【文書版】✴️礼拝メッセージ「闇を切り裂く平和の福音の光」新約聖書 マタイの福音書第4章12~23節
✅先日2023年1月22日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✴️礼拝メッセージ「闇を切り裂く平和の福音の光」
新約聖書 マタイの福音書第4章12~23節
12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
13そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
14これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
15 「ゼブルンの地とナフタリの地、
海沿いの道、ヨルダンの川向こう、
異邦人のガリラヤ。
16 闇の中に住んでいた民は
大きな光を見る。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に
光が昇る。」
17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
18 イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
19イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
20彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。
21イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。
22彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。
23 イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。
主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
少し前の話になりますが、10日ほど前ですね、統一協会の日本の教団の田中会長が、1月11日、非公開のオンライン式典に参加して、成年信者たちを激励しているんですね。その中で、ここ数カ月の報道などによる統一協会批判などは宗教迫害だと、そんなことを言っているんですね。
田中会長は青年信者らに向け、「2023年は、日本でキリスト教に対する宗教迫害が始まったと言われる1623年から、ちょうど400年目。―キリスト教ではないのにこういうことを語らないでほしいとは思うわけですが―宗教迫害の絶頂を迎えていく2023年と覚悟して、挑戦していかなければならない。我々がぶれない限り、サタン側が必ず崩れていく」と発言しました。
という、自分たちがしてきたことへの反省の色が一切、少なくとも発言の中からは読み取れないわけですが、それどころか、自分たちが被害を受けている側だと言っているわけですね。
それから、こうも述べています。
文鮮明氏はひと言だけ教えてくれました。それは「ために生きる」なんです。―「ために生きる」は統一協会の中でよく言われる教えなんですが―、人のために生きた方が、絶対喜びは大きいんだ、と言っているのですが、その「人のために生きる」というのが、被害者の人や、2世信者の人の苦しみを取り除くために、というのは一切ないように思えるわけです。むしろ、教祖や教団の【ために】、家も土地も財産も全部なげうって生きる、ということをやらせているように見えます。
ある、M牧師というプロテスタントの牧師先生は、こう言っています。
統一協会のようなカルトは今回のような(というのは今日のマタイ第5章の「人間をとる漁師」などの *括弧内田村)箇所を用いて、信者が全財産を投げ出したり教団の活動に時間のほとんどをささげたりすることを求めます。しかし、その動機はイエスさまに一方的に愛され、守られ、導かれているという喜びではありません。
というコメントですね。確かに今日のみことばはそういうふうに悪用できてしまいそうな箇所でもあるんです。
19イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
20彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。
21イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。
22彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。
