特別編 コーポレートガバナンス・コードと資本コスト(2)

楽天の資本コストの議論

 コーポレートガバナンス・コードでは、「自社の資本コストを把握すること」が企業に求められています。いち企業の例として、楽天ではどのように資本コストを把握し、議論していたかを紹介します。

 投資家が期待するリターンとしての資本コストと、ファイナンス理論上の資本コストとのギャップに「把握」することの難しさを感じました。 投資家が日本企業に期待するリターンは、前述のとおり、7%超(海外機関投資家の平均)というデータがありました。しかし、個別企業である楽天に期待するリターン、もっといえば、楽天グループの抱える70を超える個々の事業への期待リターンはどう考えるべきでしょうか。楽天グループには社内ベンチャーとして急成長期にある事業もあれば、銀行のように安定性を重視しつつ着実な成長を目指す事業もあります。一般的には、高成長期の事業にはハイリスク・ハイリターンの原則から高い資本コストが、安定期の事業には低い資本コストが課されるものです。しかし、楽天の個々の事業への期待リターンを、わざわざ世界中の投資家に尋ねはしませんでしたし、現実的な手法ではありません。
  楽天では、コーポレートガバナンス・コードの施行以前から、ファイナンス理論では一般的な評価モデルであるCAPM(Capital Asset Pricing Model*)で株主資本コストを算出していました。算出の直接の目的は、マーケティングの指標であるLTV(Life time value)や、M&Aの際に発生する資産であるのれんの評価など、DCFで計算する価値評価に用いる割引率として利用するためです。個々の事業別に設定する割引率は、当時IRを担当する財務企画課からマーケティング部門や経理部門へ提示していました(現在は財務部が担当)。

 このCAPMモデルにおける変数のひとつ、株式市場全体と比較したリスク感応度を指すベータは、理論上、株式市場全体と同じリスクであれば1、リスク感応度の高い成長企業では1以上となりますが、楽天の株価の過去のデータを使い算出するとローリスクを示す1未満でした。それもかなり低い方です。1未満のベータを使うと、楽天はインターネット事業という高成長産業に属しているにもかかわらず、日本の上場企業の平均より低い資本コストが結果として得られます。
  これは私たちの体感とはかなり異なるものでした。楽天に投資を検討する投資家も、同様の意見と思われます。コーポレートガバナンス・コードが制定された2014年頃に計算した時には、過去5年のデータでも10年でもIPO来の14年間でも1に満たない数字でした。同年TOPIXに組み入れられてから多少1に近づきましたが、それでも一を超えず、成長企業にそぐわない低さです。
 EC事業向けには楽天と他の日米インターネット企業の平均のベータを用いたり、専業企業が多い金融事業などでは同業の平均ベータを用いて補正していました。小規模な事業には規模によるプレミアムを勘案しました(その後、LTVや割引率の算出方法、前提条件は改良を重ねました)。

