【文書版】✴️礼拝メッセージ『三本の十字架・教会』新約聖書 ルカの福音書第23章32~43節
昨日2022年11月20日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✴️礼拝メッセージ『三本の十字架・教会』
新約聖書 ルカの福音書第23章32~43節(新改訳2017)
32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。
33「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
35民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
36兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
38「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
先日は統一協会問題で、新たに養子縁組の斡旋というのが明るみに出て来ましたね。まあ次から次へと出て来るものだと思うわけですが、その被害者の方の人生を奪われるような痛みというのは壮絶なものですね。被害者の方々の心と生活全般において、救済がなされ、また人生そのものが回復に導かれるようにと日々お祈りをさせていただいているところです。加えて、この団体は自治体の許可を受けずにこの養子縁組をしていたということで、これは法律違反である可能性が高いということですね。文鮮明が「養子縁組を許可してくださいました」ということで始まったものだということですが、とにかくですね、自称メシア、偽メシアと言っていいでしょうけれども、彼はそのような者です。イエス・キリスト以外に、自分をメシアだと自称する人は、イエス様が「わたしの名を語る者が大勢出て来る」と言われたとおりに、この2000年間の間に数限りなく出て来ました。しかしイエス・キリスト以後の自称メシアというのは、自称した時点で偽物である、ということは、繰り返し申し上げておきたいことです。(数年前の情報ですが、韓国だけでも自称メシアが10~50人いると聞きました。アメリカなどでも同じくらいいるのではないでしょうか?ロシアにもいたりと、とにかく世界中に再臨のメシアやメシアの生まれ変わりを自称する人が次から次へと出て来るのは世の常でしょう)
先週は、偽メシアに惑わされない、というルカ第21章のメッセージでしたが、今日は、イエス様の十字架のシーンなのですが、イエス様が、複数回「お前が本物のメシアなら、十字架から降りてみろ!」と、ののしられるシーンですね。(彼らの台詞には「本物」とか、「にせ」という言葉は入っていませんが、要するにイエス様を本物のメシアだと認めていないからののしったわけですよね。)イエス様は、いわば偽物だと誤解されたと言ってもいいと思いますけれども、そんな、本物か偽物か、と思っていた人々の疑いなどは吹っ飛んでしまうような、ことばが、十字架の上から語られました。
本日、この礼拝に神のことばとして与えられたみことばの中で、有名なイエス様の「十字架上の七つのことば」と呼ばれるもののうちで二つが語られます。「十字架上の七つのことば」、これは非常に有名なもので、たとえば有名な作曲家のハイドンが「十字架上のキリストの最後の七つのことば」と題して管弦楽曲を作っていたりもします。
その七つのことばをあげてみますと、
1. 父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。
2. はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。
3. 婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です。
4. わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。
5. 渇く。
6. 成し遂げられた。
7. 父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。
こういった順番ですね。で、その最初の2つが、今日のみことばで語られているのです。
