人類が絶滅の危機を乗り切るには‥‥(by分身主義)
人類が出現して現在に至るよりも、ずっとずっと長い年月繁栄を続けていた恐竜たちが絶滅したのは、今では巨大な隕石説が有力のようだけど、ジジイはウイルスのせいじゃないかと、かなり前から仮説を立てていたんだ。
人々は恐竜の巨大さに圧倒されているけど、彼らを絶滅させたのは巨大な隕石ではなくて、実は小さな小さな目にも見えないウイルスだったんじゃないか、というのは十分考えられることだよね!?
そこで、今回のウイルス騒動が起きた時に、真っ先に友達に「もしかしたら人類絶滅の前兆かもしれない!」と、メールをした。
福井県立恐竜博物館のホームページには、「恐竜は、三畳紀の後半に出現以来、1億6千万年近くも栄えていましたが、白亜紀の末、今からおよそ6550万年前に絶滅してしまいました」と書いてある。
上の図の色付けされた長い長い期間が、だいたい恐竜が生きていた時代だ。
そしておよそ6550万年前くらいの地層からパッタリと骨が見つからなくなった。つまり彼らに何かが起こって突然姿を消したんだ。
だけど恐竜の時代には、不平等や争いや犯罪をもたらす「お金」なんてなかったし、国同士いがみ合ったり、責任をなすり付け合ったり、差別をしたり、匿名性をいいことに特定の人を執拗に攻撃したり、相手の弱みに付け込んで詐欺を働くような文化もなかった。
だから、恐竜と違ってそういうことをしてしまう人類は、このウイルスが引き金となって互いを傷つけ合って自滅を早めるかもしれないとジジイは危惧しているんだ。
でも究極的な話、ジジイは人類が絶滅してもいいと思っている。いや、自分がもうじき死ぬからそんな無責任なことを言っているんじゃないよ。
人間はいずれ誰でも死んじゃうんだからね。
本当はウイルスだろうがなんであろうが、そんなもの怖がることはない。
もう一度言うよ。人間はこのウイルスがなくてもいずれ死んじゃうんだ!
早いか遅いかの違いだけなんだ。
生物のDNAには分裂回数を制限するテロメアという部分があって、生きるためのプログラミングだけでなく、死ぬためのプログラミングもされていたわけだしね。細胞が分裂できなければそこでストップだもの。
だから、生きている間だけでも「幸福に生きてるなあ」って実感できる生き方ができればそれだけでいいと思わないかい?
もう一つ欲を言えば、死ぬ時も誰かに恨まれて死ぬんじゃなくて、ワーワー泣かれて死ぬんじゃなくて、むしろみんなの笑顔に祝福されて「十分幸せに生きて良かった」と思い残すこともなく死ねれば、それだけでいいと思うんだけど、そう思わないかい!?
問題は‥‥、現代はそんな当たり前で簡単なことが一番難しい時代だということなんだ。
自然界様に産んでいただいた人類なのに、どこかで道を踏み外してしまったせいか、いつの間にか傲慢になり、まるで自然界を意のままに操る「神」にでもなったかのような錯覚を持ち始めてしまったからなんだよ。
変な話、生死さえも自分たちで操れると勘違いしているよね。
だけどそんなことばかりするようになって、生ばかりを称揚し、死をますます忌避して見えないところに遠ざけようとばかりしてしまうようになった。
だから、「当たり前で簡単なこと」が「一番難しい時代」になってしまったんだ。
新型コロナウイルスのせいで、人類は初めて「世界的な危機」に直面したと感じている人たちもいるだろう。
だけど、実は、傲慢になってしまった人類がお金というものを発明し、そのお金に人の心が支配されるようになってしまった頃からずっと「世界的な危機」状態だったんだ。
でもジジイがどんなにそれを訴えても誰も聞く耳を持ってくれなかったし、誰もが引き寄せられるようにお金に群がってしまったんだ。
お金こそが、「幸福に生きてるなあ」って実感できる生き方を与えてくれるものなんだと、誰もがそのように確信していたからなんだろうね。
だけど今ここに来て、世界中の人が頼っていたお金というものが、肝心な時にはこんなに頼りなかったのかということに気づき始めている人もいるのではないかと思う。
頼りないというよりも、むしろお金が自分たちの首を絞めてしまっているんだよ。ガタガタになった経済を見てごらんよ!
