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【文書版】✅コスパ・タイパと高齢者集団切腹・集団自決"論"との関係についても途中から語ります。✴️礼拝メッセージ「地の塩、世の光」新約聖書 マタイの福音書第5章13~20節

昨日2023年2月5日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✅コスパ・タイパと高齢者集団切腹・集団自決"論"との関係についても途中から語ります。
✴️礼拝メッセージ「地の塩、世の光」
新約聖書 マタイの福音書第5章13~20節

13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
14あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
15また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
16このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
18まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
19ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
20わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。
 
 主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。

 この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします
 
 突然ですけれども皆さん、塩の賞味期限、どれくらいかご存じでしょうか?今までにお聴きになったことのある方もいらっしゃるかもしれませんが、調べてみますと、これは東京ソルト株式会社のホームページに書いてあったことですが、
 
結論からいうと、塩には賞味期限が定められていません。これは塩の経年劣化が極めて少ないためです。開封後に食べられる期間は、保存状態が良好であれば、なんと無期限なのです
 
 ということですね。これは消費期限も同じだそうです。ですから賞味期限も消費期限も無限。何千年ももつ、ということですね。
 
 で今日の箇所、地の塩、世の光、ということばが、聖書の中での有名なことばトップテンがあったら、トップテンに入るのではないか、と思われるぐらいのところですが、
 とても有名です。地の塩、世の光、というのは、ミッションスクールの理念とされることや、学校の名前そのものに、塩とか、光という名前が入っていることがよくあります。それは、地の塩、世の光として、社会に役立つ、あるいは輝く人材を育てる、だいたいそういったことだと思いますが、これが今日のみことばに関わってくるわけですね。
 地の塩、と言えば、そういう題名の映画もあります。
「地の塩、山室軍平」ご存じでしょうか?私お恥ずかしながら最近知ったんですね。2017年に公開された映画で、日本救世軍の創設者として知られる山室軍平先生の生涯を描いた映画だそうですね。救世軍は世界中で慈善活動をしている団体で、社会鍋などが有名ですね。今では、オンライン社会鍋や、ウクライナ支援などもしていらっしゃいます。尊いお働きですね。
 
 そういったわけで、地の塩、と言ったら、なんとなくこう、慈善活動をする、ボランティアをする、人道支援や社会福祉、あるいは教育などをしていく、そういったイメージが浮かぶかもしれません。
 そういったことは決して間違いではありません。しかし、今日は、そういった思考のショートカットをしないで、本当にこの主が、今日のみことばで語りかけてくださっていることは何か、ということを丁寧に解き明かしまして、イエス様のみことばの宣言を深く味わっていきたいと思います。
 
 少しですね、この地の塩ということばの後に出てきたことば、イエス様の口から飛び出てきましたことば、このことばを聞いた時に、なんだろう、とおそらく思われると思うんですね。それは、地の塩です、に続いて(13節)、
 
もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。
 
 ということばですね。まぁこれは本当に謎というか、一体何をイエス様はおっしゃっているんだろうか?と思われると思います。塩が塩気をなくす?ということは?つまり、先ほど、東京ソルト株式会社の説明を聞きますと、賞味期限は無限、ということですから、塩が塩気を無くすなどということは無い、ということになってしまいそうです。
 そうしますとどういうことなんだろうか?実はこれは、理由がありまして、イエス様時代の2,000年前のパレスチナ、というのは、ああいった赤いキャップにガラスのビンに入っているような白い食卓塩、というものは当然売られていません。そういうものではなくて、薄汚れたような色をした、岩塩なんですね。その岩塩の塊を塩と呼んだんですが、そこから塩の成分が溶け出してしまって、本当に塩気が無くなってしまうことがよくあったそうですね。
 ですからこの塩が塩気を無くしたら、ということばは、当時の聞いていた人にはよく分かったわけですね。たとえとしてよく分かった、その次の塩分が無くなった岩塩が役に立たなくなって、外に投げ付けられ、人々に踏みつけられるということは、岩塩がそうなるということ自体は、聴衆にとってはすぐにピンと来たわけです。そのたとえの意味というのは何かということは後ほどお話いたします。
 