さて今日の箇所ではスポットが当たっているのはむしろ、おもに、十字架上のイエス様と、イエス様の右と左で十字架につけられた2人の強盗と、この三人に、おもにスポットライトが強く当たっているわけです。
それで、最初のことばの、
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
このことばは、ほんとうに不思議なことばですね。およそ人間に言えることばではないと思いますね。
「父よ」というそのことば一つにしてもそうです。これはもちろん天の父なる神への呼びかけですが、これだけでも、ただの人間の宗教家であれば、十字架で死ぬとき、神を捨てるか、神なんていない、と言うか、とにかく神をのろい冒涜するでしょう。
そして、この人類が考え出した最も残虐な処刑方法の一つと言われるこの十字架の極限までの苦しみの中で、あろうことか人のために祈っている。こんな人間は、誰も見たことがない。人間であれば、極限の苦しみの中では、自分のことしか考えられず、祈るにしても自分のために祈るはずです。しかし!自分を殺そうとしている人々の前で、彼らの罪のゆるしを祈っている。いったいどういうことだろうか!?これは、世界が驚くことばだと思います。
ところでこの赦しを祈っておられる、彼らの罪をお赦しください、の彼らとは、誰のことを指すんだろうか?これは、ユダヤ人の罪の赦しを祈っておられるんだろうか?それともローマ人の罪の赦しを祈っておられるんだろうか?そういう議論が昔からあるんですね。でも、おそらく、そういう議論は、むしろ本質を突かない方向に行くと思うんですね。宗教改革者マルティン・ルターが、この箇所について説教したものを少し引用して読んでみます。すごく大事なポイントです。
今やキリストは十字架につけられ、木にかけられました。そのようにして私どものための祭司になってくださったのです。どなたもこのみ言葉に心をとめていただきたい。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。いかなる人も、十字架にかけられているキリストを、われらのまことの大祭司、教皇と見るべきです。
なぜかと言えば、旧約聖書に従うと、身を飾り美しい着物を着て、献げものをすることこそ大祭司の特権だからです。ここでキリストはそのように祭司の務めを果たしておられます。それはどのようにしてであったのでしょうか。 最上の衣、最もうるわしい飾りを身につけられて、それを果たしてくださいました。それはいかなるものであったのでしょうか。忍耐、そして父なる神に対する服従です。あなたは、これにまさって大いなる愛と謙遜と柔和とを決して見たことはないはずです。およそ徳のある人びとに備わっているはずのすべてのものがここにあります。
この装いをしつつ、「若い雄牛の血によらないで、御自身の血」(ヘブライ人への手紙第九章一二節)を捧げて、永遠の救いを獲得しようとなさったのです。
それをなさるのは私どものためです。そして「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。私どもがキリストを、自分たちのまことの大祭司として知る手がかりを与えるのはこのお言葉です。(中略)われらを救うのは、ほかならぬこの大祭司の祈りなのです。
このルターのことばについて、ある説教者がこうも言っているんですね。
ルターの時代にも、この主イエスの祈りはローマ兵のための祈りか、ユダヤ人に対する祈りであったのかという議論はあったらしい。そのことについてルターは、この説教のなかで自分はそんなことに興味がないと言い放っている。そうではなくて、これは私たちに関わりがある、と言う。主イエスを十字架につけた。しかも、そのことの意味が本当にはよくわかっていないままでこの恐ろしいことをやってのけた。それはこの私だ。私たちだ。そのように聴かなかったならば、この祈りを聴く意味はない。この祈りが私たちにそのように関わりを持たなかったならば、私たちの信仰生活も意味がないと言う。
ということですね。だからユダヤ人のための祈りか、ローマ人のための祈りか、と、ひと事のように議論するのではなくて、聖書を読む者聴く者に大事なことは、アシュラムでもそうなんですけれども、「自分に語られたことばとして聴く」ということですね。とするならば、私は、「お前が本物のメシアならこういうふうにしてみろよ」と、ののしったユダヤ人も、あるいは「ユダヤ人の王様ばんざい!ささ、この葡萄酒をどうぞ、王のお口に合うかどうかは分かりませんけれども。ハッハッハ」と差し出したローマ兵たちも、あるいは右の強盗も、左の強盗も、みんな私である。私という人間の中に、この人たち全員のこころが、どこかあるはずなんです。人間であるならば。先ほど引用した説教者のことばをもう少し引用しますと、
