は、「その花(自分)を咲かせることだけに一生懸命に」なる「Only One」などというパスワードではなく、「みんなで力を合わせて、人類という綺麗な一つの花を咲か」せる「愛すべきモンスター!」というパスワードを使った方が、ずっとずっと癒され幸せになれます。
それが僕たちの脳を知り尽くしたパスワードだったんです。


さて、それでも、どうしてもこの歌を聞いたりカラオケで歌いたいあなた‥‥。そんな時は、どうしたらいいのでしょうか?
corruptmen さんのアイデアをいただきましょう。

本当は人類みんなが(というかすべての物質が)ひとつなんじゃないか、人類みんなで「一つの花」ということなんじゃないかなぁ

そうですよね。
今度からこの歌を聞いたり歌ったりする時は、この歌詞の意味を次のように補ってみましょう。

♪そうさ僕ら人類は 宇宙に一つだけの花
一人一人同じ種から生まれたこの花を咲かせることに
力を合わせよう!

小さい花や大きな花 一つ一つが僕らの分身
宇宙のNO.1 にならなくてもいい
もともと人類は特別な Only One

だけど、corruptmen さんの言うように、全ての物質が一つという気持ちも忘れちゃいけませんよね。
すぐに傲慢になるのが、人類の愛すべき癖ですもの。

だって‥‥本当に‥‥もともと、
僕たち「全ての物質」は、一つだったんですもの‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

パスワードを入力するよりも前に、そのパスワードを入力して起動させるためのプログラムをインストールしなければならないのに、それが後回しになってしまいました。

今日は、これから僕たちがインストールしていくプログラム一挙公開のプレゼンテーションのようなメルマガになってしまいました。

次週からは、もう一度ギヤをローに戻して、ゆっくりと行きましょう。焦らず、希望を捨てずに‥‥です。

そう、僕たちの脳が「愛すべきモンスター!」というパスワードを入力させられることで、ドライブがフル回転し、この心が宇宙に広がり、宇宙に融けていく感動を実感させられる日は間近です。
世界が平和になる日はもうすぐです。

世界中のみんなが手をつなげれば、どんなことが起ころうと、うろたえることも落ち込むこともないんです。そんな日は、もう、すぐそこまで来ています。僕たちはきっと大丈夫です。


NO.12 愛すべきモンスター!(1)(corruptmen を探せ!) 2003.04.29


みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
人類の育てた果実」齧ってくださいましたか?
科学の視点で見たら、僕たちは、自然界様の操り人形に過ぎなかったわけですよね。もちろん今僕が文章を書いてメルマガで発表していることも、みんな自然界様(=僕の脳を取り巻く環境)にやらされていることなんです。

「やらされている」と言っても勘違いしないでいただきたいのですが、自然界様が何らかの目的を持って、作為的に人類を操っているという意味ではありません。また自然界様という言い方をしていますが、宇宙がビッグバンから始まって現在も途切れない流れを意識してそう呼んでいるだけで、身近な言葉に言い換えると、「脳を取り巻く現在の環境」という意味です。

脳を取り巻く環境ということは、もちろんその人の身体も「脳を取り巻く環境」に含めますし、自分の身体外部からの情報も、五感が感じるものも感じないものも全て含めます。ようするにこの自然界で起こっている全ての現象を指しています。


「僕たちの行動は、瞬(まばた)き一つにしても手足の上げ下げ一つにしても、思考や意思にしても、みんな自然界様にやらされていたことだった」という事実を受け入れることは、「錯覚の自我」を持ってしまった僕たちには、ある種の諦めや敗北感を伴うので、これから先の自分の可能性を夢見て生きていこうとしている若い人には、受け入れがたいことかもしれません。

若くなくても、自分の偉大さを信じている人にとってはとんでもない暴言です。僕だって、この年になるまでは受け入れがたい言葉だったんです。
でも、今考えると、それは僕が若かったからでも可能性を秘めていたからでもなく、そのような価値観(人間は偉いというような価値観)に洗脳されていただけだったということがわかります。

本当は、この諦めはとても素晴らしいものなんです。

これは僕たち人間が、とかく傲慢になるのを諌(いさ)めてくれるものだったんです。

それに、よく考えれば、僕たちが今よりずっと幸せになり、世界を平和にしてくれるものだったんです。

パソコンなんて一生縁がない、という環境の中で人生を送らされてきた僕なのに、いつの間にかホームページを作らされ、やがてメルマガまで発行させられるようになったのも、ひとえに自然界様(=僕の脳を取り巻く環境)に操られてのことだったわけです。

今日の自然界様は、僕に何を書かせようというのでしょうか? なにやら僕の耳元でささやく声が聞こえます。

《corruptmen を探せ!》
《corruptmen を探せ!!》
《corruptmen を探せ!!!》

どうやら、前回登場していただいた corruptmen さんのことを言っているようです。
ハイ、ハイ、わかりました。
じゃあ、書かされるとします。やれやれ。

画像23


でも、僕をあんまり見くびらないでくださいよ。
今までは、無自覚の操られ人形だったかもしれませんが、今の僕は、操られていることを自覚した操られ人形なんですから‥‥、ネッ、自然界様。
えっ? 《操られていることを自覚させるように仕向けたのもわしじゃ》ですって?

わかってますけど、実際に書かされるのは僕なんですからね。目だって疲れます。指だって、脳だって疲れます。人の身にもなってくださいよ。
《でも、↑を書かせているのはわしじゃ》

でも、↑を書いたのは僕ですよ。
《でも、↑を書かせたのはわしじゃ》

でも、↑を書いたのは僕です。
《でも、↑を書かせたのはわしじゃ》

‥‥、あのぉ、いつまで続けるつもりですか? でも、自然界様って、おじいさんのようなしゃべり方をする人だったんですね。ハハハ。

《  、、、、、  》

都合が悪いと黙っちゃうんですか?

うるさいわねえ、ごちゃごちゃ言ってねえで、早く書かされなさいよ!》パチン(無自覚の操られ人形の僕にスイッチを切り替えた音)


えー。こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
僕がこのインターネットの世界に足を踏み入れてから、実にたくさんの人と出会いました。
そのほとんどが、今まで経験したこともない出会い方でした。
何しろ、顔も見たこともない人から突然メールやらが届くのですから‥‥。

それに、たいがいは今まで聞いたこともないような名前の人ばかりなのです。

読めないアルファベットと数字だけで成り立っている、何かの暗号かと思えるような名前もたくさんありました。
普段は人の名前の意味なんて考えもしない僕ですが、この時ばかりは悩みました。その意味を考えると夜も眠れないこともありました。

顔が見えないことをいいことに、複数の名前をかたって、言いたいことを言うだけ言って、はいサヨウナラっていう人もいました。
顔が見えないことをいいことに、新しいいたずらや犯罪を考え出す人たちもいました。

そんな中で、僕は corruptmen さんという、顔も知らない暗号のような方を探す旅に出ようと考えました。

僕が知っている、彼の情報を挙げておきます。これは全て彼からいただいたメールの情報です。

★家にいる時以外は、帽子をかぶるのが趣味らしい。
★名前が複数形(manではなくてmen)になっているのは、自分自身が統合されてない気がして、自分のなかに自分が複数いるというイメージを言葉で表現したかったらしい。
★高校でテニス部に所属していたらしい。
★ある日、練習中に腰痛になってから、狂ったように健康を追い求めるようになり、本格的に筋トレを開始したらしい。
★通販でアメリカ製の筋トレのマシーンを購入したらしい。(そのおかげで、腹筋はみごとに割れたらしい)
★体重を軽くして少しでも腰の負担を軽くしようと食事にも気をつけるようになったらしい。
★現在では野菜、果物、豆類以外は殆ど口にしなくなってしまったらしい。
★友達の家に行ったとき、スナック菓子が出され、一口食べたら気持ち悪くなり、トイレに直行したらしい。
★昔は焼肉やラーメンが好きだったが、今ではそれらの食品を忌々(いまいま)しいとすら思うようになったらしい。
★「悪」という概念や、「死」という概念に酔うことがあるらしい。
★中学生の時、バタフライナイフで刺されそうになったことがあるらしい。
★時々、キョーッキョキョキョキョ・・・と笑うらしい。

帽子をかぶっていて、手にはテニスラケットを持ち、トイレで吐いていて、腹筋がみごとに割れている人を町で見かけたら、「もしかしたら、あなたはcorruptmen さんですか?」と聞いてみましょう。
キョーッキョキョキョキョ・・・と笑ったら、間違いありません。それが corruptmen さんです。

見つけた人には賞金を出します。えっ、嘘じゃないですよ。
えっ、いくらかって?
ひゃっ、ひゃく、いや、に、にひゃくごじゅう‥円、くらいまでは出せます。

さあ、あなたも今日から corruptmen 探しを始めませんか?
道を歩きながらキョロキョロしてみますか?
駅のトイレをくまなく探してみますか?

闇雲に探しても、見つける確率はほんのわずかです。だからヒントを差し上げましょう。

実は、前回(NO.11)のメルマガにヒントが隠されていたのです。
あなたは、本当は、もう‥‥、
corruptmen さんを探し当てているんです。

今、キョロキョロ周りを見回しているあなた、違います、そっちじゃありません。そう、corruptmen さんは、あなたです。
何故なら、彼はあなたの分身だったんです。
彼は、あなたの「愛すべきモンスター!」だったんです。
そしてあなたも、僕たちの分身、「愛すべきモンスター!」だったんです。

これが今回、言いたかったことでした。
なあんだぁ、なんて言わないでください。
そんなことを言うあなたは、まだまだ「世界を平和にする自己愛」には縁がなさそうですよ。

「愛すべきモンスター!」は、これが記念すべき第一回目となります。ここから、「愛すべきモンスター!」の連載は、不定期で続きます。
アイドルスター、、スーパースター、トップアーティスト、身体障害者、犯罪者、独裁者、偉人‥‥いろいろな人が「愛すべきモンスター!」として名を連ねることになります。
その意味はわかってくださいますね。

だって、僕たちは一つだったんですもの‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

顔が見えないことをいいことに、複数の名前をかたって、言いたいことを言うだけ言って、はいサヨウナラっていう人も、それに顔が見えないことをいいことに、新しいいたずらや犯罪を考え出す人たちも、実はみんな僕の分身だったんですね。
そして、あなたの分身だったんですね。

現代科学は、僕たちの行動は、その人の自由意思で動いているのではなくて、その人の脳を取り巻く《環境》に動かされているということを解明しています。(ただしこのことを理解している科学者はほとんどいないかもしれません。みんな自分の研究分野で功績を残すことで忙しいからです)

もし僕たちの脳が彼らと同じ環境に置かれていたら、彼らと同じ行動を取っていたということになります。

もちろん彼らの脳を取り巻く環境とは彼らの脳や身体を作るDNAなども含まれます。つまり彼らの脳を取り巻く環境が一緒ということは、取りも直さず彼ら自身だからです。

そう考えると、なんだかみんな「愛すべきモンスター!」たちです。


NO.13 「実体」と「幻想(=錯覚)」 2003.05.06


みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
ゴールデンウィークはいかが過ごされましたか?
自分たちのデートや家族旅行のことで頭の中は一杯で、世界平和どころではなかったですか?

あなたの幸せを、みんなに分けてあげましょう!
みんなの幸せをもらって、あなたはもっと幸せになりましょう!

だって、僕たちは一つだったんですもの‥‥ 😉✰ネッ! では、また来週。

‥‥って、終わってる場合ではありません。始まったばかりでした。


世界を平和にする「自己愛的生活」を始めるにあたって(そう、これもまだ始まったばかりです)、まず初めにしっかりと押さえておきたいことがあります。

「実体」と「幻想(=錯覚)」です。

この二つの違いをしっかりと見極める目を持っていないと、自己愛も世界平和もおぼつかないです。

人類の育てた果実」は、もう齧ってくださいましたか?
今日は、まだの人にもわかるように書くつもりですが、わかりづらかったらご指摘くださいね。質問なら何でも受け付けますよ。(^-^)/

ちょっとややこしいかもしれませんから、先にコーヒーでも用意して、ゆったりとした気持ちを作ってから読み始めてください。間違ってもアルコールを用意しないでください。ますます混乱します。


まず、僕は、人間が意識しなくても存在する物を「実体」と呼びます。
例えば、この地球は、意識しようがしまいが、僕が死のうがどう生きようが、間違いなく存在しているので「実体」です。
例えば、電信柱は意識しなくても存在しているので、ぶつかれば怪我をします。むしろ、意識しないからぶつかっちゃうんですけど‥‥。

これと反対に、世の中には、意識が存在を決めるものがあります。これを僕は幻想と呼んだり錯覚と呼んだりします。

どっちかに統一したいのですが、受け取られる時のニュアンスが微妙に違うので、その時その時に応じて使い分けています。
だけど僕としては、脳の作用によって作り出されるもの、という意味で、幻想とか錯覚と言っているだけで、どちらもまったく同じ意味です。

・実体‥‥人間が意識しなくても存在するすべての物質。
・幻想‥‥人間の脳の活動によって作り出されるすべての現象。錯覚と言い換えてもいい。記憶、思考、意識、意思、想像‥‥‥など、脳の活動によって作り出されるあらゆる現象。

この宇宙のあらゆるものが、この二つに分類できます。

元々、人類の脳に「幻想(=錯覚)」が生まれる前には、この宇宙には物質しか存在しませんでした。科学はそれを扱うものです。人間の「幻想」ですら科学は物質の作用として研究します。

しかし、科学を扱うのは人間です。そのため、この宇宙を科学的な方法論で解明しようとしても、どこかで人間に都合のよい解釈をしようとする科学者が実に多いのです。

そのため、人間の「幻想」を、科学が扱うべき「実体」とはっきりと区別して、科学を行う場合に人間の「欲」や「理想」のようなものが入り込まないように注意する必要があります。

若いころから芸術を通して「自分探し」を続けていた僕が、40歳間近になって、自分と縁があまりなかった現代科学が解明しているものを知る必要があると考えるに至った時に、自分に対する戒めも込めて、「実体」と「幻想」をはっきり分けるところから始めたのです。

さて、それではこれを説明していきます。

音をつむぎ出す前のピアノは、人間が意識しなくてもそこに存在している物体なので、真っ直ぐ歩こうとする人の障害物の役目を果たしますから、「実体」です。

ピアノから聞こえる「音」は、目には見えませんが空気という物質の振動なので「実体」です。スピーカーも大音量で振動させれば、その上に置いた花瓶を落として割ることだって可能です。

ところが、その音が名演奏か雑音かというのは、人間の脳の作用が作り出す現象の一つでもある「評価」というものですから、幻想(=錯覚)です。


ただし、名演奏はぶつかっても怪我はしないけれども、実体を変化させる力がないわけでもありません。

例えば、ある人は、テレビで名ピアニストの名演奏を聴いて、レコードを買いに走ったり演奏会に足を運んだりします。これは、名演奏という幻想が、人間という実体に作用しその行動を変化させた例です。

ここで、人間の「行動」は「実体」か、それとも「幻想」か? という疑問が起こります。

結論から言えば、「行動」は「実体」です。
現代科学では、人間の行動も生理的反応として説明がつき、客観的に見れば単なる物理的移動ですから。

ただ、「行動」は「実体」ですが、その内容や意味に着目した「行為」とか「ふるまい」は「幻想」である、と覚えておけばいいのではないかと思います。

素人が望遠鏡で夜空を眺めている様子も、天文学者が望遠鏡で夜空を眺めている様子も、はたから見れば同じ行動ですが、天文学者の行動は、「観測」と呼ばれる「行為」なので幻想です。


これは、文字と言葉の関係にも似ています。
例えば、あなたが大切な人から心温まる手紙をもらったとします。
その紙にあるものは、インクで書かれた単なる文字(記号)ですから、その文字を知らない外国人には理解できませんし、ヤギなら食べてしまいますが、あなたはそれを読んで嬉しくて涙を流すことがあります。

そして、ぽたりと落ちた涙が、文字という実体をにじませることもあります。文字はインクの作る実体ですが、その中に表現されているもの(言葉)が幻想です。

話を元に戻します。

要するに、幻想や錯覚とは「実際にはありもしないこと」ではなくて、「実際に存在し、実体を変化させる力を持つもの」という認識をすることが大事です。人間の意識が、ひとたびその存在を認めたら、もはや実体すらも変化させる力を持っています。

「そんなもの錯覚だよ。気にすんなよ」なんて侮れないということです。

あなたの「片思い」の人が向こうから歩いてくるとします。彼(彼女)は、こちらの存在にもほとんど気づかずどんどん近づいてきます。
その瞬間、あなたの顔は紅潮し、目はうろたえ、心臓がバクバクし、歩き方が不自然になります。

彼(彼女)に対する「思い」は、あなたが意識の中にその存在を認めない限りはどこにも存在していなかったものです。

「思い」という幻想は、あなたの意識が生み出したものです。
幻想である「思い」が実体である顔や目や心臓や動作に、変化を与えるわけです。

もし、その時、彼(彼女)がこちらの存在に気づき、にっこり笑って手でも振るとします。突然あなたの周囲の風景は、バラ色に変わります。幻想や錯覚は、このような離れ業もします。
僕たちはみんな、ユリ・ゲラーよりも有益な超能力を持っていたのです。

ユリ・ゲラー(1946年12月20日 - )は、テルアビブ生まれの超能力者を名乗る人物。スプーン曲げでブームになった。ただし、ビデオの解析から、スプーン曲げなどの超常現象は巧妙な手品であると指摘されている。
(Wikipediaより)

もう少しいくつか例を挙げてみます。
風は目には見えませんが、空気という物質の移動なので、「実体」です。しかし耳がちぎれそうな風とか、気持ちよい風と意識された風は「幻想」です。

あなたのお父さんがアルツハイマーになってもあなたは存在しますが、お父さんには息子(娘)という概念はもはや存在しないので、悲しいことにあなたは「こんにちは、ところで、どちらさんでしたっけ?」と聞かれてしまいます。目の前の人間は実体ですが、息子(娘)という概念は幻想だからです。

時が流れ、あなたのお父さんが亡くなり、今度はあなたがアルツハイマーになって、あなたの思い出が薄れたとします。

それでも、お父さんの形見の時計は存在するので、引出しを開ければそこにあります。

ただ、形見としての時計は、もはや存在していません‥‥。つまり、時計は実体で、形見という概念は幻想です。
概念や言葉は、「人間の脳の活動によって作り出される現象」です。そう、文字は実体ですが、言葉は幻想でしたね。

ところで、

・実体‥‥人間が意識しなくても存在する全ての物質。
・幻想‥‥人間の脳の活動によって作り出される全ての現象。

と言いましたが、次のような考え方もできます。

・実体‥‥物質という容器によって変化する。
・幻想‥‥記憶という容器によって変化する。

どちらも、その容器の枠の形によって変化するのは同じですが、幻想が入れられる容器は、「記憶」という容器です。

科学が作り出したテレビは、戦争の映像を僕たちに見せました。
道具としてのテレビや、光の作り出す映像は実体ですが、僕たちはその映像を、自分の過去の記憶という容器に入れて見ています。

記憶は人それぞれ違います。
つまり、みんながみんな、歪められた幻想(錯覚)で、その映像を捉えているということです。

また、カメラという実体を操作するのは、カメラマンの幻想(錯覚)です。
幻想(錯覚)である以上、その操作は、すでに彼の記憶の容器で歪められているものです。

これらの歪められた幻想(錯覚)でも、実体を変化させる力を十分に持っているということは、注意する必要があります。

そこで、もう一つ大事なことを書いておきます。科学は実体を扱います。
だから、自然界の法則を利用して、自然界の中で実際に機能する「物」を作り出すことが得意です。
でも、科学を扱うのは、(人間の)幻想です。錯覚です。
このことを忘れてはいけませんよ。


さあ、実体幻想を見極める目がどうして必要か、少しずつわかっていただけましたか?
えっ? 何にもわからないって?

‥‥‥。

コーヒー、もう一杯いかがでしょうか? (-_-;

ちなみに、今日書いたことは、『人類の育てた果実』の中の「世 23・世界を平和にする愛」が参考になると思います。


◆◇◆編集後記

僕の自分探しは、現代科学が解明しているもの、仮説ではなく実証されたものだけを根拠にしてやっていきたいと思っています。
決して、非科学的な霊感や、根拠のない宗教的言説や、オカルト的なものに惑わされたくありません。

科学は実体を扱うもので、人間の幻想を差し挟まないし、もし間違えても常に自然がその誤りを正してくれます。

霊感や、宗教や、オカルトは、間違った方向に進んでも修正してくれる人が誰も存在しません。
そのカリスマ的存在の人の言葉が全てになって、どこまでも間違いを突き進むという性格を持っています。

僕は、そのように考えて、科学に全幅の信頼を置いてきたわけです。でも、どうやら、それは誤解のようでした。

科学は確かに実体を扱います。
でも、その科学を扱うのは人間の「幻想」だったんです。
ほとんどの科学者が、未だにこのことに気づいていないようです。
科学は実体だけを扱い、人間の感情などという幻想は差し挟まない、というプライドを持っているようです。

そして今、とても危険なことが医学や精神病理学という学問の間でも行なわれています。

病気と診断される人たちは、本当に病気なんでしょうか?
障害者と診断される人たちは、本当に障害者なんでしょうか?
その基準は、常に、ある人間たちの「幻想」に委ねられています。
その幻想を扱う、ある人間たちの「記憶」に委ねられています。


例えば、今、僕たちが口にする「人格障害」という病理は、アメリカ精神医学会の診断基準DSMによって体系づけられているもののことです。
「人格障害」という言葉ができたのはここ数十年のことで、元々は、アメリカで犯罪者の行動を理解しようとするところから発展し考えられてきたものです。実は、その背景には、人格障害というものに対する憎しみや恐怖や差別があります。

憎しみや恐怖や差別という幻想によって作られている科学を、あなたは信じさせられているんですよ!

そして、そのことによって、僕たちの実体であるこの「身体」にまで変化が起こり始めています。社会に変化が起こり始めています。

僕は今、はっきりと断言できます。

、、、、

その「記憶」と、その「幻想」が作り出すにせものの科学では、僕たちの心を救うことはできないと。
世界を平和にすることはできないと。

だからこそ、今、実体幻想を見極める目がどうしても必要なんです。
人間を(あるいは、ある人間たちを)中心とした科学ではなく、自然界を師とし、常に自然界に軌道修正させられながら進む、真の科学をするためにも。


NO.14 分身主義宣言! 2003.05.13


みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。今日の僕はいささか興奮気味です。今、ある決意を胸に秘めて、パソコンの前に向かっています。

今日まで13回、このメルマガを発行させていただいた中で、いつも同じようなことを言ってきました。

僕は、欧米からやってきて今や日本中に蔓延している「個人主義」に限界を感じています。

これは人間中心、自分中心の、ものの考え方をするものです。
個人主義のおかげで、個人の権利が守られ、個人的に裕福になる人も現れて、それにより社会全体が裕福になったかのように見えます。

でも、もう限界のようです。
その弊害ばかりが、あちらこちらで目に付くようになったきました。裕福になったのは社会全体ではなく、多くの人の犠牲の上に少数の人たちが裕福になっていただけだったのです。

僕は、この13回かけて、なんとかその壁を乗り越えようと試みてきました。

そのために、高くそびえ立つ壁に自家製のはしごを組み上げ、今やっと壁の真上の細い縁(へり)に立つことができました。
後は、ただ、この壁がさえぎっていた向こうの世界へ、ひょいっと飛び降りればいいだけです。

で、でも、この高さから飛び降りるのはさすがに恐いのでぇ‥‥、CMでバンジージャンプをする藤原紀香さんのように、サプリ飲料を飲んでから、ゆるゆるにほぐれた顔をして飛び降りてみま~す!

でも、その前に、ちょっと硬い顔をしなければなりません。
個人主義にお別れを告げる前に、もう一度個人主義のことを振り返っておこうと思います。
個人主義はなかなかうまい理屈を言います。

・個人主義は自分勝手とは違い、一人一人の個人を尊重するものである。
・一人一人かけがえのない存在であり、その個性を尊重するものである。
・だから、自分だけでなく、他人も一個人として尊重するものである。
・他人に依存しない、真に自立した生き方を目指すものである。

でも、「人は主義・主張で動くのではなく、自分の行動を正当化するために主義・主張を必要とする偽善的動物である」という言葉があります。

自我の意識が肥大した僕たちの脳は、自分自身の存在証明を必要としました。そして、自分の脳を正常に機能させるために「Only One」というパスワードを入力させられる必要が生まれました。
自己の存在証明を成し遂げ、「Only One」というパスワードを入力された脳は、いい気持ちになり「自分、自分、自分」と自己愛に浮かれます。

この浮かれている「自分」に対する危害や迫害から身を守るため、そして自分の利益を奪われないための正当化に必要とされたものが、個人主義でした。しかし、これは限界にきているし、もはや、自分の行動を正当化するための主義としては、あまりにも貧弱になってきました。

「個人主義」の長所を生かし、尚且つ弱点をカバーするものとして、僕は「分身主義」を提案します。

このメルマガNO.12「愛すべきモンスター!」に出てきた分身という考え方です。これは科学的に根拠のある考え方なのです。

人類の育てた果実」を齧ってくださった方はわかってくださっていると思いますが、科学というのは、宗教などと同じ、自然界を理解するための一つの偏見です。
何故なら科学は自然界を言葉や数字で置き換えるものだからです。

あなたを説明するためにどんなに言葉や数字を用いても、それはあなた自身ではなくて、それを説明する人の一つの偏見でしかありません。

でも、この科学という偏見は、常に自然界を師と仰ぎ、自然界に軌道修正してもらいながら歩む偏見です。万人を納得させる証拠を拾い集めながら進む偏見です。

自然界で機能する「物」、例えばパソコンやロケットを作ることが得意な偏見です。

物を作るだけでなく、科学は物を細かく分解していくことも得意です。

例えば、この人体を構成している元素を、科学は次のように突き止めました。酸素、水素、炭素、窒素の4つが、その約97%を占めています。
さらにリン、イオウ、カルシウム、ナトリウム、カリウム、マグネシウム、塩素、ここまでが必須常量元素と呼ばれる11元素で、ここまで全部合わせると99.3%になります。

残りの約0.7%を占める必須微量元素と言われるものには、鉄、亜鉛、銅、マンガン、セレン、モリブデン、コバルト、ヨウ素、クロムの9つがあります。必須常量元素と必須微量元素の20元素が人体に必須であることは、一応コンセンサスが得られているようです。

必須かどうか議論されている元素には、カドミウム、リチウム、ゲルマニウム、臭素、鉛、アルミニウムなどがあります。

これらは、肉や野菜といった食物や水や呼吸を通して体内に取りこまれます。呼吸によって取り込まれる酸素(人体の約60%を占める)は、植物の光合成によって作られています。

光合成とは、植物の細胞の中の葉緑体で行なわれている反応です。
簡単に言えば、空気中の二酸化炭素と地中から吸い上げられた水分と太陽エネルギーを原料にして、糖(デンプン)と酸素が作られるという反応です。

僕たち生物は、その酸素を吸って二酸化炭素を吐き出し、その吐き出された二酸化炭素が植物の光合成に再び利用されます。

僕たちが死んでも、人体を構成している元素はこの世から永遠に消滅してしまうのではありません。
僕たちの元素は分解され、植物や微生物の栄養となり、やがて動物や人間の身体の一部となるわけです。

これを物質不滅の法則(質量保存の法則)と言います。

科学が解明しているこれらのことが、僕たちに示唆しているものは何でしょうか?

生き物は、このような連鎖の中で互いに密接に関わり合い、生かされている存在であり、決して個人的、自立的な存在ではないということです。

海などで隔てられた島などの、特殊な環境にだけ生息する動物やその生態系の発見は、そのことを逆説的に証明してくれていますよね。

どうしても個人的な存在として、認められなければ気がすまなかったのは、やっぱり脳の都合だったようです。(笑)

でも、僕は脳を馬鹿にして、今、笑ったわけではありませんよ。自分の脳をあざ笑うような、愚かな脳は持ちたくありません。
そもそも、僕たちの現実とは、脳が過去の記憶に基づいて見ている幻覚のことだったわけですから、脳は軽視できません。

ちなみに、「元素」と「原子」は同じものですが、質的概念で捉えたものが「元素」であり、量的概念で捉えると「原子」と呼ばれます。
前回のメルマガの「言葉と文字」、あるいは「幻想と実体」の関係に似ている気がします。

さてこの原子も、もっと細かくしていくと素粒子というものに分解されます。

この宇宙に存在する全てのモノの根源を遡っていけば、約140億年前のビックバンという小さな一点に集束します。

科学が僕たちに教えてくれた結論は、この宇宙は、ビッグバンの瞬間に存在していた「素粒子」が自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられている劇場に過ぎなかったということでした。

そして、僕たちの身体は、素粒子がくっついたり離れたり、何かを作ったり他のものに変化したりしている一時期の現象です。

脳という物質も、また、その脳の見る幻覚も、元々は素粒子が演じさせられていた現象だったわけです。


山あり谷あり、涙あり笑いあり、何でもあり?の人間の人生ですが、そんなもの、宇宙がビッグバンで生まれてから今までの約140億年という時間の中で見たら、ほんのちょっとの時間です。
僕たち人類だって、このビッグバン劇場の中で、素粒子たちがほんのちょっとの時間作っている配役に過ぎず、僕たちはその現場にたまたま立ち会わせてもらっているだけなのです。

もちろん人間だけでなく、この宇宙に存在する全てのものは、宇宙が生まれたビッグバンの瞬間に存在していた素粒子が、様々にくっついて形やその性質を変えて約140億年かけて作っている配役に過ぎないわけです。僕たちはその意味で、みんなみんな素粒子から生まれた分身同士なのです。

科学が導いてくれたこの視点を、僕は「分身主義」と呼ぼうと思います。

分身主義は決して、個人を尊重しないものでも、他人の差異を認めないものでもありません。本当の意味で個人を尊重し、本当の意味で差異を喜び合うものです。

自分にできないことを、自分の分身たちが代わりにやってくれている、という考え方をするからです。むしろ、個人主義こそ、差異を尊重するかに見えて、実は、他人を妬んだり貶(おとし)めようとしたりしています。欺瞞(ぎまん)に満ちています。

個人主義に対比して、全体主義という言葉が使われることがあります。これは、個人は全体の部分であるという考え方をするものです。全体の利益を、個人の自由よりも優先するというものです。
そこで、個人の自由や人権よりも、国家や民族の意思や利害を優先させる政治思想に利用されたりします。

分身主義は、個人は全体の部分という考え方はしません!