とあります通りに、イエス様の呼び声に応えて、この弟子となったペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネが、すぐに、網も、舟も、父親も、すべてを捨てて、イエス様についていく、まぁ仕事も捨てて、家族も離れ、フルタイムのイエス様の弟子としての活動を始めるところですね。
こういう全てを捨てて、言わば日本風というか仏教風に言えば、出家のようなかっこうで、すべてを捨てて、イエス様についていく、ということは、何か「親泣かせの原理運動」や、かつてのオウム真理教の出家のような、変な連想を、今の世間の空気の中ではしてしまいそうです。人間をとる漁師、というのは、非常に印象深いことばです。それこそ、一度聞いたら忘れられない。そういうことばですが、一方で、うっかりして変な取り方をしてしまいますと、何か怖い、人を魚扱いするのもひどいし、人間を生け捕りにする、うまく戦略をもって網をしかけて、ことば巧みに誘い込み、教会に引き込んで行くことを言っているのだ、というような、もちろんこんな取り方は間違いなんですけれども、そこまで極端な取り方を昔も私はしていませんでしたけれども、何年も前から、イエス様はここで乱暴なたとえをしているんじゃないか、何か人を人間扱いしていないような、何か教会の外の人を、いわば教会の”業績”のための、あるいは組織維持のための道具にしているかのような言葉じゃないかと疑問に思っていたんですが、それは私の受け止め方の間違いでした。
というのは、この箇所の原文では、「とる」という言葉が無いんです。人間をとる、の「とる」というのは言わば補足でして、人間たちの漁師、人間たちのための漁師と言ってもいいでしょう。生け捕りにするわけですが、生き物をつかまえる時どうでしょうね。もちろん、イノシシなどを捕らえる時、ボタン鍋にするとか、捕って喰らう、ということがあるわけですよね。しかし、ある先生がここについて解説していまして、動物園などであれば、脱走した動物を生け捕りにする場合、安全な場所に移して、保護や食べ物や必要な治療を与えるために捕らえて連れ戻すわけですよね。むしろそういったのに近いニュアンスなのだと、書いていらっしゃいました。まさにそうだと思います。神様のなさることというのは。
でも動物園のたとえですと、イエス様に捕らえられる、と言ったら、なんだか窮屈だな、と思われる方もあるかもしれません。やはり動物園のたとえでも不十分でして、窮屈なイメージがあるわけですね。しかし、このイエス様に捕らえられたら、真理はあなたがたを自由にします、と聖書に書いてある通りに、それまで縛られていたものから解放されてもっと自由になってしまうんですよね。ですから、信じた後の方が不自由になる、というのは、福音からしたら、何かがおかしいのかもしれません。
それで、どういう人がイエス様に捕らえられて、保護と養いを受けつつ、解放されて、自由にされるかというと、これは、(15~16節を映すだけ)
(以下読まないでスクリーンに映す)
15 「ゼブルンの地とナフタリの地、
海沿いの道、ヨルダンの川向こう、
異邦人のガリラヤ。
16 闇の中に住んでいた民は
大きな光を見る。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に
光が昇る。」
「闇の中に住んでいた民」そして、「死の陰の地に住んでいた者たち」これは旧約聖書イザヤ書第9章の引用でして、預言者イザヤが昔このことばを使った時の、「闇の中に住んでいた民」「死の陰の地に住んでいた者たち」というのは、戦争の深い傷を受けていた人たちなんです。その人たちに光が上った、と言っている。しかしマタイは、それは何も戦争の深い傷を負った人に限定しないで引用しているんですね。ゼブルンの地とナフタリの地と言っていますが、それだけでは何のことか分かりにくいので、地図をご覧になれば分かりやすいですね。
ということで、ゼブルンとナフタリというのは、イエス様時代には、もう行政区としては存在しなかったはずですが、だいたいイエス様時代のガリラヤ全体を指すことがお分かりになると思います。このガリラヤというのが、まぁエルサレムなどの中央に住んでいる人びとからすれば、異邦人のガリラヤ、と呼ばれて見下げられていました。というのは、単に「田舎者め」と見下されていたのではなくて、この土地は、かつて外国からの入植によって雑婚をさせられて、多くの人が異邦人の血が混ざっている土地なんですね。選民意識の強い、純粋な、いわゆるきっすいのヘブルじんにとっては、「けがれた異邦人なんかと結婚をして、筋を曲げて堕落したやつらの住む土地だ」ぐらいに思われて差別されていた、という言い方もできるわけですね。
そういうところに、光が昇った。この光とは、イエス様のこと、あるいは福音のこと、と取ることができますが、まさに、そういう、しいたげられていた土地に住む人びと、そこにまっ先に光が来た!ってマタイは言うんです。
