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礼拝説教否定論?? その②

【礼拝説教否定論?】
この動画は前後編になっていますが、全部聴きました。
 どういう説教観で見るかによりますが、これは説教観の違いで、説明しにくいことですが、たとえば説教のことばを聞いているとまるで「イエス様が会堂を歩かれてそっと肩に触れてくださった・抱きしめてくださった」くらいに感じ、小さな、あるいは大きな回心を経験し、場合によっては涙を流す、といったようなことが起こるのが説教ですので、動画の中の話し手は、説教を「教え」「情報伝達」と言っています。説教をそのように言ってしまって良いのか疑問に思います。

 説教は非常にダイナミックに働き、説教中に回心を起こすことが歴史の中で繰り返し起こってきましたし、今もあります。

 使徒2:14以下の、教会としてのことば、ケリュグマ、神の国の到来の宣言」として語られた説教が多くの回心を起こしたこともその通りです。

 また、ルカ4:16以下の主イエスの説教も、まさしくケリュグマであり、教えや情報伝達ではなく(それも含みはしますが)神の国の到来の宣言なのです。

 聖書時代のこれらのことは、現代の説教とは形式的には異なるかもしれません。しかし、何をもって同じとし、何をもって「違う」とするのかの論が十分に詰められていないであろうことから、「説教が聖書にある」というのが"読み込み"だと判断していることが適切かどうかに疑問が残ります。

 説教の弁論術というのが、異教文化から取り入れられたからと言って、そもそも福音書記者のルカも「パラダイス」と異教由来の言葉を上手に用いて文書で宣教していますので、異教由来のものが入っていてもさほど問題は無いはずですが、異教由来と言うことで説教そのものを斬ろうとしている論になっており、これは後に述べますが斬る相手に微妙なずれが生じるのです。

 また「負の側面」というのは、前の投稿でも書きましたが、これら5つの点は「まずい説教が継続された結果(or他の原因で)起こること(説教者のカルト化は起こると深刻な問題です。このあたりは共感・共鳴します)」であるのに、説教そのものによって起こる問題」であるかのように結果的にミスリードしてしまっていると思います。

 また、「神のことばの宣言」にきちんとなっている説教の場合、上に書いたような素晴らしい新鮮な神との出会いの経験があるのですが、それを矮小化、あるいは軽んじた場合、代わりにどこでその新鮮な神との出会いの経験を確保するのか、ということが、聖餐か、リタジーか、それとも礼拝の中の賛美の時間か、というようなことが動画を見た限りでは十分に論じられていないように思います。(賛美はメロディのついた説教だ、その歌詞によっても養われ、牧会される、という側面もあります。このあたりを考察するのも面白いです。)ウィークデーのデボーションで確保するのか、そのように何かを斬るなら、斬って失うものをどう建てあげるのかが前後編聞いてもほぼ出てこない所が気になるところです。というよりそもそも斬る相手は「まずい説教」であって、「説教そのもの」ではないはずです。

 このように説教というテーマを取り上げる中で、限られたタイプの礼拝観、説教観のみのパースペクティヴ(視座・ものごとを捉える時の切り口みたいなもの)で語られているので、別の説教観をも想定して包括しきれていないことが「説教そのものを否定的に見ている」かのように誤解を招くことになっているように思われます。

*また、私がもう一つ懸念していますことは、この論に影響を受けたであろう人が、まるで逆張りのように、ネット上で乱暴な"説教否定論"のようなものを書いているのをチラッと見たからでもあり、諸教会への悪影響もありそうです。

 この動画で語られた有益な点としては「双方向性」だと思います。質問と答えのやりとりがあり、対話形式の説教の導入は、場合によっては、非常に良い効果を生み出す可能性があります。(ただ、本当にすぐれた説教は、一方的に話しているようでありながら、会衆としっかり対話しているのですよね。たとえばジョン・ヘンリー・ニューマンは原稿を一語一句違えずに読むタイプの説教者でしたが、聞き手の心のひだの一つ一つに染み込むような説教をしたと言われます)

 また、あるいはこれは、ウィークデーに信徒それぞれが神との出会いの経験をし、それぞれの礼拝を日曜日に持ち寄るという「礼拝会」的な集会のあり方と深く共鳴するように思います(「礼拝集会」と呼んでいますので、そちらの礼拝観に近いでしょうか)教会形成論が全く異なるわけですから、伝統的な教会に取り入れるのは無理があっても(車に別の車を載せるようなもので、両方とも走らなくなる)、開拓伝道などではこの論は活発な教会形成に大きく寄与する可能性があるとも思われます。

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