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無事に本日(2/4)、プレ 開所礼拝を行うことができました。

主の御名を讃えます。皆さま、いつもお祈りお支え心から感謝申し上げます。無事に本日(2/4)、プレ 開所礼拝を行うことができました。

 新しく気がついたことがありますので以下書いてみたいと思います。

 先日よりこのFacebookにも、「高知ほっとチャーチ」の名称の由来を載せておりました(この投稿の末尾にもその文を載せておきます)。聖書が語る「神がくださる確かな【慰め】」これは言い換えれば心の底、魂の底から「ほっとする」ことだと考え「高知ほっとチャーチ」と付けました。

 第二の意味として、主イエスの十字架の死の後、失望落胆した2人の弟子が、エマオへ向かう道の途上で、ご自分だと分からないように一緒に道を歩いて、聖書を解き明かされた復活の主イエスの話を聞いた後、「私たちの心はうちに燃えたではないか」と言いました。

 私たちもこの主イエスのみことばを聞いて、静かに心燃やされて、みことばを伝えずにはおれない、だから伝道するのであって、私たちの礼拝や伝道はそれに基づいている、そんな「ホット」が第二の意味で、そのため二重の意味があると申しました。

 けれどももう少し黙想を重ねますと、これは何も二重などということではなくて、一重の意味、一つのことなのではないか、と思い至ったのです。

 つまりエマオ途上の2人の弟子は、暗い顔をして歩いていたわけですが、主イエスが語られるみことばによって、心の底から、魂の底から【慰められた】から、冷めていた心が暖められて、静かに心が燃やされたわけです。神によって「慰められる」と「心暖められる」とは、一つのことだということに、思いが至りました。

 どうぞ、これからもお祈りください。皆さまにも祝福がありますように。

⬇️これが以前書いていた文章です。またさらに文章を深めて練って更新したいと思います。

*高知ほっとチャーチのモットーは「慰め手として共に育つ」です。それは次の聖書のみことばによります。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(コリント人への手紙第二、第1章4節)」

 高知ほっとチャーチの名称の由来は、上記「慰め(ギリシャ語:パラクレーシス)」から来ています。最初は「慰めの教会」などの名称にしようかと思いましたが、日本語の響き的に弱い印象があり、パッとしないように思いました。この慰めを日本人にわかりやすいように言い換えると「福音の宣言を聞いて心の底、魂の底から『ほっとする』」ことだと思いこの名称にしました。

 また同時に、主イエスのみことばを聞いた者は「私たちの心は内で燃えていたではないか(新約聖書ルカの福音書第24章32節)。」と静かに心燃やされる「ホット」という二重の意味があります。

「また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。(新約聖書マタイの福音書第9章36節)」の「深くあわれまれた」は「はらわた痛む(ギリシャ語:スプラングニゾマイ)」で、内臓が苦しくなるほどの主イエスの深い共感です。

 この主イエスの共感にならって生きることを考える時に、たとえばテゼの修道士ブラザー・ロジェは「苦悩する人といかに連帯して行くか」と言ったことを思います。

 そのように、社会において弱者とされている方々、周縁に追いやられている方々といかに連帯していくかを考え、まだ固まっていませんが、フードパントリーなどボランティア的なことも含め展開して行けないかと考えています。

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