イエス様が宣教活動を始められる、と言ったら、普通に考えたらですよ、エルサレムなどの中央から宣教活動を始めるでしょう。なんと言っても人数が違いますから効率がいいでしょう。エルサレム神殿もあります。新しく活動を始めるには都会がもってこいでしょう。しかし、イエス様は、このガリラヤから宣教を始められた。それは、イエス様が、虐げられていた人に優しかった、ということはもちろんありますけれども、マタイはその理由じゃないんだ、っていうんですね。これは、イザヤ書の預言の成就なんだ、と。つまり、イエス様こそが、約束された救い主・メシアであり、人となられたまことの神であり、神の国を実現させるお方である、ということを読者に語りかけるわけです。
それで第4章17節のことばですけれども、
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
この天の御国とマタイは書いていますけれども、実際は「神の国」なんですね。マタイはユダヤ人向けにこの福音書を書きましたから、ユダヤ人は、神の御名をみだりに唱えてはならない、ということで、神、ということばを口にすることを畏れて避けるので、天、というふうにマタイは福音書の中で言い換えているんです。ですからイエス様は実際は「神の国」とおっしゃっていたと思いますが、さらに、この悔い改めなさい。ということば、これは以前にも申し上げましたけれども「反省せよ」ではなくて、「立ち帰れ」というニュアンスなんですね。「帰っておいで、神のもとに帰っておいで」そして、天の御国が近づいた、ということばも、近づいているけれどまだ来ていない、ではなくて、ちょうど、電車が来た!という表現なんですね。ですから「近いけれどまだ来ていない」ではなくて、神の国、つまり神の恵みのご支配は、もうここにおいて、すでに始まっているんだよ、とイエス様は宣言されたわけです。
そういったことを、縷々説明いたしましたけれども、私が先週からこの箇所のみことばを黙想していました時に、やはりこのことばが特に心に留まったんですね。
(読まないでスクリーンに映す)
15 「ゼブルンの地とナフタリの地、
海沿いの道、ヨルダンの川向こう、
異邦人のガリラヤ。
16 闇の中に住んでいた民は
大きな光を見る。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に
光が昇る。」
「闇の中に住んでいた民」「死の陰の地に住んでいた者たち」。もちろん、それぞれの方が、心に留まったみことばは、それぞれ異なるでしょう。それで、もちろん良いわけですね。
でも私がですね、今回ここに心が留まったのは、聖書ってほんっとうに不思議な書物ですよね、去年、もしくは数年前に同じ個所を読んでいたとしても、心惹かれる、心が留まることばというのは、毎回違うんですね。これが聖書を読む時の面白さでもあるんですが、その時の心の状態であるとか、人生のどのシーンを歩んでいるかなどによっても、毎回新鮮に神さまからの語りかけが聞こえてくるわけですね。
でも今の世界であれば、この「闇の中に住んでいた民」「死の陰の地に住んでいた者たち」ということばに心惹かれる人も結構多いのではないかと思います。日本でもそうですね。私たちが置かれている状況がまさに闇だと。宗教の皮をかぶったカルト団体がはびこり、コロナは過去最大の死者数になっている。そして政治は、カルトと手を切ることをせず、さらには、大規模な軍拡をしようとしていて、ますますキナ臭くなっている。おまけに、そのために増税や社会保障の縮小なども含めて、国民の経済状況は、急速に厳しくなっている。これは闇の中に住んでいるようだ、って、そう感じる方も多いかもしれない。
しかし、まさにそういうところに、主イエスは来られた。光として来られた。どういう光として来られたか。これは、やはり、このマタイが引用した、イザヤ書第9章に戻って考えることが必要です。イザヤ書第9章をお読みします。
旧約聖書 イザヤ書第9章1~2節、5~7節
1しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。
先にはゼブルンの地と
ナフタリの地は辱めを受けたが、
後(のち)には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、
異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
2 闇の中を歩んでいた民は
大きな光を見る。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に
光が輝く。
5まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。