部分が全体を作っているという考え方です。同じことじゃないか!? ですって?
まったく違うんですよ。

例えば、車を作るためには、プラグやラジエーターやハンドルなどの部品が用意されます。
しかし、僕たちは、それとは違って何かの目的‥‥例えば、宇宙を作るという目的のために用意された部品ではありません。部分が、たまたま今ある全体を作っているんであって、決して全体を作るためにあらかじめ計画を立てて、用意された部分ではありませんよね。

もし、この宇宙からあなたという部分が一つでも欠けてしまえば、それは今とは違う宇宙に変化してしまうことを意味します。その意味で、今この宇宙は、今あなたが参加しているあなたの宇宙なんです。

あなたがいることで成り立っている宇宙です。

あなたあっての宇宙です。言い換えれば、あなたはこの宇宙の一部であり全部なのです。

星も、木も、草も、虫も、みんなみんな、今生きているあなたの分身です。僕はあなたの分身で、あなたは僕の分身です。

イメージで言えば、個人主義は、夏みかんの皮をむいて一房一房バラバラにして干乾びさせてしまったのに対して、分身主義は、まだむいたばかりの、みずみずしい一房一房って感じです。

しかも、その一房一房は、宇宙という一つの皮で包まれていたことを知っている一房一房です。

2003年5月13日、僕は、今日、宇宙に漂う万物に向けて、「分身主義」を宣言します!!

僕たちは、もう決して独りではありません。

そう、僕たちは一つだったんですもの‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

「分身主義」というのは「個人主義」という言葉にならって命名しただけのもので、別に何らかの主義でも主張でもありません。

これは科学が解明してくれていたものを整理していった先に辿り着いた、この世界を平和にするために必要な、我々が持たねばならない視座(物事を見るための姿勢。物事を見るための土台となる視点)のことです。

だから、この世に、分身主義者などという人たちを作ろうというものでは全くありません。そんな狭い世界の話ではないのです。

これはむしろ、この科学の時代に、世界が平和になるために、全世界の人が持たなければいけない視座です。そして、こんな言い方が可能なら、全人類がその視座を持てた時に初めて世界にたった一人の「分身主義者」が姿を現します。

僕はこの初めて姿を見せた、たった一人の「分身主義者」のことを「完全無欠の分身主義者」と呼ぶことにしました。

でも、それはもはや「分身」ではなく、僕やあなたの本当の姿「全身」が姿を見せた時です。だからその時、同時に「分身主義」という言葉は消滅します。僕はその日が来ることを心から願います。

「分身主義」とは、そこへ至るための、道しるべのようなものに過ぎないからです。


NO.15 タマちゃんは、世界平和のヒント 2003.05.20

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【およそ、宇宙を漂っている僕たち人類が、仲良く生きることを犠牲にしてまでも決定しなければならない重大事項なんて、ただの一つだってありはしない】

みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。

このメルマガを見て、心優しき分身さんたちが、メッセージをくださいました。この場所でご紹介させていただきます。

★orihime1gou さんという女性の方から
うふふ~最近わたしもなんとなく‥‥周りの人‥‥他人の話題にでてくる人、いろんな人が自分の分身に思えるんです。
そう思うと今まで腹の立つ人でも嫌いな人でもなんとなく許せるような‥‥。
おかげさまで少し心に余裕が持てるようになったのかしら‥‥。
(中略)
分身の私の解釈はね、自分がつらい目にあってもあわせた人も自分の分身なんだから、その人だけが悪くはない。人が楽しい~、うれしい~と喜んだらその人も自分の分身なんだから‥‥と私もうれしい~。そう思うようにしています。

Orihime-1gouさんのおっしゃる「心の余裕」こそ、自分の幸せと世界平和に最も必要なものだと思います。
でも、その心の余裕が、NO.10に書いたような、シャネル、エルメス、ルイ・ヴィトンなどの高級ブランドや、ジャガー、ベンツなどの高級外車を所有することで持てる余裕(優越感のような余裕)では、世界を平和にできません。

そんな“まやかし”の心の余裕に頼らない orihime-1gou さんこそ、世界を平和にする分身主義者を目指す第 1 号(?)です。

★dangel さんという、舞台俳優をされている男性の方から。
私は本番でいつも緊張して、普段の力が出せないでいました。
その日の舞台の前に、私は markey さんの次の言葉を、自分に言い聞かせてみました。
この宇宙は、ビッグバンの瞬間に存在していた素粒子が自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられている劇場に過ぎない。
‥‥そう考えると、演じるのは舞台に立つ自分ではなく、自分は何か大きな力に演じさせられるだけなんだと感じてきて、緊張して失敗しないかどうかなどと舞台を恐がっていた自分が滑稽に思えてきました。
(中略)
それと、分身という考え方もいいと思います。
実は、舞台の当日、目の前にいる観客は、みんな自分の分身に過ぎないとイメージしてみました。
そうイメージした後で舞台に立った時それまで舞台では恐くて恐くていつもの力が出せないでいた自分に変化が起こりました。
自分が独りではなく、みんなに見守られているような気がしてきて、まるで自動書記のように自分の口からセリフが流れたのは不思議でした。
芝居が終わった後も、私はみなさんの分身の大役をちゃんと果たせたという満足感で一杯でした。

最後のフォローもちゃんと忘れていません。さすが!
たぶん、絶対に舞台に立つことのない僕ですが、dangel さんの体験はとても参考になりました。
dangel さんは二つのことを挙げています。

1、この宇宙は素粒子の演じる劇場に過ぎない、という考え方に勇気づけられた。
2、分身という考え方も役に立つ。


でも、これは別々のことではないはずです。
自然界の法則というシナリオに基づいて、素粒子の演じさせられていることは、くっついて原子になり分子になり生物や無生物を構成したかと思えば、今度は、それがバラされて、また新たな生物や無生物を構成したりして、様々にその形を変化させられているわけですが、だからこそ、僕たちはみんな「分身」である、という考え方が生まれたわけですから‥‥。

貴重な体験談、ありがとうございました。

あなたの分身体験も、是非、教えてください。

★ ★ ★

ところで、今日は、僕たちの「愛すべきモンスター!」でもある、あの有名な分身ちゃん、タマちゃんの話です。

昨年(2002年)の8月7日に東京の多摩川下流で最初に目撃された、北極圏などに生息するアゴヒゲアザラシが人気者になっていますね。

タマちゃん

そのアザラシは、体長1メートルほどの子供(2001年の春ごろ生まれたのではないかと見られています)で、最初に現れた多摩川にちなんで「タマちゃん」と呼ばれるようになったようです。
それで、僕もここではタマちゃんと呼ばせていただきます。

その後、いなくなったと思ったら、突然、横浜市を流れる鶴見川に現われたり、横浜市西区のJR横浜駅近くを流れる帷子(かたびら)川や、横浜市南区内を流れる大岡川に現われたり、まさに神出鬼没です。

帷子川の川岸のコンクリートの上でゆったりと日向ぼっこをするタマちゃんは、首を動かして周囲を見回したり、時折しっぽを上げたり、手を振るようなしぐさを見せたり、流れてきたビニール袋に興味を示したり、そりゃあもう、愛くるしいようすです。

鶴見川だから「ツルちゃん」、帷子川だから「カタちゃん」と呼ぶべきだ、などと言い出す人もいるそうです。(笑)
なるほど、なるほど。

えっ、笑ってる場合ではないって!?
分身主義者(=平和主義者)を目指す僕としては、怒らなくてはいけない、ですって!?

「タマちゃんだ、ツルちゃんだ、カタちゃんだ、などと自分中心に取り合いをする心があるから、いつまでたっても世界が平和にならないんだ! タマちゃんをあなたの分身と考えれば、名前なんかでもめなくてもいいじゃないか!」って、怒らなくてはいけないんですか?

いいえ、この世には笑ってる場合でないものなんて、実は、ただの一つもありません。深刻な顔をして怒らなければならないものなんて、ただの一つもありはしません。
むしろ、怒りそうになった時こそ、ユーモアで笑い飛ばすくらいの気持ちが必要です。(実際、ツルちゃんも、カタちゃんもユーモアですしね)

およそ、宇宙を漂っている僕たち人類が、仲良く生きることを犠牲にしてまでも決定しなければならない重大事項なんて、ただの一つだってありはしないんです。

結局、横浜市西区の帷子川を安住の地と決めたようで、「ニシ・タマオ」と命名され、西区役所に住民登録されることになりました。

その後、「タマちゃんを想う会」という団体が現われて、帷子川での捕獲騒ぎなどが起こり、タマちゃんは、今年の3月14日に姿を見せたのを最後にどこかに消えてしまいました。

今では、その6日後の20日午前1時25分ごろ、埼玉県越谷市東町五丁目の中川の桟橋に現われたのがタマちゃんではないかと見られています。

帷子川から移動したとすると、羽田空港沖を通って東京湾を北上し、約70~ 80キロの旅。専門家は「アゴヒゲアザラシなら四日程で泳げるはず」と指摘しています。

タマちゃんが、帷子川から逃げ出したのは、まさか「タマちゃんを見守る会」と「タマちゃんを想う会」とのいざこざに、嫌気がさしてのことではないんでしょうけれども、その事件?は思わぬ方向に展開し始めました。

ちょっとヒステリックな行動を取る「タマちゃんを想う会」と、白装束の団体「パナウェーブ研究所」との関係が取り沙汰されてきたのです。
それは、千乃裕子という人を代表とする千乃正法会(ちのしょうほうかい)という宗教団体も関係しているようです。

千乃正法会(ちのしょうほうかい) は、千乃裕子(1934年 - 2006年)を初代会長とする啓蒙団体である。1977年に設立された。宗教と科学は宇宙の真理を別の側面から追求したもので本来は同じものであるとする「宗教と科学の一致論」を唱えている。カルト教団であると指摘する者もいるが、団体は否定している。明文化された教典のようなものは持たない。また、共産主義を絶対悪とし、日本共産党などを批判するビラを配布するなど、反共思想も強い。
(出典: Wikipedia)

いろいろな立場の人が、それぞれ自分が正しいと信ずることを主張します。
僕たちは分身同士であっても、それぞれが違う脳に支配されていますから、対立するのは当然です。

自我という幻想に捕らわれて、自分の利益のためだけに働くのが現在の脳の習性ですから。それぞれの立場で主張は正当なわけで、誰が正しくて誰が間違えている、などと決めることはできません。

しょせん、幻想において、正しいたった一つの答えというものは探してもどこにもありません。

それなのに、世の中の論争のほとんどは、どちらが正しいか決定するために行なわれているようです。
答えがないものを求めて、争いは深まるばかりです。

あらゆる論争が、どちらが正しいかではなく、どうしたら争いを回避できるかという目的のためだけに、争われるべきだ思います。

逆説のようですが、争い(論争)を起こす目的は、争い(喧嘩)を回避する目的のためであるべきだという意味です。
このような目的を持った論争には、相手の立場を思いやる気持ちが生まれるからです。

僕は、あらゆる論争の場において、次の二つの原則を心にとめて取り掛かることが必要だと思います。

(1)まだ科学で実証されていないものを自分たちの主張の根拠にはしない。
(2)今、論議される最終的な目的は、争いを回避させるためである。つまり、仲良く共存(=世界平和)するためである。

近所のいざこざでも、学級会でも生徒会でも、町内会でも国会でも、会社でも世界的な場でも、口論という口論、論争という論争は、みんなこの二つの原則に反していないかを自問しながら進めて行くことが大切です。

後は、一人ひとりが宇宙の全体であり、また一人ひとりが分身でもあることを意識していれば、みんなが納得する解決策は必ず見つかります。

もしみんなが分身主義のような科学的覚醒をしたら、一企業の、あるいは一団体の、あるいは一国の利益のために、しかめっ面をしてストレスをためながら争う必要なんてなくなるんです。

もう一度繰り返します。
およそ、宇宙を漂っている僕たち人類が、仲良く生きることを犠牲にしてまでも決定しなければならない重大事項なんて、ただの一つだってありはしないんですよ。

パナウェーブ研究所では、電磁波が重なって人工的なスカラー波というものが生まれ、それが人体や地球に悪影響を及ぼすと言っています。

この主張により、社会に何らかの実力行使をし、社会との軋轢(あつれき)を生んでいます。では、これを先程の二つの原則に照らし合わせてみます。

(1)スカラー波というものは本当に存在し、それはどのような働きをし、それは白い布で防げるのでしょうか?
まだ科学で実証されていないものを、自分たちの主張の根拠にしているのでは?

(2)そして、その主張は、自分たちの身を危害から守るためだけのもので、世界を平和にしよう(みんなが仲良く暮らせる人間関係を作ろう)などと少しも考えられていないのでは?

スカラー波をたくさん浴びる危険よりも、みんなが仲良く暮らせない人間関係を作ってしまう方が、ずっと危険である、という考え方をしたいものです。それが、今日言いたかったことです。

グループ内の人たちを、非科学的な理論で誘導をしている千乃代表を、被害妄想という悪夢から救うためにも、「分身主義」の考え方を彼女の脳にインプットできたらいいな、と思うんですが、今からでは無理でしょうか。

もし、お話ができたら言ってあげたいです。

あなたを攻撃する人なんて一人もいませんよ。科学的な意味において、あなたは僕の分身ですから。僕のことも攻撃しなくていいですよ。科学的な意味において、僕はあなたの分身ですから、ってね。決してしかめっ面をせず、仲良く共存する気持ちを忘れずに、にこやかにね。


汚れている鶴見川をタマちゃんの住める川にしようと、小学校や中学校の児童、生徒、地元で活動するボランティア団体の人などが一つになって、クリーンアップ活動をしたそうです。

タマちゃんが、ボートに乗ろうとして失敗し、数十回目にやっと乗れた時、そこに居合わせた人たちから思わず拍手が沸き上がったといいます。

なんだか嬉しくて心がポカポカしてきませんか。
これらが仲良しの人間関係を作っていることは間違いありません。
タマちゃんは、僕たち人類が世界を平和にするためのヒントを与えてくれています。

こんなことを犠牲にしてまでも、決めなければならない重要事項なんてものが、もしあったら教えてください。
こんな大切なことを犠牲にして、喧嘩をしてまでも、スカラー波から見を守る方が重要だとは思えません。
「共感は、死の恐怖よりも強い」でしたね。

僕たちは、何としても喧嘩だけは回避する気持ちを持たなくてはいけません。だって、僕たちは一つだったんですもの‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

およそ、宇宙を漂っている僕たち人類が、仲良く生きることを犠牲にしてまでも決定しなければならない重大事項なんて、ただの一つだってあるでしょうか?

夫婦喧嘩を考えてみてください。
お互いに、自分の利益を主張し、損害を訴えて一歩も譲りません。
子供を守るためにも、この人とは別れなければならないと結論づける場合もあるでしょう。
でも、その間に立たされた子供だけが、本当は何が大切かを知っています。

子供は、どちらが正しいかではなく、ただ、パパとママに仲良くして欲しいだけなんです。
仲良くしてくれさえすれば、正しかろうと間違っていようと、全然問題じゃないことを子供は知っています。
本当に大切なものを知っているんです。

夫婦喧嘩は、互いの脳の習性上やむを得ないものです。
でも、永遠に答えの出ない、どちらが正しいかを決定するために口論をするのではなく、その争い(口論)を、争い(喧嘩)を回避するために、つまり、仲良く生きるためという目的を持って行なってみてください。
同じ言葉でも、毒のある言葉からユーモアの言葉に変化します。

相手を許す気持ちや、譲り合う気持ちが自然に生まれてくるから不思議です。そうすると、変えさせようと躍起になっても変えられなかった相手の行動が、すんなりと変わることもあるでしょう。

元々は、夫婦だって分身同士です。
だから、心と身体が一つになれるんです。
だから、一つになったと感じる時、一番心が落ち着くんですね。

「愛してるよ」とは、嘘っぽくてなかなか毎日は言えない僕たち日本人ですが、「仲良くしようね!」だったら、いつでも言えそうです。

「愛してるよ」は個人を満足させてあげるための言葉、そのために言ってもらう必要がある言葉「仲良くしようね!」はお互いのために言う言葉、これこそ分身主義者を目指す者たちの挨拶です。

ただし、分身主義者などというものはどこにも存在しません。あくまでも、分身主義者を目指す者たちです。
そして世界中の人が科学的覚醒をした時、たった一人の分身主義者が生まれます。でも、その時同時に、分身主義という言葉は消滅して、科学的覚醒をした「全身」が姿を現すのです。


NO.16 自然界の障害児たち(1) 2003.05.27

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【理性を持ってしまった僕たち人間は、その意味でみんな自然界の障害児である】

みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
今日ご紹介させていただく、僕たちの愛すべきモンスター、つまり、僕たちの分身さんは、あの笑顔の爽やかな青年、乙武洋匡(おとたけひろただ)さんです。

彼の書いた、『五体不満足』(講談社、1998年版)という本のカバーには、次のように書いてあります。

「昭和51年、東京生まれ。世田谷区立用賀小、用賀中、都立戸山高を経て、早稲田大学政経学部在学中。先天性四肢切断という障害を単なる「身体的特徴」と考えて、「自分にしかできないこと」=「心のバリアフリー」に少しでも貢献するため、電動車椅子に乗って、全国を飛び歩いています」

大学を卒業した今は、「スポーツのすばらしさを伝える仕事がしたい」との想いから、Jリーガーや野球選手などのスポーツ選手に自らインタビューし、雑誌『Number』(文藝春秋)に記事を書いたり、テレビ朝日系『Get!Sports』のナビゲーターをつとめたりしています。
彼自身、中学ではバスケット部、高校ではアメフト部で活躍しました。
身体的特徴を生かした低位置の細かいドリブルは、相手チームを悩ませたことでしょう。

また、絵本などを通して、子供達へメッセージを発信していくことも活動の大きな柱としているそうです。

ベストセラーになった『五体不満足』という本には、最初から度肝を抜くエピソードが語られています。

出産直後の母親に、生まれた時から手も足もない子供を見せることはショックが大きすぎるだろうという配慮から、母子のご対面は先延ばしにされました。
一ヵ月後、やっと子供と面会させてみようということになったのですが、手足のない子供を目の前にして、彼女はショックで倒れたりしないだろうか? そんな周囲の心配や緊張をよそに、彼女が子供を見た時に発した第一声が、なんと、「かわいい!」だったそうです。

度肝を抜くエピソードをもう一つ。
予備校時代の話です。彼が、駅で友達を待っていた時、隣にいたヤーさんっぽい男の人に話し掛けられ、親しくなり、最後には名刺を渡されました。

そのことを家に帰って報告すると、その時の母親の一言。
「敬意を表されるのは当たり前よ。ああいう方たちは、ツメるといっても小指一本程度でしょう。あなたなんか、全身ツメちゃってるんだもん!」

こういう、おおらかでユーモア?のあるお母さんや、好奇心にあふれ友達のような感覚のお父さんに育てられ、また、普通に接してくれる級友たちに囲まれて生きてきた彼は、普通なら4~5歳で自覚するところ、二十歳を越えるまで自分の障害をほとんど意識せず、悩み苦しむこともなく育ったそうです。

そんな彼は言います。
「障害を持っていても、ボクは毎日が楽しいよ!」この本を読むと、その楽しさが伝わってきます。
「健常者として生まれても、ふさぎこんだ暗い人生を送る人もいる。そうかと思えば、手も足もないのに、毎日、ノー天気に生きている人間もいる。関係ないのだ、障害なんて!」

僕は以前、「Yahoo!の掲示板」に、いくつかのトピック(テーマ)を立てていろいろな人たちと話し合いをしていたのですが、その中の「障害者」というカテゴリーに「(人類は)みんな障害者!」というトピを立てたことがあります。

トピを立てての最初の書き込みは、次のような文章でした。

小さな問いかけから‥‥。
何かの縁あってここを覗いてくださった方に質問します。
あなたは障害者でしょうか、健常者でしょうか?
では、答えてくださった方にもう一度質問します。
あなたは何を持ってご自分を障害者(あるいは健常者)と判断なさっているのですか? そして、何を持って自分と違う人を健常者(あるいは障害者)と判断なさるのでしょうか?
とりわけ、現在、お医者様と呼ばれている偉い先生方にご質問致します。
お答えください。


こんな問いかけをした裏には、あるもくろみがありました。
この世界を平和にするためには、そして、僕たちが本当の幸福をつかむためには、「人間はみんな障害者だったんだ」と認識したところから、始めなければいけないと考えていたからです。

僕は、現代科学の解明していることを元にした自分探しをしていった結果、「この宇宙のあらゆる現象は、それが自然界に適応している姿だ」という、当たり前のような考え方に到りました。
全ての物事には原因があって結果があります。そこには一定の法則があることを科学は突き止めていますが、一定の法則に則って演じさせられている自然界のふるまい全てを、自然界に適応している姿と言い換えてもいいわけです。


その意味から言うと、今まで障害者などと呼ばれていた人たちは、それが自然界においては適応した現れであると言えるわけです。
花粉症やアレルギーや近眼が、考え方によっては、その人の身体が自然界に適応して起こっている現象だというのと同じように‥‥。

この社会の道具類は、手足がある人間が使いやすいように工夫されて作られています。
こんな社会においては、手がなければ適応しづらいかもしれませんが、自然界から見れば、その身体はその時の環境に適応して(=原因に忠実に従って)生まれてきたと言えます。

また交通事故なども、その時の状況に適応して(=原因に忠実に従って)起こる事態ですから、それによって片足を失っても、自然界から見れば、適応して起こった結果に過ぎません。

このように、障害というのは人間の価値観が判断しているだけで、自然界から見たら全てが適応した結果である、と考えることができます。

だけど僕は、自然界から見て唯一の障害は人間の理性だ、と考える方がいいと思うのです。

動物の中で唯一「理性」を持ってしまった人類は、この自然界に生きにくい「障害者」になってしまったのです。
理性がなければ、他人の気持ちを思いやる優しさも持たずにすんだし、やりたいことを我慢したり、やりたくないことをやらなければならなかったり、そんなこんなで悩んだり迷ったり苦しんだりしなくてすんだのですからね。

本能の命ずるままに行動をする動物と違って、僕たち「理性」を持ってしまった人間は、自然界では、とても生きづらい障害を背負ってしまったようなものだ、という考え方は、僕たちが仲良く生きるためにとても役立つ考え方です。

自然界には適応している状態に過ぎない自分の障害を、あれこれと思い悩むのも、実はこの「理性」のせいです。
僕たちは現代の社会においての身体的な障害を歎くより、実は、障害を嘆いてしまう、この「理性」を歎くべきだったんです。

動物の中で唯一人間だけが、将来を悲観して自殺したり、あるいは理想のための死を選んだりします。
それも、この「理性」の奴の仕業です。
ある意味、「理性」は自然界の反逆児として、唯一、不適応の状態を作り出しているなどと言ってもいいかもしれません。

理性を「悪いもの」と捉えているわけではありません。
自然界にとっては妨げになる(=障害)と捉えているだけです。

その意味で、人間は、この地球に存在する全ての動物の中で、一番弱い生き物です。
弱くて、助け合わなければとても生きていけない存在です。だから、僕は、掲示板に次のように続けました。

僕は障害者です。
何故なら、この自然界においては大変生きづらい「理性」という障害を持って生まれてしまった「人間」という生き物なので、障害者なんです。
一般的には健常者と呼ばれていた僕たちも、それに障害者の診断をするお医者様も、実は、みんな障害者であったと思うんです。

本当に憐れまれるべき障害を持っていたのは、今まで障害者と呼ばれていた人たちではなく、僕たちみんなだったんです。
その逆に、今まで障害者などと呼ばれていた人たちは、本当は、自然界から見れば、障害者なんかじゃないと思うのです。
違いますでしょうか? みなさん、お答えください。
僕は、人間はみんな障害者だったんだと認識したところから、この世界をやり直そうと提案します。
その手始めとしてホームページを作りました。
タイトルは「僕は健康だよ。ただちょっと‥‥」です。
http://www.○○○○/markey19/

この掲示板のトピックスは 2002/ 3/18 16:54 に立上げ、約三ヵ月後の
2002/ 6/13 14:08 に閉めました。
計176回のメッセージの中で、18名の方々と語らせていただきました。
「障害者」というカテゴリーだったせいで、ご自身が身体や精神に障害ありと診断されている方や、障害者の子供を持つご両親の方がほとんどでした。

そんな方々と語り合う中で、こんなことをいつまで続けていても、僕の最初のもくろみは達成されない、と気づいて三ヶ月で閉めたのです。

そこで、僕が考えたのは、メルマガを発行するということでした。
そうして書き始めたのが二つのメルマガ、「世界を平和にしない愛」と「自分探しの旅 with マーキー」です。

今、その二つは完了し、『人類の育てた果実』として再編集して、無料で配布しています。
もう読んで下さったと仮定した上で、僕はもう一度、一年前にした同じ質問を、あなたにぶつけてみたいと思います。

あなたは障害者でしょうか、健常者でしょうか?
では、答えてくださった方にもう一度質問します。
あなたは何を持ってご自分を障害者(あるいは健常者)と判断なさっているのですか?
僕は、人間はみんな障害者だったんだと認識したところから、この世界をやり直そう! と提案します。

自分のことを健常者と思っていた人に、今日からは障害者と思いましょう、などと言うと、気分を害されるかもしれません。

それと同じように、自分のことを障害者と思っていた人に、今日からは、今までの意味では障害者ではないと思いましょう‥‥つまり、今のあなたの状態が自然界に適応しているんだと考えましょう、などと言うと、やはり反発を受けると思います。

それは一体どうしてなのでしょうか?

健常者であると思っていたあなたは、どうして自分が健常者でありたいのですか? 障害者だと思っていたあなたは、どうして自分が障害者であることを認められたいのですか? 互いに何か変な偏見(固定観念)に取り付かれていませんか?

乙武さんは、自分の障害を「身体的特徴」と呼んでいます。

「太っている人、やせている人、背の高い人、低い人、色の黒い人、白い人、その中に手や足の不自由な人がいても、何の不思議もない。よって、その単なる身体的特徴を理由に、あれこれと思い悩む必要はないのだ」

乙武さんは、心のバリアフリーを成し遂げるためにも、障害者と言われる人たちの側の意識の変革が必要だと言います。
障害者と言われている方たちを障害者にしているのは、単なる人間の都合に過ぎません。
自然界には、障害のある状態は存在しない(=適応している状態しかない)からです。

例えば、ロケットが月に着陸する前に爆発してしまったとしたら、それは、人間から見れば失敗ですが、自然界から見たら失敗なんかじゃなく、それが自然界に適応した現象なんです。


最後にもう一度、乙武さんの素晴らしい言葉を引用させていただきます。

「常に他人よりも優れていることを求められる現代の競争社会のなかで、ボクらは『目の前にいる相手が困っていれば、なんの迷いもなく手を貸す』という当たり前の感覚を失いつつある。
助け合いができる社会が崩壊したと言われて久しい。そんな“血の通った”社会を再び構築しうる救世主となるのが、もしかすると障害者なのかもしれない」

その通りです!

僕もそんな期待に胸を躍らせて、一年と二ヶ月前、Yahoo!の掲示板の「障害者」というカテゴリーにトピックスを立てたのです。
障害者と言われている人に立ち上がって欲しかったんです。
健常者と呼ばれる人たちは、障害者と呼ばれる人たちを救わなければいけないなどと思い上がっていますが、実は、障害者と呼ばれる人たちこそ人類を救ってくれる救世主だったのです。

自然界から見たら人間は一人残らずみんな障害者である、という認識は、僕たちを気落ちさせるよりも、むしろ心強くさせてくれるから不思議です。
この平等意識が、僕たち人類の仲間意識を強め、助け合いの気持ちを起こさせてくれるからです。~\(*^-^)ノ~~\(*^-^*)ノ~~\(^-^*)ノ~

「分身主義」の理想でもある心の深い部分でつながっているような感覚も、ここにはあります。

以下に「人類みんな障害者」と理解することの利点を列記してみます。

1、お互い障害者としての人間同士、平等意識やいたわり合うような気持ちが生まれる。
2、従来の意味での障害者と言われる人たちに対する差別の意識を、なくすことができる。
3、その逆に、従来の意味で自分を障害者だと思っていた人は、自分だけ被害に遭ってしまったというような不公平感を拭えるし、他人を羨(うらや)むような気持ちもなくせる。
4、従来の意味で健常者だと思っていた人は、上から目線で憐れんだり、自惚れたり、傲慢になることを抑止でき、謙虚になれる。
5、世界中の人の心が深い部分でつながっていると感じられることで、何物にも動じない安心を得て、世界から差別や争いをなくせる。

さて、僕たちは「みんな障害者である」という気持ちを持てたら、次にどうするべきでしょうか?
ここからが大事なところです。

次週は、そのことについて、考えます。
これを考えないことには、僕たちは永遠に本当の幸福をつかめないし、世界を平和にもできません。


◆◇◆編集後記

実は、僕は4~5年前、東京のある場所で乙武さんと出会っているのです。ある夜のことです。ほとんどうつむいて歩くことなどない僕ですが、その時、考え事か悩み事か何かのせいで、ほんの数秒、地面を見ながら歩いていました。

すると人ごみに紛れて、突然、僕のお腹くらいの高さの、車輪のついた金属製のやぐらのようなものが前方から近づいてくるのが視界に入りました。
僕は、ハッとして顔を上げると、その上にちょこんと乗っていたのが僕たちの分身さん、乙武さんだったのです。周りには、3~4人の女性が彼を補佐するようににこやかに同行していました。

もちろん彼は僕のことは知りませんが、僕はバスケットをやったりしている彼の姿をテレビで見て知っていました。

僕は彼と目が合い、しばらく見つめ合ってから、お互いに笑顔でうなずきながらすれ違いました。
それは挨拶というより、まるで同意のようでした。
「これでいいんだよね」「うん、これでいいんだよ」
離れていた自分の分身に出会ったかのように、何かを確認し確信した感じでした。

今も、乙武さんは、この地球のどこかで、僕のできないことを僕に代わってやってくれているんでしょうね。

ありがとう! 僕の、いえ、僕たちの分身、乙武さん!
僕も、あなたにできないことを、あなたに代わって頑張ります!


