明るい未来のためにやらなければいけないたった一つのこと
パソコンは時代に合わせてバージョンアップさせるというのに
人類の脳のOSは相変わらず旧式のままです。
この21世紀、科学時代に合わせてバージョンアップさせましょう!
そうすれば、世界はガラリと明るく美しい色に塗り替わります。
この記事の内容は以下の通りです。第4話までは無料で読めます。
第1話・人類の脳のOSのバージョンアップとは!?
(この話は読むのに10~12分ほどです。【6.754文字】)
ここ『るいネット』では、個人主義やその核心を成す「自我(これが自分であると信じているところの意識)」が、どうやら社会を良くできない原因であると気づいている方たちが多いようです。
私は、この四方勢至さんの記事を受ける形で、ここ『るいネット』に、「個人主義」に代わる概念として、「分身主義」という全く新しいパラダイムを提起するためにやってきました。
そのために、『るいネット』内に、このブログを開設させていただくことにしましたが、と言っても11回完結の予定です。その後は、皆さんの中に入って行って、いろいろと話し合いをさせていただこうと考えています。
実はそのための足場固めの意味でブログを作っておきたかったのです。私がいきなり皆さんの中に入っていろいろと常識を覆すような発言をしたところで、私の発言の背景を知っていただかなければ、上手く伝わらず誤解されるのが落ちですから。それで「私の発言の背景はこれこれです」ということをいつでも提示できるようにブログを作っておきたかったのです。
私は、これから皆さんに全力でお話ししていきたいと考えていますので、どうか皆さんも全力で聞いていただきたいと思います。そしてこの世界を‥‥くれぐれも「この日本を」ではなくて、「この世界を」ですよ‥‥明るい未来に変えて行きましょう。
そのためには、「人類の脳のOSをバージョンアップする」ことだと考えています。
ここ『るいネット』は、回り道をしてきた私がやっと見つけた素晴らしい場所です。こんな素晴らしい場所を作り上げた先人たちの発想と努力に敬服し、感謝すると共に、それを支えてきた皆さんの真剣さにも拍手を送りたいと思います。
私の探していた、世界を救済する最初の人たちは、間違いなくこの『るいネット』にいると確信しています。
「分身」である我々一つ一つのピースがつながっていけば、この壮大な宇宙というジグソーパズルの中で次第に姿を現してくるものこそ「全身」です。
私の願いは、そのパズルを完成させたいのです。
何故なら、それこそ科学が解明した「あなた」や「わたし」の真の姿だったからです。
自分の「真の姿」を知った人類には、もう争うための理由などどこにも見つかりません。嫉妬、恨み、怒り、不満、不公平感‥‥、などの争いを起こす元が綺麗に消えてなくなっているからです。その場所から始めるなら、何をやろうと自分たちの喜びにつながる事ばかりです。
その場所から始めた世界をイメージして書いた小説が、未来モデル小説『ブンシニズム・ドット・ネット』です。後でご紹介しますから、是非読んでみて下さい(もちろん無料です)。
さて、人類の脳のOSのバージョンアップということですが、それは、私は「大人の大人」になることだと考えています。
今の世界は「大人」の世界です。だから子どもを教育し、自分のようなちゃんとした大人に育てようとします。大人と言っても、子どもと同じでまるで何もわかってもいないし、完成されているわけでもないのに、暗黙の了解のように、自分たちを完成品とみなし合い、教育からも解放されます。
大人になったら許されていることもたくさんあります。
それも大人の世界だからです。
大人たちは自分が子どもだった頃を振り返り、「あの頃は、サンタクロースなんかを本気で信じていて可愛かったなあ」と微笑ましい気分になります。
これから目指さなければならない、人類の脳のOSのバージョンアップとは、その先の話で、「あの頃(=大人の頃)は、錯覚の自我なんかを本気で自分だと信じていて可愛かったなあ」とか、「自分の意志で行動しているなんて本気で信じて、威張っていた可愛い時期があったなあ」と、微笑ましい気分になることです。
そして、「あの頃は、その”錯覚の自分=分身”で争ったり、”本当の自分=全身”を互いに傷つけ合ったりして、なんて愚かだったんだろう」と述懐することになります。
そんな「大人の大人」の人たちが作っている世界を小説にしてみました。
脳のOSのバージョンアップが完了し、「大人の大人」になった人たちが作っている世界をイメージして書いた、未来モデル小説『ブンシニズム・ドット・ネット』という小説です。
この小説の中には、「お金」や「武器」が登場しません。お金や武器に頼らなくてもやっていけるほどに成熟した「大人の大人」の世界だからです。
もしあなたが、「お金がなくなった世界なんてあり得ない。そんな世界など全く想像できないし、現実的じゃない」と一蹴してしまえるなら、今のあなたは、固定観念や常識にがんじがらめに縛られています。
「お金がない世界」は決して夢物語なんかではありません。この約46億歳の地球の中で、たくさんの生物(動物・菌類・植物・藻類などの原生生物・古細菌・細菌など)が生息する中で、ヒトという種だけが「お金」を使っています。
この自然界では、むしろお金の世界こそ、人類が作り上げた仮想の世界だったのです。
もう我々は、お金のない世界を作らなければ立ち行かなくなっていることはわかり切っています。お金はどうしても犯罪や争いや詐欺的文化を作ってしまいます。
だけどお金のない世界は、今までの脳のOSでは絶対に作れません。お金は、今までの我々の「個人vs個人」の脳が円滑にやっていくための工夫として生まれてきたものだからです。
今、我々がやらなければいけないことは、外ばかりに目を向けて批判をしたり抗議をしたりするのではなく、自分に目を向けることです。
外にばかり向けていた目を一旦閉じて、自分に目を向けることです。そして、この自然界としっかりと手をつないだ、科学が解明した本当の「自分」を知ることです。
そうすれば自ずとお金も武器もない社会は生まれます。自ずと嘘や犯罪や争いのない社会が生まれます。
誰も好き好んで、嘘をついたり罪を犯したり争ったりしていたわけでもありません。この「錯覚の自我」に縛られた我々が作る《環境》に、媒体である我々が取らされていた行動です。
だとしたら、科学が解明した「本当の自分」を知った人々が作る《環境》からは、お金も武器も、嘘も、犯罪も、争いも、生まれるはずもないと考えても全く不思議ではありませんし、むしろその方が自然で、この自然界ではすんなりと馴染みやすいはずだったのです。
ちなみに、動物の世界には争いなんかありません。
追いかけたり逃げたり、メスをめぐって闘う姿を見て、我々が自分たちの行動パターンを彼らの中に投影して「争っている」と思い込んでしまっているだけなんです。
「争い」は自然界の中にはありません。「争い」は、言葉を持ったことで自然界から切り離されてしまった人間の、「言葉」が作っている現実の中だけで生きているものです!
