見出し画像

FREELY

2009年有限会社DAYTRIPの鈴木社長(以下ヨシアキ)の「inuちゃんうちでなんかイベントやってよー」の一言からFREELYが始まる。

ヨシアキとの出会いは20年以上前の2002年頃まで遡る、元々俺はSKA好きのライブキッズでありベーシストであり当時の仲間とsurfsupriseというライブイベント団体をやっていて、週のほとんどはライブハウスにいた。

当時は個人イベンターってのが流行っていて、ヨシアキだったり、今ではRADの社長のwataだったりがいてバンド企画というよりイベンター企画の方が多かった時代だ。

そんな時代も数年続き、俺はだらだらと自主企画を続けて、なんとなく生きていた。
ある日池下UPSETでブッキングとして働いていた2008年頃、以前よく対バンしていたアロハスマッシュの甲斐からの連絡が俺にあった。
「アパレルショップDATE BANK SHOP(以下DBS)を立ち上げたので一緒に働かないか?」

DBSとはマジカルモッシュミスフィッツやパンクドランカーズ、ルーディーズなどストリート系の服を扱う店だ。

俺は即座にOKをだし働き始めた。

俺も甲斐もヨシアキもSKAバンドをやってた為元々よく会う仲間だった。

DBS時代にはHEY-SMITHやSKALLHEADZ(現MASON’S PARTY)、以前から交流のあるOVERLIMITなどを呼び数回企画していた。

そこでヨシアキがDAYTRIVEを新栄に作った2009年頃に、冒頭の「inuちゃんなんかイベントやってよー」からFREELYが始まる。

実際もうメンタルやられていてライブイベント作るのもうコリゴリかな?と思ってた時だ、

だが少し前からイベントのDJとして、DBSのお客さんで来ていたSHAKE758の子に出演してもらってたりしていた為そこでDJイベントなら出来るな!!って思い、自由になんでも好きな曲流していいっていうコンセプトで始めたのがFREELYだ。

最初は好きな子達を呼んで1回だけのつもりだったが、1回やったら楽しかったからもう1回やろう!!2回目やったら楽しかったからまたやろうが
何回も続いて、お客様も最初は10人、次は40人、その次は80人とどんどん増えてったから一回目から半年過ぎた頃、もうレギュラーにしちまおうということで、定期開催となった。

定期開催となればもちろんお客様をどんどん増やしていかないとと考える。

結成当時のオリジナルメンバーは皆元々が洋楽とインディーズのラウド系寄りが好きな子達が集まっていたから何でも流していいと言ってはいたが普通に選曲したらその辺しか流れないDJイベントだった。

一般の人達はそもそもライブハウスにあまり行かないしインディーズはなかなか聴いてる人が少ない。

では、いかに俺たちが好きなバンドを聴いてもらうにはどうすればいいか?
そこで考えたのが特集タイムを作る事だった。

ジャニーズタイムを作ったり、松浦亜弥タイム、ジャパレゲタイム、ジェイポップタイム、ハッピーハードコアタイムなどをDAYTRIVEで流しネタ箱とし、

TRIMでは洋楽かインディーズだけ流し、メジャーなバンドは流すなとまで言っていた。

このあたりからFREELYは2箱で開催するという流れができ始めた。

こうすることで誰にでも何かしら引っかかる曲が流れるよ!!遊びに来ない?と言える口実を作って老若男女誰でもイベントに誘えるようにしていた。


こうなってくるとテーマも考えなくてはいけなくなってくる。
俺達というか俺がやりたかった事は次に繋げる事だった。

俺たちはバンドがあったからこそ出会い、ライブハウスという環境でDJとして流させていただいてるからこそ楽しめみんなが笑える環境を作れている。

ではどうすれば今後もシーンとしてライブハウスやロックDJというものずっと残していくかというと、流させていただいてるバンドをお客様が好きになりライブへ足をはこんでもらう。バンドが売れて音源を出す。
それを僕たちが買ってまたDJで流す。のループ。

そして男なら憧れてバンドマンになって、音源出してまた僕たちがDJで流し宣伝もしバンドもライブハウスもロックDJ達も盛り上げるということを考えていた。

そんなテーマで頑張りどんどんお客さんが増えアベレージ約100人で開催できてて約2年がたった頃、俺に転機が訪れた

俺はDBSを辞めというか、お客様と会話ばっかしててあまり無理には売ろうとしてなかった為同僚に嫌われクビになり、(俺が辞めた後お客様の来店数が超減ったらしい)その後ヴィレッジヴァンガードで店長になる事を目標として働いていた。
いつかそんな日は来るだろうと思っていた。
というか何となく時期も予想出来ていた。