 ともかく、イエス様のもとに集まっていた弟子たちも、その周りを取り囲んでいたであろう大勢の群衆にも、そして、今日みことばの周りに集まっている私たちにも、「あなたがたは地の塩です。世の光です」と宣言されているわけですが、まずは、「地の塩」というのが、何を意味しているのかを考えてみましょう。
 
 塩、というのは、さきほど身近な食卓塩の写真を見ていただきましたけれども、まずは、味付けですね。料理に使われますが、塩がメインになっている料理というのは、当然無いわけですね。あくまで調味料なわけですから、見えない、目立たないわけですね。隠し味ということになります。
 
 そしてもう一つは、食品の保存効果というか、食品の腐敗を防ぐ効果があるんですね。塩自体には殺菌効果は無いそうですが、塩分が多いところでは、塩に水分を取られるので、微生物が水分取られて繁殖できない、まぁそういった科学的根拠があるそうですが、昔の人はそんな科学なんて知らなくても、冷蔵庫がない時代に、どうやって食品が腐るのを防ぐか?それは生活の知恵で、なんとなく、塩漬けにすれば食品が長持ちする、そういうことを古代からやっていたわけですね。
 
 そういう、ものが悪化するのを防ぐききめがあるので、きよめる効果がある、と古代の人は考えました。これけっこう世界共通のところがあって面白いんですが、日本でも、仏教式の葬儀に参列しても、お浄めの塩、というのを、もらったりしますね。相撲取りが、土俵をきよめる、という意味でしょうか。塩をバァって撒きますね。
 面白いことに、イスラエルでも、祭司たちが神殿でいけにえを捧げる際に、きよめのためだと思われますが、塩をまきなさい、と、エゼキエル書(第43章24節)にも書かれています。相撲取りみたいですよね。
 
 それから、皆さん、サラリーマンの語源は何かご存じでしょうか?サラリーって給料のことですね。そのサラリーというのは、何から来ているかというと、「塩」なんですね。ラテン語で塩を「サル」と言います。それはローマの兵士が給料を、塩でもらっていたからなんですね。ええ!?貨幣があるじゃない?と思われるかもしれませんが、貨幣は、皇帝が変わりますと、前の皇帝の肖像が刻まれているコインは価値が変わったりと、そういうことがあったらしいんですね。ところが塩の価値は一定している。そして、塩自体は保存状態が良ければ変質しないからでしょう。とにかく、不変のもの、変わらないもの、ということで、古代は重宝されていたのでしょう。
 
 そういうこともありまして、ローマに限らずユダヤでも、不変のものと考えられたわけですね。ですから旧約聖書に不思議な表現が出て来ます。参考までにあげますけれども、
 
旧約聖書 民数記第18章19節

イスラエルの子らが主に献げる聖なる奉納物をみな、わたしは、あなたと、あなたとともにいる息子たちと娘たちに与えて、永遠の割り当てとする。それは、主の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」
 
 つまり、神さまからの一方的で無条件で、決して切られることのない、変わらない不変の、きよい、神さまからの、永遠に愛するという約束、契約である、ということですね。
 
 そういったことを縷々述べましたけれども、地の塩といったら、味をつけ、隠し味となり引き立て役となり、腐敗を防ぎ、きよめ、また、不変のものなので、フランシスコ会訳の聖書の注釈には、「会食に用いられる塩は、解くことの出来ない友情の徴とされた」と説明されています。まぁそういった色んな意味が、「地の塩」ということばには、込められている、と理解するといいと思います。
 
 そして次に、世の光、ということですね。山の上にある町は隠れることができません。
 これはどういうことかと言いますと、確かにそれはそうだと思うんですけれども、夜でも電気があかあかと付いていると、あの山の上に町がある、ということは、特に意識もしないでも分かるわけです。でも、当時の感覚は今とは少し異なりまして、もちろん電灯やビルの明かりなんてありませんから、旅人が旅をもし昼間に終えることができなくて、夜も歩かなくてはならなかった場合、次の町まで暗闇の中を歩かなくちゃいけない、こういう時に、丘の上の町に灯りがついている。そういうのを見ると、旅人はほっとするわけですね。エルサレムは小高い丘の上にある町ですから、エルサレムを見ても、旅人は、ここに町がある、と、自分たちの位置も分かったし、人の営みがある気配というのは、ほっとさせるものがあったと思います。
 そういうイメージ、そういう一枚の絵が、イエス様のことばを聞いている弟子たちと、その周りに集まってきた群衆の脳裏に、ありありと浮かんだわけですね。
 