NO.17 自然界の障害児たち(2) 2003.06.03

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【世界平和に最も大切なものは、自分の心の中に、他人(=自分の分身)を甘えさせてあげる環境を作ること】


みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。前回の最後の言葉、思い出してください。

僕たちは「みんな障害者である」という気持ちを持てたら、次にどうするべきでしょうか?
ここからが大事なところです。

って書きました。
今日はその「大事なところ」を考えます。

僕たち人間は、「理性」という、自然界には障害となるものを持ってしまったので、その生きづらさを、お互いに手を貸し助け合うことでカバーして生きていかなければいけない、わけです。

今日書くのは、その方法はどうしたらいいかということです。

一番問題になるのは、どこまで手を貸してあげるか? ということです。
それがお節介や愛情の押し付けになってしまったんでは、元も子もありません。

そのヒントとなる言葉が、精神科医・カウンセラー、明橋大ニ(あけはしだいじ)さんの『輝ける子』という本に書いてありました。
この本は、子供の育て方のことを書いた本ですが、実は、大人にも十分応用できることが書いてあるんです。
この意味は、最後にわかっていただけると思います。

彼は、子供を育てる上で「甘やかす」ことはよくないが、「甘えさせる」ことは、必要なことであると書いています。
むしろ、十分に甘えさせない育て方が、子供を追い詰め、不安にさせ、ひきこもり、いじめ、自殺、非行、そういった様々な問題を引き起こす原因にもなっている、と言っています。

ここで、特筆すべき点は、過保護の考え方です。

彼(明橋さん)は、過保護とは決して子供を保護しているのではなく、保護という名で支配していることだ、と言っています。

なるほど、と肯(うなず)ける言葉ですよね。
自分のペースや愛情の押し付けでしかない「甘やかす」子育ては、いずれ子供の心に歪(ひず)みを作ります。
子供の心に作った歪みは、やがて親である自分や社会に返ってきます。それは、いずれあなたにも‥‥。

そう、全てがつながっているからですね。

「甘えさせる」というのは、あくまでも相手のペースや能力を尊重するというのが基本です。

前回(NO.16)、紹介させていただきました乙武さんの本の中に、次のような参考になるエピソードがありました。

乙武さんが小学校に入った初めの頃は、彼に対して恐怖心を持っていたみんなですが、その恐怖心がなくなると自然にクラスの中に、彼への手伝いや助け合いの気持ちが芽生えてきたそうです。
しかし、担任の先生はそれをやめさせました。
「乙武くんには、自分でできることは自分でさせましょう。その代わり、どうしても一人でできないことは、みんなで手伝ってあげよう」と、決めたそうです。

それは、彼に「待っていれば、誰かがしてくれる」という甘えた気持ちが育ってしまわないための配慮だったようです。

この先生こそ、「甘やかす」と「甘えさせる」の違いを知り尽くした、教育者の鏡と言えるのではないでしょうか?
と言うより、人間関係の基本を知り尽くしていると言えるのかもしれません。

僕たち人間は、みんな心(=脳)に理性という障害を持っているわけだから、お互いに助け合わなければ生きていけません。

障害者と呼ばれている人たちを障害者年金で援助したり、バリアフリーの街を作ろうと努力するのと同じように、僕たちは、もっと根本的な部分で助け合わなければいけなかったんです。
それがちゃんとできていないから、僕たちの心は傷つき、癒されず、精神的な病や犯罪や争いが起こるのですね。

可哀相な人とは、今まで障害者と呼ばれていた人たちではなく、実は、理性を持った僕たち人間全員だったんです。
今まで障害者と呼ばれていた人たちは、可哀相な人たちではありません。
今まで健常者と呼ばれていた人たちも、彼らに対して抱いてしまう、可哀相という憐れみの気持ちは、絶対に捨てなければいけません!

可哀相なのは自分自身だったんです!


乙武さんは、自分の障害を「身体的特徴」と呼んでいます。
「太っている人、やせている人、背の高い人、低い人、色の黒い人、白い人、その中に手や足の不自由な人がいても、何の不思議もない。よって、その単なる身体的特徴を理由に、あれこれと思い悩む必要はないのだ」
乙武さんは、心のバリアフリーを成し遂げるためにも、障害者と呼ばれている人たちの側の意識の変革が必要だと言います。

彼ら(障害者と呼ばれている人)の障害は、今の社会環境におけるハンデであって、自然界から見た本当の意味での障害ではありません。僕は、彼らにこそ意識の変革をして欲しいのです。

本当の障害(彼らを苦しませるもの)は、彼らの理性だということに気づいて欲しいのです。

その証拠に、理性がない動物が片足を食いちぎられても、別に苦しみや悩みを感じることはないでしょう。

弱肉強食の掟(おきて)の支配する自然界で、淡々と生きていくのみです。

理性を持った人間だけが、自然界の掟に反して、弱きを助け強きをくじき、煩悩に苦しみ、悩み多き生を生きるんです。

どうやら僕たちは、思い悩まないでいいことを思い悩み、思い悩まなければいけないことを、ちゃんと悩んでいなかったようです。
思い悩まないでいいこととは、身体的特徴や各自の能力のことです。思い悩まなければいけないこととは、理性を持ってしまったことです。


本当の意味での障害は、健常者と呼ばれる人たちもまったく平等に持っていたことを知って欲しいんです。

走るのが速い人もいれば遅い人もいます。計算が得意な人もいれば苦手な人もいます。力が強い人もいれば弱い人もいます。
太っている人、やせている人、背の高い人、低い人、色の黒い人、白い人、手や足の不自由な人がいます。
できる人ができない人を手伝ってあげればいいだけなんです。

だからこそ、これからの僕たちは、自分にできないことを恥ずかしがったりしないで、勇気を持って、はっきりと「助けてください」と言わなければいけません。変なプライドを持っている限り、幸せにもなれないし、世界を平和にもできませんよ。

プライドとは、自分を守るための鎧(よろい)です。鎧で守らなければならないのは、敵が存在するからです。
敵が存在する限り、自分の心から不安が消えないのも、世界が平和にならないのも当たり前の道理です。

もし、あなたが、自分のプライドを守るために雄々しく闘い、そして傷つき、それでもまた勇敢に立ち上がり自己を確立していく、というプロセスに美学を感じてしまう古いタイプの人生を歩みたいと言うのなら、自分に対するプライドは必要かもしれませんが‥‥それでは、いつまでたっても幸せにもなれないし、世界を平和にもできません。

理性という障害を持ってしまった人類ですが、それを捨ててしまっては、もはや人間ではなくなります。

理性という障害こそ、人間でいられるための最低限のプライドです。僕たち人間が守らなければいけないプライドは、唯一それだけです。
思い悩んでいても仕方ないので、いっそのこと、理性という反逆児を僕たちに授けてくださった自然界様に感謝しちゃいましょう!
人間であることへの諦めとともに、密かなプライドを持ちましょう。

自分を守るためだったプライドを、人間を守るために使いましょう!!


さて、前述の明橋大ニさんは、『輝ける子』の他にも『思春期にがんばってる子』という本も出されています。
どちらも、「甘え」の大切さを説かれていますが、これは、僕が『人類の育てた果実』の中で書いてきたことと一致しています。

彼のこれらの著書は、僕の方向性が間違っていなかったという自信と、揺るぎない信念を植え付けてくださいました。
とても感謝しています。

ただ、彼の言葉で一つだけ疑問を感じることがありました。それは「自立」に関する感覚が、僕とは違う点です。
彼は、「子供は、自立して大人になるための初期段階である」と考えているような気がします。
あるいは、「大人とは、子供がうまく自立できた完成品である」のようにイメージしている気がします。

そのため、「どうすれば自立できるか」、あるいは、「なぜ自立できないか」、などということがさかんに書かれているのですが、「なぜ自立しなければいけないのか」ということについては一言も書かれていません。

例えば、「子供は十歳くらいまでは、徹底的に甘えさせた方が、自立した大人に育つ」といったようなことを書かれています。
彼は、世間で「自立、自立」と言われているから、自立が必要だと単に思い込んでしまっている、だけなのではないかと思ってしまいます。
しかも、彼の言っている「自立」がもし存在するとすれば、母親からの自立でしかありません。

その証拠に、世界中を見渡してみて、本当に自立している大人を誰か一人でも挙げることができるでしょうか?

大人は自立しているのではなく、甘えの矛先を母親から社会に(例えば、飲み屋のママとかに)転換しているだけです。
よく見ると、世間で「偉い人」などと呼ばれている人ほど、実は、他人の助けに育てられ、支えられている人たちです。

実際、他人の支えを利用することがうまい人たちが社会に出て、社長になったり大統領になったりしています。そしてそういう人たちがこの社会では「自立している人」と呼ばれるようです。

他人に頼ったりコネを利用することが大ッ嫌いなために出世とも縁がない僕なんかより、有権者や先輩にぺこぺこし、最大限のコネを利用する政治家の方たちの方が自立している、などとは決して言えないのではないでしょうか?
他人の助けを借りずに(自立して)生きている人なんか一人もいません。

子供だけが、自立のために徹底的な甘えが必要なのではありません。十歳の誕生日を何回も迎えた大人でも、「甘え」は、絶対に必要です。
と言うより、自立している状態とは、単に母親からの自立だけを意味していて、つまり母親への甘えを卒業したというだけで、本当の意味で自立しているわけではなく、しかも、甘えが快く満たされている状態のことなんです!!(これが、僕が『人類の育てた果実』の中で主張してきた点です)

要するに、養育者(母親)への依存という甘えから、養育者からの自立という甘えに変化しただけです。そしてそのことを可能にしたのは、養育者以外に依存の対象を見つけることができたということです。

明橋さんが、「子供は十歳くらいまでは、徹底的に甘えさせた方が、自立した大人に育つ」という意味は、上手に甘えることを覚えた子どもの方が、依存の対象が養育者以外の者に移ってもすんなりと入っていける、ということではないでしょうか。
そのように捉えれば、なかなかうがった話でもあります。

甘えは、自立のために必要なのではなく、自立もまた甘えです。

甘えられる環境(注:甘やかされる環境ではない)が必要な理由は、僕たちの心が竹のように健やかに伸びることで、この世界そのものを健康にするためです!!

みんなみんな助けが必要です。
だから、「助けてください」と声に出してお願いすることをためらう必要は少しもないし、それに対して、見下したり、非難したりすることなく「どうぞ私にできることがあればやらせてください」と言える環境を、僕たちの心の中に作る必要があります。

「甘えるな!」なんて、有害な言葉がのさばる環境を、自分の心の中に絶対に作ってはいけません!

僕たち日本人は、特に僕たちの世代は、子供の頃から「甘えるな!」と言われて、育ってきました。
甘えられずに育った自分から見れば、甘えている人間に対して腹が立つという気持ちもわかります。でも、この辺で、僕たちはその悪しき連鎖を断ち切らなければいけません。

さあ、この連綿と続いてきた悪しき連鎖を断ち切るのに役立つものが、「分身主義」の次のような感覚です。

自分が助けようとしている他人は、自分の分身だから、自分が助けるのは、自分自身だ。
自分が、「助けてください」という分身の声に冷たい態度を示している限り、自分自身が、この宇宙で幸せになることは絶対にあり得ない。

だから、僕たちは安心して「助けてください」と言い、「どうぞ私にできることがあればやらせてください」と言いましょう。

全てをやってあげる必要はありません。

「甘やかす」わけではないから、むしろ、自分でできるようにちょっと手を貸してあげるだけの方がいいんです。ただし、自分の行為に対して、お節介だろうかやり過ぎかなどと、あんまり神経質に自省的になることもありませんよ。善意に免じて、少しくらいのミスは笑って許し合いましょう。

だって、僕たちは一つだったんですもの。
おおらかに、おおらかに、分身同士、助け合いましょう‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

いずれ、もっとちゃんと書くつもりですが、現代の僕たちのあらゆる病気の最大の原因は、自分に関することに、神経質すぎるくらいに過敏なことです。

「自分、自分、自分‥‥」です。
あなたが悪いわけではなく、社会全体がそのような方向性を持って進んできたからです。
脳はそのような社会に作られ、社会は、またその脳によって作られます。

癌早期発見などという言葉や、定期検診の期日などに振り回されているのは、本当はとても異常な状態だということに、誰も気づきません。
ちょっとどこかが痛いとなれば不安に怯え、医者に行ったり、誇大広告の幻のエキスを高い金を出して取り寄せてみたり‥‥。

それらを全て放棄しろ! などと言っているわけではありません。
それらは、一種のゲームでもやるような気持ちで、結果を気にせず楽しんでみたらどうでしょう。大切なのは余裕です。

癌を告知されたら、笑っちゃったらどうでしょう。
「余命、半年!」と言われたら、「スゲー!」とか言って感動しちゃったらどうでしょうか。
まるで宝くじに当たったかのように、みんなに自慢して回ったらどうでしょう。誰かにたかられる心配もありません!

本当は、病気なんて自然界のどこにもないんですよ! 病気という言葉が病気を作っているんです。

病気という概念を作り出した、理性を持ってしまった僕たちの脳が、病気というものを作っちゃったんです。

自然界に身体を委ねたら、本当は、僕たちはもっと安心して、死ぬことすら恐がらずに生きていけるんですよ!
少しくらいどこかが悪くても、それで当たり前、それが自分の身体が自然界に適応している状態、くらいに考えて、もっと、おおらかに生きることが必要です。

ある人が「あの〇〇さんが、60歳で死んじゃったんだとよ」
と言ったら、「なに言ってんだい。60歳まで生きりゃあ、十分じゃねえか」と言われたそうです。
そう、そう、このユーモアです。余裕です。

この余裕を持つためにも、「自分、自分、自分‥‥」というような、神経質に眉間にしわを寄せたような感覚から、「分身、分身、分身‥‥」と太陽に向かって手を広げた解放されたような感覚に、意識を変化させる必要があります。僕と一緒に、たとえ癌になっても、ちっとも心配しないで生きれるようになりましょう!

本当の幸福を手に入れるのは、そして世界を平和にできるのは、「分身、分身、分身‥‥」という感覚を持った、おおらかな分身主義だけです。
科学が僕たちにプレゼントしてくれた分身主義です。


NO.18 分身主義が救えること 2003.06.10

≫ 今日の一言 ≪≪
【分身主義は、自分自身を“怒り”という苦しみから救ってくれるトリックでもある】

みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
二週に渡って、このビッグバン宇宙に誇るべき我らが分身、乙武さんに登場いただいていたら、すっかり彼の虜(とりこ)になってしまいました。それで、気がつけば彼の他の本も読んでいました。

『かっくん』は、クリスチャン・メルベイユという人が書いた文に、ジョス・ゴフィンという人が絵を描いた子供向けの絵本を、乙武さんが翻訳したものです。
みんながまんまるの、まんまる家族に、一人だけ四角で生まれたかっくんは、他の子供たちが遊ぶ時も仲間はずれにされます。自分だけ四角いことを悲しむかっくんですが、ある日、意外な力があることがわかります‥‥。

普段は忘れてしまっている大切なことに気づかせてくれる本です。

『ほんね。』は、彼自身のHP、OTO-ZONE( http://www.ototake.jp/
の中の「OTO's Mail」に綴られた2年間の記録(2000年9月~2001年11月)を一冊にまとめた本です。

さて、今日は、『ほんね。』を読んで腹が立ったことを、書きたいと思っています。
2つありますが、どちらも彼のお父さんの葬儀にまつわることです。

まずは、その時のマスコミ関係者の態度に対しての怒りです。

どこから嗅ぎ付けたのか、彼の父親の葬儀にたくさんのカメラが集まりました。寺の敷地内への立ち入りは防いだものの、望遠レンズで遠くから、彼のみならず彼の奥さんや、悲嘆に暮れている母親までも撮影しようと躍起になっていました。
いくら仕事とはいえ、一種の集団による暴力行為ですよね。

それで、仕方なしに彼は「記者会見をしない」という自分なりの信念、あるいは哲学を曲げます。
母親や奥さんの撮影は一切しないという約束と、取材人はきちんと喪服を着てくるという条件を出して、記者会見をやることを受け入れました。

ところが、記者会見の会場に向かうと、数十人いる取材人の中で誰一人として喪服を着てくれていませんでした。
ワイドショーのリポーターはかろうじてジャケットを羽織っていたけど、週刊誌やスポーツ紙の記者は実にラフな格好のままだったそうです。

僕は、この部分を読みながら、悔しさに思わず自分のこぶしをギューッと握りしめていました。

乙武さんは、その時のことを次のように書いています。
「悔しくて仕方がない。本当に悔しいよ。愛する父の死をメシのネタにされ、そこに協力させられ、心はズタズタに引き裂かれた。父を侮辱されたようで許せなかった。この屈辱は、生涯忘れることはない」

僕が腹が立ったもう一つは、お父さんの逝去に際してコメントする彼の姿がワイドショーで映し出されたのを見た人が送ってきた、次のようなメールに対してです。
これをFさんのメールとします。

「今日、テレビを見てあなたに失望しました。どんなに活躍しても、どんなに注目を浴びても、家族だけはプライベートな部分として守る乙武さんの考え方に共感を覚えていただけに、お父様のことに関して平然とカメラの前でしゃべっているあなたを見て愕然としました。何だかんだカッコいいことを言っても、結局はマスコミに媚びを売るのですね。残念でなりません」

乙武さんは、このメールを読んだ直後は「俺の気持ちも知らないで‥‥」という怒りにも近い感情が込み上げてきたそうです。
僕もまたしても、言いたいことをずけずけ言うだけのこのメールに、自分のこぶしをギューッと握りしめていました。

でも、乙武さんは、次第に冷静になると「伝えてもいないことが、わかってもらえるわけがなかった」と、反省します。

さて、ここで登場いただいた方たちが、もし分身主義の視点を持っていたら、どのように救われるかを考えてみたいと思います。

分身主義というのは、この宇宙に存在する全てのものは自分の分身であり、同時に、自分はこの宇宙に存在する全てのものの分身である、という考え方をするものです。
個人主義の考え方「自分、自分、自分‥‥」を宇宙にまで拡大していった時に、ついには宇宙と一つになることで生まれる視点、つまり、宇宙的視野に立って眺める視点です。

それでは検討していきます。

「マスコミ関係者の態度」に対して乙武さんが悔しがっていましたが、無理のないことです。僕だって本当に悔しいです。

でも、もしマスコミ関係の人たちが、自分の分身だったらと考えたら、どうでしょうか? 彼らの仕事を思いやる余裕が生まれてきます。
彼らだって、(ああ、俺たちの仕事は、人の不幸をメシのタネにする因果な商売だなあ)なんて、ふと、自分に嫌気がさす時があるはずだ、って思えて、なんだか許してあげたくなります。なんだか悔しい気持ちがスーッと消えていきます。

そうすると、乙武さんも「生涯持ち続けて生きなければならない悔しさ」から解放されます。

悔しさや怒りがバネになることは知っています。
それがあったからこそ、人間は、困難を克服していろいろなものを発見・発明してきました。
科学が「僕たちの宇宙は素粒子の演ずる劇場である」ことを知らしめてくれたのも、悔しさや怒りをバネとして研究を続けた人たちがいたおかげです。

でも、科学によって目的地に連れてこられてしまった(科学という方法論で自分を知ってしまった)僕たちが、これからやらなければいけないことは、今まで犠牲にしてきたこと、切り捨ててきたことを一つ一つ拾い集めて、つなぎ合わせる作業です。

これからの時代の考え方は、悔しさや怒りをバネにして何か大きなことを成し遂げようとしている自分が、その時に切り捨てようとしている自分の分身たちの重さを考えて、違う動機に替える努力をすることです。

たとえどんな偉業をなすにしても、自分(の分身)を切り売りすることを補えるほどの価値がある、とは考えないことです。
仲良く生きることを犠牲にしてまでも貫かなければならない怒りなんて、そして、その結果手に入れる名声なんて、なんぼのもんでしょうか!?
これからは、このような考え方をしていく時代だと思います。

ところで、今度は逆に、マスコミの人たちが乙武さんを自分の分身であると考えたならどうなるか、考えてみます。

自分のメシのためにあくせく非人間的な仕事をするよりも、悲嘆に暮れる遺族をそっとしておいてあげようという、余裕が生まれてきます。
そして、乙武さんは、自分たちが守るべき財産であると感じます。(この意味は編集後記に書きます)

Fさんのメールに出てくる「プライベートな部分として守るべき」ものは、分身主義の視点で見ると家族だけではなく、マスコミ関係の方にまでも拡大されます。

実は、分身主義は、親子の結束を弱めてしまいます。でも、この感覚こそ世界平和に必要なんです。
家族がこちら側の人間で、マスコミはあちら側の人間、という意識がなくなれば、今まで怒りの原因だったものすら、どこかに消えます。

Fさん自身も分身主義の視点を持っていたら、きっとこのようなメールを送りつけたりしないでしょう。
例えば次のような文面になるのではないでしょうか?

「いつも、テレビなどで活躍され注目を浴びていらっしゃる乙武さんを見て、嬉しく思います。あなたは、私にできないことを私に代わってやってくださっている誇るべき分身さんです。お父様のお話も聞けて、未知だった自分の分身が、また一人身近に感じることができ感謝します。かつては、マスコミ関係者は煙たがれる存在でしたが、彼らはある意味、私たち分身を、一つにまとめる重要な役目を担っていたとも考えられますね。お元気でお仕事をお続けください。私も、あなたの分身として恥じないように生きていきます」

こんな感じですかね!?

要するに、分身主義は、そこにいる全ての人の心を救い、世界を平和にします。

僕は、怒りを持つ人間を批判しているのではありません。自分を含めて、人間を“怒り”から救いたいんです。
争いを起こす元を断ってしまいたいんです。
分身主義は、何よりも自分自身を“怒り”や“嫉妬”という苦しみから救ってくれる、トリックです。
そして、世界を一つにしてくれるウィットでありユーモアです。


完全無欠の分身主義者を目指している僕ですが、まだ自分の心の中から、他人に対する怒りや嫉妬が完全に消失したわけではありません。
もちろん、以前より、ずっとず~っと少なくなりました。
分身主義者を目指す前の自分のそれを100とすると、今は20くらいです。怒ったり嫉妬をしている自分を、冷静に見て笑える余裕が出てきました。

僕がまだ完璧な分身主義者に成り切れていないのは、世界中の人がまだ分身主義者ではないからです。
僕だけが、みんなの分身であることに気づいていても、僕の分身が分身であることに気づいてくれないことには、僕(たち?)はまだ完璧ではないからです。

もし分身主義者という人がいるとしたら、それは世界にたった一人しかいません。
それは世界中の人が分身主義者になった時だけです。世界でたった一人の分身主義者とは、世界中の誰がどこから見ても自分の全身の姿を見つけられる状態になった時だけです。

一昨日(6月8日)、フジテレビの「発掘! あるある大事典」で、ニンニクが身体にとてもいいと言っていました。どんなに身体によくても、問題はあのキョーレツな臭いです。だけど、みんながニンニクを食べれば臭いは誰も気になりません。

分身主義も始めはちょっと違和感がありますが、食べてみれば、お肉を口にしたホンジャマカの石塚さんのような、実に幸せ~な気分になれます。
決して強制はしませんが、試してみてはいかがでしょう?

そして、みんなが食べれば、世界が健康になります。
これは、ちょっと強引なたとえでしたか?(ごめんなさい)

でも、世界中の人が分身主義を知って、僕たちが一つになれたら(=この世界に分身主義者が誕生したら)今よりずっと生き易くなるし、国際関係もうまくいくことは確かだと思います。
それは、決してそう遠くない未来のことだと感じています。

だって、僕たちは一つだったんですもの。
ただ、そのことに気づくだけでいいんです‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

「実は、分身主義は、親子の結束を弱めてしまいます。でも、この感覚こそ世界平和に必要なんです」

この言葉をFさんが読んだら、恐らく反感を抱くことでしょう。
彼(彼女?)は、家族は「プライベートな部分として守るべき」ものと考えているし、それを売り渡した乙武さんを激しく批判していますから。

でも、守るべきものがあるということは、敵が存在しています。敵が存在する限り平和はあり得ません。

僕たちの脳は、「自分、自分、自分‥‥」という、強烈な自我を意識する方向で変化してきました。
だから、現代人の脳は、「これこそがあなたです」という、自己を証明するパスワードを入力しないと、うまく作動してくれなくなっています。

決して、「あんたなんか大したことないじゃない」とか、「どんぐりの背比べじゃん」とか、「ばか!」とか、「下手くそ!」とか、「カッコわるぃ!」なんて入力しちゃいけません。
脳は、すねて、そこから動こうともしてくれません。いじけ過ぎて病気になっちゃう脳だっています。

現代の僕たちに必要なのは、脳をちやほやして、騙し騙しうまく働かせることです。
ああ、まったく世話が焼けます。

でも、分身主義は、そこから救い出してくれます。
つまり、いちいち脳のご機嫌をとらなくてもよくなるのです。

脳がうまく作動してくれるために入力するパスワード「これこそがあなたです」というものが、実はたくさんの壁を作っていました。

脳の「自分」という意識には階層があります。
これは人によって違うのですが、一例を挙げます。
まず、文字通りの自分、次に家族、次に学校や職場、次に国家‥‥というように。

その階層が自分により近いほど「こちら側」という意識が強くなります。そうして、守る順位も、より階層が自分に近いものからの順番になります。

Fさんの言う「プライベートな部分として守るべき」家族は、かなり自分に近い階層に属します。

分身主義は、これらの階層を取っ払ってしまいます。
あちら側という感覚がなくなるということは、突き詰めれば、守るべきこちら側もなくなります。
ここに、難しいプライバシーの解釈の問題が生じてきます。

分身主義にはプライバシーなんてないのでしょうか? そうではありません!
分身主義が守るべきプライバシーは、それはみんなが守るべき自分たちの財産のことです。

財産と言っても、人類の共有財産のことです。
それは、どこかに存在する敵から守るのではなく、あるべき場所にそぉーと置いておくというようなイメージです。

この財産は、あるべき場所に置かれている時だけ財産であり得る財産だからです。
僕たちの分身でもある乙武さんは、人類の財産ですが、それは乙武さんであることで人類の財産であり得るものです。

みんなが、彼という財産を、人類の財産として持ち続けるために守るべきもの、それが分身主義の考えるプライバシーです。
最も大切なのは、この「自分たちの財産として守る」という気持ちです。その大前提を見失わない限り、大きな間違いも起こらないと考えます。


NO.19 調和を聴き取る耳 2003.06.17

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【不協和音とは調和しない音ではなく、その中で響き合う調和を聴き取る耳を、僕たちが持っていないだけのことである】

みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
今回は、なぜか押入れに大切にしまってあった『標準音楽辞典』(音楽之友社)という厚くて重たい本を引っ張り出してきました。

標準音楽辞典


不協和音について調べたかったからです。次のように書かれています。

「同時に響く2つ以上の音が<協和>しない状態にあることを意味するが、いかなる状態をさして<協和><不協和>と呼ぶかは必ずしも明確ではない。それは、音程の協・不協和度に対する主観的・感覚的判定と、客観的・理論的な判定との間に相違があり、両者それぞれにおいても一致を欠く場合があるからである」(標準音楽辞典・音楽之友社)

この説明の後、数学や物理学的な手法や心理学的な手法による意味づけが続きますが、専門的になるので省略します。
歴史的に見ても「音程の協・不協和度に対する判断は、音楽史上絶えず変化してきた」ようです。

日本の「雅楽(ががく)」や、アメリカの奴隷制度の中から生まれた音楽「ブルース」や、ブラジルの「ボサ・ノヴァ」などは、もともとクラシック音楽でいう不協和音を多用していますが、 自分たちでそれを不協和音と呼ぶことはしません。

これらのことから、不協和音とは、西洋の価値・習慣の中で育てられた耳が、「調和しないと感じる」和音であり、一種の差別用語でもある、と言ってもいいような気がします。
透明な響きに慣れ親しんできた耳が、濁った響きの中にある調和を聴き取る耳を持っていない、というだけのことではないかと思うのです。

人間の五感が下す評価は、決して絶対的なものではありません。
時代劇の中でロックミュージックをテーマソングとして流しても、次第に、違和感を感じることもなく見ることができるようになるのが人間です。

伊豆諸島に400年くらい前から伝わる干物に「くさや」がありますが、その臭さは僕でも耐えられませんでした。だけど、その美味しさを知った後は、最も大好きな臭いの一つに数えることができるようになりました。

このように考えていけば、不協和音などというものはどこにも存在しない、ということになります。

ところで、人間は、国、宗教、民族、職業、世代、性、心身の障害‥‥ごとにグループを作ろうとします。
そして自分の属するグループと他のグループとを差別し、場合によっては無関心という方法で排斥します。
何故こんなことが起こるのでしょうか?

人類の育てた果実』の「世界を平和にしない愛(NO.1‥‥愛の正体)」を思い出してください。
あの中に出てくるゾウアザラシに、もし自分の子どもと他の子どもを差別化する能力がなければ、きっと彼らはとっくの昔に絶滅していましたよね。そのような例は、いくつも挙げることができます。

僕がいつも通勤のために利用している散歩道では、毎年、繁殖期になると、卵か雛を守るためか、僕がその木の下を通ると、頭のすぐ上を低空飛行し、「ギャーッ」という鋭い声で威嚇してくる親鳥がいます。
何度か、本当に頭を攻撃されたこともあります。それは鳥に、自分の雛と僕とを差別する能力があるからです。

もう一つ、例を挙げます。
ある日、僕の前を、生まれたばかりの可愛らしい子猫と親猫が歩いていた時のことです。あんまり可愛いので、僕は思わず後ろを歩いていた子猫を触ろうとしました。すると、前にいた親猫がものすごい勢いで僕の前に立ちはだかり、「ギャーッ」と歯をむき出しにして叫び、そのスキに子どもを逃がし、自分がその後を逃げていきました。

僕は本能の恐ろしさに鳥肌が立ちました。
これも、猫に、自分の子どもと僕を差別化する能力があるからです。

弱肉強食の世界では、差別化する能力が発達していて防衛本能や攻撃本能の強いものほど種の繁栄に向いていたので、最終的にはその遺伝情報を強く持つものが、地球上に繁栄しているのは当然のことです。

食物連鎖の頂点に位置し、理性の発達した僕たち人間ですが、これらの本能は脈々と受け継がれていて、むしろ他の動物よりも強いくらいだと言われています。

国も宗教も職業もない他の動物よりも、差別しなければならない項目だって当然増えています。僕は、この差別によって生まれる壁を、なんとかして取っ払いたいと考えています。

先日、高校生の女の子が、自分の父親を「ウザい」と言っているのを耳にしました。自分の興味もない話題を、なんとか娘の気を引こうと一生懸命話してくる姿が鬱陶しいし、オヤジっぽい(嫌らしい)と言うのです。

嫉妬も怒りも消化できていない、まだ完全無欠な分身主義者に成り切れていない僕は、それを聞いて腹が立ってしまいました。「じゃあ、僕たちはどこに接点を見つければいいんだ!」って、心の中で怒っていました。お互いに接点がなければ黙っていろ! とでも言うのでしょうか!?