6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、
その名は「不思議な助言者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
ダビデの王座に就いて、その王国を治め、
さばきと正義によってこれを堅く立て、
これを支える。今よりとこしえまで。
万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
いかがでしょうか?お気づきになった方もいらっしゃると思いますが、クリスマスあるいは、その前のアドベント・待降節によく読まれる箇所です。このひとりのみどりごが私たちのために生まれる、というのは、イエス様の誕生の預言です。赤ちゃんイエス様がマリアとヨセフのところにお生まれになったのが、この預言の成就ですが、預言者イザヤは、こういうメシアが、ダビデ王の子孫としてお生まれになる、ということを、究極的には語っています。それが実現しているわけですね。そして、そのメシアとは、平和の君、と呼ばれる、と。君というのはプリンスの意味ですね。その平和は限りなく。とこしえまでその王国を治める、神の国を治める、ということです。そして、私たちの心にもう一つおそらく留まるのは、5節だと思います。
5まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。
戦場で履いたすべての履き物とは軍靴、軍の靴と書いて「ぐんか」ですけれども、そして血にまみれた衣服というのは軍服ですよね、それらが焼かれて火の餌食となる。つまりいらなくなる。平和の王が来られるから。こういうことをイザヤは言っているわけです。
まさにその通りで、イエス様は、あのエルサレム入城でも、そのように平和の王としてお入りになりました。王様の入城といったら、剣でも腰に帯びて、立派な背の高い軍馬に乗って、お城の門にお入りになるかと言ったら、ロバに乗って、しかも雌ロバの子の子ロバに乗って、お入りになった。ユダヤの人々は、平和の君、というメシア預言は頭にあったでしょうけれども、それはよく分からないけれど何か不思議な力でローマ兵たちや総督を追っ払ってくださって、ユダヤの独立王国を打ち立ててくれる、かつてのダビデ王さまのように、戦いに強い神の国の王、メシアだ、と思っていたんですが、そうではなかった。魂の王としておいでくださった。そしてその最後は十字架でした。
先週、すべての暴力は、恐れ、から来ている、という、ジャンバニエの言葉を引用しました。まさにその通りだと思います。イエス様が十字架につけられたという暴力は、祭司長や長老たちのねたみによる、とも言われますが、根っこはやはり、恐れだとも言えると思います。ねたみっていうのも、その根っこにある恐れと深くつながっているでしょう。なぜなら、祭司長や民の長老たちは、イエス様をねたんだわけですけれども、自分たちにはできない奇跡ができるとか、自分たちにはできない見事な答えをするような知恵があるとか、それもありますけれども、イエス様が民衆の人気をどんどん奪っていく、ということは、自分たちの立場がなくなる。既得権益を失って、しまいには食べていかれなくなってしまう。そういうことを恐れたでしょうから、非常にイエス様を憎んで、そして、どうにかして殺すことはできないかと狙っていたわけですね。不安要素になる人物を消してしまうことによって、安心安全を確保しようとしたわけです。
そういう暴力に対して、イエス様はどうなさったか。イエス様であれば、天から天使たちの軍勢を呼び寄せて、ユダヤ人の権力者たちも、ローマの兵隊たちもやっつけてしまうことだってできたでしょう。しかし、イエス様はそうはなさいませんでした。毛をかる者の前の羊のように、まさに神の小羊として、犠牲の小羊として、黙って十字架に自らおかかりに行かれました。まさにその背に一身に、人々からの妬みも、ひがみも、民衆の十字架につけろ十字架につけろというその叫び声も、世界中のすべての罪を一身にお受けになって、いや私たちの罪をその背に一身にお受けになって死なれました。その身代わりの死によって、裁かれるべき私たちの罪はすべてゆるされ、永遠のいのち・天国の約束が与えられました。この方への懲らしめによって、私たちの心に平和が、神との平和が与えられました。
それで、この罪のゆるしと永遠のいのちという福音の光が、今、暗闇の中に、死の陰にすわっていた私たちのところに、昇りました。それで主イエスの招きの声を聞くわけです。
人間を生かす、人間のための漁師にしてあげよう。わたしについて来なさい
この福音の光でもって、人々を生かしていくんだよ。わたしについて来なさい。
このイエス様について行く、ということ、これはどういうことを意味しているでしょうか?