 で、そういうことを言われますと、弟子たちも、群衆たちも思ったでしょうが、私たちにも語りかけられている宣言として聴く時に、
 
「えー!?そんなのめっそうもありません」と、こういうふうに言いたくなるところがあるかもしれませんね。あなたがたは世の光です。こんなこと言われますと、いえいえめっそうもない、私なんて全然光輝いていませんし、目立たない、そんな人生です。
 そして、
 
16このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
 
 と言われても、そんな光なんて私の中にはありません。そんなふうに思われるかもしれません。
 
 そして、先週もお話した通りに、この当時聞いていた人たちはどういう人たちだったかというと、マタイの1章前の、第4章から文脈は続いているわけですね。第4章23節以下のところ、もしかしたらその前の第4章16節以下の、イエス様がペテロとアンデレ、ヨハネとヤコブを、「わたしについて来なさい。人間の漁師にしてあげよう」と呼びかけられて、彼らが網も舟も捨ててイエス様についていったシーンから文脈は続いていると言ってもよいわけですが、こういうところですね。【4:23~25映して、24、25だけを読む】
 
新約聖書 マタイの福音書第4章23~25節

23 イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。
24イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。
25こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。
 
 そういう方たちが本当に、どこが私たち世の光ですか?もうむしろ、暗闇の中に座っている人たち、そういうあなたがたよ、と言われた方がぴったりくる。そういう人たちが「世の光」だ。あなたがたは幸いだ、って先週の説教でも聞きましたね。
 心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。義に飢え渇く者は幸いです。こういうふうに言われて、もう私たちが幸いだ、祝福されている、アシュレー!幸いなるかな!おめでとう!と言われて、どんなにびっくりしたかと思うんですけれども、またまたびっくりのこの続きですね。光なんだ、っていうふうに言われたら、いやいや、私たちなんてそんなことない。目を輝かせて聞いた人もいるかもしれませんれけれども、もう恥ずかしくて穴があったら入りたいというふうに、思った人もいるかもしれません。
 それでそのことを言うだけでしたら、何か口先八丁で、思ってもいないことを言ってしまうホラ吹きのような人だっているかもしれません。イエス様はもちろんそういうホラ吹きではありません。これには深い根拠があるわけですね。そしてこの人たちに対する共感と、あわれみと、深い愛、その人たちのひとりひとりを見つめながら、その人々をそれぞれひとりのひととして、愛する神の子と見ておられる。そういうまなざしが、そこにあります。
 ところが、何かこう納得のいかない、私たちには過ぎた呼び方だと思っていた弟子たち群衆たちに対して、律法や預言者を廃棄するために来たと思ってはなりません。と声をかけられます。
 つまり、ちょっと誤解があったわけです。イエス様はこの時、食いしん坊の大酒のみ、とはまだ人々から言われていなかったと思いますが、律法学者やパリサイ人たちを批判して、あるいは旧約聖書の律法をしっかり守る、ということをやっていない群衆たちに「あなたがたは世の光です」と宣言されたわけです。
 この時代クムラン共同体、というのがありまして、これはエッセネ派というのがここに住んでいたわけですが、~実はエッセネ派、という言葉自体が、聖書に記されていません。なぜかは分かりませんが、聖書の記者が、その派の名前を出さなくても、イエス様の救いの真理を描くのには差支えないと思ったから省いたと言うところでしょう。まぁ当時のユダヤ教三大宗派は、ファリサイ派(つまりパリサイ人のことですね)、そしてサドカイ派、そしてエッセネ派がいたわけですが、その中でエッセネ派が修道院のような共同生活を洞窟なんかでしていまして、その人たちは旧約律法や戒律を厳しく守り、自分たちはきよーいきよーい生活をしている、ということで、自分たちを「光の子たち」と呼んだんです。それだけ自称しても差し支えないくらいの生活をしていたのでしょう。罪を避けて、みだらな生活や、だらけた生活はしないわけですね。
 