大分県の別府に店長としての転勤だ。
名残り推しすぎたが俺は目標の為に即決で大分に行くと決断し名古屋を離れた。

ここでFREELYの幕は一旦閉じる。

大分には縁もゆかりもなく母から冗談で「あんたは大分の高崎山で拾ってきた子」というよくわからん嘘をずっと言われてた山がある所としか認識のない土地だった。

もちろん誰も友達いない、近くにはカッパーレイブンスというライブハウスはあったが俺が好きな系統のバンドはこない。
やることが仕事しかない。

そんなんつまらなさすぎると思いSNSでロックDJイベントを探した。
そこで引っかかったのがジャイコナイト大分だった。
ジャイコナイトとはダイノジが主催するDJイベントの妹分のロックDJイベントだ。

俺はすぐさまジャイコナイトにアピールし大分でもDJができるようになった。
レギュラーではないが開催の度、毎回ゲストで呼んでくれてたので、俺は主催のアキヲ君に「レギュラーにしてくれよ」と言ったのだが、inuさんの選曲は大分には新しくて人としても欲しいのだが主催者として考え方の違いで揉めると思うからレギュラーにはしない。と言われた(良い意味で)

たしかに大分県は大分出身のバンドがircleだったり
ホットスプリングだったり他にもいるけどロックンロールというかジャイアンナイトの妹分なだけあってロキノン系が強かった。
だが大分には他にロックDJイベントが皆無だった。

そこで考えたのが、大分でFREELYをやろうだった。

俺はどうしても名古屋でやっていた飲み放題を利用してやりたかった、酒が飲みたいという訳ではない。

お酒を飲むとシラフより楽しさが増すし、人見知りの子も壁を壊しやすくなるからだ。

そしてなにより同じシステムで開催しているイベントが九州にはない。
これはチャンスだ。と思いその考えを別府のカッパーレイブンスのオーナーの星野さんへして口説いた。

星野さんも同調してくださり箱は抑える事ができた。

後はメンバーだ、幸い大分にもジャイコナイトで出会った数人インディーズや洋楽に強い子達がいたのだ、その子らと別府FREELYを作ってジャイコナイトをゲストに開催することができた。

ジャイコナイトはダンサーがいてめちゃくちゃ盛り上がる。
俺は1人だ。そこでやったことは、振り付けじゃないけどバンドマン時代のように大袈裟にステージングしてマイクで煽ってMCしてと縦横無尽に動く事だった。
それはもうDJやる度にシャワー浴びたかのような汗と疲労で出番終わりに楽屋に倒れ込んだ程。
それなりに大分でも人気が出てきて、ビッツホールのオーナー坪井さんにも褒められるまでになった。

ここらへんで俺のDJスタイルが一旦出来上がったんかな。

そんな事をつづけて2年、
今度は岡山の倉敷へ転勤。
またFREELYが無くなるかなと思ったが、大分の子達がFREELY別府を続けてくれるという事で、FREELYを残して俺は倉敷へ向かった。

岡山でもSNSを使ってロックDJイベントを探したが【無い】

岡山での生活は苦しかった、苦しかったが故に俺は病んでしまい仕事を辞め名古屋へ帰った。

名古屋に帰って数ヶ月がたった頃、前FREELYに来てた子達とまた名古屋でFREELYをやろうという事になりTOMO、gottsu、まゆっちとFREELY NAGOYAの2期を始める
別府にFREELYを残したからNAGOYAって付けるようにもなる。

復活したの2014年くらいかな?
2期はわりととんとん拍子にいろいろ進んでいった気がする。

俺は大分でジャイコにすごくお世話になったから名古屋にもジャイコがあるのを知りどうしても呼びたいと思い遊びにいって可愛がっていたり
ヴィレッジで働いていた頃ずーーーーーーーーっとCDを担当していたのだがどうやら名古屋に俺が取り扱いを決めたCDが98%同じの入荷させてる女がおるぞという話を聞いていたのがつづきともみだった。
昔からーS-ってイベントのDJでくそDJ上手で有名だったケンスケがBIRTHでやってるぞ。って3人をFREELY に呼んで多々開催していた。

2015年あたりはこの3人とどこに行ってもやたら共演していた覚えがある。



そんあはなしはおいといてFREELYの話ね。
2期は1期と根本的な考えは俺の脳内では同じだ。

このころはアイドル特集やアニソン特集を多々やっていた気がする。
2期始まって数か月たったころなんかの企画のアフターパーテーで共演したTissimoと出会う。
このあたりからオールジャンルとインディーズでは無く、ベースミュージックとロックという括りにする。

ロックにハードコアというジャンルがありベースミュージックにもハードコアというジャンルがある。なんか面白くね?
ってくらいの発想であったが基本的にベースミュージックはガバとかハピコア、ハードスタイルが好きだったて言うのが一番の理由。
2つのハードコアを混ぜたい。って思ってたが俺には無理だったけどね。

開催を続けていく度に仲間をどんどん増やしていき、お客さんもどんどん増え、最高180人入った事もあった。

やる事がどんどん増えクルーの人数も一時期16人くらいいたんじゃないかな?