  コーポレートガバナンス・コードの施行を前に、東証などの外部から、「資本コストは何%か」という調査やアンケートが増えてきていました。公表はされないものの、公式見解として出すことになるので、財務とIRのスタッフだけでなく、CFOの山田さんにも議論に加わってもらうことになりました。山田さんに目的と算出の前提を説明の上、楽天の株主資本コストは5%から6%の間くらいと計算している旨を報告しました(注 前提条件の違いにより現在は異なる結果になります)。
 その数値を見て、山田さんは「インターネット企業に期待するリターンは1桁後半から10%くらい」という自らの期待値と比べると違和感があると言いました。そのとおりと思いつつ、ベータの具体的な補正方法などを詳しく説明すると、「うーん、仕方ないかな」とのこと。次に山田さんはM&Aチームの担当者を呼びました。楽天の中では企業に投資する立場にある部門ですから、ある意味投資家です。M&Aの際の、買収対象会社の企業評価の割引率の決め方を尋ねました。
 「ある程度安定して成長しているインターネット企業なら10%前後、ベンチャーで高成長なら20%くらい、アーリーステージ(事業の初期立上げ期)なら40から50%とか、同規模同業種を参考に決めています。CAPMなどの計算式は使っていないですね」
 「そうだよね、わかった。ありがとう」
  投資銀行にも在籍したことがある山田さんの肌感覚はM&Aチームの数字と合ったようですが、肌感覚より算出根拠がある方がマシと思われたのか、アンケート回答用の楽天の株主資本コストはCAPM補正版の5%台後半でひとまずよしとされました。仮に楽天全体の資本コストを「肌感覚」で決定できたとしても、社内の70超の個々の事業の資本コストを同様に決めて各事業部門を納得させるのは困難なので、仕方ないように思えました。
  株主資本コストとは投資家の「将来の期待」であるはずが、ファイナンス理論上、ベータなどの「過去の実績」を用いて算出することの難しさを感じました。仮に10%が楽天の株主資本コストとしても、直前期の2014年の楽天のROEは19%台で、株主資本コストを上回っており、資本収益性の評価に大きな問題はなかったものの、すっきりしない議論となってしまいました。

 東証からのアンケートには別の質問もありました。ROE以外の指標も含めて、経営者が意識している経営指標は何か、というものです。今の日本企業全般に意識が足りていないのは、株主へのリターンを示すROEが株主資本コストを上回るかどうか、という点であるのは前述のとおりです。が、もちろん、経営には他にも重視すべき指標があります。経営者になじみ深い指標には、収益性を測る売上高営業利益率や、成長性を測る利益成長率などがあります。投資家もこれらの指標をよく見ています。
 また、株主から拠出された資金のコストを意識するのであれば、銀行などから拠出された資金である負債も、利益成長のために投下された資本として、当然そのコストとリターンを意識すべきです。また負債が増えすぎ債務超過になれば、倒産の危機となるため、そのような事態を回避するための健全性の評価もすべきでしょう。様々な経営指標のうち、業種や企業の置かれている状況によって、優先すべきものは変わるはずで、東証はそれを質問して考えさせたいのでしょうか。

 楽天も負債を多く活用しています。負債のコストは金利です。理論上、負債コストは株主資本コストより低いため、適度に負債を活用することで全体の資金調達コストを下げることができます。「株主資本コストと負債コストの加重平均資本コストであるWACC(Weighted Average Cost of Capital*)を意識すべきか」という問いかけが出ました。製造業などの、一般的な事業会社では、これは議論として正しいものです。負債と株主資本の両方を資金調達源としている場合、総資産(負債と株主資本の合計値と一致)に対する利益(税前利益)の比率を示すROA(Return On Assets)を重視する考え方もあります。この場合、ROAはWACCを上回れば、資金の提供者(銀行などの債権者と株主)に報いていることになります。
 しかし、金融事業向けの負債が多い楽天は少し事情が異なります。「金融業の負債はある意味仕入れのようなものだから、投下資本とみなすには適切ではない。負債コストを含むWACCは違和感がある」という意見が出ました。会計上も、一般事業会社における利息費用が営業外費用となるのに対し、金融業で借りた負債の利息費用は、営業費用(売上原価)に含まれます。WACCの算出式にある時価総額を使った加重平均の方法にも疑問が出て、候補から消えました。意識すべきなのは、負債と株主資本のバランスや、シンプルに借入金残高と返済余力、という意見も出ました。
  一方、「インターネット企業として、成長性を示す利益の増加率の方が重要ではないか」との声もありました。確かに株価にもっとも影響があるのは、一株当たり当期純利益(EPS)の成長率ですから、利益成長を果たすことが株主に報いることとも考えられます。結論はひとつにまとまりません。