 そういうことで、律法をきちっと守っているファリサイ派とか、あるいはエッセネ派とか、そういう人たちに向かって「あなたがたは世の光です」「地の塩です」と呼ぶんなら分かるんですけれど、私たちがそんなね、世の光なんて呼ばれたらびっくりする、やっぱりこの人はモーセ以来の律法を、軽んじるような、そんないいかげんな教えを語るお方なのかな、と弟子たちや群衆の心にちらっと疑問が思い浮かんだところに、イエス様はこう畳み掛けるわけですね。
 私が律法や預言者をーつまりこれは、律法と預言者と言うと旧約聖書全体を指します。ユダヤではそういう言い回しがありますがーそれを廃棄するために来たと思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。成就、満たす、ということですが、
 
18まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
19ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
 
 とこういうふうにおっしゃるわけです。
 ああ、じゃあイエス様はやっぱり、このパリサイ人や律法学者のような方々を、素晴らしい、きよい、塩のような存在であり、また光のような存在であるっておっしゃっているのかな?と思ったところに、こういうふうに畳み掛けるわけです。
 
20わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。
 
 こういうことを、言われるのです。そうするとここで聞いている人たちは立ちすくむ思いがしたと思うんですね。ええ!?それではいったい誰が、天の御国に入ることができるんだろうか!?驚いたと思います。群衆は。私たちも立ちすくむ思いがすると思うんですね。律法学者やパリサイ人といったら当時最高の、モーセの律法だけでは無くて、もうきよいきよい生活をしていた人たち。私たちみたいな凡人には到底到達できないような、でもその義というものの、それにまさる義をもっていなければ、天の御国に入れないと言われたら、私たちも決して天の御国に入れない、ということになるのでしょうか?そういうことも思うんですけれども、しかし、ここの義、というものを考えてみますと、ここでのメッセージを続けて聞かれている方はもうお分かりになると思います。この義、というのは、正義ではなくて、関係の言葉、関係概念のことば、だから正しい行ない、モーセの律法をきちっきちっと几帳面に守っている、ということではなくて、律法学者やパリサイ人にまさる義とは、神の義、神が贈り物としてくださる、神様との良いお付き合いである。ということですね。
 
 で、ここで、最初の気になることばに戻ってみたいと思います。13節の「あなたがたは地の塩です」の後の、
 
13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
 
 こういうことばを聞きますと、私たちは心が痛むところがあると思います。何か最近どんどん日本も、使い捨て社会になっているような気がする。何か最近メディアなどでも沢山出るようになった経済学者を名乗る人が、「高齢者は集団自決・集団切腹せよ」などととんでもないことを言ったりしている。役に立たない者は、生産性のない者は、などと、どんどん人を捨てるような価値観が横行しているように見える。そういうある意味での「世の声」というのがいっぱい、はびこっているんですね。
 それはかつてのナチスの「優生思想」というものと通じるところがあるんですけれども、でもドイツの牧師さんたちはそういうのを、以前から、ちゃんと「時代の霊」というふうに呼んでいまして、「時代精神」とも呼びますけれど、そういうものなんだと。それは聖書の福音とまったく反するものだということですね。どんどんどんどん、人を道具として扱ったり、また、使い捨てていく、ですから一見すると、イエス様のこのことばも、社会の役に立つ人間でい続けなければ、あなたも捨てられるよ、というような、そんなひどいことばにうっかりすると見えなくもない。まさかイエス様がそんなことをおっしゃっているのだろうか?
 ここで語られているのは、そういう昨今はびこっている日本の一部の価値観ではもちろんなくて、実は終末的なさばきのことをおっしゃっているんです。たださばきと言っても、私たちは、ここも福音の光に照らしてここを読むべき聴くべきであるということですね。つまり、先ほど申しました義というのは、神さまからのプレゼントである義である。それが律法学者やパリサイ人の義にまさる義であると。
 それで、よく考えてみます時に、この光というのは、何かと言いますと、イエス様ご自身なんです。何よりも。あなたがたは世の光です。と言われていますけれども、まずはイエス様が世の光であり、地の塩だったんです。
 
