【文書版】*家父長制とミソジニー、学校教育等についても少し語ります。✴️礼拝メッセージ「御霊と真理によって」新約聖書 ヨハネの福音書第4章5~34節
✅遅くなりましたが、先日2023年3月12日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✴️礼拝メッセージ「御霊と真理によって」
新約聖書 ヨハネの福音書第4章5~34節
5それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
8弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
9そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
10イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
11その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
12あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
13イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
14しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
15彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
17彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
18あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
19彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
20私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
21イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
22救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
23しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
24神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
25女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
26イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。
28彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。
29「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」
30そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。
31 その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。
32ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」
33そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」
34イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。
主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
昨日、私は、小西二巳夫(ふみお)先生という高知の清和学園の校長先生の講演会を聞きに行ってきました。「キリスト教から教育を考える」という題でした。
この小西二巳夫先生は、清和学園に来る前に、敬和学園という、確か新潟の高校の校長先生をされてきた先生でして、2003年から校長先生だったそうですから、清和と合わせて、20年間、校長先生として、教育に携わって来られた方です。大変興味深いお話の数々をうかがえました。
それで、ちょうどその昨日の講演会の日は、あの東日本大震災から12年の日だったんですね。そのこともあって、敬和学園もその年には無関係なわけでは無かったわけですから、その震災のことも触れながら先生はお話してくださいました。
その印象に私が残ったのは、「津波てんでんこ」と自己肯定感というものでした。それで、当時、まぁ中高というよりは小学校などでこういうことがあったそうです。東北の学校でも、被害に遭った児童が多かった地域と、少なかった地域が分かれる、というんですね。ある地域の学校では、多くの児童が津波の被害に遭った。しかし、ある地域の学校は、ほとんどの児童が津波の被害に遭わなかった、っていうんですね。それは、なぜ遭わなかったかというと、津波の時には、てんでんこって、皆さんもきっとお聴きになったことがあるんじゃないかな、と思いますけれども、てんでんこ、って「各自」とか「めいめい」という意味です。津波の時にはとにかく人のことを心配するのはとりあえずやめて、あの人はきっと誰かに助けられて避難していると信じて、とにかく自分の身を守るように、自分で考えて、それこそ「てんで」に避難する。これが一番被害が少ない方法だと東北の津波の多い地域での昔からの言い伝えなんですね。これが実は、自己肯定感と関係がある。
