ウイルスと神々(後編)〜疱瘡へのさまざまな対抗法 〜 江戸時代の人々はウイルスにいかに向き合ったのか
前回の『ウイルスと神々(前編)〜「疱瘡神」とは? 〜 江戸時代の人々はウイルスにいかに向き合ったのか』では、江戸の人々が「疱瘡」や「麻疹」という恐ろしい感染症を「疱瘡神」という疫病神の仕業だと考えていたこと、そしてその疱瘡神を畏れるだけではなく、時に歓待し、盛大に送り出していたことなどに触れました。
江戸時代に生きる庶民の、感染症に対する考え方、理解の仕方、対応法には、医学の発達した現代に生きる私たちには、滑稽に感じられてしまう部分も多々ありますが、何か・・・私たちに足りていないもの、忘れ去ったもの、考え至らない示唆を含んでいるような気がしてならないのです。
今回は、「疱瘡」「麻疹」の脅威に、江戸時代の人々が実際にどのように対応していたのかをご紹介しましょう。
アマビエ
新型コロナウイルス(COVID-19)がパンデミックの兆しを見せ始めた2月末。ある妖怪の存在が、一躍脚光を浴びることとなりました。
それは「アマビエ」という妖怪です。
妖怪漫画の巨匠、水木しげるさんの著作「[図説]日本妖怪大全」には、アマビエのイラスト入りでこのような記述があります。
弘化三年(1846年)のこと、肥後(熊本県)の海中に毎夜光るものが出たという。
役人が行ってみると、(中略)これが出てきて、
「私は海中にすむ "アマビエ" というものである」と名乗ったあと、
「当年から六ヶ年の間諸国豊作である。しかし、病気が流行ったら、私の写しを早々人々に見せよ」などと予言めいたことをいい残し、ふたたび海中にもぐったという。
これは、弘化3年4月下旬に発行された現在の新聞にあたる、摺物(すりもの)に書かれたものが元となっています。
上の写真が実際の当時の摺物です。役人が目の前に現れたアマビエを描き、それを江戸に伝えました。
江戸の人々は疱瘡などの感染症と日々闘っていましたので、この絵は当時の人たちの心の拠り所となったはずです。令和の世においても、「私の写しを早々に人々に見せよ」というアマビエの言葉と、ゆるキャラのような可愛らしいアマビエの姿が、世間に立ち込めていた重く、暗い雰囲気を和らげてくれています。
疫病退散、コロナ封じのためにアマビエの力を借りて、この難局を乗り越えようという動きは、SNSを中心に日々加速していき、「#アマビエチャレンジ」などのハッシュタグで、アマビエのイラストなどが今も数多く投稿され続けています。
アマビエの流行は、令和の世だけではなく、遡れば天保、安政、明治に続いて4度目。アマビエが描かれた弘化は、天保よりも一つ前の元号になりますが、この時は「アマビエ」ではなく、「アマビコ(海彦)」として世に広まっています。
疱瘡への対抗法
さて、江戸時代に猛威を振るった感染症、「疱瘡」と「麻疹」。
江戸の世を生きた人たちは、そうした身に迫る脅威を、どう理解し、どのように対処していたのでしょうか。そこには江戸ならではの習俗、文化、宗教が渾然一体となった独特の対抗法がありました。
疱瘡踊り
疱瘡神は踊りの好きな神とされています。疱瘡が軽く済むようにと、踊りが捧げられていました。
鹿児島地方では、彼岸講というものが近年まで行われていたそうです。
七歳未満の子どもを持つ母親が、初産のあった家に集まり、ホソンダゴ(疱瘡団子)とニシメを作り、子どもを連れて疱瘡神と言われる石に参拝し(虚空蔵参り)、その後その石の前で、ホソンダゴとニシメを食べるというものであった。(中略)この日の夜、女たちが集まり、疱瘡踊りを踊って彼岸講を締めくくった。
『疱瘡神 江戸時代の病をめぐる民間信仰の研究』H・O・ローテルムンド著より
*疱瘡団子の習俗は静岡県にもあり、白い皮の中に小豆のこし餡が入り、食紅で団子のてっぺんに赤い印がつけられている。
疱瘡踊りの一つに「馬方踊り」というものがあります。これは数人で踊るもので、現在でも馬渡馬方踊りとして伝えられています。
当時は疱瘡に感染すると、その症状が少しでも軽く済むようにと伊勢神宮や、熊野神社などにはるばる祈願の旅に出かけていました。
鹿児島県志布志市に「千亀女(せんがめじょ)」という美女が主人公となる民話がありますが、この千亀女がお伊勢参りをする様子を、馬子との対話を交えて表現したものです。
薩摩国の武将、島津義弘公が参勤交代の折、江戸の人々が神に舞を奉納したことで、疱瘡の難から逃れることが出来たことを知って、薩摩藩内に広めました。
疱瘡踊りの歌詞には、以下のようなものがあります。
疱瘡神が、踊りが好きなことなどが歌われています。
神仏の加護
疱瘡守護の代表的な神仏は「虚空蔵菩薩」です。