人がおればおるほど考えが合わん人もおって何人も辞めてったりした事もあったね。

そのうちの1人がFREELYは何したいのかわからん。
って言ってきた子がおった。
俺がやりたいことは書いたようにこれだ。
言っても伝わらんなら多分ずっと伝わらないんだろう。
俺が何言っても根本の考えが違うなら無理だ。
ってなった時期もあった。

そっからFREELYは基本ラウドしか流さん風になった。
のも懐かしい思い出。

そっから数か月後、バンドマン時代から付き合いのクソ長いOVERLIMITのぐっさんとの会話で大阪でもFREELYやろうという話が上がった。

俺がその時出した答えは
大分にもあるんだし、大阪やるならぐっさん主催してよ。だった。
ここでFREELY大阪が立ち上がる。

大阪、名古屋、大分(九州)にあるんだったら東京も欲しくね?って事で大分時代に知り合ったオキちゃんが東京にいるので、オキちゃんにFREELY東京をやってよとお願いしてFREELY東京が立ち上がる。

そっからは他の都市が主催するたびに名古屋からisやinoma、にゃんぴやTissimo、しゅーまを連れて東京や大阪や大分にDJしに行ってた。

ここで全国の色んなDJと出会ったよね。
おかげ様で全国的に名前だけは知っているDJイベントにはなれてたみたいです。ありがとうございます。


2017年頃また俺に新しい考えが生まれた。
もうおっさんの俺が名古屋を引っ張っていっても周りのDJも一緒に歳をとっていくし同窓会的な身内のりの方向へなっていく。
身内のりというのは俺的に全然かまわない。が細かく考えると少し違う。

盛り上がっているイベントの客層は20代を中心に盛り上がっている。
どんどん集客のあるイベントにするには俺が主催していたら駄目だ。
若い子を育てるためには若い子が主催して若い子を集めるしかないという事だった。
それが名古屋のロックDJ文化を繋げるという考えだった。
その考えのもと俺は一度しゅーまとTissimoへFREELY NAGOYAの主催を引き継ぎ俺のオーガナイザー卒業回をやった。

卒業をしたのだがとある事情でまたすぐ俺がオーガナイスしなければいけない状況に返り咲いた。
詐欺っていわあれたけどこれはしょうがなかった。
いろいろありすぎたんだよとだけ言っておく。


細かいことはバチくそ端折ってるがこれがFREELYの歴史。


そうこうしてるうちに、俺ももう40歳とかになっていた。
今は43歳。

ここで辞める理由になるんだが、
何度もメンタルぶっ壊れぶっ壊れた流れで辞めようと考えたけど、名古屋以外に大分大阪東京とあるから本家の名古屋が辞める訳にはいかないと思ってた。そう思ってずるずるやってた。
色んな準備とかまとめる事とかキツイよ。でも当日楽しいもん。

だが、決断した理由は俺がやりたかった事が出来ないからというのが1番大きな理由だ。
転職して休みずらくなっていた、子供産まれて出演回数やライブを見に、DJイベントに遊びに行く事が極端に減った寧ろほぼ皆無だ。
減った事により、考えていたテーマを全く行動に移せなくなった。
更に俺自体がお客様を呼ぶ事が難しくなった。
そして何より色んなところへ繋げたいと考えてたのが、そもそも足を運べてない俺からの説得力が皆無となった事が辞める大きな理由。

俺達が流してる曲をお客様が聴いて好きになって、ライブハウスに足を運んでCD買って、その人達に憧れてバンドやり始めてライブハウスに出演する、そのバンドを俺達がDJで流して好きになるチャンスを増やしてのループ。

FREELYに出てるゲスト
チームを好きになって俺達のお客様がそのゲストチームのお客様にもなって欲しい。
ゲスト同士が仲良くなって欲しいって思ってたんよ。

ウチのクルーでライブ行ってDJイベント行って、CD買ってFREELYにお客さん呼んでってちゃんと出来てる仲間もおるよ。

「曲も人も繋げる」事がしたいのに、主催の俺が出来てないじゃん。

って事。
(名古屋に限っての話ね、他の地域は主催の考えに任せてる)

だらだら色々悩んで悩んで続けるくらいなら、区切りをつけて華々しく終わろうと。

15周年をキリよく最後と決めたので最後まで突っ走って頑張ります。
ご協力お願いします🙇🏻‍♂️

俺達のかっこいい仲間達を見に来て下さい🙇🏻‍♂️
そして何かしら繋がって下さい🙇🏻‍♂️

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?