自分たちは裁く人間である。 正義の人間なのである。その時、自分がこの裁かれる男ではないことを幸いとする。そういう思いさえあったかもしれない。そういう裁きの快感を私たちはよく知っている。間違って人を裁き、死刑に処するなどという、とんでもないことをしたことはないと思っているかもしれない。しかし、果たしてそうであろうか。新聞を読み、テレビを見ながら、罪を犯した者のことを毎日のように聞かされる。 賄賂をもらった政治家たち、人を殺した人、なんと悪いやつだと心のなかで呟き、あるいは口にする。仲間内での陰口を聞く。聖書はしばしば噂話を好む私たちの卑しい根性を指摘する。しかし、そのような時に私たちは一種の快感を味わう。自分は正しい人だと思う。ひとを裁き得る者だと思っているのである。
このことばを読んで私はドキッとしたんですね。私は今ユーチューブなどでやっているインターネット放送でも、また礼拝説教の中でも、統一協会を批判する内容を含む話をしているからですね。
確かにこういう問題は、批判をしないで黙っている方がよくないことだと思います。公民権運動をした、マルチン・ルーサー・キング牧師が、「最大の悲劇は、悪人の圧政や残酷さではなく、善人の沈黙である」―私が善人だとは思いませんけれども―というふうに言ったとおりに、虐げられている人々の権利を守る、あるいは回復ために、悪事に対して、黙っていることではなくて、適切に批判し、声を上げて行くこと、これはとても大事なことです。国の政治にもこの団体が関わっているわけですから、なおさら黙っていてはいけないと思います。
しかし、もう一方で、声を上げるという、社会に対しての小さな善をしていく中でも、この説教者が言っている、快感、というものを、私はじつは、心の一隅で、片隅で、ひそかに知っているのです。よーく知っているのです。インターネットで、人々の権利を守るための署名もいたします。でも、そういう活動に賛同するという小さな行動を取る中にも、「こちらは正義の側に立っているんだ」という正義感と、ひどい相手や組織を、さばく心、というものが、分かちがたく結びついている。タレントがスキャンダルを起こしてそれを一斉に叩くいうようなことには加担しなくても、私の心の中にも、小さな正義マンが住んでいるんですね。それを心から追い出して、きよい心で生きることは本当にはできないんですね(地上にいる限りそうだと思います)。
ですから私たちキリスト者は、日々悔い改めながら生きて行きます。礼拝の代表の祈り(牧会祈祷、集祷)でもそうですけれども、毎回のように、悔い改めの祈りをいたします。私たちはことばと思いと行ないにおいて罪を犯してまいりました。主よあわれんでください、と。こういう祈りをする、それは、いかにもあわれっぽいと思う方もあるかもしれません。けれども、私たちの日々の現実を見るならば、そう祈らざるを得ないんですね。
だからそういう私たちの姿がですね、聖書を読むたび聴くたびに浮かび上がってくる。聖書はどこの箇所でも鏡のようなもので、私のそういう姿をありありと映しだしてくれるわけですね。ですから聖書は読むというより、読まれる、人間が読まれる、とよく申しますけれども、そういう不思議な書物だと思いますね。
さてしかし、左右の強盗のことを考えてみたいと思いますけれども、
伝統的に、右の強盗が、イエス様に、「御国においでになる時には私という、愚かな罪びとがいたことを思い出してください」と言った強盗であり、賢い強盗と呼ばれます。右の強盗は、何がよかったのでしょうか?謙遜に、自分の罪を認め、悔い改めたからよかったのでしょうか?いわば、信仰の優等生だったから、救われて、パラダイス、要するに天国に行った。しかし、もう一方の左の強盗の方は、高慢で、悔い改めない、いわば信仰の劣等生だったから、救われなかった、だから私たちは、神の前に謙遜を身に着けて、悔い改めて、救いをいただきましょう、という結論になるのでしょうか。そうしますと、何か右と左に羊とヤギを分けるように、救いを左右するのは、私たちが主イエスをののしっているか、いないかだ、というようなある意味で別の律法主義になってきかねないんですね。それは何かが違う。