 ヨハネの福音書の中では、イエス様ご自身が、「わたしは世の光である」とおっしゃっていますね。この方は光であった、と、福音書記者のひとりヨハネは申します。まさにそうですね。イエス様こそがまことの光です。この方が光としてきたけれども、地の塩として地をきよめ、腐敗から防ぐために来たけれども、世は彼を受け入れなかった。そして最後には十字架につけてしまった。しかしこの方、このイエスという方を受け入れた者には「神の子どもとされる特権をお与えになった!」と、福音書記者のヨハネは申しますけれども、確かにこの世の光として来られた方を受け入れる、私の罪からの救い主として、生けるまことの神、メシア・キリストとして受け入れる、その時に、本当に神の子とされるんですね私たちは。もうすでにされたんです。
 それでこの方がまさに、終末的なさばきで、私たちが世の腐敗とか、そういうのを食い止める塩であるどころか、むしろ私たちが、本当に世の中の色んなしがらみに縛られて、俺には私にはどうしようもないんだ、ってふてくされて腐っていたこともあるかもしれませんけれども、それでも腐らずに、置かれた場所で咲けなくても、そういう時には地にしっかりと根を伸ばして、目立たなくても人知れずじわじわと成長をしてこられた方もいらっしゃると思います。しかし私たちはやはり罪に傾きやすく、どうしても悪意を持ったり、人を憎んだり、人々の間に入って平和をもたらすどころか、首を突っ込んだおかげでますますトラブルを大きくしてしまう、ということもあったかもしれない。
 
 そういうところで、本当に罪ある身であったら、外に投げ捨てられて踏みつけられると言うような、そういうさばきに、終末的な神の怒りを受けるという、こういったことになってしまいそうだったのが、まさに、そのさばきというのをイエス・キリストが十字架の上で代わりに受けて下さったということなのです!
 もう役立たない者、「お前はメシアとして来たんじゃなかったのか?」「革命家として来たんじゃなかったのか?」「お前は俺たちの生活をよくしてくれる、ローマ帝国を追っ払ってくれて、良い政府を建ててくれる、政治的なリーダーとして来たんじゃなかったのか?」「お前みたいな役に立たないメシアは捨ててしまえ」そういった群衆のヒステリックなものが、十字架に付けろ十字架につけろという叫びとなって、イエス様を十字架に付けた。まさにこの方が投げ捨てられ、人々に踏みつけられたわけです。いや人々の怒りだけではない。神を投げ捨てる群衆への、そして私たち罪ある者すべてに対する神の怒りをも、このイエス・キリストというお方がすべて受けて下さって、さばきは終わった!そういうことなんです。
 
 だから十字架の福音の光に照らして読む時、聴く時に、私たちはここが本当に、イエス様が代わりにこれを受けて下さったと言う感謝にあふれるわけです。
 
 そうしまして、世の光、地の塩として私たちが生きる時に、さばきは終わった。私たちに対して、地の塩、世の光になりなさい、ではなくて、すでに地の塩、世の光だと宣言されている、そういう者として生きて行くときに、じゃあどうしたらいいのか?
 目立たないように、引き立て役として、奥に引っ込んで、自己主張しないように生きればいいのか?
 あるいは目立つように、自分に神さまから与えられた賜物、才能、そういったものを輝かせて、社会で活躍すればいいのか?
目立てばいいのか目立たなければいいのか?どっちなのか?と思われるかもしれませんが、しかしこれは、目立つのか目立たないのかではなくて、一つのことだと思います。私たちはすぐに社会福祉、とか、ボランティア、とか、考えてしまいそうなんですけれども、間違ってはいけないのは、それを通して成功者になろうとか、有名になろう、とか、伝記に載るような立派な人物になろうとか、そういうことではないということですね。
 