ある学校では、そうではない対応が取られた。避難するかとどまるか、教職員の間で判断が分かれたそうです。そこで学校に児童がとどまった。それで、高台に逃れようとした生徒もいたそうですけれども、しかし、「勝手な行動をするな」ということで、学校にとどめてしまった。それで津波被害から逃れることができなかったということがあったそうです。
非常に悲しいことでして、心がひりひりと痛むことですし、一概には言えないことだと思いますし、集団で規律の整った行動をする教育というものの価値や意義があることも存じ上げておりますけれども、しかし、自分の頭で考えて行動をする、という教育の大切さ、ということで言えば、このてんでんこの話は一つ象徴的なことでもあると思います。
小西先生は、教育ということで大切なのは「引き出すこと」とおっしゃっていました。その子の内にある力を引き出すこと、子供には自分で考える力が備わっているわけですから、それを引き出すわけですね。それがその生徒の自己肯定感を育てることにもなるわけですが、ところが日本の教育は自己肯定感を奪いがちだ、と小西先生はおっしゃるわけです。言われてみれば私たちも子供の頃の学校の授業を思い出すとよく分かりますね。自分の頭で考えることを育てる授業も、ほんの少しあるにはありますけれども、それはとっても少なくて、むしろ、求められた一つの正解に、言われたとおりの方法で辿りつく、という教育がなされます(習っていない方法で解いたら×をされる)し、そもそも、もともと日本の学校教育は「お国のために行なうもの」ということだったので、統率(とうそつ)が取れていることや、どちらかというと、思考停止して従うこと、が重視されることが、実は戦後も、「お国のため」が「経済のため」に変わっただけで、実質あまり変わっていない、という現状があるんですね。
それで、清和学園は「ひとりひとりを大切にする学校」ということで、よく「清和は、面倒見がよい学校ですね」と言われるそうですが、それは小西先生は褒め言葉とは思っていないそうですね。まぁ面倒見が良すぎると、かえってその子の自立心とか、自主性とか、成長の芽とか、そんなものを摘んでしまいますね。というよりも、このひとりひとりを大切にするというのは、面倒見をよくして、成績を上げたり得意なことを増やして志望校に合格しやすくするというよりも、【存在価値】(ビーイングと言ってもいいんですが)を大切にする学校だ、ということですね。
これが、小西先生がおっしゃるには、マタイの福音書の第18章のイエス様の「迷い出た一匹の羊の話」これに尽きるのだとおっしゃっていました。
そして、人間らしい人間を育てるんだ、と。これは、他者の痛みに共感できる人になる、ということですね。そういう生徒たちの本当の意味での「力」を引き出す「学校らしい学校」を目指しています。とおっしゃっていました。
私は非常に共鳴しました。成績とか、そういうもので、数値化されないもの、これが実は一番根本的に大事なことなんだと思います。私も、6歳の子供の父親としましてですね、こういう教育ということには非常に関心が高いわけですが、まぁ子供の教育だけではありません。今回の講演の大事なテーマの中に「自己肯定感」がありました。もっともこれは、心理学やカウンセリングやセラピーなどでもよく言われることでして、でも、よく巷で言われる、あるじゃないですか?あの「一日、どんな小さなことでもできたことを3つ上げて、自分を褒めてあげましょう」とか、そういうですね、(これも実はちょっとできたことを数えてドゥーイングを褒めることで、本当はビーイングではないわけですが、そういう)何か安直なものではなくてですね、今日主イエスが告げてくださっていますのは、このサマリアの女性にも、そして私たちひとりひとりにも、まことの人間として扱ってくださる方として出会ってくださって、神のかたちとしての尊い人間、というその姿を回復してくださる。そういう経験を、また違った角度から新鮮に、させていただくわけです。
少し長い導入になったようですが、このサマリアの女性の話はですね、もうクリスチャン生活が何年もになっている方はですね、もう何度もお聴きになったことがおありかもしれません。説教も何度も聞かれたのではないでしょうか?
なんと5回も結婚と離婚を繰り返し、そして今6人目の男と同棲している、そういう女性にイエス様が井戸のそばで出会われる。そして「生ける水」という問答がなされる。そういうできごとですが、ここで、5人も夫をとっかえひっかえした、ふしだらな女性・身持ちの悪い女性、もしくは、愛に飢え渇いていて、結婚に真実の愛を求めたけれども、真実の愛をいつも得ることができず、結婚生活が破たんしては、別の男性を求め、それを繰り返してきた「愛に飢えた女性」こういった視点で語られるのをお聞きになったことがないでしょうか?実は、私も、何年か前、そういう視点でこのヨハネ第4章を語ってしまったことがあります。しかし申し訳ありませんでした。説教の本筋自体は間違っていなかったわけですが、この女性をどのような女性とみるか、ということは、おそらく誤っていたと思います。
それは、よくよくこの時代のユダヤの背景、というものを学べば学ぶほど、そういうものではなかったことが分かってきたからです。当時のユダヤというのは、たいっへんたいっへん家父長制が強いんです。パターナリズムとも言いますけれども、男性優位社会ですね。