  そもそも、会計上の数値を用いた指標なのか、という問いが山田さんから発せられました。
 「格付け会社の資本の見方は違うよね、資本の質だよね」
 「はい、格付け会社は、資産のリスクを評価し、そのリスクと資本とのバランスを見ます。会計上の数値をそのまま評価に使うことはありません」
 格付け審査では、のれんや金融事業の有する資産などの資産から生じるリスクを評価し、それらのリスクに見合った水準の資本があるかどうかを評価します。のれんには減損リスクが、金融事業の資産には貸倒リスクなどがあります。リスクで資産が目減りする可能性があるなら、それに応じて株主資本を厚めに持っておく必要があるのです。
  この少し前、楽天では、資産リスクに比べて株主資本が以前より充実したと格付け会社に評価された結果、発行体格付けがシングルA格に格上げされたところでした。高い格付けによって普通社債発行の費用が低く抑えられました。さらに重要なのは、シングルA格に格上げされたことで、銀行事業や証券事業での資金調達に係る金融コストが顕著に低下したことです。
  バランスシートの中身がほぼ金融事業である楽天にとっては高い格付けの維持が資本政策上の重要な条件なのです。
 「俺たちが今までやってきたことは、表面上のROEやROAを上げることではなくて、リスク資産と資本と負債とのバランスを取りながら資金調達コストを最小化し、利益を最大化させることなんじゃないの?」
  山田さんのことばに、皆考えこみながらうなずきました。誰かが付け加えました。
 「はい、あえて言うと利益の総額ではなく、EPSを上げること、それも中長期で、でしょうか」
 東証のアンケートには、ROE、ROA、株主資本比率(総資産に対する株主資本の比率)、利益成長率などの複数の指標を総合的に勘案すると回答することにしました。 一般的なファイナンス理論をそのまま適用することはできませんでしたが、楽天の複雑な事業構成を前提とした資本効率の向上と利益成長の考え方を再確認した、といってよいのかもしれません。

 振り返ると、このファイナンス理論とのギャップの議論そのものが重要だったと思います。事業の性質に応じて資本コストの考え方は変わってくるものであり、たとえば製造業と商社と銀行では資本の配分や収益の評価の方法は異なります。 楽天はインターネット企業ですが、商社のような投資もあれば、金融事業も多数あります。2019年には通信事業にも本格参入します。その時々の事業構成や市場環境に合わせた議論を行うことこそ、経営者の果たすべき役割なのだと考えています。私の退職後、楽天では最適資本構成と資本効率性については、経営陣を交えてさらに議論が深まっているようです。資本の最適な配分を目指して、事業や資産の売却も以前より増えました。現CFOによると、まだ途上とのこと、一層の進化が期待されます。

<スチュワードシップ研究会・ガバナンス改革の先にあるもの>に続く

*CAPM:  Capital Asset Pricing Model の略で、資本資産評価モデルと訳され る。「キャップエム」と読む。株主の期待収益率すなわち株主資本 コストとして古典的な計算方法。 以下の式で表される。
R E = R f + β( R m - R f )
R E :株式の期待収益率
R f :リスクフリー・レート
β:株式のβ値
R m - R f :市場のリスク・プレ ミアム
日本株においては、リスクフ リーレートに日本国債長期利回り、
市場のリスクプレミアムに TOPIXの長期( 30 〜 50 年)平均成長率を使う場合が多い。

*WACC: Weighted Average Cost of Capitalの略。加重平均資本コスト。負債と株式のウエイトに応じ た加重平均を取った資本コストで、 企業活動に投下した資本全体のコ ストとなる。負債の資本コストは金利、株式の資本コストは投資家の期待収益率で、コーポレート ファイナンス理論ではCAPMを
使うことが多い。負債と株式の比 率は時価を用いる。負債は実務上 は簿価で代用することが多い。株式の時価は時価総額となるが、一定期間の平均を取ることもある。


IR(インベスター・リレーションズ)の経験などに基づいたテーマで記事を書いています。幅広い層のビジネスパーソンにも読んでもらえたら嬉しく思います!