脳のOSがバージョンアップされれば、もちろん言葉の用法なども変化します。その辺のところも未来モデル小説『ブンシニズム・ドット・ネット』に描いています。
現代人は、携帯電話を使いこなしていますが、今からほんの数十年前の1990年頃にはこのような世界が来るなんて誰が想像したでしょうか!?
会社からポケットベルを持たされて、それが鳴れば近くの公衆電話を探して走り回らなければならなかった時代があったことなど、若い人たちは知らないのです。
今ではその公衆電話もほとんど取り外され、それを探すことの方が困難になりました(市街地では500m四方に1台、その他では1㎞に1台設置されていた)。
世界が、分身主義的な《環境》に移行して、お金などが消え、法律やあらゆる制度が変化した世界を、誰も想像できないからと言って、あり得ない話だと笑い飛ばすのは、1990年頃に「電話をポケットに入れて持ち歩く時代が来るなんて、あり得ない」と笑い飛ばしているようなものです。
また、誰もが携帯電話を自分の身体の一部のように使いこなしていますが、その人たちがみんな携帯電話のメカニズムやシステムを理解しているわけではありません。
それと同じように、もし分身主義を理解する人たちが現れ、そしてその人たちの中に影響力のある人が数人いたなら、まるで携帯電話のように、世界中の人が「新しい自我」を使いこなしている日が来るのも夢ではありません。
だから、世界を明るく塗り替えるためには、全ての人類が科学に精通しなければいけないということではありません!
「人類の脳のOSをバージョンアップさせるために必要な最初の数人」が現れれば十分だと考えています。
今、これを読んでくださっているあなたこそ、世界を明るく塗り替えてくれる一人かもしれません。そうであれば本当に嬉しいです。
絶えることなく続いてきた国と国の争いと対立、人間同士の不和や摩擦や確執、その流れを今こそ断ち切り、その流れの中でいつまでも迷走を続けていた我々人類を、今こそ救いだして下さいませんか。
ここから先は、私の力ではどうしても進めないのです。そのためには、大変だとは思いますが、分身主義というものを知っていただかなくてはなりません。私の書いた7つの作品を読んでいただきたいのです。
私は今、大変な努力を要求していますが、私と同じように真剣にこの世界を明るくしたいと考えている方にとっては大した努力ではないと思います。
私がこれらの作品を書くために払った犠牲や努力と比べれば、7つの作品を読むくらい大した努力ではありません。恐ろしく遅筆な私は、1つの作品でも何度も何度も読み直し推敲に推敲を重ねて書いたので、1つの作品を少なくとも50回以上は読んでいるはずです。
それに、私がこれらの作品を書くために読んだ本は、200冊は優に超えています。読書ノートをつけて文章を抜き書きしているのですが、そのノートも18冊になりました。雑誌やテレビからも貪欲に情報を得ましたし、科学館のような場所に何度も足を運びました。
自分の趣味に当てる時間も休日も返上して、楽しいことも極力我慢して、昼食も100円以内に抑えて生活費を切り詰め、節約してできたお金を、世界を見てくるための旅費に充てたり、勉強のために、むしろ私とは違う考えの方の講演を聴講したりもしました。
それもすべて、世界を平和にするための、この執筆活動のためでした。一銭にもならないどころか出費ばかりの生活をこうして続けてこれたのも、真剣にこの世界をもっと明るくしたいと考えているからです。
そのようにして生まれたのが7つの作品です。
だから、これらの作品を生半可な飛ばし読みなんかしないで読んで下さい。命がけで世界を救おうと考えている人を探しています。
現在作成している7作品はこちらです。
まずは、先程ご紹介させていただいた、未来モデル小説『ブンシニズム・ドット・ネット』から読んでいただきたいと思います。これで分身主義がイメージしている外観がわかっていただけると思います。
次に、一番新しい『宇宙に一つだけの目的(科学が解明した・・本当の自分)』ですが、この二つだけは絶対に読んでいただきたいと思います。
それで、もっと分身主義を知ってみたいと興味を持って下さったなら、執筆年代順に読んでいただければわかりやすいと思います。
最初に書いた作品が『人類の育てた果実(自分探しの旅の果てに)』です。これは「愛」というルートと「科学」というルートの、別々のルートで登り始めた二人が山の頂上で出会うという物語です。分身主義の元になる作品なので、ここには、まだ分身主義という言葉は出てきません。
次に書いた『分身主義宣言!』の途中くらいから分身主義という言葉が出てきます。(この3作品は一つとして数えています)
その次の『バラ色の素粒子(分身主義のお話)』というのは、中学生とのメールのやり取りで分身主義を説明しています。
次の二つ、『分身主義の森を抜けて‥‥』と、『自分という分身(不安を抱えて生きる全ての人へ)』ですが、これらは現代の精神医学関連に警鐘を鳴らすような内容です。
