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【礼拝説教否定論?? その④】

【礼拝説教否定論?? その④】

これまで3回にわたって、この動画の感想を書いてきてすっきり整理できましたが、やはりこの動画は、「今からこのタイプの説教を批判します(こういうタイプの説教については批判しない・全ての説教について批判しているわけではないです)。」などと前提を明言しない・共有しないで話が進んでいるため、大きな誤解、混乱が生まれることが問題点だと思います。

斬るべき相手を明確にしていないため、たとえて言うなら、悪代官(悪しき説教・説教者)を斬ろうとして、良き町人まで一緒に斬っている印象になってしまっています。

そのことは動画中で終始、説教を、どうも「ディダケー(教え)」としての説教しか想定していないことが原因だと思います。

プロテスタントの中でルーテルや改革派の流れの教会や日本基督教団などの多くが共有している、プロテスタントの源流の伝統、「ケリュグマ(福音の宣言・布告・告知」としての説教、としての基本を全く想定していないので、

たとえば使徒2:14以下は有名な『ケリュグマとしての説教』の代表例ですが、2:37では聴衆が応答しており、対話がなされています。

動画中では、対話がなされているのは"説教"ではない(一方的に話しているのが説教)と、どうも想定しているようなので、「聖書の中で説教は出てこない」「聖書に説教が出てくる、というのは読み込み」という暴論のようなことを言っていますが、そもそもケリュグマとしての説教を想定していないならば、そう言うのも理解できます。

ケリュグマとしての説教は、主イエスの十字架と復活を告げ、罪の赦しと永遠のいのちを告知・布告します。それなくては、人は回心してキリスト者になることはない、ということは言うまでもありません。「聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。(ローマ10:14)」とあるとおり、説教が無ければクリスチャンになる人が生まれない、回心して実践的、能動的な信仰が起こされるクリスチャンが生まれないので、やはり良き説教がなされている場合は『説教中心主義で良い』わけです。

このことは、広義で言えば、洗礼準備会で語られることも、ディダケー(教え)を含みながらも、ケリュグマとしての説教だと言えるし、信徒がする(「4つの法則(古いか)」ほかの冊子を用いても用いなくても)個人伝道も、ケリュグマとしての説教なので、ますます説教中心主義でも良い、ということになるでしょう。

反対に、悪しき説教が横行している場合には、動画の中で言われているとおり、『説教中心主義からの脱却をした方が良い』ということになるかとも思います。(説教・説教者のカルト化は会衆、聴衆に深い傷を与えます。そういう説教なら無い方が良いと私も切に思います)

このすれ違いの原因は、諸教会が何を指して「説教」という言葉を使っているかが異なることにありますので、ぜひプロテスタント全体の全部の説教が悪しきものであるかのような誤解を与えるサムネイル画像は、少し文言などを変えるなどして再アップロードしていただきたいし、今後は語り始める前に「こういう説教を今から斬ります。」「『説教』という言葉を使いますが、この動画ではその用語はこういう前提で話します」「全部の説教を否定しているわけではないです」などと前置きしてからにしていただきたいと切に懇願したいと思います。

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