そういう中で、以前モーセの離縁状の話の時にも触れましたけれども、女性から離婚を言い出すことは不可能だった社会なんです。そこで、当時は、男性から、「作ったご飯が美味しくない」であるとか、そういった非常に身勝手な理由で、離縁状を渡されることもあったことも共に学びました。
もし仮に女性の方からわざと不貞を働いて離縁状をもらおうとすれば、当時の律法のさだめに照らして、石打ちの刑になって殺されてしまうので、それはありえないでしょう。ですから先ほど申し上げた、男性側の身勝手な理由で、5回も捨てられてきた女性だった。もしくは当時の次々と兄弟と結婚させられるレビラート婚という制度で、5人の夫と結婚をしては次々と死別したのか、分かりません。わかりませんけれども、「身勝手な女性・ふしだらな女性ではない」というのが今日の箇所を読む・聞く上で大事なポイントだと思います。
しかし、この女性が、5回の結婚を繰り返した、という事実は、おそらくこのスカルというサマリアの町でも、町中の人に知られていたことでしょう。そして、当時の文化で、家父長制の考え方で当然みんな考えるわけですから、「ふしだらな女」というふうに、皆見たわけですね。どんな事情があったかまでは皆知らないかもしれませんけれども、この女性と結婚した男性がもし仮にどんなにひどい一方的で身勝手な理由で離婚したとしても、「ああ、あの女は、よっぽど何か問題があるんだねぇ」というふうに、何かいじめられっ子に対して「いじめられるのは、いじめられる方に問題があるんだ」というようなですね、不幸な人をさらに叩くというような論法でですね、噂をしていた。人の口に戸は立てられない。しかも抑圧された側というのは、その世間が押し付けて来る、たとえば「ふしだらな女」と言ったようなイメージを自分の中に内面化しますから、自分でも「私はふしだらな女」と自分でも思い込み、そういうセルフイメージを持っていたことでしょう。月日は流れ、町の人はもういちいち彼女のいる所では口にはしないかもしれませんけれども、もうその空気を醸し出すわけですね。もうその目線が痛い。もうそこにいるのは耐えられない。
ですから、水を汲みに行く、というのは大変な仕事。水をいっぱいに入れた水がめを、頭に載せて、えっちらおっちら行くわけですね。体力仕事、ですからこの乾燥地帯で、この仕事を、できるだけ暑い時刻を避けて、涼しい時間帯に、済ませておくことが鉄則なんですけれども、この女性は、他の女性たちが井戸端会議をするような涼しい水汲みにぴったりの時間には行かずに、ひっそりと、真っ昼間に、水を汲みに来たのでした。
そうすると、見知らぬ人が井戸のそばに座っています。男性です。見ると、ユダヤ教の先生のようです。その人がなんと!女性に、「わたしに水を飲ませてください」って頼むんですね!サマリアの女性はビックリ仰天しました。
ここで、どうしてビックリ仰天したのか、というのは少し説明が必要だと思います。何重もの驚きなんですね。
まず一つは、サマリア人とユダヤ人ということです。後で、9節で、「ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである」と福音書記者のヨハネが補足説明してくれていますけれども、この付き合いをしなかった、ということばのは、器を共有しなかったということばですが、井戸水を汲むつるべとかバケツみたいなものもですね、一緒に器なんか使ったら汚れがうつるっていうことで、共有しない。そんなふうにユダヤ人はサマリア人を軽蔑してゲジゲジのように毛嫌いしていたんですね。
ユダヤ人とサマリア人の間には民族的な背景がありました。紀元前722年、北イスラエルがアッシリアとの戦争に負けて、アッシリアはその地に外国人を入植したんですね。そして外国人と雑婚して混血になった。その時に生まれたのがサマリア人だと言われています。
ユダヤ人にとっては「あいつらは民族の純血を捨てた、堕落したやつらだ」というだけではなく、ゲルジム山にですね、神殿を、まぁユダヤ人からしてみれば勝手に作って、そこを聖なるところと定めて、しかも、モーセの五書、創出レビ民申命記、という5つの書しか聖書と認めない、とやったわけですね。
ですから、ユダヤ人にとっては、同族嫌悪と言いますか、半分身内なわけですね。半分身内ですから、憎さも倍増されると言いますか、そういう民族的な差別から、ユダヤ人とサマリア人は口を効かなかった、というのが、この時代の常識であった、ということが一つです。
そしてもう一つは、この時代の大変な家父長制的から来る男尊女卑の背景があります。当時ひどいですよ。笑い話のように紹介されることもあるのですが、当時のパリサイ人は、道でよくつまずいて転んだそうです。ラビたちの教えの中には、女性というのは男性を罪に誘うものなので、あなたの目が罪を犯さないように、できるだけ見ないように下の方を見て通りなさい。という教えまであったので、道でよくつまずいて転んだという話ですが、よく考えれば女性を「悪に誘う存在」と見る視点自体が、今の言葉で言ってみればまさにミソジニー(女性嫌悪・女性蔑視)、その考えが非常に色濃かったんです。さらに女性は律法の教えを受ける資格は無いと考えられていましたし、公の場で、男性が女性に話しかけるのはいけない。それはたとえ妻であっても話しかけてはいけない。特に律法学者、ラビ、パリサイ人たちはそれを厳しく教えました。ましてや、男性が女性に助けてもらう、ということはあり得ないことだと教えられていました。だから「水を飲ませてください」と、男性が、しかもラビが女性に言うことは、当時の常識から言ったらあり得ないことだったんですね。