カトリック教会においては、ここのみことばは、召命と献身、の箇所とされています。向こうでは「召し出し」という言い方をしますね。一般信徒から、修道士、修道女、あるいはやがて司祭・神父さまですね。そういう者になるために、献身をする、すべてを捨てて、イエス様についていく道を、イエス様の呼び声に答えて歩んで行くときに聴くみことばだとされていますし、プロテスタントにおいても、牧師になるために、フルタイムで主の働きをする献身者を募るような集会・聖会においては、よくこの箇所が選ばれます。
確かにそれらは素晴らしいことですし、適切なことでもあるんですけれども、しかしプロテスタントにおいては、いやプロテスタントにおいてはというよりは、聖書そのものがそう言っているんですけれども、「万人祭司」なんですね。ルターがそれを発見したわけですけれども、「万人祭司」というか正確には「全信徒・もしくは全受洗者祭司性」ですね。制度の制ではなくて性質の性です。すべての人は神に呼ばれていて、洗礼を受けるということは神によって世から召し出されて、神さまの働きに任職するということだからです。
どういう働きなのか、それは、神さまの罪のゆるしと永遠のいのちの神の平和の福音を伝えて行くということですが、もちろん家族に、友人知人にあなたはイエス様の十字架によってゆるされたと伝えて行く、また福音が語られる教会・礼拝にお連れする、ということはよく語られることですが、主の平和を広めて行く、という意味で、時代の預言者として、選挙に行くほかにも、声明を出したり、署名を集めたり、言論活動をしたりと、平和的な方法で、政治に働きかけて行く、そういうあり方も、大変大事です。それらは、ことばによって、壁を叩いて行く方法ですね。
しかし、障害者と共に生きるコミューンであるラルシュ共同体を作ったジャンバニエによれば、壁を叩くよりも、底辺から始めて行くことだ、と言うんですね。底辺から始まる平和が、広がって行くのだ、ということですね。
カトリックの司祭である、ヘンリーナウエンが―最近カトリックの引用が多くなってしまっているんですけれども―ナウエンも、ある時期から、ラルシュ共同体で働いていた、というより、そこで障害者と「共に暮らして」いました。そこでの素晴らしい体験を、「愛されている者の生活」という本の中で、「祝福」というカテゴリーの中で紹介していらっしゃいました。こんな文章です。
私には、だんだんと気づかされてきたことがあります。それは、私たちはとても 恐れ、心配し、不安定な存在であるがゆえに、祝福を必要としているということです。子どもは親からの祝福を必要とし、親は子どもからの祝福を必要としています。
私たちはすべて、すなわち、師と弟子、教師と生徒、司教と司祭、医者と患者のあいだで、互いに祝福を必要としているのです。
(中略)
祝福を与えるとは、相手を承認するという、私たちが他の人に提供できるもっとも重要な行為です。 それは、称賛や感謝の言葉をかける以上に大切です。 その人の才能や功績を目立たせてあげる以上に大切です。 その人が脚光を浴びるようにさせる以上に大切なことです。
祝福するとは承認することであり、その人が「愛されている存在」であることを肯定することです。いえ、それ以上の意味があります。
(中略)
祝福することは、相手が本来持っている善きものに触れることです。そして彼、あるいは彼女が、愛されている存在であることを表舞台に引き出すことです。
つい最近のことですが、私の加わっているコミュニティで、 祝福の持つ真の力を体験する忘れがたい出来事がありました。私たちの住んでいるハウスで、 祈祷礼拝を始める少し前のことです。 ハンディを負った仲間の一人であるジャネットが、私にこう言いました。
「ヘンリ、私を祝福してくれる?」 私はそれほど深い考えもなしに、いつものように親指で彼女の額の前で十字を切りました。すると彼女は、喜ぶどころか激しくそれに抵抗し、 こう言いました。 「いいえ、それじゃあだめ。私、本当の祝福が欲しいの!」 私はそのとき、彼女の要望に儀礼的に応じてしまった自分にハッと気づき、こう言いました。 「そうでしたか。それはごめんなさい。 ...... じゃあ、みんなが集まったときに、本当の祝福をしてあげましょう」 彼女はニッコリとうなずき、私から特別なことを期待していることが分かりました。
その晩の祈祷礼拝のあと、三十人余りの人がフロアに円くなって座っているとき、私はこう言いました。 「私はジャネットから、特別に祝福して欲しいと頼まれました。 いま、彼女はそれをして欲しいと願っています」 私がそう語った時点も、彼女がいったい何をして欲しいのか分からないままでいました。