現代の精神医学は、脳が不具合を起こしている原因は、その個人の脳内にあるとして、個人的に大量の薬を投与したり、場合によっては隔離したりします。個人主義の大国アメリカが辿り着いたのは、こんな奇怪な結論でした。
精神科医が患者の抱えている問題を診断する際の指針を示したアメリカのDSMですが、これは元々は、アメリカで犯罪者の行動を理解しようとするところから発展し考えられてきたものです。その背後には、人格障害というものに対する恐怖や憎しみや差別があります。
つまり、恐怖や憎しみや差別という幻想に科学が利用されていただけのものです。
真の科学を実践するなら、「脳は個人の持ち物でもないし、個人の意識でどうにかなるものでもない。世界の脳やあらゆる情報とつながって機能しているものなので、ある脳が不具合を起こしているなら、つながっている《環境》に目を向けなければいけない」ということはすぐに気がつくことです。
分身主義にしか精神の問題は解決できません。これから精神医学を志す方たちにこそ読んでいただきたい作品です。
最後に、「科学が解明した自分」とは、いったい今までとどう違っていたのかを書いておきます。
我々の身体はもちろん《環境》に作られ、また、思考も行動も《環境》に作られていたものでした。
例えば、あなたが肉体改造をしようと思い立ったとしたら、それも《環境》にそのような「意志」を持たされて、その「意志」に従って行為させ・られたのです。
そしてあなたの行為が作る《環境》に、身体が改造させ・られたというのが科学が解明した実際です。
世界中の人がその行動のメカニズムを知れば、我々の行動も徐々に(今までの高慢だった行動から謙虚な行動に)変化し、やがて、我々を取り巻くこの《環境》が「個人主義的な環境」から「分身主義的な環境」に移行します。
その《環境》に移行すれば、自ずとお金も武器もなくなり、様々な制度が変化し、今まで常識だったものが非常識となります。
しかしそれは、上から強制的に与えられる変化ではなく、自然発生的に生まれる変化なので、不安に思う必要はありません。今、我々は、お金や武器がなくなったり、まったく新しい制度が生まれたとして、そういうことにすんなりと馴染めるのか、不具合は起こらないのかなどという心配や議論は一切必要ありません。
と言うより、バージョンアップされていないOSの脳でそれらを話し合ってはいけません。それをしたところで、議論は水掛け論にしかなりませんし、むしろ混乱を招くばかりです。
だから、このブログのタイトルに戻ります。今我々が「明るく希望を持てる世界」を作るために「やらなければいけないこと」は、「たった一つ」。
「人類の脳のOSをバージョンアップさせる」そのことだけです。
明るい未来のためにやらなければいけないことは、人類の脳のOSをバージョンアップさせるという、たった一つのことだけです!
「明るく希望を持てる世界」は、遠い未来の夢物語ではありません。人類の脳のOSがバージョンアップされたなら電光石火のごとく変化するはずです。
まさに未来モデル小説『ブンシニズム・ドット・ネット』の描く世界のように、あらゆる苦悩から解放され、世界をお金なしで自由に行き来し、世界中の人が笑顔で交遊し、誰もが助け合って仲良く生き、そして喜びに包まれて死んでいける社会はすぐそこに来ています。
それなのに人類は相変わらず愚かなままで、上下左右を入れ替えてはその場をやり過ごしながら、この先も争いや、同じ過ちを何度も何度も繰り返していくつもりなのでしょうか!?
第2話・明るい未来のためにやらなければいけない、たった一つのこと
(この話は読むのに10~12分ほどです。【5.910文字】)
世界はどこまでも問題を山積みにさせたまま、自滅への道をひたすら突き進んでいます。追いつめられて崖から転落してしまう人たちも後を絶ちません。
もう悠長に構えてなどいられません。
明るく希望の持てる世界にするのは急を要することなので、結論から話をさせていただきます。
それには、人類の脳のOSをバージョンアップさせるしかありません!
自然界様に真偽のほどを判定してもらいながら、あらゆる脳に対応できる汎用なOSを新たに開発し、それを全人類の脳に上書きするしかありません!
人類の歴史が始まって以来、一度としてバージョンアップされたことのない脳のOSをバージョンアップさせるわけですから、それなりの困難は伴うかもしれませんが、でも方法はいたって簡単です。
今までの「自分」という意識は、科学的に言えば、神経系が見ていた錯覚でした。人類は言葉を用いるようになって以来、実に長いこと、その錯覚の自我に縛られ続けてきました。しかし、今こそその呪縛から解き放たれるべき時が来たのです。
ちなみにあなたや私が、現在使用しているバージョンの脳でイメージする「自分」とは、次のようなものではないでしょうか?