イエス様は、そういう民族的な差別であるとか、男女差別、ミソジニー、そういうのを始めから越えておられるお方だから、関係無しに話しかけられた。ですからここから、民族や人種の差別を越え、男女差別や女性蔑視を越え、というテーマが引き出されることもありして、それはそれで大切ですが、ここはそういう次元の話ではないんですね。もっと決定的な、位相の深いというか、魂の深みでの人と神との出会いのできごとが語られているんです。
女性は、その二つの壁を軽々と越えて来られるイエス様のことを最初はいぶかりました。イエス様は、女性に、「水を飲ませてください」と語り始められましたが、わたしの方から「生ける水」を与えよう、と、水の与え手が話の中で逆転するんですね。
この「生ける水」というのは、ユダヤの言い回しでして、流れる水、というぐらいのニュアンスです。このヤコブの井戸のような、たまり水よりもですね、川の水であるとか、湧き水であるとか、そういう水の方が綺麗で、品質がいいですよね。そういう水を、生ける水、という言い回しをしていたわけですが、イエス様はそういう本当に物理的な水のことをここではおっしゃっていませんね。霊的な水、何か霊的なことがらを「生ける水」とたとえておっしゃっているわけです。
女性はわけが分かっていません。文字通りの流れる水か、湧き水か、品質のいい水を、どうもつるべもバケツも持っていないこの人が、どうやって手に入れるのかしら?いぶかりながら会話がチグハグなまま進みます。あのニコデモさんの時もそうでしたよね。イエス様が、新しく生まれなければ、と言ったら、どうやってお母さんのお腹の中に入ってもう一度生まれて来ることができますか?と文字通り取りましたが、ここでもサマリアの女性は文字通り取って行くわけですね。
イエス様が、「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも決して渇くことが無い。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」と言っても、「だんな様、そんな便利な水があるのでしたら、私にその水をください。そうすれば、毎日汲みに来なくてもよくなりますから」と言って、まだ物質的な水のことだと思っています。
そこでイエス様はぴしゃりと言われます。
「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい。」
女性はうすうす感付いていました。この方がただ者ではないと。むしろ物質的な水だと取ることによって、女性は無意識に話を本質から逸らそうとしていたのでした。
「わたしには夫はいません」
「夫がいない、というのはその通りだ。あなたは5回結婚したけれど、今は6人目の男と暮らしている。だが、その人は正式な夫ではないからだ」
女性は嘘は言っていません。ウソは言っていませんけれど、本当のことを一部しか言わないことによって、何か不思議な見抜く目を持っておられるこの方に、その自分の「魂の渇き」の核心に迫られることから、ほとんど本能的に逃げようとしたのでしょう
そこで女性は、イエス様に対して「あなたは預言者だと思います」と言って、礼拝の話に移ります。ここで話が飛んでいる、という人もいます。それはつまり、女性が、触れてほしくないところを見抜かれて、話を逸らしたからだ、と言う人もあります。けれども、そうではありません。ここで、女性は、完全に、この方には、物質的な水のことではなくて、霊的なことを聞くべきだ、この方のおっしゃる水とは、霊的な事柄だったのだ、ということに気付いたんです。だから礼拝の話をしている。
そこで、まだユダヤ人のラビだとこの女性は思っていましたから、あなたたちは、つまりユダヤ人たちは、礼拝すべき場所は、エルサレムだと言っている。だけれども、私たちの先祖たちは、ゲルジム山で礼拝してきました。どっちが正しいんですか?とかねてより疑問に思っていたことを聞きました。というより、そんな礼拝する場所にこだわって争うこと自体に、普段から疑問を感じていたから、こう言ったのかも知れません。
イエス様はお答えになりました。(23~24節)
23しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
24神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
おや、とお気づきになった方もいらっしゃるかも知れません。ここに非常に有名なみことばが語られていますが、この新しい2017の翻訳では「御霊(みたま)と真理」によって礼拝する、となっているんですね。以前の翻訳では「霊とまこと」によって礼拝する、となっている聖書が多かったので、それで記憶しておられる方も多いかと思いますが、理由があって、このような翻訳になっているそうです。
直訳しますと、確かに「霊」であって、聖なる、とか付いていないんですね。ですから御霊、と言いますと、聖霊なんだと限定されるわけなんですけれど、ヨハネが福音書で「霊」ということばを使う時には、必ず神の霊を表すんですね。ですからここは聖霊を指すので、御霊と、訳している、つまり、人間の霊ではない、ということですね。私たちの内にある霊によって礼拝する。表面的なことではなくて、心から、魂から礼拝する、という意味ではここではなくて、聖霊によって、聖霊が示してくださる礼拝ですね。そして、霊とまこと、のまこと、というのは、真実にということで、私たちのうちの真実、つまり、まごころ込めて礼拝する、そんな意味に取られることがありますが、ここはアレーセイアという真理ということばなんですね。だから私たちのまごころよりも、もっと大事な真理によって礼拝する。そういう時が来る!それはまさに今なんだ!そう告げられるんです。この女性にも。私たちにも!