しかしジャネットは、私に迷っている暇を与えてくれませんでした。というのは、「私はジャネットから、特別に祝福して欲しいと頼まれました」と私が口にするなり、彼女は立ち上がり、私に向かって歩いて来たからです。
私は、肩から手まで覆うほどのたっぷりとした袖のついた白いローブをまとって いました。するとジャネットは、自分の両腕を私の身体にまわし、頭を私の胸にもたせかけました。思わず私は袖で彼女を覆いました。すると彼女はローブの中にくるまれ、すっかり隠れてしまうような形になりました。
互いに相手を胸に抱いた状態で、私はこう言いました。 「ジャネット。 私は、あなたが神に愛されている娘であることを、あなたに知って欲しい。あなたは神の目に尊い。あなたの美しい微笑み、いっしょに住んでいる人に対して示す親切、またあなたがしてくれるすべての善いことは、あなたが何とすばらしい人間であるかを教えています。 あなたは最近、 少しがっかりして、心にいくらか悲しみがあることを私は知っています。 しかし、自分がどういう者であるかを忘れずにいてください。 あなたは特別な人です。 神から、またここにいるすべての人から深く愛されている人です」
私がこの言葉を話している最中、ジャネットは頭をもたげて私を見ました。 彼女の顔に浮かんだこぼれんばかりの微笑みは、この祝福に本当に心から耳を傾け、受け止めていることが見て取れました。
彼女が、私から離れてもとの場所に戻ったとき、ハンディを負っているもう一人の女性のジェーンが手をあげて言いました。 彼女は立ち上がって近づいて来て、私の気づくまもなくその顔を私の胸に埋めました。私が彼女に祝福の言葉を述べ終わると、他のたくさんの仲間がそのあとに続きました。 彼らも同じように祝福を受けたいというのです。
その次に、もっとも感動的な瞬間が訪れました。 この光景を見ていた二四歳の大学生の介助者(アシスタント)が、手をあげてこう言いました。
「私もいいでしょうか」
「私も祝福して欲しい」
「もちろんだよ。いらっしゃい」
彼はやって来ました。私たちは互いに向き合って立ち、私の腕を彼に回し、こう言いました。
「ジョン。あなたがここにいることは素晴らしいことです。あなたは神に愛されている息子です。あなたの存在は、私たちすべての喜びです。 ものごとが困難で、生きることが耐えがたく思えるとき、永遠の愛であなたが愛されていることを、いつも忘れないでください」
私がこの言葉を言い終えると、彼は目に涙を浮かべながら私を見つめ、こう言いました。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
その晩、私は、祝福すること、そして祝福されることの大切さを知らされ、それが、愛されていることの真のしるしであることを改めて思い知らされました。 私たちが与え合う祝福とは、あらゆる永遠不滅なものを私たちの上に留め置くことを表現するものです。 それは私たちの真の自己を、もっとも深く承認することです。
(中略)
私たちは、祝福され続けることが必要です。それは、私たちを決して捨て去らない愛の神に私たちが属していることを、これまでにない新しい仕方で聴き取れるようにさせるばかりでなく、私たちの生活の一歩一歩が、愛によって導かれていることを、いつも思い起こさせてくれるものです。
もう、私が多くを語らなくても十分でしょう。ここまでするためには、私たちにはなお時間と修練が必要でしょう。しかし、お互いに祝福し合うことによって、平和の福音、和解の福音の光を、暗闇に住む人びとに届けて行くというのは、まさにこういうことなのです。お祈りをささげます。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神。
暗闇に住んでいた人びと、死の陰にすわっている人びとに、光が昇った。本当にたくさんの人びとが、暗闇と死の陰におります。感染症などによる恐れが広がり、恐れから衝動的に、世の中が動いているように思います。その中においても、祈りと沈黙の中で、主イエス・キリストイエスの罪の赦しと永遠のいのちがもたらす安心、魂の平安を、祝福しあうことによって、届けることに、私たちがなお習熟していくことができますように、キリストの平和が、私たちの心のすみずみにまで満ち溢れますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
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