確かに、父親の努力は、見苦しくみっともなく見えるかもしれませんが、娘のことが可愛いからこそできることなんです。
それは、自分たちの世代に壁を作り、それ以上やそれ以下を差別し排斥したり、「ウザい」というたった一言で片付けてしまえる人たちよりは、よっぽど人間的な努力です。

でも、彼女たちばかりを責めることはできません。
彼女たちは、自分たちの殻に閉じこもり、父親からも自分を守らなければならないくらいに孤独なんです。

「自分、自分、自分‥‥」と、自分を愛するあまり、自分を限りなく孤独に追い詰めてしまった僕たちが作ってしまった、子どもたちです。
そんな彼女たちの言動は、生まれてしまったこんな社会に、むしろ復讐しようとしているかのようにも見えます。

彼女たちが、違う世代の人間に張り巡らす壁を、そして僕たちが自分の側とその外側との間に作ってしまう壁を、このままにしておいていいのでしょうか?

僕たちは、世界を平和にする愛‥‥宇宙にまで拡大した自己愛を持つ分身主義の愛を持たなければ、おそらくそう長いことなく絶滅するでしょう。
個人主義の環境にどっぷりとつかった脳は、その周囲に敵を作りすぎていて、いずれは互いに殺し合うことになるからです。

壁を取り払うということは、今までの価値観や習慣の中で育ってきた耳を持つ僕たちには、不協和音の海の中に放り込まれる思いかもしれません。
でも「分身主義」という耳を持てば、その中に、美しく調和して響く和音を聴き取ることができます!!

これが、ビッグバンや素粒子を発見した科学が、僕たちを導いてくれた場所です。科学を勉強した僕は今、少しずつその愛を持てるようになってきました。

だから、新しい時代を担うはずの女子高生に向かって、古い時代を生きてきた僕が、逆に、君たちのそんな考え方はもう古いんだよ、って言ってやりたいくらいです。

これからは、分身主義ですよ!

お父さんだって、君の分身。パンツを一緒に洗ってあげましょう!

だって、僕たちは一つだったんですもの‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

差別という言葉は、悪いものに対して使われるのが普通です。
でも、差別とは、本来、悪いものではなく動物なら生存のために当たり前に持っている本能です。
オスがメスを(あるいはメスがオスを)求めて争うのも、獲物の分け前を巡って戦うのも、勢力争いも、決して悪いことではなく、動物なら当たり前のことです。
動物的な価値観で言えば、戦争は、最も自然で生命力あふれる行為です。

ところが人間の理性は、戦争や他者を差別することに罪悪感を覚え、そこに葛藤が生まれます。その解決のために、人間の理性は、「愛」という画期的な言葉でごまかすことを発見しました。

親が子どもを守るのは‥‥愛。

女(あるいは男)が特定の一人を求めるのは‥‥愛。

戦争をする背景にあるものは、自分の国への‥‥愛。

特定の音楽に寄せる気持ちも‥‥愛、
特定の文学に寄せる気持ちも‥‥愛、
特定の絵画に寄せる気持ちも‥‥愛。

みんなみんな、手放しで善いことのように使われます。

でも、常にその根底では、2つ以上のものを秤(はかり)にかけ、評価し、差別していることを見逃さないでください。

そして、自分に属する側を守る意識は、無意識で敵を作り上げます。
理性が本能の理由づけに利用されていることに気づかない限り、愛が差別の単なる正当化であることに気づかないでいる限り、世界から争いをなくすことはできません。

でも、科学が導いてくれた「分身主義」という正当化は、世界から争いをなくすことができそうです。

何故なら、これは、理性が本能をごまかすためのものではなく、理性が本能から目をそらさずに、それを乗り越えたものだからです。
分身主義は、差別も敵も生みません。嫉妬も怒りも消し去ります。

目を閉じて、そっと耳を澄ましてみてください。
今、あなたには、この宇宙で響き合う調和の調べが聴こえますか?

その響きには、一部の人間たちだけが感じる不協和音なんて、どこにもありません!


NO.20 僕が癌になりたいわけ 2003.06.24

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【僕という分身にだって、癌と共存して、人生を楽しむことくらいならできそうです】

みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
唐突ですが、ダンゴムシって知っていますか?
カマドウマ(別名オカマコオロギ)やワラジムシと共に、便所虫などという不名誉な異名で呼ばれている可哀相な虫です。

僕が幼い頃の便所は汲み取り式便所と呼ばれ、バキュームカーのホースを外の蓋から差し込んで汲み取る方式のものでしたが、その蓋の周りの日当たりの悪い辺りにいたので、確かに便所虫と呼ばれるだけの根拠はあります。
そのせいか、僕はダンゴムシは汚い虫だというイメージがありました。この年まで、ずっとそう思って生きてきました。

でも、便所虫だって僕の分身なんです。好きにならなくては‥‥なんて思っていた矢先のことです。図書館をブラブラしていたら、ふと目に留まった本がありました。
それは『かがくのとも』(福音館書店)7月号の、『ぼく、だんごむし』というタイトルがつけられた絵本でした。

ダンゴムシ

それによると、「カルシウムを好む彼らの性質が、コンクリートの多い現在の都市環境にもよく適応して、世界中に繁栄しているし、毒もなく噛み付かず触ると丸くなるのが面白くて、子どもたちの人気者」だそうです。

それに、本当は昆虫ではなく、エビやカニなどの仲間(甲殻類)で、少しの時間だったら水の中でも生きていられるのだそうです。

ちょっと変わった脱皮の仕方や、赤ちゃんの育て方なんかも紹介されていました。そこには、便所の「べ」の字もありませんでした。
どうやら僕が彼らを嫌っていたのは、無知からくる偏見とイメージが原因だったようです。

いろいろなことを知った僕は、なんだか僕の分身君が可愛く思えてきました。僕が変わったのは、僕の脳というコンピューターの記憶に、ダンゴムシの新しい情報が上書きされたからです。

ところで、今回は、もう一冊『がんと一緒にゆっくりと』(新潮社)という本を読みました。著者は、元NHKアナウンサーの方で、その頃のお名前を池田裕子さん、現在のペンネームを「絵門(えもん)ゆう子」さんといいます。

絵門ゆう子


平成12年の10月に癌の告知を受け、失意の底に突き落とされるのですが、持ち前の明るさでついにはそこから立ち上がり、癌を「がんちゃん」と呼んで仲良く「共存」して行こうと決心します。

癌に侵された母親を、西洋医療を中心とした闘病のなかで亡くしているため、癌を敵視して徹底的に攻撃するだけの西洋医学に対する不信の念を拭えず、彼女を一年二ヶ月も西洋医学から離れさせます。
そして、癌と共存しようと考えた彼女の向かった先は、民間療法、健康食品、東洋医学‥‥。

しかし、お金は湯水のごとく出ていくばかりで、身体は良くなるどころかボロボロになります。

結局、嫌っていた西洋医学のお世話になることになるのですが、ところがそこで、西洋医学の中にも「癌と共存するという考え方をベースに、やった方がいいと判断された治療だけを最小限に行なう」という考え方の医者がいたことを知り、彼女は大いに共感します。

この本から学んだ教訓については、次回で詳しく書こうと思います。
今は、彼女が到達した「共存」という考え方に興味があるので、そのことについて書きます。

二種の生物が互いに害を及ぼさず利益を交換して生活(=共生)をしたり、または、一方が利益を得て他方に害を与えたり(=寄生)しながら生活していることを「共存」と言います。

僕たちの身体の中を、どれだけたくさんの微生物が共存しているか知っていますか?
例えば、人の腸内だけでも100種以上、重さにして約1キログラムの微生物が活動しています。
その数もなんと100~200兆個、あるいはそれ以上とも言われています。

しかし、利害(利益と損害)の関係は、見る側の立場によって入れ替わるだけで、自然界にとっては利益も害もないわけです。

東京医科歯科大学、医学部教授の藤田紘一郎(こういちろう)さんは、寄生虫などの研究をされています。彼は、衛生的になった日本では腸内の寄生虫(回虫など)があまりいなくなったけれど、そのせいでアトピー性皮膚炎、花粉症などのアレルギーが増えたと言っています。

つまり、寄生虫がそれらを抑制してくれていたわけで、彼らは人間にとって悪者とばかりは言えないということです。

藤田さんは「世の中のもの、自然界に存在するものは、必ず何らかの役割を持っているはずで、人間が勝手に悪者だとか、無駄な物だとか決めつけてしまうのは間違いではないか‥‥」と言っています。
「日本人はすぐ善悪を決めつけてしまいたがるけど、本来いいヤツ、悪いヤツというのはないんです‥‥」と。

例えば、善玉コレステロール、悪玉コレステロールと言うけど、それは心筋梗塞を起こすか起こさないかということで決めているのであって、実は悪玉といわれているコレステロールに、人を男らしく、あるいは女らしくする性ホルモンをつくる働きがあるということは、あまり知られていません。

世間では乳酸菌・ビフィズス菌など善玉の腸内細菌に比べて、目の敵(かたき)のように扱われている悪玉菌ですが、実は免疫やビタミンの合成など人体に有用な働きを持ち、腸内全てが善玉菌になると健康を損ねることにもなるようです。

それに、よく考えてみてください。

癌は人間の身体を宿主にして寄生するけど、宿主の養分を吸い尽くしたら宿替えをするというものでもありません。つまり、自分も死んでしまうんです。共倒れです。本当に人間を食い物にするだけなら、そんな方法を選ぶでしょうか? そんな彼らを、どうして根っからの悪者呼ばわりすることができるのでしょう。

このように考えていけば、善悪を決めているのは単なる人間の都合であることがわかります。自然界を中心に考えた時には、善も悪もなく、あるのはただ「共存」という状態だけです。

「私」とは一体なんでしょう?
人類の育てた果実』や、今までこのメルマガやを読んできてくださった方は、僕の言いたいことがわかってくださると思います。「私」を主張しているのは、自分の手でも足でも目でも耳でもなくこの脳だけです。

つまり、私とは、脳の特徴である「記憶」という働きが、そんな意固地なもの(私という幻想)を作り上げていたわけです。

本当は、僕の中のたくさんの微生物も、そして、もっと言えば、この宇宙の全てが、「共存」という状態にあるだけです。

この考えを拒否してきたのは僕の脳ですが、僕の脳はそれを受け入れることもできるはずです。脳の記憶の中に、現代科学が解明していることを上書きさせればいいんです。それが、『人類の育てた果実』を齧っていただく意味だったんです。

話を戻します。
僕たちを恐がらせ不安にさせていたのは、癌の「イメージ」です。
僕の中のダンゴムシのイメージが変化したように、癌のイメージも回復させてあげたいです。癌細胞だって、僕の身近な分身さんですから‥‥。

きっと、「がんちゃん」とだって、仲良く共存してやっていけるはずです。自然界は、適応しないことは一切しません。
僕の身体が自然界に適応していることを、がんちゃんを通して実感してみたいんです。

それが実感できなければ、いつまでたっても中途半端に分身主義者を目指すだけで終わるような気がします。

分身主義は、他人の成功を妬んだりしません。一緒に喜びます。
何故なら、その人の成功は、自分の代わりに分身となって成功してくれているという都合のいい考え方をするものだからです。
例えば、ジャニーズの人たちに対して、女性にキャーキャー言われるし、金持ちだし不公平だ、クヤシー! なんてこと絶対に思いません。

彼らは、「僕にないものを持っていて、僕にできないことを代わりにやってくれて、それで世界に勇気と希望を与えてくれている僕の素敵な分身さんだ!」と、自分自身を誇る気持ちになるのが分身主義です。

でも、僕だって、分身さんたちに感謝ばかりしていないで、みんなに代わって何かをしてさしあげなければ気がすみません。

こんな僕に何ができるだろう? と考えたら、忙しいみんなに代わって癌になり、癌と共存しながら人生を楽しめることくらいならできそうです。
そうして、癌闘病日記ならぬ、癌共存日記をつけて、インターネットに公開するんです。

あっちが痛い、こっちが痛くなった、でも、「痛み」は僕の身体が自然界に適応している状態だと考えればなんか嬉しいし、癌や死を身近に感じる経験もできたし、たとえ財物にも健康にも見放されても、幸福でいられるということを知りました、ってね。

いえ、財物にも健康にも見放されたその時こそ、本当の幸福に出会えるということを知りました、って。

そのことを僕は身をもって証明したいんです!
「共感は、死の恐怖よりも強し!」です。

癌の苦痛に勝る喜びを知ったなら、人生のほとんどの苦しみにも打ち勝てるはずです。


もし本当に癌になっても人生を楽しめることができたなら、分身主義が幸福になれる視点であることがはっきりすると思います。口先だけで分身主義を語る人間なんかで終わりたくありません。
もしそれができた時は、「あなたも一緒に分身主義者を目指す人間になりませんか?」って心の底から勧めることができそうです。

だから僕は、いつか癌にかかって、みんなの代わりに楽しく死ねたらいいなと願っています。

その時が来ても、決して狼狽(ろうばい)したり、ひがんだりしない人間でいたいと思います。
だって、そんな必要なんてこれっぽっちもないんです。

僕が癌にかかって死んだって、それは僕の分身が死んだというだけの話で、僕の他の分身(=全身)は明るく生きていますものね。

だって、僕たちは一つだったんですもの‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

あなたは、メールを出しても不通になってしまった友達がいて淋しい思いをしたこと、ありませんか?
メールアドレスしか知らない友達なら、向こうから変更通知をいただかない限り、もう二度と連絡を取ることができなくなってしまうのです。最近のインターネット事情では、結構ありそうなことです。
本当に、悲しいことです。

ところで、このメルマガを書き終えて、庭に降りて、大き目の石をそっと動かしてみました。
ああ、やっぱりいました。
ダンゴムシ君! 僕の分身君! こんにちはっ!


ダンゴムシ君は、会いたくなったらいつでもいてくれる分身君です。今の僕は、彼を見て汚がったりしなくなりました。
むしろ、安心してホーッとため息をつきます。

それに彼は、ちっちゃななりして、なかなか人生の哲学者でもあります。彼は教えてくれます。
「ねえ、君。そんな深刻な顔すんなよ。嫌なことがあったら、僕のようにしばらく身体をまん丸にしてやり過ごしちゃえばいいんだよ」って。
「ほら、そんなに肩肘張るなよ。しょせん僕らは、自然界の法則に動かされているだけなんだよ」ってね!

もしかしたら、彼はこうも言うかもしれません。

「君のメールが届かないくらいで、がっかりすんなよ。僕らは、そんな形式的なことで結ばれていたわけじゃないんだろう? どこにいようと僕たちはつながってるんだよ。過去から現在、そして未来へと続く時間的にも、そして、草や石ころや海や星‥‥といった物質的にもね。
僕をジーッと眺めてごらんよ。きっとその真実がわかるはずだよ」


NO.21 誰よりも有能な詐欺師 2003.07.01

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【誰よりも有能にあなたを騙していた詐欺師は‥‥それは、あなた自身だった】

みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
今回は、『がんと一緒にゆっくりと』(新潮社)を読んで得た教訓のことを書きます。
それが、「今日の一言」に書いた「誰よりも有能にあなたを騙していた詐欺師は、自分自身だった」という教訓です。

著者の絵門ゆう子さんは、手術を主体とする西洋医学を徹底的に嫌って、一年二ヶ月の間、民間療法、健康食品、東洋医学‥‥にのめり込んだということは、前回書きました。
彼女が購入したグッズをざっと拾い出してみます。

・宇宙エネルギーを取り込むという布団(100万円)
・1.5メートルほどのステンレス・パイプ8本を組み合わせて作るピラミッド(15万円)
・身体に良い波動を出すというメダルの埋め込まれた電動マッサージャー
・布製の波動マット(17万円)
・ビワの葉エキスの掛け布団(20万円)
・遠赤外線のマット(17万円)
・ピラミッドパワー温灸器(15万円)
・普通の戸棚の10倍以上、宇宙エネルギーを取り込める戸棚(値段不明)
・マイナスイオン清浄機(30万円)
・様々な浄水器(その浄水器ごとにお抱えの医学博士がいて、それぞれの論理を展開し、他の方法の弱点を指摘しているので、結局、何度も買い換えることになる)

これらは一回買えば済みますが、健康食品などは毎月買わなければならず、一ヶ月分が10万円するものもざらだったということです。
その他に、四ヶ月で50万円した草の粉療法。これは、薬草の粉をお湯で溶いて身体に貼り、そこから膿を出して癌を治すというもの。

それに、一回40分で3万円の気功も並行して行なったようです。
その先生が言うには、ちょっと前までは入会金250万円、一回の施術料は30万円だったらしい。

実際には癌が首にまで転移してしまっていた時には、草の粉療法の先生からは、痛みの原因は栄養不足なので卵を一日に少なくとも3個と、チーズもたくさん食べることを勧められ、彼女はその恐ろしい忠告を実行します。

3個の生卵を毎日胃の中に流し込み、直径12センチくらいの丸チーズを丸ごと一個食べるという拷問にも耐え、首の傷みの原因であると言われたトマトやナスは食べるのを一切やめたそうです。

患者と様々な物との波動を調べる、オーリングテストというのも変わっています。僕は初耳でしたが、通常療法(手術をする方法)以外の道を歩もうとする癌患者は必ずと言っていいほど出会うものらしいのです。

これは、指でO(オー)という字になるように親指とその他のどれかとで輪を作り、テストをする助手がその輪を両手で開こうとし、輪を開かれないように抵抗する患者の力の強さで、様々なことを判定していくものです。

例えば、健康食品を片方の手で握って、輪を作る強さが強い物ほど、その患者に合っている、などと判定します。これは持参した健康食品よりも、その治療院で扱っている物の方が、相性がいいという結果が出たそうです。

このテストの初回では、全身のあちこちに癌の波動があると言われてしまったようですけど、回を重ねるごとにその範囲が狭まり、「もう、がんの心配はなくなった」とはっきり言われた時、実際にはものすごい勢いで癌は全身に転移していた、とのことです。

この医師がアメリカから個人輸入した、わずか数十秒当てるだけで癌の活動を止めてしまうというマイクロ波も、効果がないどころか多くの人の癌の進行を早めたようです。

彼女は次のように書いています。

「民間療法の世界では、良い結果が出たケースだけが取り上げて伝えられる。十人のうちたった一人の結果が良く出た場合であっても、全ての人の身の上に起こることのように、読み物、セミナー、口コミなどのあらゆる媒体を通して伝えられる。
そして、同じことをやっても結果が出なかった残り九人のケースについては、状況が報告されることがほとんどない。
また、良い結果が出た人がそれから何年元気でいられたかはわからないし、並行して他にどんな治療を受けていたか、がん対策として生活に何を取り入れていたかといった、他の要素にも着目していない」

「十人のうちたった一人」と書いている彼女の批判は、辛らつというよりも、むしろ、かなり控えめな書き方をしている気がします。
十人のうちの一人どころか、「千人のうちのたった一人でも‥‥」と言い切っても、決して言い過ぎではないと思います。

あれほどの確率の低い宝くじに群がるのが人間の心理であるように、たとえ千人に一人でも、万人に一人でも、自分だけはその特別な人間の一人に入り込めるかもしれない、と思い込むことはそれほど難しいことでもないようです。

「それに比べると、西洋医学は、結果が出なかった人も、出なかった人としてデータに入れられる。だから、『この薬が効く確率は〇〇パーセント』ということが提示される。これは歴然とした違いなのである」

と書いています。

あなたは、民間療法、健康食品、東洋医学などをどれだけ信じることができますか?

今、図らずも、「信じる」という言葉を使ってしまいましたが、「信じる」という言葉は、どういう時に使うものでしょうか?
まだ実証されていないものに使う言葉です。
実験と観察を繰り返した上での事実関係の証明、がなされていないからこそ、使われる言葉です。

実証されている科学の法則を、信じるか信じないかで議論する人はいません。この場合は正しいか正しくないかが議論され、その証明のためには何度でも実験を繰り返すのが科学の立場です。
では、実証されていないのに、結論を焦って「信じ込もう」とするのは何故なのでしょうか?

ちょっと冷静に考えればおかしいと気づくこれらの療法でも、命がかかっている当事者(癌患者)には、何か違った特殊な思考回路が存在するのでしょうか。良い結果だけを誇大に宣伝して、営利目的でグッズを販売したり施術を施すのは、明らかに詐欺行為です。

上に紹介した商売に関わる人たちは、間違いなくみんな立派な詐欺師たちです。

詐欺師とは、辞書によると「うまく人をだまして金品をだまし取る者。かたり。いかさま師。ペテン師」とあります。彼らは、このような明確な詐欺意識を持って行動をしているわけではないし、ある信じるものに突き動かされている人たちですから、なおさら複雑で巧妙で性質(たち)が悪いとも言えます。

詐欺とは、辞書によると「巧みにいつわって金品をだまし取ること」の他に、次のような意味もあります。
「他人をあざむいて錯誤に陥らせる行為」

生命保険の予定利率引き下げ法案で使われた「生保破綻を未然に防ぎ、契約者の保護のために」という詭弁も、住基ネット法案で使われた「(一人あたり平均2年に一回に過ぎないような)住民票取得の煩わしさなどから市民を解放する」という詭弁も、間違いなく詐欺行為です。

詭弁とは、「間違っていることを、正しいと思わせるようにしむけた議論。人をあざむくため故意に行われる、虚偽の推論」のことです。市民をペテンにかけるこのような詭弁を弄する人たちは、自分の詭弁が詐欺行為であることには少しも気づいていません。

それどころか、支持する人たちの声に支えられてどこか堂々としています。

僕は有能な詐欺師の条件は、常に自己中心的で、自分のどんな行為も正当に理由づけしている人だと思っています。自分のどんな詭弁も、詐欺行為だとはこれっぽっちも考えない人です。そこへいくと、政治家の方たちはかなりの高得点が得られそうです。
また、そういう人たちでなければ頼りなくて、多くの人の支持を仰げません。

他人をペテンにかけようとしている自分に気づいてしまうと、ビクビクした態度が相手に悟られてしまい、とても立派な詐欺など働けません。

むしろ、自分は他人のために身を粉にして働いている、というような意識に支えられて、信じるものに突き動かされて彼らは堂々としてさえいます。
つまり、どこまでも自分中心に都合よく物ごとを考え、罪悪感や詐欺意識がありません。

こういう意識の人たちが、事実関係の証明されていないものを、営利を目的として販売行為などを行なった場合、「詐欺罪」が適用される事態を招くことになってしまうわけです。

そんなわけですから、有能な詐欺師たちは、詐欺罪で捕まっても、他人に喜ばれることをしてあげているはずの自分の行為の、どこが詐欺に当たるのかわからない、どうしてみんなは自分をいじめるんだろう、自分の方こそ被害者であり弱者である、とさえ思うはずです。

これはどこか、ある新興宗教の幹部たちの、被害者意識や信仰という強いバックボーンに支えられた行動と、とてもよく似ています。そう言えば、宗教の教義や、その宗教にまつわる奇談、伝説、伝記のたぐいも、事実関係の証明されていないものがほとんどのはずです。

そんな特別な例を持ち出さなくても、常にどこかに被害者意識を持ちながら、今のこの社会集団の常識という強いバックボーンに支えられて生活している僕たちの行動と似ています。

詐欺行為(詐欺的言動)は次から次へと伝わる習性があり、やがて常識として定着したりするので、詐欺的言動であることを気づきにくくします。

例えば、あなたに学齢期の子どもがいれば、間違いなく通わせる学校や塾。これなんか明らかに、現代社会を支えている「常識」を丸のまま受け入れた親たちが、罪悪感や詐欺意識もなく、子供たちをペテンにかけて学校や塾に押しやっているようなものなんです。

義務教育だから仕方ないですって、そうそう、そういう正当な理由づけをして僕たちは堂々と詐欺行為をそれとも気づかず、せっせと実行させられています。ある意味、「子どもをあざむいて錯誤に陥らせ」ているわけです。

これらは、営利を目的としていないので詐欺罪には当たらないだけです。
しかも、学歴は必要なものであるという常識が支えてくれているので、子どもをペテンにかけているのに、子どものためだと堂々としていられるわけです。

義務教育は廃止すべきだ、などと言っているのではありません。
詐欺的言動とは、実は、常識というバックボーンに支えられて、あなたも僕もみんな日常茶飯事に堂々と行なっている行為だった、ということを言っているんです。

でも、いいですか!?
一番の詐欺師は、あなたをうまく丸め込もうとしている人たちではなく、その詐欺師たちの言葉を「信じようとしているあなたの心」の中にいます。
自分自身が、自分に対して、誰よりも有能な詐欺師を演じていたんです。

話を癌に戻します。
自分の癌だけは奇跡が治してくれる、と思い込もうとしている心が、自分をペテンにかけています。

これが、詐欺行為(詐欺的言動)の真偽を確かめようともせず、詐欺的言動に気づかない振りをしてしまう、本当の理由です。心の中の詐欺師は耳元で甘くささやき、実際の詐欺師たちを誰よりも有能に援護します。

「普通のことをしていたんじゃ駄目だよ」
「値段が高いほどよく効きそうじゃないか」
「100万円もするんだから本物に違いない」
「正確なデータがないあやふやなものだからこそ、奇跡が起こりそう」
「自分にだけは特別に効くかもしれない。やってみなければわからない」
「効かなかった人は、途中でやめちゃったからかもしれない」
「自分が信じる治療法に対する批判なんか聞きたくない。自分自身が否定されるようでたまらないんだ」
「信じなければ、治るものも治らない」
「症状が悪化したのは、一時的な好転反応に違いない」
「今度の先生は、今までの治らなかった治療法を全面否定してくれるので信頼できそう。いい先生に巡り会えた」
「テレビや雑誌で有名な先生だから、きっと正しい治療法だ」
「症状が安定しているのは、今行なっている治療のおかげかも。今やめては駄目だな」
「これだけ辛い思いをする治療法だから、効果があるはずだよ。がんばろう」

僕たちは誰もが自分中心に生きています。
そして、「人間の自己中心的な心」の余裕のなさが、癌を敵視する気持ちを作り、自分に詐欺的言動を働く人たちを誰よりも有能にサポートして、自分自身をペテンにかけていたんです。

その意味で、それと気づかず誰もが日常茶飯事に詐欺行為(詐欺的言動)を行なっていたわけです。

実証されてもいないグッズに焦って飛びついてしまう原因は、自分の中に、長生きしたい、苦痛から逃れたいという欲があるからです。

もし、この自分中心の気持ちを捨てることができて、癌は自分の愛すべきモンスター(分身)であるから仲良く共存しよう、などと考える余裕を持てれば、心にスキもできなかったはずです。

詐欺は、人間の自己中心的な「心のスキ」に入り込む魔物です!!

何かを信じようとしているその時、その自分の意識に目を向けてみてください。もし、自分の身体を治すこと、自分の経済的危機を救うこと‥‥、そういう自分中心(自分だけ、あるいは自分たちだけを救うこと)であったなら、そこには必ず詐欺的言動がくっついています。

民間療法、健康食品、東洋医学などの「科学で実証されていない」療法も、実証を待ちきれずに信じ込もうとしてしまったり、幸運をもたらすとうそぶく石ころを買ってしまったり、予言や占いを信じてしまうのも、この人間の自己中心的な「心のスキ」に入り込む詐欺的言動のなせる業です。

一見、無邪気で微笑ましくもある人間の営みですが、これを軽視しないでくださいね。この「人間の自己中心的な心」こそ、世界から平和を遠ざけている張本人です。

人間には、うまく騙してほしい気持ちがあることは確かです。その気持ちが、巷(ちまた)にあふれる詐欺的言動を引き寄せてしまいます。

だけど、決して騙されまいとする気持ちもあることも確かです。しかし、その気持ちも、実は巷にあふれる詐欺的言動を引き寄せていることは忘れられがちです。人間を取り巻くあらゆる物事は、人間の脳を騙し合う詐欺的言動だけで作り上げられていたと言ってもいいくらいだからです。

その詐欺的言動が次から次へと伝わり、やがて定着したものが常識と呼ばれるようになり、主義を作ったり、国家を作ったり、差別を作ったり、そして争いや戦争を作った‥‥このように人間の社会を説明することも可能ではないでしょうか!?

よく、二十世紀最大の悪として引き合いに出されるナチスのユダヤ人大虐殺ですが、これこそ人間の詐欺的言動の連鎖が生み出した悪と言えます。

よーく考えてみてください。
「自己中心的な心のスキ」を持つ僕たちが、ヒトラーの出現を待望したんです。「自己中心的な心のスキ」を持つ僕たちが、ヒトラーの詐欺的言動を必要としたんです。

「自己中心的な心のスキ」を持つ僕たちユダヤ人(僕は日本人ですが、分身主義的な意味でこのように語ってみました)が、選民思想(シオニズム)という詐欺的言動を必要としたんです。

そうして、僕たちの「自己中心的な心のスキ」に入り込んだ詐欺的言動が、ユダヤ人を生贄(いけにえ)にしたのがあの事件でした。


この詐欺的言動をサポートする「人間の自己中心的な心」が、今も世界中から争いをなくせない最大の原因です。どんな争いも、自己中心的な心が有能に援護している詐欺的言動を伴います。


でも、大丈夫。世界中に争いの種を撒き散らす詐欺的言動は、実証だけを重んじる気持ちを持ち、自分中心の考え方がなくなれば、消失します。

世界中の人が平和を願う今こそ、実証の学問である科学と、それが導いてくれた分身主義が役に立ちます。

僕たちは一つ一つ自問し、塗りつぶしていかなければいけません。

1.例えば、「命の尊厳」などという考え方は、自分のため、あるいは自分たちのためだけの詐欺的言動ではなく、世界を平和にするための詐欺的言動であったかどうか‥‥。
答えは否です。

これが、何の根拠もない、「人間の自己中心的な心のスキ」に入り込んだ詐欺的言動であることは明らかです。(僕たちは、命の尊厳などという詐欺的言動を用いなくても、幸せになれるし、むしろその方が、この宇宙に存在する全てのものと、もっと仲良くなれます!)

2.例えば、学歴や塾を必要とする詐欺的言動は、自分のため、あるいは自分たちのためだけのものでなく、世界を平和にするための詐欺的言動であるのかどうか‥‥。
答えは否です。
それらが競争を生み、助け合う気持を奪っているのは明らかです。

3.例えば、宗教という詐欺的言動は、自分のため、あるいは自分たちのためだけのものではなく、世界を平和にするための詐欺的言動であるのかどうか‥‥。
こちらも、答えは否です。
宗教を巡る対立は世界各地でたくさん起こっています。

とは言っても、人間の脳は、常に、何かに騙されている状態にあるわけです。それが脳の特性です。

自分のため、あるいは自分たちのためだけのものではなく、世界を平和にするための詐欺的言動があるとすれば、それは一つだけです。万人を納得させる科学的データに基づいて生まれた、分身主義という詐欺的言動だけです。

自分の幸福と他人の幸福を同じ次元で喜べる、のが分身主義です。でも、それはもはや詐欺的言動とは呼べません。
それを信じることは、決して人類に害を生まないからです。
誰にも被害を与えないものに、詐欺という言葉は当てはまりません!!