この「時」というのはですね、何重にも大事な意味があります。一つは救いの時なんですね。この女性の救いがここで起こった時です。
この女性の救いが起こりました。(25節26節)
25女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
26イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
ここで、イエス様が「わたしがそれです」と言われているのは「エゴーエイミ」ということばで、モーセの柴の箇所で神さまがご自身を「わたしはあってある者」と言われた時と同じ、神さまがご自身を現される時に言われる堂々とした宣言です。「わたしはメシアだ」と宣言された、と言ってよく、ここで女性は、その宣言を聞いて、イエス様を、メシア・キリストと認めて、救いが起こりました。そして、喜びのあまり、水がめをその場に置いて、その町の人々のところに行って、イエス様を救い主だと伝えるいわば伝道者になりました。福音を告げ知らせたのです。
さて、お昼ごはんを買いに行っていた、イエス様の弟子たちがちょうど帰ってきて、その最後の方のやり取りを見ていました。
けれども、そのただならない様子をみて、イエス様「先生、女性と話をするなんて一体何があったのですか?」などと聞く者はありませんでした。とてもそんな雰囲気ではなかったからですね。
そして、買ってきたお昼ご飯を出して、「先生、お食事をなさってください」と言うのですが「わたしには、あなたがたの知らない食べ物があります」とイエス様はおっしゃいます。イエス様は、出された昼ごはんを、食べたのか食べなかったか分かりません。弟子たちは、「あなたがたの知らない食べものがある」と聞いて、「イエス様は私たちが買ってくる前に誰かから何か美味しいものをもらって先に食べたのかなぁ?」って、また文字通りに、物質的な食べ物のことだと取ったわけですけれど、やはりここでも、イエス様が言っておられることは、物質的な食べ物ではなくて、たとえですね。つまり、34節に、
34イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。
とあるように、わたしを遣わされた方、とは父なる神です。その父なる神のみこころを行なうことが、三度の食事よりも大事なことだ、と言われている。そのみこころとは、人を救うことです。罪から救うことです。
そして、そのわざを「成し遂げる」と主イエスはおっしゃいます。この「成し遂げる」ということば、これは、テテレスタイ、と同じことばなのです。同じヨハネの福音書の第19章28節にはこうあります。やがて主イエスが十字架におかかりになるできごとを描いている箇所です。
新約聖書 ヨハネの福音書 第19章28節
それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
ここにですね、すべての救いが完成した、主イエスの十字架の犠牲の死によって、すべての人の罪のゆるし、という神のみわざが、完了した、成し遂げられた。それをここでは「すべてのことが完了した」と書いているわけですが、聖書が成就するために、「わたしは渇く」とイエス様が十字架上でおっしゃったことばをヨハネは記します。
イエス様が「渇く」とおっしゃったのは、詩篇第22篇の預言の成就なのですが、時間の関係でここでは省きます。とにかくイエス様は、十字架の上で、焼けるような渇きを味わっておられた。それはただ単に、肉体的なのどの渇きにとどまりません。まさに魂の渇きを、世界中の人の魂の渇きを、その十字架の上で、味わっておられた。
そこでこそ、主イエスは、この女性の渇き、と、器を一つになさるかのように、一つになっておられる。彼女の喉の渇きではない。魂の渇き、私たちの魂の飢え渇きと、一つになってくださっている。