この「自分」イメージは、今では、科学的に言えば、神経系(脳や脊髄の中枢神経と、全身に張り巡らされた感覚神経・運動神経・自律神経などの末梢神経の総称)が見ていた全くの錯覚だったとわかっています。
現代科学が解明しているものをつなぎ合わせて整理していくと、「自分」とは、かっちりとした境界線を持って孤立的に存在できるようなものでは全くなく、また自由な意志で行動することなど一瞬たりともできる存在ではなかったことがわかってきます。
今までの「自分」イメージは神経系が見ていた錯覚であったと言っても、錯覚こそが人間の脳の特性であり宿命だから仕方ありません。
つまり人間が何かを認識するということは、何かを錯覚したということと同じ意味だったということです。
しかし我々の行動というのは、常に、その「錯覚」と「現実」とのフィードバックやフィードフォワードをしながら行う仕組みになっているので、両者(錯覚と現実)の食い違いが最小に保たれていたのです。
錯覚と現実がまだうまくかみ合わない状態が、赤ちゃんが、最初にマグカップやスプーンを使う状態です。
錯覚と現実がかみ合うようになることで、錯覚が「確信」に変わります。
しかも、人間は「言葉」によって、その確信に変化した錯覚をさらに外側からギブスのように固めてしまっているから仕方ありません。そしてまさしくこの確信に変化した錯覚こそが、人類の現実を作っていたんです。
もし、この錯覚が変化させられれば、現実さえもガラリと変化させられてしまいます。
例えば自分に狐が憑依したという錯覚に囚われてしまった人がいるとします。その錯覚は確実に身体に変化をもたらしますし、家族や周囲の人たち、あるいは社会にも大きな影響を与えます。
しかし、「自分」や「自分の意志」という錯覚は、その程度のものではなく、いわば全世界の人たちに憑依してしまった錯覚です。
それが、言葉を覚えたことで自然界から迷い出てしまった人類が、今では新たに「人間界」というものを作り、そこで暮らしている動物である「人類」の《環境》を、ガラリと変えてしまったのは当たり前のことです。
意外に思われるかもしれませんが、家族や国家といった概念や、死や病気といった概念や、愛や憎しみなどの感情や、それにお金や戦争も、その錯覚の中から生まれていたもので、それが今までの我々の現実でした。
その証拠に、「本能の自我」しか持たない(つまり「自分」や「自分の意志」という錯覚を持たない)人間以外の動物たちには、家族も国家も死も病気も愛も憎しみも、それにお金も戦争もありません。
彼らにも家族や愛や権力闘争などがあると考える人は、それは、人間が勝手に自分たちの常識や価値観や感情を動物たちに当てはめて解釈してしまっていただけです。
人類は実に長いこと、その「錯覚の自我」の宴の席で酩酊させられながらも、時に華やかな夢に酔いしれ、時に悪夢にうなされ、健気に懸命に生きてきました。だけど、ついには崖っぷちのすぐ際まで来てしまって、今ではそこから落ちていく人たちが後を絶ちません。
この21世紀、科学が世界を席巻している今こそ、我々は、長い長い錯覚から目を覚まさなければならない時にいます。
では、現代科学が解明した事実をつなぎ合わせて整理していくと、どのような「自分」というイメージが浮かび上がってくるでしょうか?
科学が解明しているものを整理統合して見えてきた真実の自分は「❶宇宙」だったということです。つまり、この宇宙の万物はビッグバンという小さな種から分化して生まれていたもので、全てがつながっていてどこにも切れ目などなかったのです。
だから、それが我々の「全身」の姿です。(下の記事の『③ もう一度、「自分とはこの宇宙だった」の根拠』(➡リンク)に図解しています)
だけどこの宇宙万物の中で、ある日、人間だけが言葉を持ちました。それは物に名前を付けるところから始まりました。
名前とは、物に切れ目を入れることです。例えば人間の身体の部位にしても「頭部」「腕」「足」「目」「耳」「口」「心臓」「肺」と、名前は際限なく切り刻みます。科学的に言えばどこにも切れ目などなく、この宇宙の全てが連動して動いているわけです。
この宇宙は、人間だけが「銀河」「天体」「太陽」「月」「地球」「山」「海」「木」「草」「犬」「猫」などと、名前を付けて切れ目を入れてしまっているだけで、本当は全てが連動して一個の宇宙を作っているわけです。
言葉を持たない他の動物はそのような不自然な見方をしません。だから私は彼らのことを「自然界と地続き」と呼ぶことにしています。彼らには人間のような「自我=自分という意識」はありません。本能的な自我があるだけです。
言葉を持った人間だけが「自我」という錯覚を持つのです。こちらは、「本能的な自我」が、言葉により、より補強された「観念的な自我」です。
❷を補足させていただきますと、我々の思考や行動の元になる力は、「自分」由来ではなく、その脳を取り巻く《環境》からやってきていた、ということです。
自発ではなくて他発だったということです。
今私はパソコンに文字を打ち込んでいますが、それを為そうとする意志(will)は、私が自発的・主体的に作り出していたわけではなかったということです。
手短に説明します。
我々の脳には、この脳を取り巻く《環境》と神経細胞との相互作用によって「記憶」が作られます。言葉を持った人間は、その「記憶」をさらに強固なものにさせられたり、変形させられたりもします。
そこへ外部から何らかの情報が入力されると、記憶(言葉も含む)によって何らかの反応が生まれます。それが感情、意識、連想、意思、意志、想像‥‥、などと呼ばれているもののことです。そこから生まれる固有の行動様式が個性などと呼ばれているものです。
