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モーセは虐殺を許さない、について〜モーセはエジプト人だった?ユダヤ教はエジプト王の一神教がもとになっている?〜
*単に個人的な備忘録的にざっと書いた文です。
これは高知新聞の1月29日の記事です。
私は以前より、ガザのことに心を痛め、ストップジェノサイド、即時停戦を訴え、これまで7本のパレスチナ関係の動画配信を含め発信して来ました。
この記事も「各地で出会った静かなパレスチナは、こんな占領は許せないと告げている」と結ばれていて、私も大賛成であるし、この記事の概ねに賛成し、虐殺反対の声を高知新聞にあげてくださって心から感謝しています。
しかし一点、違和感があり、次に拡大画像をアップしますが、フロイトの説のくだりです。
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フロイトはモーセがヘブル人ではなく、エジプト人であったと言い、一神教であるユダヤ教は、エジプトのイクナートン王(別名アクエンアテンもしくはアメンホテプ4世)が創造した一神教を継承したものであるというユニークな説を唱えています。
実は私は、ひょんなことからこの記事をお書きになった精神科医で作家でいらっしゃいます先生と直接電話でお話しすることになり、その時どうもお話の内容に違和感があったのですが、はっきりとした反論はできず、「何かが変だ」という漠然としたモヤモヤがあったのです。
その違和感を、やっと言語化できましたので、2つのポイントで、備忘録的にざっと書いてみたいと思います。
①フロイトの説の信憑性はどうか?
フロイトの説についてですが、山我哲雄著の「一神教の起源」の中でも触れられています。少し引用してみたいと思います。
【フロイトの果敢で天才的な推測にもかかわらず、今日では、アクエンアテンの宗教改革とイスラエルの一神教の直接的関係は、ほとんどのエジプト学者と聖書学者、イスラエル史学者の双方から否定されている】(p45)
【アクエンアテンの宗教改革とイスラエルにおける一神教の成立は、時間的にも地理的にもより隔たっていた可能性が高い】(p45)
イクナートン王(アクエンアテン)の一神教と、ユダヤ教の一神教を結びつけることは、無理があるということでしょう。
またフロイト著の「モーセと一神教」を見てみたいと思います。これは、モーセがエジプト人であったという発想自体は大変面白いのです。
ただ、たとえば同書のp137の「モーセの果たした役割」の項の中で、
「イクナートン王の側近に、おそらくトトメスと呼ばれる人物がおり、このトトメスに始まる名前の最後がモーセで終わっていたに違いない」
と(「おそらく」や「違いない」を混ぜながら)述べ、この人物がモーセである、のように論を進めており、筋としては通っているように見えるものの、全体がどこまでも、憶測を膨らませたものか、あるいは憶測を混ぜながら繋いだものであるかのような印象を拭えないでしょう。新聞記事では、フロイトの論を「極めて論理的」と書いていますが、本当に論理的かどうかは疑問符が付くところでしょう。
さらにモーセがヘブル人では無かった根拠についてですが、この名はヘブル名ではなく、エジプト語由来なので、エジプト人であったというのがフロイトの論では大筋ですが、名前がエジプト名であってもエジプト人だという根拠にはなりません。ここにヘブル語聖書(旧約聖書)、出エジプト記の該当箇所を載せておきましょう。
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聖書協会共同訳ですが、ファラオの娘がモーセと名付けたことになっています。たとえヘブル人であってもエジプトの王宮で育てるのならば、ということでエジプト語に由来する名を付けようと考えたならば、ごくごく自然なことと思われます。
②フロイトの説を挟むこと自体は、一見関係あるようで虐殺反対に繋げることに無関係ではないか?かえって一神教の読者を無用に傷つけることになるのではないか?
このフロイトの論は、さらに進めていけば、ユダヤ教を攻撃または否定する方向に用いることができるものだと思います。さらにユダヤ教のみならず、キリスト教、イスラム教の3つ、いわゆる「アブラハム宗教」の根幹を否定することに繋がりかねず、もし虐殺を止めることだけに焦点を置くなら、ユダヤ教超正統派がガザでの虐殺に反対しているその精神的支柱にも、またパレスチナの人口の約92%と言われるイスラム教の人々の精神的支柱にも攻撃を加える方向にも行きかねません。
虐殺を進めているのは本当のユダヤ教ではなく、ユダヤ教を悪用するイスラエルの政府でしょう。虐殺に反対するのに宗教の否定(にも見える論)を途中に入れる必要性は何も無いのではないか?と私個人は思います。
そして人にとって、自らの宗教を否定されることは(この論では否定まではあと一歩で行っていませんが)、先ほど精神的支柱と申しましたが、その人のナラティブ(物語・語り)を否定されることだと言い換えても良い部分があります。
たとえば、ある国がある人々を支配する。その時に支配する国がよくするのが「同化政策」で、今までの言葉を使うことを禁じ、その国の言葉を強制的に教えるなどをして、「言葉を奪う」ということです。
その「言葉を奪われた」人々は、その人々のナラティブ(物語・語り)を奪われます。ある国のある地域では、それによってアルコール依存症などの精神病が蔓延したといいます。
それと同じように、民族や宗教のアイデンティティに関わることを否定されるのは、実はパレスチナ人が土地を奪われて自らのアイデンティティ、またナラティブを奪われることとも、どこかで似ているのかもしれません。
むしろこれまで、アイデンティティを脅かされ続けてきた人々が、今度はパレスチナ人のアイデンティティやナラティブを破壊しようとしている、という見方もできるのかもしれません。いずれにせよ酷く悲しいことなので、私も虐殺に反対いたします。