 ここのみことばをですね、最近は、インフルエンサーになることだと、解釈している方が何人かいらっしゃいまして、―インフルエンザではありません。インフルエンサーとは、ネット、インスタグラムなどのSNSを使って何万人にも拡散される投稿を続けるような人のことをインフルエンサーと言います。―それは面白いって思ったんですけれども、ちょっと違うと思ったんです。
 なぜならインフルエンサーというのは、確かに、それが上手な人がいます。多くの人に自分の投稿を見せるのが上手な人、それでイエス様をたくさんの人に伝えるのは素晴らしいことです。でもそれっていうのは気をつけないとやっぱりこう、私もユーチューブでの伝道やっていて分かるんですけど、数の誘惑っていうのに遭いやすいんです。
 数って言うのに誘惑されちゃうと、これはちょっと危険をはらみます。なぜなら、数をもとめるというのは、コストパフォーマスンということと、タイムパフォーマンスというのとちょっと関わってきます。私もユーチューブの投稿を伸ばして多くの人にみことばを聞いてもらおうと思ったらコスパとかタイパが良くなるやり方をしないといけない。これは一つのワナなんです。うっかりすると、現場の一人の人をケアすることをするよりも、何千人に見てもらうような投稿をすることに優先順位をつけよ、というような誘惑に遭うんですね。しかしそのワナには乗ってはいけない。
 
 たとえばモモというミヒャエル・エンデという人が書いた児童文学作品がありました。ある時、ある町に、時間どろぼう、というのがはびこるんですね。灰色の服を着たこの時間泥棒たちは、ことば巧みに町の人をだますんですね。「時間を節約して、時間銀行に貯蓄すればあなたの時間をもっと効率的に使えますよ」などと言って、人々は、もっと効率の良いくらしをするようになった、しかし、人々の暮らしは、豊かになるどころか、どんどんギスギスして来るんですね。少女モモはその時間泥棒から町の人たちの時間を取り戻すために奮闘するわけですが。
 
 私たちはよく気をつけないと、効率のよくないことを切り捨て続けると、しまいには効率のよくないであろう人との時間を切り捨てるようになってきかねないんです。たとえばシャカリキに働く夫がですね、妻と子供と一緒にゆっくり過ごす時間と、家賃やら何やらを払うお金を捻出するために、一つでも多くの仕事をしようとした結果、一番タイムパフォーマンスが悪いと思われる、わが子と遊ぶ時間を切り捨てて、仕事をする。こうしますと、なんでこんなに働いているのに、いつまで経ったら家族との時間が持てるんだろうか、となるわけですね。そういう罠にかかる。こういうタイムパフォーマンスの罠にかかって、それをずっと続けていますと、だんだん、人間性を失っていって、しまいには人を切り捨てる人になって行く。それが、今、まさに、日本のあちこちでも表面化している、高齢者切り捨てとか、障害者切り捨てとか、マイノリティ切り捨てとか、そういうこととも実は深い所でつながっているんです。
 
 しかし、たとえば、「暴力の世界で柔和に生きる」という本の中で、障害者と共に生きるコミュニティである「ラルシュ共同体」について、ジョン・スゥイントンという神学者がこういうふうに書いています。「もっとも大切な時間があることを、このラルシュ共同体のメンバーは知っている」と。スゥイントンはこう言います。
 
そこで発見するのは、「この世界をもっとよい場所にするとは約束してくれない人たちへのケアの時間、自分の地位のために貢献するとは約束してくれない人たちと共にいる時間、物事がいつも『適切に』運ぶとは約束してくれない神に、ただ心から喜びをもってささげる礼拝へと足を踏み入れて行く時間、そして、主が再び来られるまで忍耐をもって待ち望む時間」です。
 