つまり、私は今、そのようにしてこの脳に受動的に浮かび上がらせ・られた意志によって思考させられ、再び言葉に翻訳されたものをパソコンに打ち込まさせ・られていたのです。
私はこの意志のことを mirrored will と名づけました。今まで言われていた意志(will)と対比させるためです。
つまり、脳の中に映し出された(浮かび上がらせ・られた)意志のことです。
今まで私たちが、「自分の意志」と信じて疑わなかった「意志」など、どこにもなかったのです。
「本当の自分」とはこの身体を覆っている皮膚の内側ではないなら、その「本当の自分」ではない脳に浮かび上がる意志を「自分の意志」と呼ぶのもおかしなことだったわけですけどね。
むしろ、「本当の自分」とはこの「宇宙」であったのなら、今まで錯覚していた「自分の意志」とは、「宇宙の意志=環境が作る意志」というべきだったのです。
(*ただし、もちろん宇宙にも環境にも意志などありません。この地球上に人類が出現する前の環境は「宇宙(=自然界)」だけでしたが、人類が出現して言葉を持ったことで、環境と言葉との相互作用が我々の脳に意志を浮かび上がらせるようになったということです。ちなみに、言葉を持たない動物にあるのは意志ではなく刺激に対する反応です。もっとも人間も、刺激と言葉との相互作用による反応の仕方を、今まで自分の意志と呼んでいただけなのです)
科学がまだ不十分だった頃に、心は心臓に宿ると信じられていたことがあったようですが、その漠然と「心」と呼んでいたものを、現代の科学的な正確さで言い表すには、「脳の作用」とでも言うべきであるのと同じで、呼び方を変えるべきだからです。
さて、「この世界を明るく希望の持てるものにするためには、汎用なOSを新たに設定する必要がある」と言いましたが、それは既に作られていました。
「科学が解明していた自分」のことです。
たったこれだけを上書きするだけでいいんです。だけど、たったこれだけの上書きが正常に完了したなら、世界情勢は根底からガラリと変わり、今までの人類が経験したこともない明るく楽しく争いのない世界に変化します。(と言っても、今までの人類の歴史を全否定しているわけでは全くありませんよ。それがあったから分身主義にたどり着けたんですから)
何故、起こってもいないのに、「世界情勢は根底からガラリと変わる」なんてことを確信を持って断言できるのでしょうか?
その理由は、繰り返しになりますが、我々は「自分の意志(will)」で考えたり行動したりしていたわけではなく、環境に作られていく「脳内の記憶」と、環境からの「刺激(=情報)」との相互作用によって、この脳に浮かび上がらせ・られた意志(mirrored will)に、思考や行動をさせ・られていた‥‥からです。
そしてここで大事なことは、それを解明したのは宗教でも哲学でもなく科学だということです。
宗教も哲学も結局は世界中の人々の心を一つにすることはできませんでしたが、この21世紀の科学なら、それができます。現代の科学は、それまで手付かずで、未知の領域だった「心」の解明(=脳の働きの解明)にまで至っているからです。
もう我々は、科学なしでは生きていけません。科学を信じないと言うなら、今日からは車や電車や飛行機に乗ることは諦て下さい。携帯だってパソコンだって捨てて下さい。テレビも冷蔵庫も粗大ゴミで出して下さい。
例えば、科学は、私たちの誰一人として目にしたことのない「電気」というものの存在を証明していて、世界中どこへ行っても、電気が供給されているところであれば、たとえ夜であっても明るい蛍光灯の下で本を読むことができます。
どんな宗教の人でも、どんな民族でも、どんな思想を持っている人でも、電気炊飯器に適量の水とお米を入れて人差し指でポンとスイッチを入れさえすれば、必ずおいしいご飯が炊けます。
ヒンズー教の人がスイッチを入れれば中からパンが飛び出してきたり、菜食主義の人がスイッチを入れればホカホカの焼き芋が出てくるなんてことは、万に一つも起こり得ません。必ず同じ一つの結論に至ります。
現在の「我々人間界の環境(=現実)」を作っていたのは、我々の錯覚でしたよね。
なかでも「自分という錯覚」が特に幅を利かせていました。
と言うことは、当然、科学が解明した「本当の自分」を知った人たちが作る《環境(=現実)》に変化すれば、その《環境》に取らされる我々の行動も変化させ・られるということです。
《環境》が変化すれば、我々の脳に浮かび上がる意志(mirrored will)もまた変化し、そしてその意志によって取らされる我々の思考や行動も変化し、そして我々の思考や行動が変化すれば、もう全世界の人が幸福になるしかないのは騎虎の勢いです。
このようにして、自然界だけを師と仰ぐ科学に全面的な信頼をおいて我々が歩いて行けば、自然界で一切、軋轢や不具合の生じない好循環が生まれるわけです。
今までの我々の脳のOSのバージョンは、「自分」を内側に閉じたものと認識していました。
しかし新しい脳のOSのバージョンの「自分」は、外側に開かれたものとイメージするものです。
たったそれだけの違いです。たったそれだけの違いですが、その圧倒的な違いを想像してみて下さい。キーワードは「つながる」です。
あなたは全人類とつながるのです。
いいえ、その程度のものではありません。この宇宙とつながるのです。
迷子になっていた我々が、ついに自分本来の居場所を知るのです。
と言っても、これは宗教や哲学やスピリチュアルなどの話ではありません。科学の話です。それも生半可な科学ではなく「真の科学」の話です。
取り敢えず、慌てて結論だけ話をさせていただきました。
私の言う「真の科学」とは何か?