「およそこの宇宙に、仲良く生きることを犠牲にしてまでも決定しなければならない重大事項なんて、ただの一つだって存在しない」

分身主義の考えていることは、「みんなが仲良く生きる」、そのことだけです。それだけをいつも考えている分身主義こそ、詐欺という言葉が当てはまらない唯一のものです。

だって、僕たちが一つだったということさえ、非科学的なこじつけではなくて、科学が証明済みのことですもの‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

あなたは、絵門ゆう子さんの行動を笑えますか? 彼女は次のように書いています。

「私のことを、ずいぶん特殊で変わった『先生』の所に出入りした人間だと思う向きもあるかもしれない。しかし、正確なデータがあるわけではないが、こういうところを訪れる患者はかなり多く、私が出会った『先生』たちには、いつも予約がぎっしり入っていた」

僕には彼女の行動を笑えません。
疑い深い僕だって、この 46 年の人生の中で、何度、詐欺行為に引っ掛ってきたことでしょう。

僕は、誰も恨めません。

何故なら、一番の詐欺師は自分自身だったからです。

ある人が自分を騙そうとしているかもしれないと思っても、「そんなはずはない」と、なんだかんだとお人好しな理由づけをしてしまい、事実を直視しようともせず自分を騙し、結果的には詐欺師の片棒を担いできたのは、他ならぬ自分自身だったからです。

結婚詐欺が成功するのも、引っかかる本人が一番の詐欺師を演じてくれるからかもしれません。

客観的に見たら、とても異常な行為をどれほど行なってきたことでしょう。

僕たちの心の中に、自分を快く騙してくれる詐欺師を求める心が確かにあります。もしあなたがまだ未婚の若い方なら、その詐欺師の一人を、あなたは「恋人」という名前で呼んでいるかもしれませんね。

そんな彼(彼女)に出会ってしまったら、もう誰にも止められません。
早くみんなが、世界に争いを撒き散らさないような、分身主義的愛し方ができるような社会になればいいですね。


NO.22 雨の日には雨の日の幸福 2003.07.08

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【雨の日を引き合いに出して晴れの日を喜ぶ、そのような生き方はやめにしましょう】

みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
二週に渡って『がんと一緒にゆっくりと』(新潮社)を参考書にさせていただきました。
僕たちの分身さん、著者の絵門ゆう子さんは、僕と同じ1957年生まれです。とてもチャーミングな方で、誰もが自慢したくなるような分身さんです。

彼女の、癌を「がんちゃん」と呼んで共存していくという考え方は、とてもいいと思いました。

「民間療法は、本当に自信があるなら、結果が出なかった人に対して切り捨てたり放り出したりせずに、西洋医学のように、一つのデータとして受け止め把握しようとする姿勢を持って、もっと正々堂々としてほしい」

という訴えかけも正当なものだと思います。

でも、ただ一つ、彼女の書いていることで引っ掛るところがありました。
それは、一年二ヵ月の間、なんとか手術をしない方法でやってみたが思わしくなく、結局、嫌っていた西洋医学のお世話になるのですが、そこで肺にたまっていた水を抜いたり、ホルモン治療を受けていくうちに、ついに眠れない苦しい夜から解放された日のことです。

彼女はその日のことを、次のように書いています。

「体を横たえて、安らかに呼吸ができて、痛いことも苦しいこともあまりないという幸せはたとえようもなかった。生きて普通に呼吸ができるということは、こんなにも有り難くこんなにも嬉しいことだった。生きていることそのものを丸ごとそれだけで喜べるという最高の幸せを、『がんちゃん』は経験させてくれたのだ」

確かにその通りだし、感動的ではあるけれど、どこか違うような感じがしたのです。
そして、完治ではないけれど、退院して自宅療養できるまでになり、ベランダで冬の陽を背中に浴びて洗濯物を干している時です。

「気持ちがいい。なんて幸せなんだろうと思う。数ヶ月前は、手を伸ばして物干しにハンガーをかけることもできなかった。今は、思い切り深呼吸をし、鼻歌を歌いながら、すべての家事をこなせるようになった。(中略)私はここに戻って来られたのだ」

このように感じている彼女に対して、共感を持ちながらも、どこかが間違っているように感じていました。
この違和感が何を意味しているのか、ずっと考えていましたが、それがやっとわかりました。

僕は自分のホームページにも書きましたが、18歳から30歳半ばくらいまでずっと、遺書を書き残して死のうと思って生きていました。遺書が完成したら死のうという決意をした18歳のある日、僕はその決意を日記に書き終え、ふと自分の部屋の窓から外を見ました。

すると、これは本当なのですが、転がっている石ころがまるで宝石のように輝いて見えたんです。何の変哲もない草や木が、命を謳歌して歌っているその声まで聞こえてくるようでした。
これは大袈裟なのではなくて、普段、きっと僕たちがその声に耳を貸そうとしていないだけだと感じました。

そう思った瞬間、今、生きて何かを考えたり感じたりできる自分に感動して、涙が後から後から流れて止まりませんでした。

僕は日記に付け足しました。「死のうと決めたこの日に、命のすばらしさに気づくなんて、何て皮肉なんだろうね」


彼女(絵門さん)は、癌と出会い癌を乗り越えたことで、それまでは人生のたわいもない当たり前のようなことが、こんなにも幸せなことだったのかと気づいて喜んでいます。
僕は、死の決意を前にして、それまでは気にもとめなかった草や木や石ころの、命を謳歌する声が聞こえてきて、涙が止まりませんでした。

僕は、自分の若かった頃の体験と、彼女の体験をオーバーラップして見てみます。すると、彼女の気持ちがとてもよくわかり共感できるんです。でも、今の僕はその頃とどこか違って、何かが間違っていると感じています。

僕も彼女も、死ではなく生きている自分を、病気ではなく健康である自分を喜んでいます。

だとしたら、病気のままの状態の人には、あるいは死を待つだけの体の人には、彼女や僕のようには、喜びを味わうことができないと言っているようなものです。その人たちをどこかで蔑み否定しているような感じです。

彼女と僕の論理はこのようなものです。
「毎日毎日、青空ばかり眺めていて、感動する気持ちをなくしていたけど、雨が降り続く梅雨の日を味わって初めて、晴れの日のありがたさが実感できた。してみると、雨にも感謝しなくっちゃ」

鬱陶しい雨の日を嫌悪する気持ちが、晴れの日を引き立ててくれたわけです。雨の日は、晴れの日の引き立て役として感謝されているだけです。

雨の日は、病気、弱さ、貧しさ、死‥‥の比喩と考えてください。晴れの日は、健康、強さ、裕福、生命‥‥の比喩です。

僕たちの幸福感の元には、明らかに、病気、弱さ、貧しさ、死‥‥を否定し、健康、強さ、裕福、生命‥‥などを好む気持ちがあります。
では、それがなければ、幸福感を味わえないのでしょうか?

口には出しませんが、なんだか、病気、弱さ、貧しさ、死‥‥に対して抱く
「優越感」に根差した幸福のようでイヤ~な感じがします。
それが、今の僕が絵門さんの喜ぶ姿に違和感を感じた意味でした。

今の僕は、降り続く雨の日も喜べる心を持ちたいと思っています。分身主義は、幸福は誰にでも平等であると考えます。
幸福は、健康、強さ、裕福、生命、の中にあるのと同じくらい、病気、弱さ、貧しさ、死、の中にもあります。

分身主義は、雨の日には雨の日の幸福を十分に堪能する余裕を与えてくれます。もう僕たちは、晴れようが雨が降ろうが、ちっとも恐くなんかありません。

だって、僕たち一人ひとりの分身にできることは限られているけど、でもみんなが自分に代わって、自分にできない環境で生きてくださっている分身さんたちです。

だから、雨の日を引き合いに出して晴れの日を喜ぶような生き方は、もうやめにしましょう‥‥ 😉✰ネッ!


☆ ☆ ☆


ところで、前回のメルマガ「NO.21 誰よりも有能な詐欺師」を読んでくださった mori-nori さんから、メールをいただきました。

彼(彼女?)は「子どもを学校や塾に行かせるのは、親の詐欺行為であるというのは、飛躍しすぎではないでしょうか!?」
と書いてくださいました。
もしかしたら、「宗教さえも、結構、詐欺的言動で作られている」という僕の見解に、当然、反感を抱く方も多かったのではないでしょうか?

僕も、どこまでみなさんに伝わったか不安に思っていたところでしたので、率直なご意見とても嬉しかったです。
ありがとうございました。

mori-nori さんは次のように書いてくださいました。

法治国家である日本では、詐欺を働いたかどうかを判断するのは、裁判所に委ねられています。
裁判所が詐欺罪には当たらないと判断すれば、それは詐欺ではないということになります。
たぶん、「子どもを学校や塾に行かせるのは、親の詐欺行為である」というあなたの論理は、綾小路きみまろさんの漫談のように笑いを取るだけのことだとしか、裁判官には受け取られないでしょう。

 mori-nori さんは、詐欺罪を次の二つに分けられると詳しく説明してくださいました。

(1)財物を騙し取る(刑法 246-1)
(2)騙して財産上の利益を得る(刑法 246-2)


このうちの(2)をもっと詳しく説明すると、次のようになるそうです。

これを成立させるためには、欺罔(ぎもう)行為+錯誤+財産的処分行為+財産上の利益の取得の4つの要件が全て証明されなければなりません。
1.欺罔行為とは、他人を騙す行為であり、詐欺罪の実行行為です。
この欺罔行為は、後述する財産的処分行為に向けられ、これを引き出す危険性を有する内容のものでなければなりません。そのような性格を有しない場合は、たとえ人を騙す行為が行われても、それは詐欺罪の実行行為とは評価されず、詐欺罪は成立しません。
2.錯誤とは、欺罔行為の結果、勘違いに陥ることをいいます。
3.財産的処分行為とは、文字どおり、財産上の利益を処分する行為ですが、これは、騙される側が自分の意思で(あるいは不完全な意思で)自分の財産的処分行為を行なうことです。
4.財産上の利益の取得は、改めて説明するまでもないでしょう。
そして、これらの各要件の間に順次因果関係がある場合に初めて、詐欺罪は成立することになります。

「子どもを学校や塾に行かせるのは、親の詐欺行為である」という主張は、上記の(1)にも(2)にも該当しません。
従って、あなたの論理は適切ではないと思われます。
しかし、そのことよりも問題なのは、悪意のない善良な市民をいたずらに刺激して混乱させようとする、根拠に乏しいあなたの言動にあると思われます。

ここまで詳しく調べて教えてくださいました mori-nori さんに対して、感謝の気持ちで一杯です。
確かに「裁判所が詐欺罪には当たらないと判断すれば、それは詐欺ではない」はずです。
mori-nori さんが、こんなに詳細に調べてくださったので、僕も調べてみました。


★例えば、A子さんのメル友の男性が、A子さんに良く見られようと、自分は著名なピアニストだとウソをついた場合‥‥、そのウソが、A子さんから高価なプレゼントを受け取ったり、お金を騙し取るためについたウソであると証明されない限り、彼の行為は、‥‥詐欺行為とは言えないそうです。

★インターネットの世界ではお互いに顔が見えないこともあり、男であるのに女のふりをするネカマや、自分の年齢や職業をごまかす人などが多く存在します。さて、このような行為は‥‥、詐欺行為とは言えないそうです。

★個人オークションの取引でブランド物のバッグを買いましたが、届いたものを鑑定に出したら偽物でした。売り手が、その商品を本物と信じていた(誤認していた)場合は‥‥、欺罔行為が不存在になるため、詐欺には該当しないそうです。

★マイナスイオンが体に良いようだ、と報じられると、今度はそれが一人歩きし、常識化し、何でもかんでもマイナスイオンばやりとなります。エアコンにも空気清浄機にも、それさえうたっていれば体に良さそうな気がします。

かつて、トルマリンという石からはマイナスイオンが発生しているらしいということになって、トルマリンを練り混んだと言われる繊維による衣料や寝具が現れたのですが、トルマリンが含まれているランドセルが出たと聞いた時には、そこまでやるかと嫌な気分がしました。

もちろん、ネックレスやブレスレットなども作られました。たとえ効果が現われなかったとしても、目に見えないものなので、実はそれによって効果が現れたのかどうかの因果関係の証明は無理だし、素人には検査する方法がありません。それを製造した人や販売している人は、常識化した商品の効果を信じて製造・販売しているだけという言い訳が立つので‥‥、詐欺行為を立証するのは難しそうです。


僕が前回のメルマガに書いた、自分の両親を詐欺師呼ばわりする子どもは、もちろん一人もいません。常識化したものを信じている両親に、‥‥詐欺罪を立証することもできません。
また、子どもを良い方向に導こうとするのが親であるという常識もあり、子どもが親を訴えることは通常あり得ません。

ちなみに、訴訟大国アメリカでは、自分をアダルト・チルドレンに育てた両親を訴える訴訟も起こっているそうです。

ところが、僕はこれらの「相手を騙して財産上の利益を得ようとする明確な意図のない」行為も含めて全て「詐欺行為」(=詐欺的言動)と考えます。
それは、法治国家において「詐欺罪」が立証されるかどうかということに焦点を当てているのではなく、僕の目的は、まさに mori-nori さんのおっしゃる「善良な市民をいたずらに刺激して混乱させ」ることだったんです。

こんなことを言うと、「では、あなたの詐欺理論からすると、善良な市民を混乱させようとするあなたの行為こそ、詐欺的行為ではないですか!?」
とのつっこみを入れられるかもしれません。
そうしたら、僕は次のように答えるつもりです。
「その通りです!!」
‥‥と。


僕は詐欺行為を、人間の精神活動の延長で、日常茶飯事に行なわれていること、といった意味合いで使用しています。

詐欺か否かを判定するのが裁判所ですが、そこで行なわれていることすら、人間の精神活動の延長である以上、まさに、詐欺行為のやり取りに過ぎないということを言いたいんです。

白らしいものを白と断言したり、黒らしいものを黒と断言したり、あるいは白を黒と、黒を白と、はっきりと言いくるめることがそこでの仕事ですから。

この、人間の精神活動の本質を見つめるところからしか、世界平和は始まりません。
自衛隊の派遣は憲法に違反しているか? 法律をいかに改訂するか?
今、政治家たちが、背後に様々な思惑や利権を隠して、理由づけに明け暮れています。こんな詐欺行為を詐欺行為として見つめる目を持たない限り、世界は平和になりません。

自衛隊の派遣問題は少しも複雑ではありません。
分身主義の立場から言わせていただければ、この宇宙に敵などどこにも存在しなかったのです。つまり、自衛隊を派遣するかしないかではなくて、そもそも軍隊も自衛隊もこの世界には不要だったのです。

未だ科学的覚醒に至っていなくて、たとえ分身主義が理解できない人であっても、全世界のみんなが仲良く生きる‥‥、その大前提さえしっかりとわきまえていれば、自ずと回答は出ています。

こんな、子どもでもわかる簡単な「基本」が、人間の精神活動がもたらす詐欺行為が作り上げる常識化によって、どんどん見えにくくなってしまっています。

世界平和という名目で、難しいことをしかめっ面をして、あるいは喧嘩ごしに話し合っている政治家や学者の方たちの心の中に、子どもでもわかる「世界平和とは、世界のみんなが仲良くすることだよ」という気持ちがあるとは思えません。

彼らは、損得勘定を抜きにしての「仲良くすること」が下手なんです。仲良くすることが下手な人たちが、どう転んだら世界を平和にできるというのでしょうか?

誰か教えてください!?

できるのは自分たちの立場を優位にするか、あるいは安全に守るか、というようなことだけです。現に、彼らが話し合っているのはそのことだけです。

僕は、前回のメルマガで、「詐欺」などという紛らわしい言葉を使わずに、他のもっと適切な言葉を使えなかったのでしょうか?
もっとよく考えて、他の違う言葉で表現するべきだったんでしょうか?

でも、僕は「詐欺」という言葉が持つ力に期待してみたかったんです。
mori-nori さんのような善良な方の怒りに火をつけ、反感を抱いて欲しかったからです。
何故なら、その言葉が持つ力に頼って、みなさんに伝えたい思いがあったからです。


つまり、僕の使った「詐欺」という言葉は、「詐欺罪」を成立させる要素としての「詐欺」ではなく、世界平和のために要請(必要)された言葉だったということです。

世界を平和にできないのは、政治家が無能なのではなく、日常茶飯事に行なわれている詐欺行為に気づかない、善良な市民である僕たちに原因があったということを伝えたかったんです。

いいえ、「善良な市民」などという常識からして、詐欺行為の上塗りが作り上げている悪しき常識である、と言いたかったんです。
悪にはまったく無縁の政治家が一人もいないのと同じように、善良な市民なんてどこにもいないんですよ。

mori-nori さん、聞こえていますか?
僕は、決して人間の精神活動がもたらす詐欺的行為を批判しているのではありません。
世界を平和にしたい(仲良しの人間関係で満たしたい)だけなんです。

そのためには、自分たちの詐欺的行為を許し合う気持ちを持つことが必要だと考えています。
笑い合うくらいの余裕を持ちたかったんです。
許し合い、笑い合うためには、その前に、詐欺的行為をしている自分たちを知ることが大前提だと思ったんです。

そこから、始めたかったんです。


そうして最後には、「自分」のための詐欺的行為が「自分たち」のための詐欺的行為になるような、つまり、分身主義的な詐欺的行為が世界に蔓延すればいいな、と考えているのです。

僕は、政治家の方たちのように詭弁を弄していますか? 悪く言えば、あなたをペテンにかけようとしていますか?

もし、そうであっても、それは高い商品を売りつけて利益を得るためではありません。
あなたに幸せになって欲しいからです。世界を平和にしたいからです。

mori-nori さん、あなたは僕の誇るべき分身さんです。そして僕はあなたの分身です。
僕は、押し寄せている見えない大きな波に背中を押されるようにして、この文章を書いています。書かされています。
世界中の分身たちの心に「世界を平和にしたい」という気持ちが起こっていて、それが大きな波となって僕に書かせているだけです。

僕はただの媒体。
みんなの分身です。

mori-nori さん、こんなペテンに引っ掛かってくれませんか?
だけど安心してください。あなたをはめようとしているこの言葉の魔術は、ちゃんと科学が種明かしをしてくれていますから。


◆◇◆編集後記

僕の目指している完全無欠の分身主義者にならない限りは、人間の全ての言動には、多かれ少なかれ「詐欺」の要素はあります。

何故、人間の精神活動自体が「詐欺」的なのでしょうか?
それは、人間の根底には「自・他」の観念があり、あらゆる言動が「自分」の保身や利益のための正当化だ、と言ってもいいくらいだからです。

その逆に、分身主義とは、「自・他」の観念が希薄になった視点です。
全てが自分の分身であるなら、自分の利益のために相手を錯誤に陥らせる必要もなくなります。

その時、初めて世界が平和になると思いませんか!?

世界中の分身たちが幸せにならなければ自分も幸せにはなれないし、自分が幸せにならなければ世界中の分身にも迷惑がかかります。


世界の平和は、有事法制にこだわって、しかめっ面をして、あるいは喧嘩ごしに話し合っている狭隘(きょうあい)な、損得勘定を抜きにして仲良く生きることの下手な大人たちには実現できません。

世界平和の鍵は、そんな難しいところにはありません。
むしろ幼稚園の砂場のようなところに無造作に転がっているんです。


NO.23 楽しむためにゲームはある 2003.07.15

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【弱い者が敗者なのではない。人間の脳の中に、弱い者を敗者とみなす共通の感覚が作られてしまっただけである】

Q1、法律は強者のためか、弱者のためか?
Q2、自然界は本当に弱肉強食か?
Q3、どうして弱者が敗者とみなされるのか?

みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
前回、mori-nori さんのメールで「詐欺罪」について調べていたら、法律は誰のためにあるのか気になり出しました。

法律は、社会生活の秩序を維持するために作られるものですが、その作られ方には二種類ありそうです。


(1)統治者や国家が定めて人民に強制する。
(2)国民が主権となり、統治者や国家の権力に制限を加える。

この例として適切かどうかはわかりませんが、我が国の憲法を当てはめてみます。

(1)の例‥‥大日本帝国憲法
(2)の例‥‥(現行の)日本国憲法

大日本帝国憲法は、1889年(明治22)2月11日、明治天皇によって制定・公布された欽定(きんてい)憲法です。
1890年11月29日施行され、七章七六条から成り、天皇の大権、臣民の権利・義務、帝国議会の組織、輔弼(ほひつ:天皇の権能行使に対し、助言を与える)機関、司法、会計などに関して規定してあります。
天皇主権・統帥(とうすい)権の独立などを特色とします。
1947年(昭和22)5月2日まで存続しました。

現行の日本国憲法は、敗戦後、連合国最高司令官マッカーサーらによって作成された草案に基づいて、1946年(昭和21)11月3日に公布、1947年5月3日から施行されました。
国民主権・基本的人権の尊重・権力分立を基本原則とし、象徴天皇制・議院内閣制・違憲立法審査権・地方自治の保障などを規定しています。


現在の僕たち日本人の人権は、この日本国憲法によって、一部の権力者の独裁、権力の乱用から、守られているらしいのです。
だとしたら、なんと結構なことではないでしょうか!?

また、全ての法律がこの憲法の意思に基づいて作られているそうです。
犯罪・日常的な買い物・アパート契約・アルバイトの賃金などのこまごまとした物事に到るまで、弱者が泣き寝入りしないように守ってくれているようです。弱者にとってはなんとありがたいことでしょう。

でも、そんなことで、安心している場合ではありません。
確かに守ってくれてはいるけれど、本当は、何らかの判決が下りたところで何一つ解決されてはおらず、何一つ救ってくれてなんかいないのです。
法律には拘束や防御や賠償金を取り立てることはできても、「人の心を育てる」ことはできません。

僕の言う「心を育てる」という場合の「心」とは、自己の境界線と考えてくださればわかりやすいと思います。ほとんどの人間が、「自分」を他人と区別する小さな境界線を作って生きています。
自分だけのパスワードを入力しないとうまく作動してくれないように、人間の脳は変化してきちゃったからです。

その「自分」を中心とした心が少しだけ育つと、「自分たちの側」という境界線を引けるようになります。
もっと心が育つと、「僕たち人類」という境界線を引けるようになります。もっともっと心が育つと、「ビッグバン宇宙」にまで境界線を広げることができるようになります。

自分 < 自分たち側 < 僕たち人類 < ビッグバン宇宙

この最も拡大された境界線こそ、現代科学が解明しているものを手がかりにして生まれた「分身主義」が描いている境界線です。
平和を願っている僕が夢見ている境界線です。

これ以上の境界線を描くには、今現在もものすごい勢いで膨張を続けている、この「ビッグバン宇宙」の外側の様子を解明できる科学が必要になります。でも、そこまで僕たちの心が育たなくても、僕たちが幸福になるには十分です。

前回のメルマガにも書いたように、元々、法律は人間の詐欺行為の延長から生まれ、その詐欺行為の正当化として法律が利用されています。

法律が貫(つらぬ)くはずの正義にしても、本当は「正しい行為」のことではなく、ある人々が、その詐欺的言動の積み重ねの中で「正しいと信じている行為」のことです。

ということは、正義は必ずしも弱者の味方ということではなく、強者の声の強さで決まってしまうこともあり得ます。

今、日本では自衛隊の派遣問題に絡めて、大人たちが法の解釈に明け暮れています。テレビをつけても、難しい顔をして、お互いの信ずる「正義」という詐欺的言動をぶつけ合っています。

でも、せいぜい「自分たち側」という程度にしか心が育っていない僕たちが、いくら法に頼っても幸福にはなれそうもありません。
その程度の僕たちが法律を扱っても、対立する両者の優越意識や劣等意識をいたずらに刺激し、「心を育てる」どころか、さらに「自分たち側」とそれと対立する「他者側」をより強く意識させられるだけです。

僕たち人類が本当の意味で救われるためには、心が育ち、優越意識や劣等意識からも解放されなければいけないということを忘れないでください。

どうせ詐欺的言動に明け暮れるのが人間であるなら、「分身主義」という詐欺的言動を持ちましょうよ!!
「分身主義的なものの見方」ができる人間が、法律を作り、法律を解釈すれば、きっと法律はあなたを救ってくれるものになります。

その法律は、敵から自分を守るためのものではありません。敵が存在しない分身主義には、守るべきものがないからです。
その法律は、世界中のみんなが仲良く生きるためだけに、そう、自分たちの心を救ってくれる(一つにしてくれる)ためだけに存在する法律です。

☆ ☆ ☆


さて、本題に入ります。(ごめんなさい。今までは本題ではありませんでした)と言っても、全く別のことを書くわけではありません。

先程、現在の法律は、「犯罪・日常的な買い物・アパート契約・アルバイトの賃金などのこまごまとした物事に到るまで、弱者が泣き寝入りしないように守ってくれている」と書きました。

しかし、弱者を守るのが法律だとしたら、強者にとっては、法律は、時には疎(うと)ましい場合もあるはずです。

そこで次のような暴言を吐きたくなる人も出てきそうです。
法律なんて、強者になり損ねた弱者どもが、強者に対する妬み根性で仕返しするためのずる賢い知恵に過ぎない!

今、僕たち日本人を大まかに二つのグループに分けてみます。

A.優越意識を持っているグループで、強者、エリート、勝ち組み、金持ち‥‥。
B.劣等意識を持っているグループで、弱者、落ちこぼれ、負け組み、貧乏‥‥。

あなたはご自分をどちらのグループだと思いますか?
Bだと思っている方は、何とかAに這い上がろうとするか、あるいは、もうその力もなく諦めているかどちらかでしょう。
しかし、自分をBだと思っている人の中にも、自分より下に対して優越意識を持っているかもしれません。

現在、Aをまっしぐらの方は、Bに落ちないように気を張って生きています。また、自分をAだと思っている人の中にも、常に自分の上に対して劣等意識を持っています。

Aに這い上がろうとしている人たちは、Bの人間を蔑(さげす)み、Bの地位で諦めた人たちはAの人たちを恨み、場合によっては、彼らは人間性に欠けるなどと批判し蔑みます。
その気持ちが、Bの人たちの優越意識に変わります。

これらのことから、優越感と劣等感とは全く正反対のものではない、と言えそうです。
優越感の強い人ほど、心のどこかに強い劣等感があり、劣等感の強い人ほど、心のどこかに何らかの優越感に頼っています。
と言うことは、優越感も劣等感も、根本は同じ「強い自我意識」で、それが形を変えて表面に出てきただけと考えられます。

さて、どうして僕たちは、誰もがAを目指すのでしょうか?

それは、資本主義社会の人間の価値観、あるいは幸福観からすれば、全てがAのグループに有利だからです。

資本主義


強者が権力を行使して弱者を支配すれば、弱者がその生活のほとんどの時間を労働で費やしている間、自分はその余暇を楽しみ好きなことに当てることができます。
そうしている間にも、強者はますます富み、ますます利益を享受できます。これが、資本主義社会の人たちの幸福観でした。
だから、誰もが競って、Aのグループに入ろうとします。

自分がAのグループに値する人間であると信じている者は、弱肉強食の理論を楯にして、自分を正当化します。

競争に勝ったものが経済的利益を受けることの何が悪い!
本来、自然界は弱肉強食であり、強者が弱者を搾取するのは当然である。それが強者の特権でもある!
そうさ、弱者が弱いのが悪いのだ。いやなら強くなればいいし、それが自然の摂理である!

これは資本主義社会を覆っている価値観でもあります。
資本主義社会とは、社会経済に弱肉強食の理論を当てはめようとした考え方である、とも言えそうです。

この反対の弱者救済を強調したものが社会主義とも言えます。

しかし、本当の意味の弱者救済としての社会主義は、未だかつて行使されたことがありません。

それは最終的には独裁制に取って代わってしまうからです。
万人が弱者になってしまえば、簡単に権力者の思うままの社会が作れます。「心の育っていない僕たち」の作る社会主義は名ばかりの平等で、民衆が労働によって産み育てたものを、選ばれし権力者たちが平等の名のもとで搾取してしまう社会に過ぎません。

強いライオンは自分よりも弱いシマウマを食べます。人はこれを弱肉強食と名付けました。しかし、強いライオンが勝者で、弱いシマウマが敗者であると、僕たちが断定する根拠はどこにあるのでしょうか?

自然界には強い弱いという力の差は存在しますが、勝者、敗者というものは存在しません。

もしライオンが勝者だとしたら、そのためには、シマウマという敗者の存在が不可欠になります。彼らがいてくれて初めて勝者の栄誉を与えられるのです。だとしたら、地上の生物の存亡のバランスに貢献した側を勝者とするなら、シマウマもまた勝者として称えられてもよさそうです。

それに、シマウマはライオンに食べられるために存在しているわけではないし、ライオンだってお腹が一杯ならシマウマが目の前を通っても食べはしません。

自然界は、弱肉強食と言うよりも、むしろ協力関係で成り立っているように見えませんか? ライオンがシマウマを食べ尽くしたら食糧不足で自滅してしまいます。
あたかも、その辺のバランスをうまく取りながら生物は共生しているように見えます。

これを地球にまで拡大し「地球が一つの生命共同体である」というガイア仮説を唱えるジェームス・ラブロックさんのような、僕たちの分身さんもいます。
「地球はそのすべてが一つの生命体として生きている! 地球は自己調整機能を持った有機的な存在で、人類はその一つの細胞である」
と彼は言っています。

これを宇宙にまで拡大すると、そのまま分身主義になります。
地球の全ての生命のみならず、地球の空気、山、森、海、川、それに太陽、月、夜空の星々、‥‥それら全ての分身が一致協力して、この宇宙という全体を作り上げている‥‥と考えるのが分身主義です。

ガイア仮説の関心は地球の環境問題に集中したようですが、分身主義は人間の心の問題に関心がある点が大きく違う点です。

このような考え方ができる人間でもあるのに、一方では、僕たちはライオンを勝者でシマウマを敗者とみなす感覚もあります。どうしてなのでしょうか?