ですから先ほどのある説教者の文章を、もう少し引用させていただきたいと思いますけれども、
ある説教者(カールバルト)が、この三二、三三節の二節だけについて説教したことがある。イエスが真ん中に、そして両側に二人の犯罪人が十字架につけられている。ここに最初の教会ができた。そう語り始めている。ここに最初の教会ができた。これは奇妙な発想である。そう思う人があるかもしれない。私たちは、教会が生まれたのはもっとあとの聖霊降臨の日のことであるとか、あるいはまた前に遡れば、主イエスと弟子たちと共に生活をした姿に教会の最初の姿を見る。これが常識かもしれない。ところが、この人は主イエスと共に十字架につけられ、死につつある姿に最初の教会の姿を見る。少なくとも既にそこに、やがて生まれる教会の姿が先取りされているのである。そこで更にこう語っている。
この十字架につけられた犯罪人たちは十字架に釘で打ち付けられている。身動きができない。逃げるわけにいかない。 ペトロは裁かれておられるイエスを捨てて逃げた。主イエスとのつながりを自分で捨てた。ところが、犯罪人たちは、ここではそれを捨てることができない。そこに既に教会の特質が見える。しかも主イエスと共有するのは十字架である。 共に死に直面している。十字架につけられた場所は「されこうべ」と呼ばれる。おそらくその丘の形がされこうべに似ていたからだろうとも言うが、同時にここは刑場である。死に定められて、いよいよ死ぬという場所において、イエスにしっかり結び付けられているというところに教会の姿がある。この男たちの名は記されていない。「犯罪人」であったとだけ記されている。罪責を背負っているのである。(中略)明らかに罪人として人びとにさらされ、そのうちのひとりはそれを自覚させられている。そういう犯罪人である。死に直面してイエスと結び付けられている罪びとの集団。ここに教会がある。後にキリスト者になる人は、皆この集団の中に後から加入させられるようなものだとさえその人は言う。その通りであろう。
深い!と思いますけれども、ここでもバルト先生は、右の強盗も左の強盗も両方がクリスチャンであり、両方が含まれている群れが教会である、と言っているわけですね。うっかりすると、ともすれば、私たちクリスチャンは、こう考えやすいかもしれない。右の強盗は悔い改めて洗礼を受けた者、つまりキリスト者・クリスチャン、左の強盗は、ノンクリスチャン・教会外の人、そういうふうに読んでしまうことが多いかもしれません。ところがバルト先生はそれは違うのだ、と言う。イエス様に結び付けられて、イエス様をののしったり、あるいはわたしを思い出してください、と言っている人々の集団である、そういうことです。
考えてみれば私たちも、心ひそかに、イエス様、あなたが本当にメシア、キリストなら、こうしてくれたらどうですか。私のこの現状をいつまで変えてくださらないのですか。あるいはどうして私の人生のあの数年間に、こういう目に遭うことをお許しなさったのですか?メシア・キリストなら、キリストらしくふるまってくださったらどうですか?-まあ言葉自体は丁寧に綺麗に祈りますけれども―、心の中ではそんなふうに思っていることがある。
だからある意味で、ユダヤ人たちやローマ人兵たちの気持ちも、分かってしまう。それらの、ののしっている言葉の背後に、痛みがあり、苦悩がある。不安がある、怒りがある、どうしてこんな一所懸命に働いても、暮らしはちっともよくならないのか、いつになったら安心して暮らせる社会が来るのか、そういった漠然とした人間の存在の不安というものを、怒りや、ののしりの言葉として、人に投げかけている。そして究極のところでは、神に投げかけている。
そして、その世界中の、ののしりの言葉を背中に一身にその身に背負うようにして、いや、世界中の、というよりも、私の、あなたの、ののしりのことばをその背に受けて、ひとことも言い返さない、裁かない、そうして、驚くべきことに、こう言われるのです。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
私たちに告げられるのは、完全なゆるしのことばでした。私たちはそのことばを聞く時に、私たちの心のうちから、魂のうちから、ののしりの言葉は消えるのではないでしょうか?