今までの「自分」は錯覚だというのは本当に科学が解明しているのか?
では科学が示している「本当の自分」とは何だったのか?
今まで「自分の意志」と言われていたものは間違いだったのか?
そして、我々はどのようなメカニズムで行動を取らされていたのか?
といったことを、このブログを通して皆さんと一緒に「科学的に解明」して行きたいと思っています。
明るい未来のために‥‥。
よろしくお願いします。
第3話・人類の脳のOSをバージョンアップさせるために必要な最初の数人
(この話は読むのに8~10分ほどです。【4.572文字】)
他の動・植物たちと違って、言葉を用いるようになったことでやがて「自分」という意識を持つに至った人類のことを、よく「自我に目覚めた」と形容します。だけどその言い方はかなり我田引水的です。
「自我に目覚めた」などと言うと、まるで「暗愚な他の動物たちと違って、聡明な我々人類だけが”自分”を知るに至った」と言わんばかりです。
しかし、実は、「自我という眠り(錯覚)に落ちて、自然界に背を向けて人間界に引きこもってしまった状態」だということがわかります。
自然界と一体となって生きている他のすべての生物(私は彼らのことを自然界と地続きと形容することにしていますが)と比べてみて下さい。
地球上の、人類以外のあらゆる物体も動植物も、自我を持たずに自然界と一体となって暮らしています。 食ったり食われたりする動物の世界でも、彼らには本能としての自我しかなく、別に他の動物を殺して食べているなどという自覚などもありません。「殺す」という概念は、言葉を持つ人間だけにあるものです。
それが自然界の自然な姿であり、食べる行動も食べられる行動も自然の一部です。
カマキリのオスは、交尾の最中にメスに食べられたからといって悔しがったり恨んだりしません。それに、オスを食べるメスだって残忍でも冷酷でもありません。もちろん人ではありませんが、“ひとでなし”でもありません。それも、自然の営みの一部なんです。
しかし遠い昔、人類の祖先は言葉を用いることになり、自然界の全ての現象や事物の一つ一つに対して名前を付けていきました。 それは、自然界の現象や事物を言葉という“音”に置き換えるということです。名前という一つの音に、そのモノに対するイメージの全てを象徴させているわけです。
やがて、この身体の内側に張り巡らされている神経によって脳が錯覚させられた意識に、“自分”という名前をつけることになるわけです。
この神経系は、「怪我をした時に痛いと感じるのは他の身体ではなくこの身体だし、マッサージをしてもらって気持ち良いのは他の身体ではなくこの身体だ‥‥」そういった強烈な印象だけを重視して、この境界線を持って存在しているかに見える身体の内側が自分だと錯覚をします。
あなたも今、間違いなく「自分」という意識を持って生きていますよね。 自然界と一体となって生きている他のすべての生物と比べてみて下さい。 それは実は、自然界に背を向けて人間界に引きこもっている姿です。
現代科学が解明しているものを整理してつなぎ合わせてみると、「自分」という意識とは、神経系が連動することで見ていた錯覚のことだと、科学は既に解明していました。
だけど科学者たちは自分の専門に没頭してしまって視野が狭くなっていたり、自分に冠せられる栄誉に夢中だったりで、そのことに気づかないでいます。
神経系とは、脳と脊髄と全身に張り巡らされている神経の総称のことですが、それはこの境界線を持った身体の内側に閉じられたものではなく、外側からの刺激を受け変化したり、情報のやり取りをしている実に開かれたものです。
今までの神経系の錯覚による「自分意識」に縛られている我々人類が作っている環境を、「個人主義」的環境と呼ぶとすると、それに対して、現代科学が明らかにした新しい「自分」を脳に上書きした人類が作る環境を、私は「分身主義」的環境と名づけました。
ただし、「○○主義」と言っても、個人主義に倣って「分身主義」と名づけただけの話で、別に主義でも主張でも、まして思想でも何でもありません。
個人主義という言葉だって別に主義でも主張でもなく、錯覚の「自分意識」に縛られた我々が取ってしまう行動パターンに対して名づけられただけであるし、たとえそれを自分の主義や主張として触れ歩く人がいたとしても、単に自分の利己的な行動パターンに対する正当化に過ぎないのです。
それと同じで、分身主義は主義でも主張でもないという点に注意していただく必要があります。
分身主義とは、あくまでも科学が解明した「事実」を整理していっただけのものです。しかし、科学が解明した事実をつなぎ合わせて整理して行ったその先に「自分」の真実の姿が見えてきました。
今、我々はまったく新しい世界へと通じる扉の前に立っています。でも、私もその先へは行ったことがありません。私だけの力ではその扉を開くことができないからです。ちなみにその扉の先の世界を想像で描いてみた小説がこちらです。(もちろん無料)
さて、個人主義的な環境の特徴は、我々の母体でもある自然界に背を向けて抗ってしまっているせいで、当然、様々な軋轢が生じてしまうということです。
当たり前のことです。人間界という荒海に放り込まれて、何とか溺れまいと手足をバタバタさせているのが今の我々です。バタバタし過ぎて逆に水をたくさん飲んでしまう人もたくさんいます。
本当は、空気を一杯吸って、身体の力を抜いて水面に仰向けに寝転べば、誰でも簡単に浮かぶことができるように、自然界という穏やかな海に抗わなければ気持ち良く浮かぶことができたはずなんです。
実は「お金」という便利な道具も、我々が何とか溺れまいともがいた上での発明でした。「個人vs個人」がうまくやっていくために必要とされたものでした。