人間の営みの中には、意図的に興奮や緊張感を高め合って楽しむ「ゲーム」というものがあります。
僕たちは、ライオンとシマウマのやり取りを、このゲームという営みに置き換えて見てしまっているからです。

では、もう一つ例を挙げて考えてみます。綱引きをやるとします。
力の強い側がどちらかということは、勝利する側がどちらかという結果が証明してくれます。しかし、この時、勝者が存在するためには、敗者の存在が不可欠になります。勝利という結果は、力の強い側と力の弱い側の協力関係が生み出していたということになります。

何故なら、勝ち負けというのは、ゲームの興奮や緊張感を最大限に盛り上げるための意図的な演出に過ぎないからです。
だから、協力関係が勝利者を作っているという言い方が可能なんです。

弱い者が敗者なのではありません。
僕たちの脳の中に「弱い者を敗者とみなす共通の感覚」ができあがっているだけです。
ゲームという行為によって生まれた感覚です。
これは脳の機能である記憶、が作り出す幻想でしたね。

自然界には[勝・敗]は存在せず、それが存在するのは、人間の考えたゲームの上だけです。

自然界には[勝・敗]が存在しないということは、優勝劣敗(ゆうしょうれっぱい)もまた、人間の考えたゲームの上だけの真理です。

自然界には、ある能力に優れている者がいたり、また、ある能力に劣っている者がいたりしますが、別に勝者でも敗者でもありません。
ゲームというのは楽しむためにあります。本来は勝っても負けても楽しいものです。

その程度のものを、「人間」の価値や存在までをも評価するほどにのさばらせてはいけません。

僕の友達にパチンコという単なるゲームにのめりこんで、人生を台無しにしている奴がいます。かつて、サッカーという単なるゲームに熱くなり、戦争(別名100日戦争)まで起きたことがあります。
でも、僕たちは彼らを笑えません。

同じように、競争社会というゲームにのめりこんで、真理を見る目を曇らせ、世界中の人類が仲良く生きる素晴らしさを台無しにしているからです。

もし、受験競争、出世競争というゲームが、あなたにとって苦しみしかもたらしてくれないものだったら、それはゲームとして機能してはいないことになります。
あなたという分身に向いていない、楽しめないゲームはさっさと切り上げ、楽しめるゲームをした方がいいに決まっています。

分身はみんな違うから分身なんです。それぞれ、自分に合うゲームと合わないゲームがあるのは当然です。

競争が社会を発展させると信じている人には、「発展とは何か?」との質問を投げかけてみたいと思います。

自然界にあるのは、発展ではなく変化だけです。
発展も、人間の脳の中に作られてしまった共通の感覚に過ぎません。
僕たちには、「仲良く生きることを犠牲にしてまでも決定しなければならない重大事項なんて、ただの一つだって存在しない」んです。

でも、社会の発展という幻想の方が、重大だと考えている人たちがたくさんいるのも事実のようです。

競争も発展も単なる幻想だから、頭の中から追い出してしまえなどと無理なことを言っているのではありません。
それらは、たくさんの価値を持っています。
ただ、それらを「仲良く生きる」ということの上位に置いてはいけないということを言いたいのです。


最後に、僕自身が、優越意識を持っているか劣等意識を持っているかお答えします。

それは、もちろん劣等意識です。
でもそれは、社会的な価値観からコースアウトしてしまった人間の持つ劣等意識ではありません。理性を持ってしまった「人間」という動物である、と自覚した時に感じる劣等意識です。

この劣等意識(僕たちは自然界においてみんな障害者であるという気持ち)を基底にして、僕たちはつながることが必要です。
みんなが劣等意識を持ってつながった時に、僕たちの心の中には今まで経験しなかった奇跡が起こります。

だって、もう、その時あなたは60億分の1ではないことを理解するはずです。

そう、その時こそ、僕たちは一つになれるんです‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

今回は、二つのことを書かせていただきました。(分身主義的にいうと「書かされました」です)

一つは、次のようなことです。
法律は僕たちを救ってくれているように見えるけど、実際は守ってくれているだけで根本は何も解決してくれてはいない。

法律はただの道具に過ぎません。僕たちはそれを扱うために、まず自分たちの心を育てなければ(自己の境界線を広げなければ)いけません。
優越感も劣等感も超えた次元に心が育った人たちが法律という道具を運用して、初めて僕たちを救ってくれる法律になるんです。

もう一つは、競争という言葉はゲームの中だけで使用される用語で、僕たちはそれを「分身主義」的な感覚で楽しめるようにならなければいけない、ということです。

今日も、やっぱり行き着くところは分身主義でした。


NO.24 完全無欠の分身主義者とは?(1) 2003.07.22

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【分身主義者を目指すには、日常生活を送っているこの瞬間にも猛スピードで自転と公転を続けている地球を感じようと務めなければいけない】

Q1、分身主義は泣き寝入りさせるものなのだろうか?
Q2、それは社会を腐敗させ堕落させるだけなのか?

みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。
完全無欠の分身主義者を目指している僕は、今、ピンチに立たされています。ちょっと聞いてください。

このメルマガの創刊号「自然界からの贈り物」に、コンタクトレンズを購入したことを書きました(購入日1月14日)。

実はあの時、もう一対のコンタクトを予備として購入していたのです。もし紛失した場合などに使おうと思ってのことです。

さて、1月14日に購入した新品のレンズ(これをレンズAとします)を使い始めてから一ヶ月くらい経った頃です。
壁に貼ってあるカレンダーなどの数字が、どうも見えづらいことに気づき始めました。

もしかしたら初めからよく見えないのに、自分が鈍感で気がつかなかっただけかもしれません。(実はこの説が最も有力となるのですが)
何故なら、長年コンタクトのお世話になっていますが、一ヶ月もしないで汚れや傷がついて見えづらくなったことは、今までに一度だってなかったからです。

僕の視力が急激に落ちたのではありません。
試しに、まだ開栓していない予備のレンズ(こちらをレンズBとします)を取り出して装着してみると、驚くほどよく見えたからです。

コンタクトレンズ1

レンズAとレンズBを交互に付けて試してみましたが、見え方の違いは歴然としていました。

これまでには、一年ほど使い込んで汚れたレンズと、新品のレンズを比較すると、汚れたレンズでは視界がわずかに暗くなるのは経験していますが、視力にこれほどの差が出ることはありませんでした。

それで、まだ一ヶ月しか使っていなかったけれど、そのレンズ(レンズA)は使うのをやめ、それからずっと予備に購入していたレンズ(レンズB)を使っていました。

コンタクトレンズ2


半年以内なら破損したレンズの無料交換のサービスを受けられるので、その期限が切れる直前の7月8日に、同じ度数で、同じカーブで、同じサイズの新しいレンズと交換してきました。

ちなみに、コンタクトレンズは、度数とカーブとサイズで合わせます。
カーブは、その人の角膜の状態に合わせますが、カーブを強くすると度数を下げたのと同じ効果になるので、その分、度数を上げたりして調節します。

さて、ちょっと話がややこしくなるけど我慢して聞いてください。

7月8日に無料交換した新しいレンズ(レンズCとします)を、翌日、装着してみましたが、あまり良く見えません。
それまで使っていた予備のレンズ(レンズB)と付け比べてみましたが、どうも、今度のレンズ(レンズC)は左眼の度数が弱いようでした。

コンタクトレンズ3

それで数日後、コンタクトレンズの処方箋を書いてもらった眼科に行き、調べてもらいました。担当した男性の方(この人は医者ではない)は、頭が良さそうな信頼できそうな方でした。

彼は、まず初めに、両方のレンズ(レンズBとレンズC)の度数とカーブとサイズを調べましたが、同一であると断言してまず間違いないとの結論が出ました。

僕は、そんなはずはないと言い張りました。
「明らかに違う度数としか言いようがないんですよ」と。

そこで彼は次に僕の目を調べましたが、問題は見つかりませんでした。
次に、今度のレンズ(レンズC)と、それまでのレンズ(レンズB)、それぞれを装着して視力検査をしてみることにしました。
それまでのレンズ(レンズB)では両眼とも1.0見えているのに対して、今度のレンズは右目は1.0、左眼は0.6でした。
僕の言っていることに間違いがないということが証明されました。

担当者も首をひねりました。
そこで、まったく先入観なしに、真っ白の状態に戻って検眼をしてみようということになりました。
結果は、やっぱり同じ度数、カーブ、サイズの物で両眼とも1.0は見えるはずということでした。

彼は言いました。
「この度数で、もう一度先生に処方箋を書いてもらいますから、コンタクトレンズ屋で取り替えてもらって装着してみませんか?」と。

もし、それで良く見えるのであれば、7月8日に取り替えたばかりのレンズ(レンズC)自体がおかしいということになるわけです。

僕は、半信半疑で言われた通りのことをやってみました。すると、どうでしょう。今度のレンズ(レンズDとします)は両眼とも1.0は見えたんです。


もう一度、頭の中で整理しました。
7月8日に無料交換したレンズ(レンズC)の度数、カーブ、サイズは、検査したところ、処方されたものと間違いなかった。とすると、処方箋に基づいてそれを渡した販売店に落ち度はなさそうです。顕微鏡でも、汚れや傷は確認できなかった。

また、僕の扱いにも落ち度はないはずです。
結論は、そのレンズ(レンズC)自体に問題があったということです。と言うより、それ以外は考えられないわけです。

そこで、1月14日に購入して、一ヶ月くらいで見えづらさを感じ始めた一番初めのレンズ(レンズA)の疑惑も再浮上してきました。

考えられることは、メーカー側で大量生産をする際に、品質均一化の管理ができていなかったのではないかということです。

「よかったですね。一週間以内なので無料で交換(レンズC⇒レンズD)できますので、それではこれ(レンズD)を使ってみて、また何か問題があれば御来院ください」

コンタクトレンズ4

そう言われて、「ありがとうございました。助かりました」と、思わずのど元まで出かかった言葉を飲み込みました。

ちょ、ちょっと待てよ! ここは喜んでる場合じゃないだろう!? 僕は、だんだんと腹が立ってきました。

メーカーは消費者にちゃんとした商品を販売する義務があります。レンズAにしても、レンズCにしても、どう考えてもちゃんとした商品だとは思えません。

メーカー側の杜撰(ずさん)な管理の穴埋めを、消費者が全て引っかぶるというのは、どう考えてもおかしいと感じました。このまま「はい、そうですか」なんて言って帰るのは、なんだか詐欺にあったような気がします。

そこで僕はちょっと真剣に言いました。

「レンズ(レンズC)は、メーカーに送って、徹底的に悪かったところを究明してください。納得できる回答を聞かせてください。原因が、僕の扱い方やレンズ販売店やこちら(眼科医)ではないとしたら、メーカーだということになりますよね。だったら、僕は本当なら払う必要のない交通費を何度も払わされ、払う必要のない診察費を払わされ、今日だって貴重な半日をつぶされたことになるんですよ。場合によっては僕の受けた損害を補償してもらわないと気がすみません」と言いました。

「わかりました。そのようにメーカー側には伝えます。でも、このようなケースの場合、大概が、うやむやな答えしか返ってこないんです」
やっぱりメーカーという強者には、販売店(それにくっついている眼科医も)は頭が上がらないという感じを受けました。

メーカーもそれを知っているから、おざなりな対応をして済ませることができるんでしょう。

僕は家に帰ってもまだ悔しさは収まりませんでした。
こうなりゃ、直接メーカーに電話して文句を言ってやる! そう思って電話機に手が伸びたその時です。
僕の心の中のもう一人の自分が、自分に語りかける声が聞こえました。
「お前は完全無欠の分身主義者を目指すと言っているけど、今、やろうとしていることは、本当にそれでいいのかい?」

確かにこんなことで腹を立てていては、分身主義者を目指しているなどとは言えません。

、、、、、、、、、、、

完璧なる分身主義者を目指すなら、この宇宙の全ての分身がイコールで結ばれていることを感動を持って体験し、それが自分の生活の中で自然に表現できなければいけません。分身に腹を立てるということは、自分に対して腹を立てているようなものです。自分を愛するように、分身たちを愛し、許すことができなければ、少しも実践に活かされていないということです。

分身主義は現代科学が解明している事実を背景にして生まれたものですが、ちょっと整理してみます。

人類の育てた果実』を齧ってくださった方も、復習の意味でこの先をお読みください。

分身主義の「分身」の意味は、よく間違えられてしまうのですが、自分以外の万物を自分の分身と考えることではありません!

分身と言うくらいだから、大元となる本体があるわけですが、本体はこのビッグバン宇宙です。「ビッグバン宇宙」とは、ビッグバンから始まったこの宇宙の意味で、分身主義では簡略化してそのように呼ぶことにしています。

ただ、それでは広大すぎてイメージがつかみにくいので、ビッグバンの初期の 0.000‥‥1( ⇐ 小数点の次に0が33個)秒後の、直径が数10センチに膨張した瞬間の小さな玉をイメージしていただきたいと思います。

その玉が、みるみる膨張し、温度が下がることで、その内部に存在していた素粒子が結合して、いろいろに組み合わせを変化させたり、リサイクルを繰り返したりしながら、星も太陽も月も地球も花も木も、あなたも僕も生まれ、また死んではリサイクルされて形を変えて存在し続ける。それが、分身という意味です。

要するに、この宇宙に存在する全てのものは、同じ素材を何度もリサイクルして作られているわけで、それで、全てのものがビッグバンからかれた(からだ)という意味です。

分身主義の分身は「全体に対する部分」という意味でもありません。イメージしにくいかもしれませんが、全体と部分とがイコールです。

例えば、このビッグバン宇宙が1000個の原子でできているとします。あなたを構成している原子はそのうちの数個だとします。あなたが死んだらこのビッグバン宇宙を構成する原子は、あなたを構成していた数個が引かれるのかというとそうではありません。あなたを構成していた原子は決してこの宇宙から消滅せず他のものを構成する原子になります(物質不滅の法則、質量保存の法則)。

数個のあなたがいてこそ1000個の宇宙を作っていたわけだし、あなたが死んでも1000個のままだというのだから、あなたは部分であったと同時に、全体(つまり今のこの宇宙)だったということなんです。

さて、直径数10センチのビッグバンの玉が、約140億年かけて今の大きさまで膨張する間に、星や太陽や月や地球や花や木やたくさんの生物や、そしてあなたや僕が生まれたわけですが、脳もこのようにして偶然作られてきた物質です。そして、一度受けた刺激を記憶するという性質を持った、神経線維という物質の塊(かたまり)でできています。

五感を司る目や耳や舌や鼻や皮膚からの刺激が伝わり、それらの刺激をそれぞれの場所に刻印し、「脳内の合わせ鏡効果」によって、連想・想像・思考などという現象を起こします。

脳内の合わせ鏡効果:
五感を通して入力されてくる視・聴・触・味・嗅などの感覚は、実は、目や耳や肌や舌や鼻が感じているのではなくて、それに対応する脳の各部位が感じていたのである。ということは脳の中に目や耳や皮膚や舌や鼻があると言い換えることができる。
やがて、人類が言葉を用いるようになったことで、記憶のネットワークにタイトルが付けられるようになった。そのことにより、記憶の「獲得」、「固定」、「再生(=想起)」がより容易になった。
すると、自分の脳内の目や耳や皮膚や舌や鼻が、自分の脳内を見たり聴いたり味わったり‥‥する現象が起きてきた。
それは、あたかも脳内に鏡のようなものが出現し、その鏡に映した自分の脳を自分で見ているような状態に似ているので「脳内の鏡」と呼ぶことにしている。
そして、その「脳を見ている脳」を見る脳があり、その「脳を見ている脳を見る脳」を見る脳があり‥‥と複雑化し、連想、意識、想像、感情、思考、意思など、人間特有の様々な脳内活動が生まれてきたと考えられる。これを僕は「脳内の合わせ鏡効果」と呼ぶことにしている。

人間の意思(意志)と言われるものも、このようにして作られている現象の一つに過ぎません。

通常、人間には意思(ある事を実現させようとする意向のようなもの)があると考えられていますが、今までは「自分の主体的な意思」で僕たちは行動をしていたと考えられていました。

しかし、意思(意志)は主体的に生じていたものではなくて、環境から受動的に浮かび上がってくるものである、と科学は突き止めています。

僕たちは脳を取り巻く環境からの刺激(=情報)と、環境によって脳内に作られていく記憶との相互作用によって受動的に浮かび上がらされた「意思」を見て、「意思」とは、あたかも主体的に生まれていたものだと勘違いしていたのです。


この宇宙はビッグバンという最初の一突きから始まったわけですが、それをビリヤードの最初の一突きと比較してみます。

ビリヤードというのは、棒(キュー)が玉に接触する時に与えられた力と方向と回転がその時に置かれていた玉の、その後の動きを全てを決める球技です。
同じように、このビッグバン宇宙は、ビッグバンの瞬間の力と方向と回転によって、その時に存在していた素粒子の、その後の動きの全てが決まったと言えます。

僕たちが自然界の法則と名づけているものは、素粒子のその後の動きの一定の方向性の一つ一つにつけた名前のことです。
結果的に見れば(あくまで結果的に見ればですが)、ビッグバンの瞬間の力と方向と回転には、約140億年後のあなたに僕のメルマガを読ませる力と方向と回転が内在されていたということになります。僕たちは自然界の法則に操られている人形に過ぎません。

もし、僕の文章を読んで腹を立て、「人間には絶対に意思というものがある。その証拠に、自分の意思で今お前の所に行って殴ってやる!」という人がいたとしたら、その人は見落としているものがあります。

それこそ、僕の文章という刺激が、その人の脳内に到達し、記憶が作っていた方向性を持ったベルトコンベアーに乗せられ、他の言葉を触発しながら作られた感情や意思だったわけです。

人間には今まで言われていた意味での、「何にも影響を受けずに湧き上がる主体的な意思」などはなかったのです。

ビッグバンから 約140 億年後に僕が書かされているこのメルマガも、ビッグバンの瞬間の力と方向と回転から連綿と引き継がれて起こっていた現象でした。ビッグバンから 約140 億年後のその人の怒りも、ビッグバンの瞬間の力と方向と回転から連綿と引き継がれて起こっていた現象でした。

だから、この宇宙は、ビッグバンの最初の一突きの時に作られたシナリオ(自然界の法則)に基づいて、演技をさせられている素粒子たちの劇場であると言えます。僕たち人間の姿は、その素粒子の変化していく過程に見せる一時的な姿なのです。この劇場の中で演じさせられていた一時的に与えられた「配役」だったのです。

以上、分身主義を簡単に整理してみました。


ビッグバンの力と方向と回転は、素粒子たちを様々に組み合わせ、今から約46億年前ごろに地球を作り、36億年前ごろに生命を誕生させ、3万年前ごろ現生人類と言われる生物を作りました。

でも、世界三大宗教などが生まれた頃には、誰一人として、そんなことを知る人はいませんでした。偉大なる釈迦分身様も、キリスト分身様も、ムハンマド分身様も、まったく知らなかったのです。

無理もない話です。
僕たちだって、わずか40年前以前には、宇宙が140億年前のビッグバンによって誕生したことなんて、誰も知らなかった(証明できなかった)のですから。

残念なことに、今でも、そんなこと知らずに生きている人はたくさんいます。

でも、それを知ろうと知るまいと、ビッグバンが作り出したこの地球は間違いなく存在し、ものすごいスピードで自転と公転を続けています。

僕がアルツハイマーになろうと、どこかの彼氏がどこかの彼女に振られて自殺しようと、月には兎がいると信じようと信じまいと、霊の存在を信じようと信じまいと、間違いなく地球は存在し、今この瞬間にも自転と公転を続けています。

例えば子育て真っ最中のお母さんには、地球の公転なんて、そんなことどうでもいいことかもしれません。
でも、「子どもがすくすくと育ちますように」と流れ星に願いをかけることができるのも、地球が秒速30kmで宇宙空間に散らばるチリに突っ込む現象が存在しているからです。(その時のチリが地球の大気との摩擦で燃え上がるのが流れ星ですから)

仕事に忙殺され、一日が終われば上司の愚痴を肴(さかな)に酒を飲む人間には、どうでもいいことかもしれません。
でも、夜には寝て、朝になると出勤していく会社員も、秒速約460mで自転している地球の周期に合わせているわけです。
ちなみに、この速度は、赤道部分での計測です。ついでに言うと、飛行機は秒速227mくらいで飛ぶということなので、僕たちは飛行機よりも二倍も早く回転している地球に乗っているのですね。

恋人のことで頭の中が一杯の人たちには、どうでもいいことかもしれません。でも、恋人の目を引くために夏には肌を露出する女性は、地球が太陽の周りを秒速30kmというものすごいスピードで回ることで起こる季節のお世話になっています。

子育て真っ最中のお母さんや、仕事に忙殺されている会社員や、恋人のことで頭の中が一杯の人たちは、分身主義者を目指す人たちとは違う地球に乗っかっているのでしょうか?

そんなはずはありません!

彼らが、目先のことにとらわれて、この地球を「自覚」していないだけの話です。日常生活を送っているこの瞬間にも、猛スピードで自転と公転を続けている地球を、「自覚」できる宇宙的な視野で生きていないだけです。
でも、その視野を持つことは、思ったほど難しいことではありません!!

「自分」と「他人」とを区別する小さな境界線を作って生きているのが一般の人たちだとしたら、宇宙的な視野を持つ分身主義は、その境界線を「ビッグバン宇宙」にまで広げています。
つまり、自分と宇宙がイコールということです。

そこから、全てが自分の分身、自分は全ての分身という感覚が生まれてきます。

今までの僕たちは、自分の行動は自分の意思でやっているんだという感覚を持っていますが、実は、この宇宙に存在する全てのものは、ビッグバンの瞬間の力と方向と回転が作り出した自然界の法則(シナリオ)に則って、素粒子が作った役者たちが演技させられている劇場だったんです。

僕たち人間の身体だって、素粒子が様々にくっついたり離れたりして見せている一時的な変化の過程に過ぎないわけです。

さて、話を元に‥‥戻します。
そうでした、コンタクトレンズの話でした。

分身主義は、現代科学が解明していることを整理していった先に辿り着いた、見晴らしのいい場所です。

画像1

この宇宙の全ての分身が自分という分身とイコールの関係であったことを感動を持って体験し、自分を愛するように、分身たちを愛し、許せなければいけません。
分身に腹を立てるということは、自分に対して腹を立てているようなものです。そんなことでは、少しも分身主義が活かされていないということです。

この考え方からいくと、分身主義とは、何があっても諦めるものだということになります。そして、自然に対する自らの無力さを受け入れるもののようです。

「みんな自然界に操られているだけだ」と考えれば、メーカー側に特別な非があるわけでもありません。

交通費も診察費も大した額ではないし、半日なんて一生のわずかな時間だし、僕の7月8日の事件も、ビッグバンから途切れることなく連綿と続いてきた現象の一つです。
と言うことは、結果から見れば、それ以外には起こり得なかった事件だったと言えるわけです。

そう考えて、小さなこだわりから解放され、もっと楽しいことに目を向けることができるなら、よっぽど有意義な人生が送れるし、世界から争いもなくせます。
それに、僕たちは分身なんだから、メーカーのミスも分身の僕が代わって尻拭いしてあげれば問題はないわけです。

この分身主義的な大らかさが、自分の心を明るくさせ、世界を平和にしそうです。

ところが‥‥、です。
問題は、これでは一向にメーカーの杜撰(ずさん)な管理を是正できません。

しかも、「なんだあ、一生懸命働いても、しょせん環境に働かされていただけだったのかあ」などと言ってやる気をなくし、研究を怠ったメーカーの人間が作るレンズは、今より品質は低下し、社会の発展?はなくなります。

分身主義は単なる泣き寝入りで、それは社会を腐敗させ堕落させるだけのものなのでしょうか?

僕がピンチに立ったのは、そのように考えた時です。
正確に言えば、僕がピンチに立ったというより、分身主義がピンチに立たされたんです。

僕は、ず~っと考えてついにこのピンチから脱出することができました。さあ、さあ、みなさんお立ち会いください。講義を始めます。(笑)

あれっ、ごめんなさい。
もう時間になってしまいました。
これ以上長くしゃべると、次回は間違いなく読者の方が減ってしまいます。これがメルマガの宿命のようです。(泣)
それで、次回に続く‥‥にします。

ああ、僕たちはいつになったら一つになれるんでしょうか!?


◆◇◆編集後記

今日は、長くなってしまったお詫びに、編集後記も書かずに早々と引き上げます。
ごめんなさいでした。次回をお楽しみに!!


NO.25 完全無欠の分身主義者とは?(2) 2003.07.29

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【脳の仕事は、まるでコンビニのように、24時間営業でひたすら「夢」を見続けることである】

Q1、科学は、人間の眠る意味や目的を解明できるだろうか?
Q2、僕たちの身体(実体)が存在している場所と、脳の見ている幻想(現実)は、本当に同じ世界だろうか?

みなさん、こんにちは。あなたの分身、徳永真亜基です。

前回、コンタクトレンズを巡るごたごたで「分身主義」がピンチに立たされたことを書きました。

分身主義は、彼ら(メーカーの人たち)の分身である僕に、彼らの杜撰(ずさん)な管理に目をつぶり尻拭いをしてあげたくなる気持ちを要求します。
それで、僕の気持ちも収まり、争いも回避されるなら問題はないわけですが、そのことにより、メーカー側の管理体制は是正されないどころか、「人間に意思がないなら、一生懸命やってもしょうがない」と投げやりになった従業員や研究員たちが、社会を腐敗させ堕落させることになってはいけません。

分身主義がこのピンチから脱出する前に、分身主義というもの自体をもっと知っておいていただかなければならないのですが、それで前回は、ビックバンからこの宇宙の全ての物が作られた、と考える現代科学の話を大急ぎでしました。分身主義が生まれた根拠を聞いてほしかったからです。

「この宇宙に存在する全てのものは、同じ素材を何度もリサイクルして作られているわけで、全てのものがビッグバンから分かれた身(からだ)です。
僕たち人間の姿は、その素粒子の変化していく過程に見せる一時的な姿なのです。
分身主義の分身は「全体に対する部分」という意味でもありません。イメージしにくいかもしれませんが、全体と部分とがイコールです」

前回そのように言いましたが、これらのイメージによって、「自分という分身」と「この宇宙の全ての分身」がイコールの関係である、という分身主義の「感覚」が説明できると考えています。

でも、分身主義を根拠づけるものが、もう一つあります。今日はその話から始めます。
とても大事なことなので、よ~く聞いてくださいね。

その前に、あなたに一つ質問をします。
とんちでもなんでもないので、科学的に答えてください。人間は何のために、眠るのでしょうか?

恐らくあなたは、「疲れた身体や脳を休めるため」などと答えると思います。でも、それは科学的な答え方とは違います。

実は、この質問に答えられる科学者は科学者とは呼べません。
この自然界のあらゆるふるまいに、「意味」や「目的」は存在しないことを知っているのが科学者だからです。この質問に答えられるのは小説家や宗教家たちです。
だから、この質問自体がナンセンスだったわけです。

科学は、眠るという結果を招いた「生理的な原因」はいくらでも突き止めることができます。
でも、眠る目的意味を答えることは永久にできません。何故なら、人間が眠ることに目的も意味もないからです。
そのことに目的や意味を見出そうとする、人間の好奇心や探求心が、物語をでっちあげてしまうだけです。

これを『人類の育てた果実』では「意思(意志)的解釈」と名づけていて、それは、科学を基盤とする分身主義にはそぐわないものとして批判しています。

のっけから、ちょっと難しいことを言ってしまいましたが、これも、分身主義がピンチから脱出する前に、ちゃんと押さえておかなければいけないことです。

さて、僕たちは眠るとみんな夢を見ます。
夢はまぎれもなく「脳の記憶が作る幻想」です。これを疑う科学者は、まず一人もいませんよね。

五感を通して常に入力されてくる情報から解放されている分、脳の奥深くにしまい込まれている記憶(=潜在意識)とも容易に行き来ができ、深層心理の解明にも役立ちます。
空を飛ぶ夢を見る人が結構多いそうですが、外界との接点を担う五感から解放されているから、それも可能なんでしょうね。

そして目を覚ますと、そこを我々は「現実の世界」と呼んでいます。しかし、この「現実」とは何でしょうか?
この現実は、誰にとっても同じに見えているのでしょうか?

僕はいろいろなところで「現実とは、脳が記憶に基づいて見ている幻覚のことである」と言ってきました。
記憶は人それぞれ違うので、同じ現実の中にいても、現実は人それぞれ違います。

つまり、「現実」とは、脳が夢から覚めて、もう一つの夢の中で見ている「夢」のことだったんです!

大事なことなので、もう一度繰り返します。

現実とは、脳が夢から覚めてもなお、もう一つの夢の中で見ている“夢”のことだったんです!!

つまり、脳のやっていることは、コンビニのように24時間営業でひたすら「夢」を見続けることだったんです。

「通常の夢(dream)」は身体という実体から解放された脳が見ますが、もう一つの「現実という夢」は身体という実体に小判ザメのようにくっついた脳が見る夢なので、分身主義では、これを remora dream(リモラドリーム)と名づけます。
(*remora=小判ザメ)

僕たちの身体という実体は、携帯のメールに夢中になって歩いていると頭をぶつけてしまう電信柱と同じ世界に住んでいます。つまり人間の意識の外という意味です。

でも、脳(ここでは実体としての脳みそのことではなく、脳の機能のことです)は、寝ている時は夢(dream)の中に、起きている時はもう一つの夢(remora dream)の中に住んでいます。

脳は、身体や電信柱とは、明らかに違う世界に住んでいます。
僕たちが、連想したり、想像したり、思考したり、意見を交換したり、そして意志の力でやり遂げようとしたりするのも、全てもう一つの夢(remora dream)の中で見ている「夢」なんです。

無意識で歩いていてもぶつかってしまうので、電信柱は確かに存在しているはずですし、それは世界にたった一つのものですが、人間の脳がそれを意識した瞬間、それはもう人間の脳の見る「現実」の世界のものになります。

つまり、ぶつからないように意識された電信柱は、現実の元に引き寄せられた幻想の電信柱です。
現実の中の電信柱とは、人それぞれの記憶が歪めて見ている電信柱なので、人によって違う電信柱です。

でも、「電信柱」という言葉で会話が通じる理由は、お互いの「電信柱」のイメージが近似(きんじ)しているからです。

見えない昼間でも月は確実に存在していて、今この瞬間にも地球の潮の満ち引きなどに影響を与えている月ですが、月は意識された瞬間、もう人間の脳の見る「現実」の世界のものになります。

つまり、人それぞれの記憶が歪めた、それぞれに違う月を見ていることになります。

僕たちは、意識しなくても存在している電信柱や月がいる世界を「現実」だと思っているかもしれませんが、それは違います。

意識しなくても存在している電信柱や月は、言葉の存在しない世界です。
それは「電信柱」や「月」という言葉を当てはめる以前の、要するに人間の意識以前の世界なんです。
言葉を持ってしまった人間にとっての現実とは、もはや「意識の世界」のことに他ならないからです。

太陽だって、それは言葉というものを用いる人間が意識する「太陽」とは違う実体の世界に、そう、46億年前にすでに存在していました。
それは、「太陽」という「言葉」を当てはめようとしたとたんに、もう、その世界のものではなくなってしまう大変デリケートな存在です。

僕たちは、太陽の話をしている時でも、誰一人として太陽そのものの話をしていません。
自分の記憶の中の、太陽に最も近いイメージのモノの話をしているだけです。お互いの記憶が歪めた「太陽」のイメージが近似しているから話が通じるだけです。
太陽そのものの話なんてしたら、一瞬にして灼熱に溶けてしまいますから。

その、言葉を持ってしまった人間にとっての現実と、実体の世界を、僕たちは今まで一緒くたにしてきたんです。意識した電信柱と、意識されなくても存在する電信柱が違う世界のものなのに、それを同じ電信柱として扱ってきました。

前回のメルマガで、僕は「人間には今まで使われていた意味での『意思(意志)』はない」と断言しました。
僕たちが今まで「意思(意志)」と呼んでいたものは、この、違う世界の物事を一緒くたにして考えてしまうのと同じような、あやふやな使われ方をしていた言葉だったんです。

では、今まで使われていた意味ではない、科学が指し示す意味での「意思(意志)」とは、どのようにイメージすればいいのでしょうか?