自らが自らを責めて罪責感に苦しんでいる。自分なんて生きていてもしょうがいない人間だと思っている。そういう魂の渇きを持っている。あるいは、でも本当は、誰かから見下されたり、踏みつけられたりするのではなく、一人の人間として、人間扱いされたい、たいせつにされたい。愛されたい。そのような魂の渇きをイエス様は、共感という言葉では軽くなりすぎるぐらい、はらわた痛めるぐらいにご自分の痛みとしてくださって、味わってくださって、しかし一緒に痛みと魂の飢え渇きを味わってくださるだけに終わらない!わたしがあなたの身代わりにいのちを捨てた。あなたはそれほどに愛されるべき、高価で尊い存在だ!そうやって、世界中のどんな高価なものよりも値高い存在として私たちを、皆さんを愛して下さるばかりか、復活され、永遠のいのち・来るべき世のいのちを皆さんにお与えくださいました。
イエス様が今がその時、と言われたこの「時」のもう一つの意味は、サマリア伝道がなされた時です。この一人の、世間的にみじめ、と見られていたひとりの女性が言わば伝道者、宣教師となって、サマリアの町の人々に福音を知らせた、これが、実は使徒の働き第8章で、ピリポや使徒たちが、サマリアで伝道して救われていったことと繋がるわけですが、じつにここで、民族の壁、人種の壁が取り払われる、そうしてユダヤ人もサマリア人も共に救いにあずかる、世界大の神の家族・キリストの教会が生まれて行く、という「時」が実現しているわけです。
そしてこの「時」にはもう一つ意味があります。いわばサマリアの女性の話は、男性と女性の間の愛が破れた現実の話でした。実はそれは、創世記に初めからそれが記されているんです。最初の男と女、アダムとエバの間に完全な愛がありました。けれども、そこに溝ができたのです。蛇が誘惑しました。おいっしそうな実を、取って食べてみなさい。と誘いました。そうしてアダムとエバが、善悪の知識の木の実を食べた時から、男と女の間の愛が破れました。そして、男性が女性を支配する関係が始まってしまった。それが原罪と、地が呪われることによってもたらされたんです。
そしてもう一つ、忘れてはならない大切なことは、神さまとの関係も破れた。さばきと死を恐れて、二人は身を隠すようになってしまった。神さまと一緒にいて、そしてほっとする関係を失ってしまった。まさに、まことの礼拝が失われていた。
救い主によって私たちに取り戻されたのは、この御霊と真理の礼拝です。神さまとのほっとする愛の交わりです。この愛の交わりの中で、エデンの園の再来、それがまさに、天の御国をちらりと見せて下さる、この礼拝なんです。教会の聖餐式は、まさに、その天国の宴会なんです。
何の人種的な民族的な差別も上下関係もマウンティングもない、天国のひな型が、このキリストの教会の礼拝です。そこにおいてこそ、私たちは、本当に神のかたちとしての、人間性、というものを回復し、いつもですね、あなたは尊い、あなたは愛されているという主のみことばを聞きつつ、生ける水にうるおされて祝福のうちを歩んで行くのです。
お祈りをいたします。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
私たちは、傷ついています。神のかたちである人間の本来の姿を失ってしまってさまよい歩き、人間として大切にされることに飢えてきました。あるいは、自分を高みに置くかして、見下すか、見下されるか、支配するか、支配されるかで悲しく生きて来ました。しかし、あなた様は、それらの壁を打ち砕いてくださいました。そして、ほんとうに人間として大切にされる、神さまとの愛の関係を回復しました。御霊と真理のうちの礼拝です。私たちは十字架の主イエス・キリストを通して父なる神を礼拝し、生けるいのちの水を繰り返しいただいて、うるおされて、日々あるんでまいります。世界中の人を、このいのちの水の豊かさの中に、招き続ける者として、私たちひとりひとりを生かしてください。いや、すでにそうしてくださっていますことを心から感謝いたします。主イエス・キリストの御名によって感謝して祈ります。アーメン。
#家父長制
#ミソジニー