少なくとも、お金が無ければ経済がガタガタになることなんてあり得なかったよね。お金が無ければ、この状況に乗じて詐欺を働こうなんて考える人たちや、マスクを高額で売ってやろうなんて考える人たちも出てこなかったはずだよね。
それどころか、どこかの小学生みたいに、マスクをいっぱい作ってお年寄りにプレゼントするような「心優しき」発想しか生まれなかったはずだ。
それに、経済上の利害を巡って国同士が互いを攻撃し合うのではなくて、世界中のみんなでこの危機を乗り切ろうと一つになれていたはずだよね。
さて、ここからが今日、本当に言いたいことなんだ。
こんなに危機的な状況にある今だからこそ、むしろ人類がもう一度、自分たちのことを振り返る良いチャンスではないかと思う。「人間とは何か、自分とは何か」を知る良いチャンスではないかと思うんだ。
どこかで道を踏み外して傲慢になってしまった人類だけど、もう一度、自分たちを産んでくれた自然界様の声に謙虚に耳を傾けて、踏み外す前まで戻ってやり直してみようと思わないかい!?
そして、今までのように一部の人が富を独占するのではなくて、今までのように、お金があるがためにたくさん生まれてしまった「本来なら不要だった職業」に一生を捧げるのではなくて、世界中の誰もが「幸福に生きてるなあ」って実感できる生き方をするにはどうしたらいいのか、一緒に考えてみないかい!?
さっきは「人類が絶滅してもいいと思っている」などと言ってしまったけど、世界中のみんなが一人残らず「幸福に生きてるなあ」って実感できる生き方ができるようになるなら、もちろんジジイだって、人類がこのウイルスで絶滅せずに繁栄を続けて欲しいさ。それが一番の願いだもの。
そのためには、お金が作っていた社会や価値観や固定観念から脱皮しなければいけない。今までのようにお金に頼るのではなくて、人々の「思いやり」や「共感」のような感情で互いに助け合う世界にならなければいけない。
お金という物々交換のシステムをやめて、互いに物をシェアし合うシステムに変えていかなければいけない!
そのためには、人類が自分たちのことを振り返り、自分を知る必要がある。
人類は、いつまでも「錯覚の自我」に縛られ続けて、その妄想が作り上げた「お金」などという砂の上に建物を建立し続けていたら、そしてその建物が傾いたからといって、急場しのぎの改修工事ばかりしていたら、たとえコロナウィルスが終息したとしても、いつか再び足下をすくわれてしまうよ!
そこでだ。ジジイが、「個人の幸福=世界平和」という旗印を掲げて、一番初めに書いた『人類が育てた果実(自分探しの旅の果てに)』という作品をnoteに移し終えたので、こんな状況だからこそ、是非、読んでみて欲しい。
遅筆なジジイが、やっと自分のホームページからnoteに移し終えた『人類が育てた果実(自分探しの旅の果てに)』という作品は、「自分探し」をするために、二つの別々の場所から出発し別々のルートで山の頂上を目指すものなんだ。
一つは「科学」というルート、もう一つは「愛」というルート。
そして最終的に同じ頂上に辿り着く。
そこには不思議な形の木が立っていて、もしあなたがその果実をガリリと齧ってくれたら、不思議な体験をするはず。それをジジイは「科学的覚醒」と呼んでいるんだよ。
人類が絶滅の危機を乗り切るためには、その体験をするかどうかにかかっている、と本気でジジイは考えているんだ。
もし人類が「科学的覚醒」ができなかったなら、つまり今まで通り「錯覚の自我」に縛られ続けて生きていくならという意味だけど、そのせいでいつまでもお金に頼る生き方しか選択できないでいたら、コロナウイルスが終息しても、はるか前から人類を少しずつ蝕み続けていた‥‥、
もっと怖い「錯覚の自我」というウイルスが、やがては人類を滅亡させるだろうからさ。
遠い昔、人類が「錯覚の自我」という眠りに落ちて、自然界と対峙してしまった日から、実に長いこと、その錯覚の自我の宴の席で酩酊させられながらも、時に華やかな夢に酔いしれ、時に悪夢にうなされ、健気に懸命に生きてきたけど、ついには崖っぷちのすぐ際まで来てしまっている。
そして、社会的弱者と言われる人たちや貧しい環境に置かれてしまった大勢の人たちが、その崖から次々と突き落とされてしまっていたじゃないか。コロナウイルスどころじゃなかったんだ。
あなたには見えていなかったとは言わせない。
★★★ 関連記事(保存版) ★★★
📌分身主義とは(ジジイの遺言書-10-)
📌真の科学とは何か?(ジジイの遺言書-7-)
📌個人主義から分身主義へ(ジジイの遺言書-8-)
★★★ 未来モデル小説 ★★★
『ブンシニズム・ドット・ネット』
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。