僕たちの脳は、寝ても覚めても果てしなき夢の中を、いつも彷徨(さまよ)っていて、決して目を覚ますことはありません!!

イメージしてみてください。

身体の五感を通して入力される情報から解放されて、自由自在に飛び回っていた夢(dream)から覚めた僕たちの脳が、今度は身体という実体に小判ザメのようにくっついて、その身体が五感を通して触れる様々な分身たちの中を泳ぎまわっている現実という名の「夢」の姿を。

つまり、普通の夢(dream)は一人の人の脳が見るものですが、現実という名のもう一つの夢(remora dream)は、五感を通してつながっている分身みんなが見る夢とも言えます。

これが初めに書いた、分身主義を根拠づけるもう一つのものです。
僕たちの脳は、決して個人の自由になる持ち物なんかじゃなく、五感を通してつながっている分身たちの中を泳ぎまわっているもので、それによって僕たちの脳の記憶もお互いに近似してきます。

これが僕たちが「現実」と呼んでいたものの正体だったんです。
「意思(意志)」と呼んでいたものも、この、もう一つの夢(remora dream)という現実の見ているものだったのです。
わかりづらいので例を挙げます。

中国の思想家、荘子の、『胡蝶(こちょう)の夢』という故事を聞いたことありますか!?

彼が蝶になって、花の上で百年近くも遊んでいた夢を見てから目覚めた時、自分が夢で蝶になったのか、それとも今、蝶が夢の中で自分になっているのかわからなくなったという話です。
でも、これはあながち科学的解釈ができないことでもありません。

彼が蝶になったのは「dream」の中ですが、夢から覚めて「自分が夢で蝶になったのか、それとも今、蝶が夢の中で自分になっているのか、わからなくなった」と考えているのは、現実という名の夢「remora dream」の中です。

脳は寝ても覚めても、夢を見ているわけですから、「目覚めたと思っていても実は、蝶が自分になっている夢の中」であるかもしれないと感じることは、まったく不思議でもなんでもないことなんです。

僕はよく、自分の見た夢(dream)を覚えています。
子供の時、前夜の夢を覚えていて、3日間、その夢の続きを見続けることに成功したことがあります。
しかも、夢の中で「ああ、これは夢だな」と感じていて、夢の中の事態が思わしくない方向へ進みだすと、夢の中で脚色をしたりしながら、夢を楽しむことができるようになりました。

取りあえず、これを夢のエキスパートと呼んでみます。
だけど、実際は、「脚色をして夢を楽しんでいる」自分も「脚色をして夢を楽しんでいる」夢の中であることには気づかないでいたのです。
何故なら、「脚色をして夢を楽しんでいる」自分だったはずなのに、幽霊が迫ってきたら夢の中で大声で叫んで、その声に目を覚ましたりしていたからです。(笑)

つまり、「脚色をして夢を楽しんでいる夢」を見ていただけで、決して夢の外から夢を操作していたわけではなかったわけです。

そして、ここが大事なところですが、僕たちの脳が見ている「現実」も、それとほとんど同じものだったということです。

要するに、「主体的な意思(意志)を持って現実を操作している夢」を見ているだけだったんです。つまり、「意思(意志)」というのは、人間が言葉を用いるようになったことで記憶の質が変化し、それが見させる夢のことだったのです。起きている時に見させる夢のことだったのです。

僕のような「夢(dream)のエキスパート」は、夢を脚色している夢を見ることができるようになるのと同じで、現実という夢(remora dream)のエキスパートである人類はみんな、その現実という夢の中で「夢を脚色している夢」を見ることができるようになったのです。

それが身体(実体)とくっついているので、身体(実体)に影響を与え、僕たちの身体を動かすことができるんです。
僕のいつも言っている「幻想は実体を変化させる」という意味です。

ただし、今では現実という夢(remora dream)の中で「夢を脚色している夢」を見れるようになったエキスパートな人類ですが、それはあくまでも夢の外にいるわけではありません。
やっぱり普通の夢(dream)と同じように自分の「主体的な意思(意志)」で見ていたわけではなく、「脳の記憶」に受動的に見させられている夢に過ぎません。

ところが、僕たちは、普通の夢(dream)は、自分の「主体的な意思(意志)」で見ているわけではなく脳の記憶が見せている、ということを受け入れることができるのに、現実という夢(remora dream)も自分の「主体的な意思(意志)」で見ているわけではなく脳の記憶が見せているだけ、という事実を受け入れることができないでいます。

どうか、世界中の分身さんたち、それを受け入れることから始めましょう!!

僕たち人類は、24時間続く果てしなき夢(remora dream)の中で、宗教を作らされたり、芸術を発想させられたり、文学を熱く語らせられたり、哲学をさせられたり、政治活動をさせられたり、泣いたり笑ったり怒ったり、恋をしたりと、あらゆる精神活動をさせられ‥‥ているに過ぎないんです。

誰一人として、自分の力で、自分の「意思(意志)」で、それをしているわけではなかったんです!! 僕たち人類は、夢(dream)から覚めて、現実という夢(remora dream)の中で生活していますが、これからは、その現実という夢が存在していたことを自覚する新しい意識の世界に入る必要があります。

僕がいつも、このメルマガを書いている僕は単なる媒体で、書かされているだけに過ぎないと言っているのは、それを自覚しようとしている努力です。

つまり、僕が書いているのではなく、五感を通して、ひっきりなしにこの身体の内外から入力される情報によって、受動的に、脳内に「意思(意志)」が浮かび上がり、その「意思(意志)」に書かされているわけです。

この分身主義の視点こそ、僕たち人類が傲慢さから解放され、自然界に身体をゆだね、共感という真の幸福を手に入れるために必要な感覚です。
それはきっと次のような世界への入り口を指し示してくれます。

ネットで知り合った友人、JUNさんが素晴らしい詩を贈ってくれました。

『そうだったんですね』

降るべき時に雨が降り
照るべき時に太陽が照り 
吹くべき時に風が吹き
全ての生命たちがのびのびとその生命の希望どおりに
生み育てられる永遠の楽園
自然と人に対立はなく
人々の中には争いも悩みも病気もなく
生と死の本当の意味を知っているから死を恐れることもなく
それぞれ全ての人が
その人らしく無理なく笑顔で毎日暮らす
何の曇りもない平和の浄土
幸福だけの約束の地
目の前に浮かび上がる調和の星
愛が息づく美しい地球
そうだったんですね
あなたはわたしだったんですね
(JUN)


どうか、どうか、世界中の分身さんたち、僕と一緒にその新しい世界への扉を開きましょう!
いえ、正確に言えば、「そんなふうに脚色する夢」を見させられましょう!
その方法は、あなたの脳の記憶に、人類の育てた果実を上書きさせるだけでいいんです!!

ああ、本当にごめんなさい。
今日も、「ピンチから脱出」する時間がなくなってしまいました。
それどころか、現代科学は、自然界のあらゆるふるまいに「意味」も「目的」もないと考えるとか、人間に「意思(意志)」などというものはないと考える、などと強調しただけで終わってしまいました。

これでは、現代科学が導いてくれた「分身主義」の首を、ますます絞めてしまっています。
でも、本当はこれらの自分の首を絞めているものこそ、ピンチを救ってくれる最大の味方だったんです。
次回は必ず、分身主義の立たされたピンチから脱出して見せます。みごとな縄抜けの術をお見せいたします。


◆◇◆編集後記

今日は、たくさんの言葉が出てきました。
幻想‥‥
幻覚‥‥
現実‥‥
もう一つの夢「remora dream」‥‥
過去の記憶によって歪められた世界‥‥

これらは、みんな同じものを違う言葉で言い換えているだけです。

ところで、これを読み終わったら、もし、あなたの友達に物知りを鼻にかけているような方がいたら、次のように聞いてみてください。
「ねえ、リモラドリームって知ってる?」
彼(彼女)は、「ああ、なんか聞いたことある。なんだっけ‥‥?」って言うかもしれません。

人によっては「なんだっけ、蝶だか蛾の幼虫の怪獣だっけ‥‥?」って言うかもしれません。
でも、知ったかぶりをする彼(彼女)を非難してはいけません。

僕たち人間はみんな、自然界の法則というシナリオに基づいてドラマを演じさせられている役者に過ぎないんですから。
人間が意識した(気づいた)この自然界のドモラ‥‥じゃない、ドラマは、もちろんリモラドラマです。(ああ、いい加減、こんがらがってきました)


NO.26 完全無欠の分身主義者とは?(3) 2003.08.05

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【もしこの脳が分身主義的な環境に置かれたなら、「自分」を意識したり優先したりする感覚は浮かび上がりにくくなり、他人のために尽くしている時には喜びの感情が浮かび上がる脳となるだろう。今まで他人だったものが自分でもあるのだから】

Q1、今日こそは、ピンチから脱出をしてみせるぞー。でも、これって、僕の強い意志(will)なのでしょうか?

宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
こんにちは!
あなたの分身、徳永真亜基です。

事の発端はコンタクトレンズでしたね。

杜撰な管理体制の元で作られた商品を購入させられた僕ですが、完全無欠の分身主義者になるためには、僕の分身である彼らの代わりに、彼らの分身である僕がその尻拭いをしてあげるという寛容な気持ちを持つことが大切でした。それなのに、僕はその時に受けた損害を補償しろと詰め寄ろうとしてしまったわけです。(NO.24)

もし、完璧な分身主義者を目指す者として、受けた損害を「自然界の法則のなせる業だから仕方ない」と諦めることができるなら、僕の気持ちも収まり、争いも回避されるわけですが、その反面、メーカー側の管理体制は是正されないどころか、「人間に意思(意志)はないなら、一生懸命やってもしょうがない」と投げやりになってしまった従業員・研究員たちが、社会を腐敗させ堕落させることになってはいけないということで、分身主義がピンチに立たされていたわけです。

ちなみに、「意思」は「何かをしようとする気持ちや考え」という意味で、また「意志」は「何かを成し遂げようとする強い気持ちや考え」という意味です。僕の言う「イシ」はどちらにも使えるので「意思(意志)」と記述しています。
ただし、「イシが強い・弱い」という場合は「意志が強い・弱い」と書きます。意志は英語で will と言い、意思は intention になります。

分身主義を選択するか、それともアメリカ式?にきっちりとした損害賠償の請求や、責任の追及や、権利の主張をするべきかの選択を迫られていたわけです。

この中の最大の問題である「人間に意思(意志)はないなら、一生懸命やってもしょうがない」ということを、二週に渡って考えてきて、今日がその結論を出す最終回です。

前回、僕たちが現実と呼んでいた世界は、夢(dream)から覚めても見続けている、もう一つの夢(remora dream)の中のことだったという所まで書きました。

普通の夢(dream)は、外界から情報をもたらす五感から解放された脳が見るのに対して、現実という夢(remora dream)は、五感を通して外界と接している身体に、小判ザメのようにくっついた脳が見る夢でした。

外部とは明らかな境界線を持って存在しているかのように見えるこの身体は、外部環境から様々な影響を受けたり、また、身体内部からの情報などにも影響を受けたりして、現実という夢を見させられているのでした。

ただし、普通の夢(dream)が身体という実体から完全に解放されているとも言い切れません。
眠っている人のまぶたの上から、懐中電灯で断続的な光を当てると、航海中に嵐に遇って稲光(いなびかり)を見ている夢などを見ることがあるそうです。
今晩にでも、いろいろな実験をしてみたらいかがでしょう。(^-^ )

例えば、寝ている人の頭を軽く小突くと(注:あくまでも実験でね)、ビックリして目を覚まして、「今、町を歩いていて、突然上から大きな鉄骨が頭の上に落下してきた夢を見たよ」とノー天気に言うかもしれません。

空を飛ぶ夢(dream)などは、身体という実体から解放されているから見るわけでしたが、今例に挙げた稲光や鉄骨の夢は、眠っていても、身体という実体の「五感を通して入ってくる外界からの情報」から、完全には解放され切っていないという証拠です。

現実という夢(remora dream)もこれと同じで、「過去の記憶」と「五感から入ってくる外部からの情報」と「身体内部からの情報」などが作り上げている夢のことです。

「意思(意志)」とか「情熱」とかいうのは、一見、夢(remora dream)の外側から夢を操作している状態のように思えますが、実は、これもそのような夢を見ている夢の中の出来事なんです。
つまり、それもこれも一言で言えば、全てが自然界の法則に則って生まれる様々な現象に脳が反応させられているだけです。

この自然界の全ての物質が、そしてこの自然界の全ての動植物が決して自然界からの支配を免れることはできないのと同じように、人間の意識も、決して自然界からの支配を免れることはできません。

この意味で、今まで言われている意味での「意思(意志)」とか「情熱」とかいうものはないと断言したのです。

よく、あっちについたり、こっちについたりと付和雷同(ふわらいどう)する人が「お前には自分の意志というものがないのかっ!?」と叱責されますが、「はい、ありませ ん。あなたにだって自分の意志なんてものはないはずですが‥‥」と答えても 間違いではありません。

そもそも「自分」と信じているものが、脳の見ている幻想なんですから。

あるのは、「過去の記憶」や「五感から入ってくる外部の情報」や「身体内部の情報」などが作り上げた境界線(自分と信じているところのもの)があるだけです。だから「自我」とはそもそも錯覚だったのです。

例えば、外に遊びに行きたいのに部屋で勉強をすることにした場合、自分の意思で勉強を選択したように思いますが、正確に言えばそうではありません。あるいはその逆に、勉強は帰ってきてからやることにして、外に遊びに行くことにしたとしても同じことです。

「過去の記憶」や「五感から入ってくる外部からの情報」や「身体内部からの情報」などに「意思(意志)」が浮かび上がらされて、その「意思(意志)」に行動をさせられていただけなのです。


さて、以上のことから、「意思(意志)」とか「情熱」とかは、次のように説明することができます。

・意志とは、現実という夢(remora dream)の中で、脳の中にできた錯覚の自我(自分と信じているところのもの)によって、その境界線を仮の主語にして語られる能動態のことである。

・情熱とは、強烈な「過去の記憶」に支配された脳が、「五感から入ってくる外部からの情報」や「身体内部からの情報」などに妨害されずに、むしろ擁護される形で、永続的に興奮させられている状態のことである。

今まで言われている意味での「意志」とか「情熱」とかいうものはないけれども、僕たち人類は現実という名の夢を見るエキスパートです。
脳の記憶が複雑化することで、「合わせ鏡」のような状態が作られ、それが人類を、夢を脚色する夢のエキスパートにしました。

それで人類はますます、境界線を持って存在しているかのように見える「自我」(=自分と信じているところのもの)の存在に確信を深めてしまうことになりました。

今まで「will」(意志)と呼んでいたものを正確を期して「mirrored will」(ミラード・ウィル)と呼びたいと思います。
「mirrored will」とは、脳内の合わせ鏡効果が生み出した、あると信じさせられている意志(鏡に映し出されている意志)のことです。

僕たちはみんな、あたかも境界線を持って存在しているかのように見える身体の内側を「これが自分であると信じさせられ」たり、人間には他の動・植物とは違って、「意思(意志)」があると信じさせられ」たりしていたということです。

ところで、脳というのは不思議なものです。
錯覚に過ぎない「自分」という意識が、脳の中に生まれた時点で、それは確実に存在してしまうんです。
よく「あばたもえくぼ」と言いますが、ある人を好きになった時点で、「可愛いあばた」はこの世に確実に存在してしまうわけです。

錯覚とは、実際にはありもしない物のことではなく、実体に変化を与える力を持つ確かに存在しているものであることは何度も言ってきました。

「脳が作った錯覚」の一つである「自分」という感覚も、作られてしまった以上、実体に変化を与える市民権を得てしまうことにもなりました。

作られてしまった「自分」が存在するなら、それが主語となる「意志」(will)も存在することになります。

でも、僕が「今まで使われていた意味での “意思(意志)” はない」と言い続けている意味は、意思(意志)も結局は、その脳を取り巻く環境に見させられている幻覚に過ぎないということだけは、決して忘れてはいけないと思うからです。

『西遊記』の中の有名な話を思い出してください。
孫悟空が、我こそは世界のNO.1なり! と思い上がって乱暴を繰り返していた頃のことです。
ある日お釈迦様に出会った悟空は、その手のひらから飛び出してみるように言われます。
孫悟空は、「お安い御用だ」と言って、一飛び十万八千里の觔斗雲(きんとうん)で飛ばしに飛ばしてどんどん行くと、やがてかなたに大きな柱が見えてきます。
その辺りが宇宙の果てだろうと思い、来たしるしに柱に自分の名前をサインして、ついでにその根元におしっこを引っ掛けて意気揚々と帰ってきます。

同じ道を戻り、お釈迦様の前に現れた悟空が自慢げに報告すると、何の事はない、大きな柱だと思ったのはお釈迦様の指であり、実はお釈迦様の手のひらからは一歩も飛び出していなかった、というお話です。

孫悟空は、その後、三蔵法師と出会い、見違えるように謙虚になり、民衆を救うために天竺(てんじく)までお経を取りに行く三蔵法師の旅を助けたのです。

自分の「will」(意志)を主張したがる、僕たち人類は、まるで高慢だった頃の孫悟空のようです。
僕たち人類は、「will」(意志)などなく、それはこの自然界という名のお釈迦様の手のひらの中で遊ばされている「mirrored will」(あると信じさせられている意志)だったんだと気づく必要があります。


僕は、いろいろなところで「人間に意志(will)はなく、自然界の法則に操られているだけだった」とか「やらされているだけだった」とか書いてきましたが、これは「宇宙がある目的を持って僕たちを操っている」と考えているのではありません。

そんな非科学的なことは一切言っていません!

宇宙は目的を持って存在しているのではない、とするのが科学の立場です。

だから「操られている」という言葉は、誤解を招く言葉だったかもしれないと反省しています。
僕は、ビリヤードの玉が、直前の玉に押し出されて次の玉を跳ね飛ばしたりくっついたりして変化していく様をイメージしているだけです。
だから、「操られている」という言葉を、「後押しされている」と言い換えた方が適切かもしれません。

そんな意味で「人間には“意志”はない」とか、「僕たちは自然界の法則の操り人形に過ぎない」と言ってきたわけですが、それを読んだある分身さん(A さんとします)から、次のようなメールをいただいたことがあります。

なにか他力本願的な、空しさ、切なさを感じます。
 そんな言葉を真に受けた人が増えたら、自殺、犯罪、刹那主義に走るものが増えるような気さえします。

では、Aさんはどうしてそのように感じたのでしょうか?
自分の意志や情熱で何かをしたり、自分が何かの使命を背負って生まれてきた価値のある人間でなければ、何故、空しさや切なさを感じてしまうのでしょうか?

それは実は、Aさんの脳の今置かれている環境が、自分の意志や情熱で何かをしたり、自分が何かの使命を背負って生まれてきた価値のある人間でなければ、自分の脳内に空しさや切なさを浮かび上がらせてしまう環境だから、というだ けなのです。

こんな僕たちが今いる環境を一言で言えば、個人主義的環境と言います。

僕が「僕たちは自然界の法則に後押しされている人形に過ぎない」という言葉を、誤解や反感を承知でどうしても言いたい理由は、僕たちは、「人間は自然界に対してはまったくの無力だ」ということに気づかなければいけないと思うからです。

いいですか、僕たち人間は、本当に、高慢だったころの孫悟空そのものなんです。

僕たちは、自分の力で何かを発明したり発見したりしていると言って大威張りしています。また、その逆に、自分は関係ない顔をして、ユダヤ人大虐殺を行ったヒトラーを批判したりしています。

でも、本当は、自分の力でもヒトラーのせいでもなく、それはビッグバンから連綿と続くドミノ倒しのような力に後押しされている出来事だったんです。

その後押しで脳の中に作られた「宇宙万物(みんな)の意志」(mirrored will)が、発明や発見や虐殺をしているんです。

もし、孫悟空がただのバカ猿なら、「なあんだー」と言ってヤケになり、自殺、犯罪、刹那主義に走ったかもしれませんが、彼はそうではありませんでした。僕の言葉を聞いて、「なあんだー」とやる気をなくす人がいたとしたら、その人たちは、猿である孫悟空よりもバカです。

僕たちは、今まで、自分と信じるところの「自分」に縛られ、「自分、自分、自分‥‥」を唯一の心の支えにして生きてきました。

それまで、「自分が」賞賛や名声や富を得たいという欲望や、「自分」の生に 価値を見出したいという欲求だけに支えられて、張りのある人生を送っていたのに、僕の言葉が本当なら、その張りがプツンと切れてしまったということです。

でも、これらは「賞賛や名声や富を得たり、自分の生に価値があると思えることが、幸せな人生だ」という考えが浮かび上がるような環境に、僕たちの脳が置かれていたからに他なりません。

そのような人生観や幸福観も脳が見ているだけの儚(はかな)い夢だったんです。この様な考えが浮かび上がる今の環境を一言で言うと、「個人主義的な環境」でしたね。

つまり、Aさんがこのような不安を抱いてしまった最大の理由は、分身主義に欠陥があったのではなく、「彼自身の脳が個人主義的な環境の中に置かれていた」という、そのことにあったんです。

もし彼の脳が、分身主義的な環境の中に置かれたなら、決して彼の脳には、空しさや切なさなど浮かび上がらないでしょう。
むしろ、自分の賞賛や名声や富や価値のために行動をしてしまうことに空しさや切なさが浮かび上がり、分身みんなのために行動をさせられている時だけ、自分に喜びが浮かび上がってきてしまうでしょう。

だけどそれはあくまでも、Aさんの脳を取り巻く環境が分身主義的な環境になった時の話です。
Aさんの脳を取り巻く環境が分身主義的な環境になった時とは、世界中の人が分身主義者になった時です。

その日が来るまで、僕も彼は分身主義を理解することはできても、分身主義者になることはできません‥‥。


一週間ほど前、メーカーからコンタクトレンズの検査報告を受けました。
それによると、度数、カーブ、サイズとも、処方箋のものと同一であると言っ て間違いない(製作過程で多少のブレは生じてしまうので許容範囲内であった) という回答でした。

それが視力 1.0 から 0.6 ほどの差を生むことは前例がないので、理解に苦しむとのことでしたが、ただ、損害はコンタクトのケア用品で償わせてもらいます、との誠意ある返事をいただきました。

僕は、「取り敢えずはそれで気持ちは収まります。二度とあってほしくはないですが、今度同じケースが出た場合にはまた報告しますから、その時はそれを課題にして一層の研究をしてください」とお願いしました。
僕は、黙っていないでよかったと思いました。

分身主義は、泣き寝入りではなかったのです。争いを避けるものです。

むしろ黙っていないでちゃんと話し合った方が、争いを避けられる場合もあります。お互いがお互いの分身であることを忘れない気持ちさえあれば、話し合いが過激な方向に進む事態を回避できます。

メーカー側を憎んだりののしったりすることでなく、自分たちの分身だという思いやりの気持ちを忘れないで「僕の事例を今後のために報告」して、一緒に幸福になる気持ちを持てばよかったということです。

決して、自分の受けた損害に目を向けるのではなく、相手(=自分たちの分身)の成長に目を向ける気持ちを持って「報告」してあげることは、分身主義者を目指す人間としてはむしろ当然だったんです。


先日、スーパーで賞味期限が切れる寸前の、半額になった椎茸を購入しました。ところが、家に帰って開けてみると、すでに腐っていて表面は溶けて異臭を放 っていました。

僕は、翌日、スーパーに電話をすると、早速そこの責任者が謝りにきました。若いその男性は、ちゃんと内容を確認し、「今後、このようなことのないように、一層の努力をします」と震える声で頭を下げました。

僕は、「ここまで腐っていて間違えて食べる人はまずいないでしょうけど、誰かが食べたら大変なことになりますから、今度から十分気をつけてくださいね」とお願いしました。

彼は、その時支払った代金以外は何も持ってきませんでしたが、僕は彼の誠意ある謝罪で「良し」としなければいけません。
もし彼が、椎茸のケア用品?か、商品券か何かを持ってきたら、僕の心が腐敗し堕落していたでしょう。

彼は、自分のためにも、僕という分身に対して正しい選択をしたわけです。その時、僕は一歩、分身主義者に近づいたような気がしました。

本当の分身主義者というのは、自分の分身のために尽くす考えしか脳に浮かび上がらない人のことです。
それだけが自分を幸福にする唯一の方法であると確信している人です。

ということは、謎を解明できなかったコンタクトレンズのメーカーも、腐った椎茸を売ったスーパーも、もし分身主義者であれば、決して社会を腐敗させたり堕落させることはないということです。
むしろ、現在の人々が「社会のモラル」と呼んでいるものを高めます。

分身主義が広まれば、社会を腐敗させたり堕落させたりするなんて心配は、分身主義を知らない人の心配だったわけです。

少しずつ、少しずつですが、僕は完璧な分身主義者に近づきつつあります。このメルマガを読んでくださっている分身さんたちも、そのような実感をお持ちでしょうか?

最後に一言。
僕がまだ完璧な分身主義者に成りきれていないのは、世界中の人が、分身主義者になったわけではないからです。
世界中の人が分身主義者になるとは、世界中の人が自分の「全身」の姿を知った時に他なりません。

分身主義者とは、この世界にたった一人しかいません!

僕だけが、自分の全身の姿に気づいていても、世界中の分身が自分の全身に気づいてくれないことには、僕(たち?)はまだ完璧な一つではないからです。

それは、科学が解明しているものをみんなが教えてもらっていないので、科学的覚醒ができていないからです。
世界中の子どもが九九を習うように、科学が解明しているものを学校で教えるべきなのです。

だからといって、焦りは禁物です。
必ず、全世界の人たちが自分の全身に気づく日はやってきます。

だって、僕たちは本当に一つだったんですから‥‥ 😉✰ネッ!

それを確実に裏づけてくれている真の科学をみんなが学べばいいだけの話なんです。


◆◇◆編集後記

冒頭に書いたQ1の答えを書きます。
「今日こそは、ピンチから脱出をしてみせるぞー」というのは、意志(will )ではなく、「mirrored will」でした。

「過去の記憶」と「五感から入ってくる外部からの情報」と「身体内部からの情報」などが作り上げている、つまり、僕の脳を取り巻いている環境(遺伝も環境に含めます)が作り上げていた‥‥、つまり、分身みんなの「意思(意志)」でした。
僕は、みなさんに書かされている媒体です。


ところで、今まで「自然界の法則に操られている」とか「やらされている」と書いてきたものを、今回からなるべく「自然界の法則に後押しされる」と書こうと思います。

「操る」、「やらされる」という言葉には「意志」や「目的」のようなものを含んだニュアンスが感じられます。
自然界には「意志」も「目的」もないから、その部分を排除させたいからです。

ちなみに、「雨に降られる」のように、自動詞に受け身の助動詞を付けた言い方をすると、「迷惑の受け身」と呼ばれることもあるそうです。

自然界にはこのような悪意もないことは、言うまでもありません


NO.27 科学の方法論から学ぶ 2003.08.19

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【今までの建物はしっかりとした土台も骨組みもなく、「錯覚の自我」という砂の上に、その錯覚である自分たちの都合に合わせて作られていただけでした】


Q1、人類が二度と戦争をしないために、そして心の平和と幸福を得るために必要な訓練とは?

Q2、「幻想」の功罪(功績と罪過。よい点と悪い点)を考えてください。

宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!? こんにちは!
あなたの分身、徳永真亜基です。

宗教や哲学は、脳の見る「幻想」に対して自問を繰り返し、脳の中に潜む物語をひも解いてきました。
科学は、「実体」に対して実験と観察を繰り返して、自然界に潜む物語をひも解いてきました。

文学や音楽や美術‥‥といったものの扱う対象は「幻想」ですから、前者に近いと言えます。こちらは、脳に快い刺激を与え、悦楽の幻想に酔うためのテクニックを追求してきました。

ちょっと、デジカメのパンフレットを開いてみます。

「優れた描写性能を誇る〇〇レンズを採用。その光学性能は、3.2メガの高解像度とあいまって、さらに豊かな表現力と優れた色再現性を発揮。焦点距離37~111mm相当(35mm判換算)の光学3倍ズームと最大4倍の電子ズームを併用すれば最大12倍のズーム撮影が楽しめます」

この中の「優れた描写性能」「高解像度」「豊かな表現力」「優れた色再現性」「楽しめます」などという語は、脳の「幻想」をくすぐって、買わせるテクニックです。
パンフレットを見てデジカメを購入する際の注意点として、これらの修飾語を全部剥ぎ取って読まなければなりません。

人間の幻想は不思議なもので、単なる壺に付加価値をつけられると、一千万円で買っても惜しくない、などと思わされてしまうこともあります。

生前はたった一枚の絵しか売れなかったゴッホですが、1890年制作の彼の作品『医師ガッシュの肖像』が、ちょうどその100年後の1990年、120億円以上で売買されてしまうのが、人間の幻想の恐ろしさです。
ゴッホの絵を侮蔑するのも賞賛するのも、「同じ幻想」であることを忘れないでください。

科学は、余分な幻想を全て排除して「実体」だけを見つめようとします。
形容詞や修飾語を全て排除して、「実体」だけを見つめようとするわけです。要するに、壺は壺です。そして、絵画は布のキャンバスに塗りたくった油絵の具の模様です。それは、化学反応により硬化するし、色が変化したり、ひび割れを起こしたりすることもある模様です。

僕はこう考えています。
「幻想」は、人間の都合に合わせて変幻自在に変化し、多くの信念やたくさんの宗教を作りました。世界が狭くなった今、そんなにたくさんの信念や宗教は争いの元になるだけです。

「実体」は、たとえ僕が死んでも、そんなことくらいでは変化しません。でも、「幻想」を変化させるには、ただ僕が目をつむるだけでも十分です。

僕たちは、今、余分な形容詞を排除した、「実体」を信頼する科学の方法論から、何かを学ぶ必要があるのではないでしょうか?

