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礼拝説教否定論??
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こんなサムネイル画像(画像の一部の切り抜き、この外には「必見」とまで書いてある)の動画がお勧めに流れてきました。このパワポを見る限り、礼拝学も説教学も(ことによると教会形成論も)全く無視した"論"のように思います。最近何か流行っている考えのようですが、
「説教者を集会の主役にしてしまい」って、主役は神でありキリストであり、説教者は徹頭徹尾、その神の現臨に仕えるしもべなのですが…。その神のできごとが礼拝で起こることに説教者はその存在をかけています。
別のある人もSNSに「礼拝説教は聖書に根拠が無い」とか書いていました。いやいや山のようにあります。使徒2:14以下のケリュグマ(福音の宣言)とか、その他多数…😞(後で追記 動画視聴した後の感想→動画視聴でも同様に「礼拝説教は聖書に根拠無し」と言っていましたが、使徒2:14以下やルカ4:16以下と現代の説教とは形式的には異なるかもしれません。しかし、何をもって同じとし、何をもって「違う」とするのかの論が十分に詰められていないであろうことから、「説教が聖書にある」というのが"読み込み"だと動画中で判断していることが適切かどうかに非常に疑問が残ります。)
さらに別の人は「説教ってコスパもタイパも悪くないですか?」とかいう暴論を書いていたのを見かけたのですが、礼拝や礼拝の一部をコスパ、タイパで計ること自体が何もかも間違っていますし、コスパ・タイパ志向は、しまいにはコスパ、タイパの悪い物や人はいらない、という「切り捨て」思考に引っ張られるだろうし、行き着く先は、「神」や「キリスト」も、切り捨てるようになると思います。
コスパ・タイパ志向は「無駄に思われるもの」=「気に入らないもの」から切っていく、主イエスに「しるしを見せてください」と言う、自らを神とするファリサイ派の姿勢に親和性があるからです。
そういうプロテスタントの数百年の礼拝学、説教学の積み上げを無視した形でやると、ー伝統を崩すのは良いです。むしろ、私は新しいやり方が好きです。けれどもー基本を無視すると、英語のことわざの、
To throw out the baby with the bath-water(「風呂のお湯を「要らない」と思って流す時に大事な赤ん坊まで一緒に流して捨ててしまう」あまりに熱心に改革や組織の改変や行動をしすぎて不必要な要素を取り除くうちに、どうしても必要なものを取り除いてしまうこととなるでしょう。
つまり、どういう伝統を崩すべきで、どういう伝統を保持するかを見極めた上で、新しい時代に合った方法で提示、発信して行くかが大事なことであって、そういうことをきちんとよくよく考えないで現状批判を全国公開で発信すると、人々が本質的に大切なものを軽んじるようになり、諸教会に莫大な無形の損失をもたらすことも無きにしもあらずなので、私は非常にそれを懸念しています。
*主イエスが徹底的に批判されたのは、パリサイ人律法学者たちの悪しき伝統であり、むしろユダヤ教の良き伝統(カルバホメルやたとえによる教え等のラビの教授法その他)は捨てておられないことにも注意。ここにも何を捨て、何を残すべきかのヒントがある。
"現代の説教がもたらす主要な問題"の一つは「信徒同士の関係を希薄なものにしてしまう」って、日本の名説教者の一人と言われる竹森満佐一牧師は、礼拝説教と聖餐のみで「聖徒の交わり」は成立する、ひいてはそれのみでも教会形成は成り立つ、という内容のことを言っていますし、実際に成り立っています。説教が原因ではないのですが…。
この"主要な問題"の5ポイントのうち、少なくとも4つ位(5つ全部か?)は、説教が原因じゃないですよね…(まずい説教をし続けたら結果としてそういった問題が起こりますが…)。
このサムネイル画像は「説教ープロテスタントの最も神聖な偶像」と衝撃的なタイトルが書いていて、「まずい説教の継続(プラスその他)によって起こる問題」を、「説教があることによって起こる問題」であるかのように結果的にミスリードしてしまっていると思います。(続く)