究極の断捨離(by分身主義)
この年になると、過去ばかり振り返るようになる。
そりゃあもう、考えなければならないこの先の未来‥‥は、そんなにないんだからね。(^-^ )
必然的に考えることは過去のことばかりになってしまうんだろうね。
それで時々、昔あった嫌なことなどを思い出して(ああ、なんであの時、あんなことを言ってしまったんだろう)などと、思わず顔をしかめたり心の中で舌打ちをしてしまったりすることも多くなってしまった。
それも同じことを何度も何度も思い出して、同じように顔をしかめ舌打ちをしてしまうんだよ。
ジジイになることで嫌な習癖が身についてしまったようだ。
でも悪いことばかりじゃない。
平気でモノを捨てることができるようになってきた。
実はつい最近まで、子供のころ書いていた日記や、若いころの文通や手紙や恋文などを捨てられなかったんだけど、平気で捨てられるようになってきたんだ。
それだけじゃない。
今まで使わないけどいつか使うかもしれないと思って捨てられなかった物や、今まであまり着なかったけど捨てられなかった洋服やらを、何の未練もなく捨てられるようになってきた。
それはね。
年金の額と貯蓄額を合算して将来の計画を立ててみたら、もうこの先、何かを購入したり、友達と会うようなお金もないとわかったから、洋服も最低限あればいいと諦めることができたからなんだ。
でもこんな経験ができるほどの貧困な人はそんなに多くないと思うから、参考にならないかもしれないけどね。
以前、「断捨離」という言葉が流行ったけど、本当の「断捨離」とは貧困者というある意味、選ばれし人間が、ジジイのような年になり、もう物が不要になり着飾ることも不要になった時にすんなりと実行できる行為のことだと思う。
今のジジイは、「入ってくるモノ」を得ようにもお金がないし、誰かに会うためのお金もないので着飾る洋服も不要になり、死を受け入れる準備もできているので執着からも離れている。
もちろんお金のかからない一日30回のスクワットとか、納豆とタマネギとワカメなどを毎日食べるとか、風呂は毎日入るとかはちゃんと実行して、見苦しくならないくらいの最低限の身だしなみは捨てたくないけどね。
というのも、8年ほど前、今のマンションに引っ越してきた時、隣の部屋に挨拶に行ったらジジイよりも年上のジジイが顔を出して、彼がニコッと笑った時、白い鼻毛をボーボーにはやしているのが見えて(ああはなりたくないな)と思ったからなんだ。それと白い眉毛がボーボーに伸びた、いつかの総理大臣のようなジジイになるのも嫌だな。
確かに、若いころは幸せになろうとして人並みに富を求めてはみたけれど、元々お金を嫌っていたせいもあり、ことごとく報われずに、その代わりに神様がくださった祝福こそ、この「貧困」だったのだと思う。
そのおかげで断捨離がすんなりとできるようになって、様々な執着からも離れることができて、今では心がきれいに浄化されてきたように感じる。もし自分がこの年で裕福だったとしたら、未だに生に執着し108個もある煩悩に苦しんでいただろう。だから「貧困」をくださった神様に今では感謝している。
そして、最終的には、この「自分」をポイッと捨てる‥‥これが究極の「断捨離」だとジジイは考える。そして自分はもうその達人の域に近づきつつあると感じている。つまり、今のジジイは生に執着する気持ちが薄まり、やがて訪れる死を快く受け入れているんだ。
ところで、ジジイはプロフィールにも書かせてもらったけど、子供のころからずっと、この人間社会の営みに矛盾や嫌悪感を持って生きていた。
特に嫌いだったのはイジメ。どうして人間社会には子供も大人もイジメなんてものがあるんだろう?
小学生の時、いつもイジメられている女の子がいて、ある日、クラス中に聞こえる大声で「なんでイジメるんだぁ!」って怒鳴ってやった。それ以来その子をイジメる子はいなくなったけどね。
中学の時も、ちょっと頭が弱い男の子がいて、たびたびイジメられていたけど、ジジイだけはその子と普通に仲の良い友達でい続けることができた。
まあ当時のイジメというのは、今のような陰湿なものではなかったけどね。
それに依怙贔屓をする先生や大人たちも大っ嫌いだった。どうして人間って、みんなを平等に扱えないのだろう。
子どもには嘘をついたらいけない、差別をしたらいけないと言っておきながら、平気で嘘をついたり、差別したり、威張って他人に命令して自分の嫌な仕事をやらせたりする大人たち。
権威や地位や名誉を獲得するために策を弄したり、すり寄ったりひれ伏したり、くだらない基準で、勝ち組・負け組などと決めつけて優越感に浸ろうとする大人たち。政治の世界に目を向けてみても、国益のために屁理屈をこねて相手国を責め立てたり、勝手に奪い合った地球の部分を自分の領土だと主張し合ったりして、まるで子供の喧嘩を引きずっているような大人たち。
「この人間社会の営みに矛盾や嫌悪感を持って生きていた」ジジイだから、この社会の醜さや愚かさばかりが目に入って、それらのことを遺書として書いて死のうと20歳代前半までずっと考えていた。
つまり、ジジイは若いころ作家になりたいと考えていたけど、その作品とは遺書のことだったんだ。
結局、ジジイが今も生きているのは、当たり前のことだけど、遺書は書いてみたけれど死ぬことが実行に移されなかったわけで、そしてその理由もいろいろあるけれど、最終的には、生の執着を捨てきれるほど強くなれなかったからだと思う。
『ライ麦畑でつかまえて』の中で、主人公のホールデンが尊敬するただ一人の先生、アントリーニ先生が、次のような意味のことを言っている。
「若者の特徴は、理想のために高貴な死を選び、大人の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする」
ジジイは弱虫だったから、理想のための死を実行できなかったんだし、この歳になるまで卑小な生を選んでしまっているんだと思うんだ。
だけど、死期が近づいた今、執着からも離れて容易に断捨離が実行できるようになってきた今、書いたものを、やっとそのまま本当の遺書にすることができそうだ‥‥。若いころの夢が今叶えられようとしている。
グダグダ書いてきたけど、この人間社会に嫌悪しながらも、結局死ねずにそれなりに長生きしてしまったジジイが、どうしたらもっと良い世の中になるのかを考え続け、科学を通してこの自然界様に問いかけを続け‥‥つまり、科学的な検証を続けたという意味だけど‥‥そこから教えられたことを、しばらくはこの『ジジイの遺言書』に書いていこうと思っている。
最後に‥‥、先ほど引用した『病者の祈り』という詩の全文を載せておこうと思う。
これは、むかし読んだある本に、『ニューヨーク・リハビリセンター研究所の壁に書かれた一患者の詩』として紹介されていた美しい詩なんだけど、その詩を読んだ時感動して書き写しておいたものなんだ。
残念ながら、肝心のそのある本というのは、何の本だったか忘れてしまった‥‥。
★★★ 関連記事(保存版) ★★★
📌分身主義とは(ジジイの遺言書-10-)
📌真の科学とは何か?(ジジイの遺言書-7-)
📌個人主義から分身主義へ(ジジイの遺言書-8-)
★★★ 未来モデル小説 ★★★
『ブンシニズム・ドット・ネット』
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。
長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。