 ですから、たとえば障害者であったり、そういう人との時間は、人間を人間にしてくれる、そういう大切なものである、ということなんです。
 そういう価値観というのは、世の価値観と対立します。逆の価値観とも言ってもよいかもしれません。ですからクリスチャンが、地の塩、世の光として生きることは異質な者として生きると言うことです。アメリカの牧師たちは、このことを「レジデント エイリアンズ」と言いました。エイリアンと言ったら宇宙人みたいですけれども、侵入者という意味ですね。異質な者として、世に居住している人という意味です。世の中に、別の価値観を持つ者として溶け込んでいる。
 世の中が効率とか能率とかばかりを求めすぎて、効率の悪い人間は捨ててしまえ、価値が無い、生産性がないなどと言って世が腐敗しているところに、「それは違う」ということを、ことばにおいて、行動において、静かに証しし続けること、光として―おそらくそれは多分ぎらぎらした光では無くて、旅人が山の上にぼんやりと暖かく光る町の灯りを見てほっとするような光を、内にたたえた者として―そこに居続けること、それがとっても大事なことであるということです。橋にも棒にもかからないと思っていたこの私のために、神の子たる尊いお方が、いのちさえも捨てて下さった、あなたのためにも神の子たる尊いお方が、いのちさえも捨てて下さった、そしてあなたを決して離れず、あなたを捨てないと言ってくださっている―これが永遠の塩の契約、新約においてはイエス・キリストの血による新しい契約ですが―そんな神の前に、あなたのいのちも高価で尊いんだという、神はあなたを決して捨てないんだという、世の中の誰がどう言おうとそれは揺るがないことなんだ、と。神無き世界に、灯台のように、その光を放っていくことだからなんですね。
 
 むすびに、そのことをよく表す、ある牧師先生が、話をしていらっしゃいましたことをそのまま紹介いたします。
 30歳の時に、初めて主任牧師としてある地方の教会に赴任して、同時に、光園という幼稚園の園長に就任された方の話です。今から数十年前の話だと思いますが、その先生が、牧師と園長に就任なさって3年目の話です。その教会での初めての葬儀のことだったそうです。
 亡くなったのは、14歳の少年で、そこの光園の卒園生だったそうです。その男の子が、かつて光園に入園したのにはわけがありました。
 お母さんがある日、その少年を連れてきて、前任の牧師先生夫妻のところで、
「先生、この子を受け入れてくれる幼稚園はどこもありません。でも、私はこの子を他の子たちと同じように幼稚園に入れて、皆と一緒に生活をさせてやりたいのです。どうぞこの光園に入れて下さい。できるだけのサポートはします」と言って、そうして光園に入園して来られたそうです。
 彼は、入園しても、みんなと同じ行動をとることはできません。生まれてから、大人たちや、おともだちが理解できる言葉を発したことは一度もありませんでした。けれど彼が光園でみんなと一緒に生活するということにおいて、その少年は確かに、光園の一員であり、そして皆の仲間だったのです。
 その少年が、14歳の時、病を得て亡くなりました。その葬儀の時、その少年の保護者と一緒に、自分の娘を通わせていた保護者であり、教会の役員でもあった方が、こう弔辞を述べられました。お別れの挨拶です。
 
彼は、生まれてから今まで、僕たちが理解できるようなことばは、ひとことも発しなかった。けれども、彼が生きて、ここで一緒に遊び、そして僕たちの間で、さまざまなことをして体を動かし、僕たちと一緒に過ごす中で、たくさんのことばを伝えてくれた。そうやって、彼が僕たちの間に生きていたことを、私たちは決して忘れない。神さまに愛されて、神さまがここに置いてくださった子供であったということが、僕たちにとって本当に大きな支えだった。
 
 そうお別れのことばを語って下さいました。その時私は、光園というその幼稚園の園の名前の由来が分かったような気がしたんです。
 
 こう、その牧師先生は話を結んでいらっしゃいました。まさにこれが、世の光として、地の塩として生きることでありましょう。
 皆さんはすでに、地の塩、世の光です。主イエスがそう宣言されています。その宣言を生きる。今日もあすも、あさっても、神のくださった大切ないのちを、主イエスのくださった光の中を、歩んでまいりましょう。
 
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様はこの暗闇の世、暗闇の地に、光を送って下さいました。
それは他ならぬ、あなた様の愛するひとり子、イエス・キリストです。
この方によって、私たちは救われ、あがなわれ、あなたのものとされました。
暴力的な世界において、柔和に生きるために、私たちは、あなたの愛の光の中を歩みます。効率と能率の世の声に繰り返し流されそうになりますが、本当にたいせつな時間とは何なのかということを、繰り返し私たちの心に思い起こさせて下さって、その暖かい光を、世の人々と、分かち合い、祝い合う、そのような生き方を、私たち一人一人にさせて下さいますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

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