今では我々の優秀な発明品だった「お金」は、世界中にたくさんの不協和音や摩擦をまき散らしています。
本来は人間の心にとても価値のあることでも、お金があるためにできないことがたくさん出てきました。それに、本来は人間にとってはどうでもいいようなことが、お金があるためにやらなければいけないことがたくさん出てきました。
そればかりか、お金を作ってしまったせいで我々は、それまで以上に自分の周りに敵を作り、恨みや妬みや怒りや不満や不公平感などといった争いを招く種を育てながら生きねばならなくなりました。
それに比べて、「分身主義」的な環境の特徴は、常に自然界にお伺いを立てながら歩む科学だけを信頼しているので、最終的にはこの宇宙万物と手をつなぐことになります。
何故かと言うと、物体が引き起こす現象の因果関係をどこまでも解明していくのが科学ですから、最終的には一つに収束するのは当然の帰結です。
ある現象が起こった原因Aを解明したら、今度はその原因Aの原因である原因Bを解明し、そしたら今度はその原因Bの原因である原因Cを解明し、今度は‥‥とどこまでもたどっていけば、全ての原因がビッグバンにだどり着きます。
つまり、地球ができた原因も、あなたや私がここに存在する原因も、最終的にはビッグバンにたどり着くことになるという意味です。ということは、我々が一つになるという意味です。
元々は一つであったことを発見するという意味です。
それを知った科学が紡いでくれた物語が、分身主義です。
だから世界が分身主義的な環境に変化すると、そこから取らされる我々の行動や考え方が変化し、自分の周りから敵などいなくなり、世界中に蔓延していた恨みや妬みや怒りや不満や不公平感も消滅します。
それどころか、病気や死の恐怖も完全に消滅します。もちろん、それは全人類の脳のOSをバージョンアップできた時のことですが‥‥。
人類の脳のOSをバージョンアップさせるためには、つまり、世界中の人類の脳に「科学が解明した自分」を上書きさせるためにはという意味ですが、それにはまず最初に、「科学が解明している自分」をしっかりと理解することができる影響力のある数人の人たちの出現が待たれます。
もしその人たちが現れれば、今はインターネットという頼れるツールがあるので、全人類の脳に上書きするのはそれほど困難なことではないと考えています。
私が、この「るいブログ」を開設させていただいた理由は、その最初の数人の人たちは、ここ「るいネット」のどこかに潜んでいるという強い予感に衝き動かされたからです。(*この記事を書いているのは2011年ですが、るいネットはその後、2023年6月に閉鎖となりました)
ちなみに、我々はまだ旧バージョンの脳で会話をするしかないので、私がここで、「私」とか「自分」とか「あなた」と記述する場合は、「この、境界線を持っているかのように見えている身体の内側」を意味しています。
また、ブログを開設したのはまるで「自分の意志」でそうしたかの様な記述になってしまっていますが(科学的に言えば、私の身体は、私の脳を取り巻く環境にこのブログを書かされている媒体に過ぎないのですが)、この矛盾のせいで、少々、読んでくださる方を混乱させてしまうかもしれません。
だけど、それは現状では仕方ないのでご了承下さい。もし、全人類の脳に「科学が解明した自分」を上書きすることができた暁には、私のこのような矛盾したブログは不要になりますから、すぐに撤収いたします。その時まで我慢して下さい。
ただし、初めにお断りしておきますが、科学が解明している自分を知るということは、「この身体の内側が自分であるという観念を今の自分の中から完全に締め出さなければいけない!」などと無理難題を突き付けているわけではありません。
大事なことは、今までの「自我」は錯覚であったという科学的事実を、まずは自分の頭で理解し認識することです。
そして、我々は「錯覚の自分」を錯覚として知った上で、その錯覚を今まで通り用い続けていけばいいのです。
本当はサンタクロースなどいないと知ってしまった我々「大人」ですが、だからと言って、我々の心からサンタクロースを一度だって締め出したりしませんでしたよね。それと同じです。
だから、錯覚の自分意識を「消す」のではなく、私はそれを「薄める」と表現したいと思います。そして、あたかも光の三原色のように、時には他の色たちと重なり合って透明になったり他の色彩になったりする瞬間を、それぞれの脳が楽しめばいいのです。
問題なのは、今まで錯覚であることを知らずに、その「自分」を使用してきたことです。
そして、ありもしないのに、他の色と重なることのない自分だけの絶対的な色が存在すると思い込まされて、アイデンティティの確立などという強迫観念に追いたてられていたことです。
‥‥ああ、この世界は、今まで、なんて可哀想な「自分」たちで溢れていたことでしょう。
第4話・ずいぶんと、回り道をしてきました
(この話は読むのに13~15分ほどです。【6.974文字】)
『実現論』読ませていただきました。
私がここ「るいネット」に参加させていただこうと思った理由は、この『実現論』に大いに賛同したからです。賛同と言うより感動と言った方がもっと適切かもしれません。
以下に、その感動させられた部分を抜き書きさせていただきます。
「あらゆる固定観念(常識やイデオロギー)からの脱却」
まずはこの魅力的な言葉です。
「固定観念や常識にとらわれるな」というような言葉が、発信力のある人たちの口から発せられるのを、私は過去に何度も耳にしたことがあります。
しかし、彼らがその言葉を口にしたとしても、当の本人は本気で固定観念や常識から脱却しようなどとは思っていないように感じました。
この社会で発信力を持った偉い人でいられるためには、他の人たちの固定観念や常識に支えられているはずです。それがなくなったら、自分はもう偉い人でも何でもなくなってしまいます。
