chatGPT牧師の礼拝説教について
この記事では⬇️
https://gigazine.net/news/20230612-chatgpt-ai-chatbot-preach-church/
「AIが宗教の指導者に取って代わるとは考えておらず、むしろAIの活用は牧師や信者の信仰的な生活を助けるものだと話しています。」
ここが大事だと私は思います。私は、礼拝説教について、
「説教は存在から出ることばでなければならない。」「その説教者の存在がかかったことばでなければならない」とご指導を受けたことがあり、それが礼拝説教に本質的に欠かせないことだと思います。
自分の証しを必ずしも説教に盛り込む必要は無いとは思いますが、聞き手は、ある意味での証し人として立ち語っている説教者を見て、その背後に、確かに神はおられる、と思い、信仰が生まれる、というところがあると思うのです。聖書のみことばに生かされている、なまみの人間が、目の前に(あるいはリモートででも)立っていることが大事であり、それでこそ、聞き手の心に、回心(大きな回心であれ小さな回心であれ)が起こるのだと思います。
AIは進歩すればもっと上手に釈義情報などを集め、神学的にも"優れた"礼拝説教を作り、音声で語れるようになるかとも思いますが、それでたとえ人を沢山集めることができても、上記の最も核心的な所がすっぽり抜け落ちることになってしまいます。
そもそもAIが語るなら、その"説教"を神のことばとして聞けないでしょう。この記事で、「急にありきたりな言葉遣いになって不意の笑いを誘う場面もあった」などとあるように、「AIにどれだけできるか」を試すように聞くことに終始し、見事だ、と驚くか、AIの欠けに「まだまだ人間にはかなわないな」という安心を得るにとどまるでしょう。
私がもしクリスチャンでない聞き手であれば、AIが作り、AIが語った説教を聞いてイエス・キリストを信じるようになることはまず無いだろうと思います。
このAIが説教を語る場合、たとえば、ある牧師が書いた説教原稿をそのまま講壇で読む、ということに似ているかもしれませんが、しかし、それよりはるかに劣ります。
なぜなら、ある牧師が何らかの事情でその礼拝にいることができない場合に、原稿だけ送られてきて、それを教会員が読む場合、それでも、その原稿を書いた牧師の存在を通って編まれたことばであるため、読み手に、文字情報だけでは原稿作成者の表情などが見えず、またことばの温度などが伝わりにくい、原稿作成者の意図したような間の取り方で読めない、ほかさまざまなノイズが生じるにせよ、生きたことばとして聞き手の心を動かすことは十分あると思います。
それは初代教会でパウロほか使徒たちの手紙が回覧されて、礼拝で読まれて、人々の心を動かしたのと同じです。
手紙の文字の向こうに、なまみの人間がいて、その背後に神がおられるからです。
とはいえ、視点を少し替えて、説教を「信仰生活のレクチャー」ととらえるなら、ある程度役に立つことはあると思われます。
たとえば、聖書の教えるクリスチャンの祈りの大切なことを、いくつかのポイントに分けて語るようなタイプの説教の場合、
AIは上手に、その聖書箇所が祈りについてどう教えているか解説し、さらに古今東西の神学者や、優れた信仰者の祈りについてのアドバイスや例話なども集めてきて、簡潔にわかりすくまとめて構成してくれるでしょう。
それをファクトチェックした上で、説教者が改良を加えてアレンジして語る、あるいはAI音声に読み上げさせるのでも、
聞き手はそれを、良いアドバイス、レクチャーとして聞き、自らの信仰生活・祈りの生活のプラスにする等はできると思います。