確かに、人間の脳は「想像力」という素晴らしいものを持っていて、それが生きる上で大切な部分を担ってくれていたことは認めます。

サンタクロースも神様も信じていない僕ですが、クリスマスの夜のあの心の高揚は、毎年、僕の心にも訪れます。それは、これからもなくなってほしくありません。なくす必要も、まったくありません。

だけど、僕たち人類が一つになり、そのエネルギーでもっと大きな「素晴らしいもの」を手にするためには、科学の方法論から学ぶべきものがあるのではないかと思うのです。

僕たちには、大掛かりな「実験」という方法論はできませんが、「観察」という方法論なら簡単にできます。それを日常生活の中で実践してみるというのはどうでしょう。

野球やサッカーを興奮して観戦するのではなく「観察」してみましょう。
公園で遊ぶ子どもたちが、何に興味を示して動いているかを「観察」してみましょう。彼らがどうしてそのような行為をするのか、その原因、一つ一つを遡って探究する気持ちで、「観察」してみましょう。まるで、自分がどこか違う星から来た宇宙人になったような気持ちで‥‥。

彼らが、彼らの脳を取り巻く環境に動かされていると理解できるまで、何度でも何度でも観察してみてください。

または、口角泡を飛ばして激論しているテレビの討論会に出席している人たちを「観察」してみます。政治家や学者の、演説の内容を理解しようとするだけではなく、彼らを「観察」してみます。

彼らは、「五感から入ってくる外界の刺激(情報)」や「身体内部からの刺激(情報)」を受けて、脳に記憶されている日本語を、彼の脳内に作られた方向性を持ったベルトコンベアーに乗って組み立てさせられ、音声という物理現象に連動させられて言葉を発しているだけだ‥‥と理解できるまで、何度も何度も観察してください。

彼らの脳に日本語が記憶されていなかっただけでも、彼らは、何かを考えさせられたり、話をさせられたりすることもありません。
(ちなみに、「記憶」とは、自分が生きてきた環境によって作られるものですが、分身主義は、「遺伝」も自分の「記憶」を作る環境に含めます。と言うより遺伝子自体がそもそも記憶媒体ですけどね)

僕たちは、自分の考えでやっていることや、自分の力で成し遂げていることなど何一つありません!!
いいですか? とても大切なことなのでもう一度言います。

僕たちは、自分の考えでやっていることや、自分の力で成し遂げていることなど何一つなかったんです!!

だってそうでしょう!?

日本語は、僕たちが生まれた時からそこにあったし、話している内容にしたって、新聞やテレビなどの「五感から入ってくる外界の情報」を、その人その人の脳内の流れやすい方向で組み立て(させられ)ているだけに過ぎません。何一つ、自分で作っているものなんてありません。

流れやすい一定の方向性を作っているのは、その人の脳を取り巻く環境が作る記憶です。
個性とは、記憶の形(枠組み)です。

全てのものは、用意されていて、僕たちはこの脳を取り巻く環境に背中を押されているだけです。
誰もが、主体的な自分の考えで行動していて、自分の力で何かを成し遂げているように勘違いしていますが、僕たちは川に流されている木の葉のようなものなんです。

あの野茂選手も松井選手も、中田選手も、彼らに群がるファンたちも‥‥。

彼らが外国に渡った行動も、彼らの才能も、分身みんなで作り上げている行動であり才能です。そのことが確かめられるまで、じっくりと観察を続けてください。

そして、その時に忘れてはいけないのは、「観察」をする対象である「人間」は、自分の外側のものではなく、自分そのものでもあるという認識です。つまり、人間の行動を観察することで、自分を観察していたのです。

そういった、訓練を続けていると「自分は自然界の法則に対しては全くの無力だった」という結論が導き出されます。人間には今まで言われていたような will(意志)はなく、あるのは、その脳を取り巻く環境によって脳内に映し出される意志(mirrored will)だけだとわかってきます。

孫悟空がお釈迦様の手のひらから逃れることができなかったように、人間は、自然界の手のひらから決して逃れることはできないという結論です。

この一種の諦めを伴った自覚こそ「世界平和への初めの一歩」です。
いろいろな人が、いろいろな場所で、いろいろな意見を言っても、ちっとも世界が平和にならないのは、ここから始めないからです。
人類はまだ、尊大です。高慢です。
人類はまだ、世界平和への最初の一歩すら踏み出せてはいないんです。

(ねえ、みんな、そのことに早く気づいて!!)

しっかりとした建物を作るためには、自然を科学的に研究して、嵐や地震にも負けないしっかりした礎石(そせき)と、がっちりした骨組みが必要です。

現代科学は、物を見るための土台となる「自分」とは何かということと、世界を平和にするための枠組みとなる「視点」の持ち方も教えてくれていました。

この「諦めを伴った自覚」こそ、僕たちの心の中に「分身観」というしっかりした土台を作り、その上に大きな建物を建てるための枠組みを組んでくれるものだったんです。

もちろん、「分身観」も幻想には違いありませんが、この幻想は、実体だけを見つめる、現代科学が導いてくれた幻想です。
実体は常に一つです。
だから、これは、世界を一つにしてくれる幻想(真理)です。

では、もう一つの、科学の方法論に即した「実体の観察」をしなかった場合に導き出されたものは(それが今までのものでしたが)どのようなものだったでしょうか?

それは、やたらと人間を称揚し、自分たちの価値や、能力などを謳歌する幻想ばかりでした。

でも、人間が本当に謳歌したかったのは「自分だけ」だったんです。
違いますか!?
自分のことはさておいて、他人の価値や能力だけを謳歌したいなどという人がいるでしょうか?

自分を謳歌する「幻想」は、自分の生に満足感を与えてくれますが、同時に、他人を差別したり侮蔑したり世界に争いの種をまくこともあります。

「幻想」が、ゴッホの絵を暖炉の薪の材料としての価値しか作らなかったり、120億円の価値を作ったりしたことを思い出してください。

まだ現代科学が解明している「本当の自分」を知らずに、「錯覚の自我」という「幻想」を土台にして建てられていた建物に、今までの人類は住んでいました。
その場所から、あらゆる宗教が生まれました。お金や文学や音楽や美術‥‥などが作られていました。

地球のあちらこちらに境界線を引きまくり、世界をたくさんの国に分けたのも「幻想」の仕業です。
また、常に変化している素粒子の変化の一過程に過ぎない人間を、言葉や文化や見た目の違いから、たくさんの民族に分けたのも「幻想」の仕業です。

しっかりとした骨組みのない、幻想によって作られていた建物に住んでいた僕たちは、その幻想の数だけ、たくさんの宗教や民族や国を作り出してきました。世界が狭くなった今、「幻想」によって作られていた建物は、粘土のように変幻自在でくにゃくにゃとしていて、世界中の人類がみんなで仲良く住むには、軟弱すぎます。

しっかりとした土台の上にしっかりした柱を建ててから、いくらでも綺麗な「幻想」で飾り付けをすることは可能だと思いますし、そこからが「想像力」という「自然界の賜 (たまわ)り物」の、本当の見せ場です。

その土台の上に、今までの宗教や哲学や文学や音楽‥‥などといった幻想を積み直すことができれば、それこそ、普段バラバラに感じている僕たち分身が、一つにつながった幻想を持てる瞬間を味わえるんではないでしょうか?

その共感こそ、人間の本当の幸せだということは、誰も否定しないでしょう!? そんな素晴らしい幸せがあるでしょうか!?

だって、僕たちが一つだったことを知るんですもの‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

世界を平和にするために、やらなければならないたった一つのことがあります。と言うより、世界を平和にするためには、たった一つのことをやるだけで十分です。

それは、犯罪者を取り締まる堅固な管理体制を敷くことでも、責任を押し付ける誰かを見つけ出して安心することでも、みんなで集まって平和の歌を歌うことでも、被害者の声に涙することでもありません。
いつまでもそんな責任転嫁や自己満足を続けていても、いつまでたっても、そう、世界はいつまでたっても平和になりません。


「世界を平和にするために、やらなければならないたった一つのこと」とは、僕やあなたの意識の変革です。
脳の記憶の、組み換え作業です。あるいは記憶の上書きです。

今まで自分の意識内に作っていた境界線、
「自分、自分、自分‥‥」あるいは、
「自分たち、自分たち、自分たち‥‥」
という境界線を宇宙にまで広げてしまう「分身主義」を、脳の記憶に上書きさせることです。

組み換え作業と言っても、大掛かりなことは必要ありません。
人類の育てた果実』を齧ってもらうだけでいいんです。
そして、その後、目をつむって140億歳の自分の来し方を思い浮かべるだけでいいんです。

僕たちの意識の変化の仕方は、長い時間をかけて何世代にも渡って変化するばかりではありません。

僕たちは今、このインターネット上に「分身主義」という種をまきました。今は、桜の木が何年もかけて準備するように、ゆっくりと水分や養分を吸収して準備をしている最中です。

だけど、ある日突然、桜の花がいっせいに開花するように、世界中の脳内に意識の変革が起こります。
宇宙に散らばっている分身たちが「ひとつ」になる瞬間です。
僕たちの世紀で、その瞬間を味わうことは不可能ではありません。

その時、僕たちは、犯罪者を取り締まることもなくこの世から犯罪をなくし、責任の追及をすることもなくこの世から悲しい事件や争いを消しています。

何故なら、犯罪や悲しい事件や争いの原因を引き起こしていたものは、この環境だったからです。
環境に作られ環境を作っていた僕たちの脳の記憶に分身主義を上書きし、しっかりした土台の上に、全てを組み替えるだけでいいんです。


NO.28 分身主義的・知的所有権 2003.08.26

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【真の独創など存在しない。全ての創作品は、たとえそれがキャンバス上に引かれた一本の線であろうとも、分身みんなの総力の結集である】

宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!? こんにちは!
あなたの分身、徳永真亜基です。

前回は「観察」の意義について書きました。
僕は、観察を繰り返すうちに、面白いことを発見しました。
人間の頭蓋骨を割って中の様子を見たことのある人は、そう多くはいないでしょうが、それを間接的に見る方法です。

動きや身なりや表情などに、その時のその人の脳の状態が現われています。僕たち人間の本性は、脳が人間の着ぐるみを着ているだけとも言えます。
それぞれの脳が、いろいろな格好の人間のぬいぐるみを着ているというイメージをしてみてください。これを読み終わったら、是非、外に出ていろいろな脳が歩いているのを観察してみてください。
失礼にならない程度にね。

きっと、僕の言う意味がわかっていただけると思います。そして、その意義も‥‥。

さて、今回は漢字10文字のいかめしいタイトル「分身主義的・知的所有権」ですが、そんなに難しいことを書くわけではありません。

知的所有権とは、簡単に言えば、頭で考え出された「アイデア」の権利の総称のことです。
特許とか、実用新案とか、著作権と言えば、誰でもピントくると思います。以下に、簡単に、知的所有権を保護するために作られた法律を整理してみました。

1、産業財産権法(←以前の名称は、工業所有権法)
・特許法(自然法則を利用した、新規かつ高度な発明が対象)
・実用新案法(物品の形状、構造、組合せによる考案が対象)
・意匠法(美感、形状、模様、色彩に関するデザインが対象)
・商標法(製品や包装に表示するマークなどが対象)
2、著作権法
3、回路配置権法(半導体集積回路の回路配置に関する法律)
4、種苗法(しゅびょうほう:植物新品種に関する法律)
5、不正競争防止法
6、商法(商号使用権)

では、法律で保護しなければならない知的所有権は、どのような解釈によって生まれた概念なのでしょうか?
ある本には、次のように書かれていました。

「我々の市民社会は、基本的にすべての価値を商品交換経済社会における経済的価値に置き換える。そこで、発明された技術や創作された著作物等については、有体物と同様の排他的権利を付与し、一定期間に限定はするものの独占的権利を認め、そこから生まれる経済的利益を独占させることが最も有効な方法だとして「知的所有権」が考えられるに至った。
つまり、「知的所有権」とは、産業財産権及び著作権及びその周辺の権利を総称する言葉である。
例えば、産業財産権制度は、独占権の付与により、模倣防止を図り、研究開発の奨励と商取引の信用を維持し、産業の発展を目指す」

やっぱり学者さんは難しい専門用語を使うのが好きですね。だから嫌いです。
と言っても、学者さんが悪いわけではなく、彼を取り巻く環境に「難しい単語」があふれていて、それらが彼の脳内に作られた「流れやすさの方向性」に乗って、組み立てらているだけなんです。

では、僕の脳を取り巻く環境にある「簡単な単語」たちが、僕の脳の「流れやすさの方向性」に乗って組み合わさせられてみたらどうなるでしょうか? 早速やって(分身主義的に言えば「やらされて」)みます。

「僕たちの身の回りには、毎日の生活を便利に快適にするための、多くの発明品であふれています。自動車、携帯電話、家電製品‥‥etc.
それに、音楽を楽しんだり、新聞や本やテレビやこのインターネットなどからは有益な知識を得ること、得る、得‥‥得‥‥」

あっ、ちょ、ちょっとごめんなさい。今、僕の身体内部から「おしっこがしたい」という刺激(情報)が入ってきました。
ちょっとトイレに行かされてきますので、お待ちください。
(数分後)
お待たせしました。
それでは早速、続きを書かされます。

「‥‥知識を得ることができます。
しかし、苦労して創造したアイデアも経済的利益が何ら得られなかったり、すぐに他人に模倣され、彼らの利益に利用されたのでは、新しいものを創造しようという意欲が失われます。
そこで、人間の幅広い知的創造活動について、その創作者に一定期間独占的な権利保護を与えるようにしたのが知的所有権制度です」


えっ? 大して簡単になっていないって? ごめんなさい。
トイレに行ってすっきりしたら、脳の流れやすい方向性が変化しちゃったみたいです。

要するに、こういうことです。

物には値段がついていて、普通の人はそれを売り買いすることで生活が成り立っています。だけど、アイデアというものには形がないので売り買いできず、いくら時間と労力をかけて一生懸命何かを考え出しても報われません。
それどころか、平気でそのアイデアを盗まれて、物を作る人の利益になってしまいます。

そんな理由から、自分たちのアイデアを秘密にされたり、「もうこんな生活イヤ!」と言ってアイデアを考え出すことをやめられちゃったりしたら、社会にとっても損失です。

そのために、アイデアを考え出した人や企業に独占権を与えて、彼らの生活も潤うように法律で保護してあげましょう、と考えたようです。


でも、弱者保護的な意図のもとに与えられた独占権が、今では商品を売買するよりもおいしい莫大な利益をもたらしてくれることになってしまって、アイデアを考えた人と商品をコツコツ作る人のどちらが弱者だかわかんない状態になってもいます。

さて、よく考えればわかることですが、これらの法律は、発明家や装飾家たちの実際を知らない人たちが作ったとしか思えません。

今日まで、根気強くこのメルマガを読んできてくださった方はお気づきかと思いますが、全くの独創的な発明とか創作品は、一つとしてあり得ないんです。

僕が、大学で「美術学」だったかを勉強して(分身主義的に言えば「させられて」)いた頃、とても印象に残る言葉と出会いました。
それは次のような言葉でした。

「作家が単に風景を描写していると思うのは、作家の制作プロセスの実際を知らない人たちだ。彼が描写している風景は、彼が見てきた過去の絵画の色や線や構図などを通して見ている風景である」

絵描きがやっていることは、独創ではなく記憶(つまり模倣)の組み合わせなのです。
その組み合わせ方の違いで、独創的に見える作品が生まれるだけの話です。

「現実という名のもう一つの夢(remora dream)は、五感を通してつながっている分身みんなが見ている夢である」とも言えますから、僕たちが作る創作品は、分身みんなの総力の結集です。

僕は、発明や創作品は全ての人類で産んだ、人類全ての共有財産だと考えます。

一人の人が天才でも偉いのでもなく、その人の脳を取り巻く環境が、その人の脳を「媒体」として発明や創作をさせているわけですものね。
分身主義では、その媒体に当たる人間を、便宜上、「著作者」と呼ぶだけです。

分身主義は、たった一人の天才も、たった一人の落ちこぼれも、たった一人の英雄も、たった一人の犯罪者も作りません。
分身たちの犯した?全ての行為は、分身みんなの総力の結集です。

その行為が良いか悪いかは別にして、僕たちは分身の一人として、自分の分身の犯した?行為の責任を、全て引っかぶれて(一つになれて)むしろ嬉しく感じるはずです。
それこそが、人間の本当の喜びだからです。

個人主義の脳に、喜びを与えてくれていた、「あなたは天才だ」「あなたは世界一だ」「あなたは NO.1 だ」「あなたは Only One だ」などの幻想は、もはや小さな小さな喜びでしかなかったことに気づくべきです。

それが本当の幸せも平和ももたらしてくれなかったことに、気づくべきです。むしろ差別や嫉妬や争いをもたらしていました。
幸福といっても、それは優越感に根差した卑小で不安定な幸福でした。

人々の意識の底に「自分、自分、自分‥‥」という個人主義的感覚があるのは事実です。でも、それと同じくらいに、自分の境界線を超越した分身主義的感覚もあるはずです。
僕たちの感覚の中で、分身主義的なものが強くなってきたら、社会経済の仕組みも変化していきます。

当然の話です。

元々、僕たちの現実とは、「脳が過去の記憶に基づいて見ている幻覚」のことだったんです。
今現在の社会経済の仕組みが最善なのでも、それ以外に考えられないものでもなく、幻想の数だけ社会経済のあり方は考えられるんです。

だから、いずれ、特許権や著作権の考え方は変化していくと感じています。

みんなの総力で生まれたアイデアであり、みんなの財産なのに、一人の人が利益を独占したり暴利を貪るのはおかしな話ですよね。

分身主義的な知的所有権の解釈は、個人や一企業の利益を守るための制度ではありません。僕たち分身みんなの共有財産のために、その分身である個人や一企業と、共に助け合うための制度です。

自分たちの分身の生活を助けるという気持ちが根底にあれば、自ずと、各々が必要最小限の利益だけを得て、残りは分配するというような考え方に変化していくと感じています。
だって、僕たちは一つですもの‥‥ 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

自分の権利の正当性を主張して争ったり、利益を上げるために競ったりする社会は、この個人主義的な環境の中に置かれた僕たちの脳に浮かび上がっている幻想(=意思)に僕たちが動かされている社会に過ぎません。

僕たちの脳が分身主義的な環境の中に置かれた場合、その脳に浮かび上がる幻想が作り出す社会は、自分の権利を主張する行為や、利益を上げるために競う、それらの行為とも無縁の、そんな概念すら存在しない社会になりそうです。
シェアーし、助け合うことが、何の違和感もなく平然と行なわれる社会です。

そんな変化が、ある日を堺に劇的に起こることがあります。
何故って、僕たちは単なる環境の媒体だったから、環境さえ変われば僕たちがコロッと変わるのも造作ないことなんです。

戦時中、鬼畜と蔑み憎んでさえいたアメリカ人を、戦争終結と同時に尊敬し見習うようになったではないですか?

あなたがまだ、この世界が「分身主義的な環境」に変化した時のことを想像できなかったり、その時の喜びを想像できないのは、まだあなたの脳がどっぷりと「個人主義的な環境」に浸かっているからというだけなんです。

僕たちは自分たちの強い意志でこの社会を築き、動かしていると考えるのは明らかな誤解です。この社会を作っているのは政治家でも神様でもありません。
僕たちはこの環境に、ただ、作られていた媒体でした。

そしてこの環境に作られている僕たちの脳が集まったこの環境が、政治家や神様を作っていただけです。そして大掛かりな経済システムを作り上げてしまっていただけなんです。
そのことに早く気づいてください。


さて、僕を取り巻く環境は、この僕という媒体に、『NO.28 分身主義的・知的財産』という偉そうな文章を最後に書かせましたが、分身主義は全体主義とも違い、一人一人を顔なし名なしにするものではありません。

一人一人が、自分にはできないことを自分の代わりにやってくださっている誇るべき分身さんだと考えるものです。

その一人一人の名前は、残した方が目印にもなるし、僕たちだって自分の分身を誇れるってもんじゃないですか。

それに、著作物が、誤解や曲解を受けて歪められて伝わらないためにも、原本を大切に記録しておかなければならないわけですが、そのためにも著作者(=媒体者)の名前を目印として残しておくことが必要であると考えます。

その意味で、僕たちの経済的利益を守るための権利としてではなく、分身みんなの目印と誇りを守るため、僕は著作権を放棄しようとは思いません。

だから、もし、何かに引用する場合は、出典を明らかにすること、または転載する場合には一言お声をかけてくださいね。それが分身主義的マナーです。

僕は今、どうしたら個人主義的な環境から分身主義的な環境に移行するだろうかと考えています。それにはまず、僕たち人間はみんな、この自然界の法則というシナリオに則って、素粒子が演じさせられている劇場の中の配役だったと知ることです。

これを「科学的覚醒」と呼びましたね。

僕たちの行動は、ビッグバンから連綿と途切れることなく続くこの環境に、決定的に操られています。このことが、科学が僕たちを導いてくれた結論です。

「科学的覚醒」を果たしたら、次には、今までの自分の脳は、「個人主義的な環境」の中に置かれている、ということを自覚することです。
それは、境界線を持って存在しているかのように見える、この身体の内側が自分であると信じていた「錯覚の自我」が作り上げていた環境でしたね。

この「個人主義的な環境」から浮かび上がる幻想(意識や思考や想像や意思や意欲‥‥etc.)によって行動を取らされていたので、全ての行動が利己的になってしまっていたということに気づくことです。

科学的な真実を知る人が増えたら、少しずつ僕たちのこの環境は分身主義的な環境に移行していくに違いありません。
そして、ある日突然、桜がパッと満開に咲き誇るように、このインターネットが、一瞬にして「個人主義的環境」を「分身主義的な環境」に作り替えてくれる日が来るのではないかと‥‥。

そんな日がいつか来ることを僕は夢見ています。
だって、僕たちは元々一つだったんですもの‥‥ 😉✰ネッ!
後はその真実を知るだけで良かったんです。


あとがき 2020.6.15


表紙を素晴らしい絵で飾ってくださいました、自称「自然大すきおじちゃん」の森川寛(ひろし)分身さんのご紹介をさせていただきます。

森川寛・分身さんは、僕がこのメルマガを発行していた当時流行っていた「Yahoo! 掲示板」で知り合ったネットの友人の一人です。
本職はデザイナーの方ですが、熊谷(埼玉県)では、「水切りおじちゃん」としてテレビにも何度も出演していたかなりの有名人です。

水切り(みずきり)とは、水面に向かって回転をかけた石を投げて水面で石を跳ねさせて、その回数を競ったりする遊びの事です。おじちゃんはすごい記録を持っているようです。

おじちゃんは以前、次のようなメッセージをインターネット上に発信してくださいました。

おじちゃんがボランティアをしている「まちの駅ギャラリー」で、ネパールの子供たちの就学を支援するバザーがありました。現地の人が作ったと云うミサンガを買いました。
どちらが良いですかと出されたミサンガは、LOVE と書かれたものと PEACE と書かれた2種類がありました。

もちろんおじちゃんは迷うこと無く PEACE と書かれたものを選びました。
あんまりあっさり決めたせいか、なぜこちらを選んだのかと聞かれました。
そりゃーもう徳永さんはわかりますよね。
おじちゃんは答えました。
LOVE には罪もある(特別とか差別を含む)けど、PEACE には罪がない(安心とか幸福を含む)でしょ。
売り子の若い女性は『なるほど』と云いました。
徳永分身さんのメルマガの影響です。
そのあと、話が弾んで、水きりの話をたっぷり聞かせてしまいました。
ははは。

僕たちの愛すべき分身さん、森川のおじちゃんの紹介でしたが、「Yahoo! 掲示板」で知り合ったのは、もう20年近く前の話です。
その頃の方たちとは、もう一人もメールのやりとりはしていませんが、皆さんどうしているのでしょうか!? 懐かしさでいっぱいです。

僕の立てたトピに、みんなみんな、真剣に意見を書いてくださって、本当にありがとうございました。直接メールもくださった方もいます。

今ではもう古き良き時代って感じです。

2002年1月14日からYahoo! さんの掲示板を借りて始めた 『全ての疑問を解く鍵は自分!?』というトピは、2005年1月1日を持ちまして閉鎖させていただきました。
その三年間、「コメントは毎日必ず書く。いただいたコメントには必ず返信を書く」ということをモットーに続けていたので、このトピは常に更新されて上の方の目立つ位置にありました。

それなので、書き込みに参加してくださった50人以上の方だけでなく、書き込みはされなくても、ちょっと覗いてくださった方は、何百人にも何千人にも及ぶと想像します。

この掲示板を通して出会った方々からは、たくさんの貴重な勉強をさせていただきました。
そしてまた、それまで作っていた『アラスカの風に乗せて』と言うホームページに加え、この掲示板から、二つのホームページが生まれました。

『僕は健康だよ。 ただ、ちょっと‥‥』
『世界平和への扉(分身主義への誘い)』

それと、三つの作品が生まれました。↓

『人類の育てた果実』
『分身主義宣言!』
『バラ色の素粒子』

分身主義が生まれたのもこの掲示板からです。

これらは、この掲示板に書き込みしてくださった方や覗いてみただけの方だけでなく、僕の意見に賛成の方も反対の方も興味もない方も含めて、まだ会ったこともない地球の裏側に住むみなさんや、飽くなき探究心と忍耐力で科学をここまで育て上げた科学者と呼ばれる方たちや、この宇宙を作っている万物の総力によって生まれたものです。

あなたの瞬(まばた)き一つにしても手の上げ下げ一つにしても、この宇宙を作っている万物の総力によって生まれていたのとまったく同じ意味で。

僕は、媒体です。
あなたも‥‥。

もちろん科学者と呼ばれる方々も‥‥。

三年間の締めくくりに、僕は次のように書いていました。

この掲示板を閉めるに当たって、一つだけ覚えておいて欲しい言葉があります。
僕たちは、自分を取り巻く環境の媒体であるという言葉です。
そして、僕は媒体であると共に、僕の周りの全てのものを取り巻く環境の一部です。
あなたも媒体であると共に、あなたの周りの全てのものを取り巻く環境の一部です。
これが、この掲示板 『全ての疑問を解く鍵は自分!?』 の到達した答えです。僕たちは主体的な自分の意思(意志)で喋ったり行動をしたりしていたのではなく、僕たちを取り巻く環境が僕たちの脳に浮かび上がらせた 「意思(意志)」 と呼ばれるものによって、受動的に喋ったり行動したりさせられていたのです。

それは次のように簡略化して言うことができます。
実は、僕たちを取り巻く環境が、僕たちを媒体として喋ったり行動をしたりしていたんだ‥‥と。

あなたも、いつの日か、僕たちは媒体であり環境であるという言葉の本当の意味が電撃的に理解される時が来るかもしれません。
その時、あなたが生きてきた中で、あなたの魂に付着した恐怖の観念や数々の怒りや、嫉妬や羨望や恨みや執着や、あらゆる不浄なものが、きれいに洗い流されるような体験をされるでしょう。
この僕がそうであったように。

その時、あなたも分身主義の喜びを、実感してくださることでしょう。

さて、 僕を取り巻く環境が僕を媒体として、2003年5月13日に産み落としたものが分身主義です。

この分身主義が、世界中の人の脳に上書きされた環境が築かれれば、今まで人類が望んでも決して叶えられなかった平和な世界は、向こうから笑顔で両手を広げてやってきてくれるはずです。

そのことを何とか一人にでも伝えたいという気持ちに取りつかれて、最後の方は掲示板を継続させていましたが、どうやら掲示板というメディアを使って僕自身の口から分身主義を語るのは、あまり良い結果を生まないということに気づきました。

分身主義を語る僕と、掲示板に書き込みされる方々との間には、視点の違いがあるのですが、その方たちは、どうしても自分の視点を変えてみようとはしてくださらないからです。

何故なら掲示板とは、人が自分の存在証明や存在確認として、足跡を残すために利用するための遊び場だからです。
あるいは、現実の社会生活に適応して生きていくために日頃おさえつけている暴力性や、非論理性を匿名性の力を借りて、存分に発露できる遊び場だからです。

自分中心、あるいは人間中心的な感覚を存分に発揮できる理想の遊び場で、人は、分身主義の視点(自然界中心のこの上なく謙虚な感覚)を受け入れてみようなどとは断じて思わないからです。

そして、そのような感覚の方には、分身主義が僕自身の口から語られると、なんだか批判的で、押し付けがましくて、偉そうで、高慢ちきなものに変容してしまうようです。
分身主義は、僕の口から語られる間は誰にも正確に伝わらないだろう‥‥というのが、掲示板を経験した僕の正直な実感です。

でも、最後まで理解を示してくださらなかった方も、「僕たちは、自分を取り巻く環境の媒体である」という言葉の深い意味を、いつか理解してくださる時が来るかもしれません。
この感覚が、世界平和にはどうしても必要であるという意味を理解してくださる時が来るかもしれません。

いつか、僕の口ではなく、今この文章を読んで下さっているあなたの口を通して分身主義が語られる日が来るのを願っています。
あなたこそ、僕にはできなかった壁を乗り越えて、この世界を平和に導いてくださる方かもしれません。
あなたという媒体を取り巻く環境が、真にあなたにそれを望む環境であることを願います。

今、まだ見ぬ、分身主義の語り手という分身さんのために、「分身主義」の語り手としてはまだまだ未熟な僕は、ホームページ作りやメルマガ発行などを通して、もっともっと勉強をして、科学時代を生きる人類の獲得したこの素晴らしい分身主義を深めておきたいと思うのです。

ちなみに、「分身主義」のゴールは、世界中の人が一つになった時です。

しかし、そこではもはや僕たちは一人一人の分身ではなくて、全身が姿を現しているはずです。
だから、もうその時は「分身主義」という言葉が不要になり、その言葉自体がこの世界から消えていることになります。

僕という分身が果たせなかった夢を、あなたというこの宇宙の分身さんが叶えてくださることを願って、この掲示板を閉鎖させていただきます。
三年間、本当に、ありがとうございました。

徳永真亜基‥‥分身


『分身主義宣言!』 完


画像21

★★★   関連記事(保存版) ★★★
📌分身主義とは(ジジイの遺言書-10-)
📌真の科学とは何か?(ジジイの遺言書-7-)
📌個人主義から分身主義へ(ジジイの遺言書-8-)

★★★   未来モデル小説   ★★★
ブンシニズム・ドット・ネット
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。

画像22





長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。