だから彼らにしてもどこかで常識などに頼っているわけで、この言葉を本当の意味で使っている人に私はまだ出会ったことがありませんでした。
しかし、『実現論』を読んで、ここでは本当の意味でこの言葉を使っていると初めて感じました。何よりそれをみんなで模索しながら実践しているところが素晴らしいと思います。
感動させられた言葉はまだまだあります。
私がこの「るいネット」に分身主義という新たなパラダイムを提起しに来た理由がこれらの中にあります。
「確かな事実だけに立脚した科学的な理論体系」
「その立脚点を自然の摂理の中に、あるいは生き物の摂理の中に求める」
まさに、そこから生まれたものが分身主義です。
私は、平和とは、戦争や犯罪を回避(あるいは抑止)している状態 のことではなくて、全世界 の人が不満や不公平感を持たずに助け合って仲良く生き、そして喜びと祝福に包まれて死んでいける社会のことだと考えています。
世界を平和にするために、私は文章を書いてきました。そして書いたものを、今まで学者の方たちやマスコミ(出版社)に送りつけたりしてきました。
また、(「彼らに脳を染め上げられてきた」と実現論に書かれている)社会の構成員たち(家族・友人・知人・ネット等で知り合った方たちなど)に見せたりもしてきました。
しかし、どこかでこんなことをやっても無駄だという気持ちはありました。その危惧はことごとく的中してきました。
何故その先に進めないのかと言うと、一言で言ってしまえば、彼らは本当のところそれほど問題意識を持っていないからではないでしょうか? 自分に火の粉が降りかかって来ないことに対して、わざわざ自分から出向いて行くこともないということだと思います。
まして世界がどうなろうと、忙しい出勤時の隣りの部屋の夫婦喧嘩のように、もっとどうでもいいことなのかもしれません。
だからと言って、世界の情勢を全く知らないというのも無知で無責任な大人に見られるかもしれないので、たまにニュースなどを見て適当に怒ってみせたりするわけです。
本当は、たくさん火の粉が降りかかってきているというのに、そのことに気づかないだけなのですが‥‥。
そうかと言って、問題意識を持った人たち(例えば世界を平和にするための活動をしているような人たち)に分身主義を聞いてもらっても、その後、「素晴らしいですね。お互いに頑張りましょう」のように突き放されて終わり。
そのように言ってくる人たちは、大概、自分の活動に酔っているのです。
彼らは自分が生きているという実感が味わえる場所が必要なだけで、本当に世界が平和になってしまったら、自分の出る幕がなくなってしまうからつまんなくなってしまうかもしれません。
何故私がこんな意地悪なことを言うのかというと、まるで、「お互いに自分が生きているという実感が味わえる方法で、人生をenjoyしましょう!」と突き放されたみたいで、なんともスッキリしないからです。
世界平和って、そんなに個人的なバラバラな感覚で成し遂げられるものなんでしょうか !?
しかしここ、るいネットには、本当の意味で問題意識を持った人たちが集まってきていると感じます。私は今まで、こんなに素晴らしい場所があることを知らないできました。何という回り道をしてきたことでしよう。
感動した言葉、続けさせて下さい。
極めつけは、ガツンと頭を殴られたような次の力強い言葉です。
「自我女」や「迎合男」や「性を集団の中に組み込んだ本源集団の再生」という言葉が何を意味するのかは、まだ私にはよくわかりません。
にも拘わらず、私が感動したのは、固定観念や常識に疑問を投げかけるその姿勢です。
実現論は「完成された思想」なんかではなく、みんなで作って行くというその姿勢です。
いずれにしても疑問を投げかけなければ何も変わりません。そして「実現論」が訴えているように、何かを変えなければならない危機が来ていることは確かです。
やっと、皆さんのいるこの場所にたどり着くまでに、私はなんと回り道をしてきたことでしょう。今まで、聞く耳を持たない固定観念や常識に染まった人たちに向かって、一生懸命、念仏を唱えて回っていたのです。
ここには、少なくとも私の話に耳を貸してくれる方たちがいると感じました。
先ほども言いましたが、特筆すべきことは、実現論は「完成された思想」なんかではないということです。完成された思想は、他の完成された思想との対立を生み、また時代が変われば新たに生まれた思想に駆逐されてしまったりもします。
実現論は完成された思想なんかではなく、我々人類の正しい歩み方の方法論を示してくれているものです。それは、この自然界を師と仰ぐ、科学的事実だけを頼りに歩む正しい歩み方です。
そして我々が歩む足元を、つまずかないように照らしてくれています。
だけど「実現論」のすごいところはそれだけでなく、先を見通す確かな目で我々の未来を予言し希望を与えてくれていることです。希望がなければ我々は一歩も歩けません。希望さえあれば、我々はどんな茨の道でも手を取り助け合って歩いて行けます。
それが人間です。だからもし道に迷ったら、もう一度、「実現論」に戻ってみれば、必ずや正しい答えが見つかるはずです。
(どうでしょうか? 力強い言葉だったでしょう!? いよいよ次回から、「分身主義」が始まります)
(注:残念ながら、るいネットは2023年6月閉鎖となりました。従って、ここで取り上げさせていただきました『実現論』も現存しません。これはある意味、貴重な記録かもしれません)
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長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。