特別編 コーポレートガバナンス・コードと資本コスト(3)

スチュワードシップ研究会 

 もうひとつ、会計上のROEと実質的な株主資本の収益性とのギャップについての議論もご紹介します。山田さんが指摘したように、投資家も会計上の表面的な数値だけを見ているわけではないのです。その議論には、スチュワードシップ研究会に講師として招かれた際に遭遇しました。私が招かれた趣旨はROEに関してではなく、楽天が国際財務報告基準(IFRS)を導入した際に、アナリスト向けに詳細な解説資料を作成したことについて話を聞きたい、ということでした。

 研究会の出席者は機関投資家の運用担当者、ESG担当者、ストラテジスト、証券会社所属の会計専門家など様々です。私はIFRS導入の目的やアナリスト向け資料作成の背景などをひと通り説明し、最後に今後の課題をいくつか挙げました。
  そのひとつとして、IFRSでのROEの扱いの難しさに数分コメントしました。IFRSでは基本的に資産および負債を時価で評価します。しかし、時価評価により、本質的でないROEの変動が顕著に発生するようになりました。たとえば、投資有価証券の時価評価には複数の選択肢があり、評価益がROEの分母分子の両方に計上される手法や分母のみに計上される手法などがあります。また外貨建ての資産を時価評価することで、日本基準に比べ為替の影響も大きくなりました。
 伊藤レポートの主旨に賛同しつつ、ROEを評価軸として使う難しさを、企業評価のプロたちに向かって恐る恐る話しました。単年のROEは不安定なので、複数年の平均などを使うか、傾向を見る程度に利用するのが適切と考えます、としてプレゼンテーションを締めくくりました。

 終わった途端、参加していた機関投資家の方々から、勢いよく質問が浴びせられました。
「IFRSでは、ROEを定義していないのをご存知ですか?」
「東証では、決算短信に記載するROEについて、IFRS上のどの科目を使うべきか指定があります」
「それは東証の基準でしょう。IFRSで定められたものはないんですよ」
 「えっと、それはどういう意味でしょうか」
 「IFRSの基準を決める人たちは、ROEを定義すべきでないと考えているんですよ」
「はあ」
 ぼーっとした私の返事のあと、投資家の間で喧々諤々の議論が勃発しました。ロの字型に配置されたテーブル越しに、参加者同士で、「定義すべきではない」は何を示唆するのか、ROEの本質とは何で、どう投資や議決権行使の判断に使うのか、熱く議論が交わされます。会計上の一過性要因を補正したROEを使うべきか、それともキャッシュフローなどの別のものを重視するのか、様々な意見が飛び交い、講師のはずの私は少々置いてけぼりになりました。私は、会計基準によってROEの不安定さが異なることを言いたかっただけなのですが、何か別の引き金を引いてしまったようでした。
 研究会に参加してわかったことは、市場はROEだけでなく、本質的な株主へのリターン向上の道筋がわかる指標や説明を企業に求めている、ということでした。平たくいえば、 いつ、どのような性質の資金をいくら(コスト)でどの程度(金額)調達し、何に、どう使って利益を上げ、株主価値を高めるのか を知りたいのです。そのための対話がスチュワードシップ・コード*のいう「エンゲージメント」(目的のある対話)なのでしょう。会計上の資本収益性を示すROEと実質的な資本収益性のギャップを認識したことで、株主価値向上のための議論がより真剣なものになったことを目の当たりにしました。 

ガバナンス改革の先にあるもの 

 伊藤レポートにも「ROEは経営の目的ではなく結果であり、持続的成長への競争力を高めた結果として向上する」としっかり書かれています。伊藤プロジェクトのメンバーによると、現在は企業が資本コストや株主価値へ意識を向けるための過渡期なのだそうです。ROEが問題でなくなる時が真のガバナンス改革の達成というメンバーもいます。企業側がROEや資本コストの意味を咀嚼し、自社のビジネスモデルを踏まえた資本効率と収益性の向上施策をわかりやすく語れるようになれば、次のステップへと進んだことになるということでしょう。
 ROEではなく、意志を持ってROIC(Return On Invested Capital)を経営指標として掲げ、「逆ツリー分解」して現場まで浸透させているオムロンのような企業もあります。株価とリンクしやすいEPS成長率を掲げる会社もあります(ちなみにある条件が整うと、EPSのサステナブル成長率はROEに比例します)。また楽天のように最適資本構成を志向しつつ利益成長とLTVの最大化を目指すちょっと変わった企業も出てきています。

 ここで述べた3つのギャップのうち、投資家サイドと企業サイドの認識のギャップは、対話によって徐々に縮まりつつあります。残りの二つのギャップについては、ギャップの存在と根拠を知ることで対話の質が高まるのではないかと予想しています。横並びのROE目標値からはじまった日本のコーポレートガバナンスの改革は、まだまだ続くことになりそうです。企業によって説明に個性が表れるこの議論は、経営トップのみならず、IRや財務の実務家の役割も大きくなると考えています。
 質問に受け身で答えるまま投資家の短期志向を嘆くのではなく、資本市場の一員として、企業側からも資本の配分の考え方などについて建設的で双方向の議論を行うべきでしょう。
  この種の議論で先行する企業であるエーザイは、IRやガバナンスがよいという理由で、株価に10%ほどのプレミアムが付される(プラスに評価される)というレポートが投資家やアナリストから出るそうです。

  ガバナンス改革の結果、企業と投資家との質の高い対話が増え、日本の株式市場の評価が高まり、 社会の変革に挑戦する企業の資金調達が低いコストで行われる。 そのような企業を応援する投資家が高いリターンを得て、そして年金や投資信託などを通じて 国民の資産が潤っていく。 そのようなお金の循環が続くエコシステムが、日本で大きく発展することを心より願っています。

ーEND-

*スチュワードシップ・コード:機関投資家が、顧客の利益を守 る受託者責任だけでなく、投資先 企業等の持続的な成長との両立を図ることで、中長期的な経済成長 を果たすという考えの下で制定さ れた行動原則。日本版スチュワー ドシップ・コードでは、機関投資 家が、投資先企業やその事業環境 等に関する深い理解に基づく建設 的な「目的を持った対話」(エン ゲージメント)などを通じて、当該 企業の企業価値の向上や持続的成 長を促すことにより、機関投資家 の顧客(最終受益者を含む)の中長 期的リターンを図ることを「ス チュワード責任」と定義した。

<ご愛読ありがとうございます。2章~11章は本で!>
(本稿は楽天IR戦記の特別編をnote用に体裁を整えたものです)

(楽天ブックス)https://books.rakuten.co.jp/rb/15931368/


IR(インベスター・リレーションズ)の経験などに基づいたテーマで記事を書いています。幅広い層のビジネスパーソンにも読んでもらえたら嬉しく思います!