山形県米沢市徳町の疱瘡神社に祀られているのは「稚児文殊菩薩」。この疱瘡神社は、長慶寺(曹洞宗)と同じ境内に鎮座しています。明治政府の神仏分離令により、稚児文殊菩薩は「須佐之男命」に名称を改められました。
その他の疱瘡守護の神仏では伊豆・相模地方の「妙正大明神」、出雲の「鷺(さぎ)大明神」などがあります。また、疱瘡に霊験あらたかであるとされた江戸の疱瘡守護寺社が『疱瘡禁厭秘傳集(ほうそうまじないひでんしゅう)』という書物に記されています。
以下が、その主な寺社です。
今も参拝者が絶えない静謐で、清らかな寺社が並んでいます。
コロナ除けの祈願にも効果があるかもしれません。
赤い色
貝原益軒の弟子にあたる名医、香月牛山が著した医学書『小児必要養育草(しょうにひつようそだてぐさ)』の「痘瘡の病人、居所しつらひやうの説」の章には以下のような記述があります。
ここには衣紋掛け(今でいうハンガー)に赤い衣類をかけ、疱瘡患者である子どもも、その看病人も赤い衣類を着るように勧めています。
前編でご紹介した疱瘡に罹った子どもの快癒を願った浮世絵である「疱瘡絵」は赤色で刷られていました。これは赤色が元来、災難除けの色とされていたからです。
また、赤色の原料である紅花が、腹痛、冷え性、婦人病などの血行障害などに対して薬理効果のある植物であったということとも関係があるでしょう。
ダルマや赤ミミズクを筆頭に、福島県会津地方の「赤べこ」や、岐阜県飛騨高山の「さるぼぼ」、新潟県や、鹿児島県の「鯛車」など、子どもの遊ぶ郷土玩具に赤い色のものが多いのは、元来疱瘡除けが目的であったからといわれます。
呪歌と唱え言葉
病気治しには「呪歌」と「唱え言葉」が用いられていました。密教でいうところの真言(マントラ)と同じ役割にあたります。ある言葉を唱えたり、または札にその言葉をしたためるのです。
『修験深秘行法符咒集』をはじめとする伝承の中には、疱瘡などの疫病除けの呪歌が数多くみられます。その一部をご紹介しましょう。
麦殿とは麻疹退散にご利益のある神、「麦殿大明神」を指しています。この「麦殿」とは、ある地方に伝わる伝承が由来とされます。疫病が流行した際に、赤飯に麦の種を少し混ぜて神に捧げ、それを捨てることで疫病除けになると考えられていました。麦の種についている、黒い点が疱瘡の跡に見えることが、この謂れの発端のようです。
「神仏の加護」でも触れましたが、疱瘡守護の神仏として祀られていた稚児大明神は、のちに須佐之男命に名称が変わりました。ここでも、須佐之男命は疫病追放の祈願対象となっています。
『備後風土記』によれば、須佐之男命は「武塔天神(牛頭天王)」と同一とされます。
*牛頭天王は疫病をもたらす神といわれる。
呪的予防
前述した『疱瘡禁厭秘傳集(ほうそうまじないひでんしゅう)』には、不思議な疱瘡予防法(民間療法)がいくつも書かれています。
足立孫七という人が、河内の国の生駒山で老僧に会い、伝え聞いた予防法で、毎月13日に魚屋に鰻を買いに行って、八幡宮の放生池に放つことを月毎に行えば、疱瘡にかからないという話。
または、こんな方法もあります。
まず、鶏の卵の頂点に小さな穴を開けます。そして、子どもの生まれ年と干支、性別を書いた紙を細くこよりにして、先ほど空けた卵の穴へ刺し込みます。その卵を穴の空いた方を上にし茶碗で蓋をして、家の入口に深さ一尺(約30cm)ほどの穴を掘って埋めます。これにより疱瘡から免れたといいます。
「信」を失った時代に生きて
新型コロナウイルス(COVID-19)の脅威にさらされる現代の私たちを見て、江戸時代に生きた名もなき人々は何を思っているのでしょうか。
「STAY HOME」という国民的スローガンを掲げながら、今やそのスローガン自体に押し潰されているようでもあります。
いまだパチンコ店には長蛇の列ができ、GWの沖縄行きの飛行機は6万人の予約で埋まっています。ネットカフェを住まいにしていた人々は、唯一の安らげる場所を奪われ街を不安に怯え彷徨い歩いています。多くの人が職を奪われ、昨日まで当たり前にあった環境を失い途方に暮れています。
現代に生きる私たちは、江戸の人々よりも多くのものを手にし過ぎてしまいました。だからこそ、失うものも大きいのです。江戸の人々は、生き方がシンプルだった分、神の存在や、自分の成すことにまでも徹頭徹尾、真摯に向き合い、頑なに信じ通しました。
私たちは、江戸の人々と違って、無垢に信じるものを失っているように感じます。国(政府)も、他人も、家族も信用出来ない、だからといって自分さえも好きでいられない。こうした社会が、ウイルスという見えざる敵と、本当の意味で向き合うことが出来るのでしょうか。
そういう意味でも、古の人々の生き方は、私たちに貴重なヒントを与えてくれるのかもしれません。