英語圏では、「私を思い出してください」と言った右の強盗の方が、ディスマスと呼びならわされております。左の強盗は、ゲスタスと呼ばれていますが、そのディスマスの視点で語られたある人のことばがあります。こんなことばです。
ディスマスも十字架にかけられた人なので、こののち、死を迎えます。
しかしそれは、主イエスが息を引き取ってから、数時間あとのことになります。
主イエスは午前9時に十字架にかけられ、昼の三時に息を引き取りました。6時間、主イエスは十字架の上にいた。
私たちが黙想しますと6時間もいたのかと思いますが、しかしむしろ十字架はできるだけ長く苦しませる処刑方法ですから、主イエスの死は異例と言われるほど早かったんです。
ですから、ディスマスはその後を経験した。
彼はあの奇妙な日食を経験し、主イエスの7つのことばをすべて、間近で聞きました。
そして、その後、主イエスがいない時間、主イエスが、息を引き取った後の数時間もディスマスは経験しました。
意識がもうろうとし、視界はぼやけてくる。
もう人の声はおぼろげにしか聞こえない。
もうあの悪態をついていた相棒も、こと切れたのか彼の声も聞こえない。
イエス様に続いて、そうか、彼ももう逝ったのか、彼は意識がもうろうとしながら考える。
…ごつっと、重い、鈍器で殴られる音が聞こえます。
そう、主イエスのご遺体は守られて、骨を折られることはありませんでした。
しかし、一般に十字架刑の遺体はぞんざいに扱われます。
もう一人の、盗人の遺体は、そのようにされてしまったんです
ああ、次は自分の番なのか。そう悟った彼は、もう見えない目で天をあおぎ、声にならない声で、主イエスが最後に祈ったことばを、見よう見まねで祈ります。
「主よ、わたしの霊をあなたにゆだねます。」
その時、彼の耳に、はっきりとあの声が聞こえてくる。
「まことにあなたに言います。あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます。」
ここで、この話は終わっていますが、この続きがあると私は思うんです。このパラダイスということば、じつは新約聖書でここにしか出て来ません。原語のギリシャ語聖書ではパラデイソスとなっていますが、じつはこれはもともと、ペルシャ語なんです。ペルシャの王様の離宮と言いますが、王様の庭園なんですね。壁で囲われた見事な庭、そこには外界の危険も無い。いつもおだやかな時が流れている。
ですから、このペルシャ語から輸入されてギリシャ語になったものが、旧約聖書が紀元前250年頃にギリシャ語に翻訳された時に、エデンの園のことを、パラダイス、って訳したんです。さらに新約のヨハネの黙示録には、「神のパラダイスにある命の木を食べさせよう(黙示録2:7)」とありますが、この黙示録に記されている天国の光景は、エデンの園の再来というか、回復というか、完成なんですね。それをパラダイスと呼ぶようになった。
ですからきょう、私たちひとりひとりは、全員、主イエスの御声を聞くんです。あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいる!いずれ、でもない、あした、でもない、きょう!ほんとうかしら?と思うかもしれない。
けれど、宗教改革者マルティン・ルターは、宗教改革の激しい戦いの中、「主イエスが共におられるところ、そこは地獄であっても天国である。」そう言いました。それは、いろんな人からの言葉や時には物理的な攻撃を受けても、主イエスが味方である。それだけで十分地上の天国だ、と、そう思ったからでしょう。
私たちは神から完全なゆるしを受けて、神と和解させていただいた時に、神との間に平安を与えられると、怒りも、不安もおさまり、心に、魂にキリストの平和が満ちるのではないでしょうか。それこそ、地上での天国です。
ペルシャの王様は、国の功労者などを、その自分の秘密のようにしている見事な庭園である、パラダイスに、招いて、王様と一緒に散歩する、という特権を与えたのだそうです。
私は想像するんです。あのエデンの園で、アダムとイブが、善悪の知識の木の実を食べなかった状態の時には、そよ風のふく頃、主なる神と、一緒に、三人で笑顔で散歩していたんだろうな、って。
でも、それが、実は今、叶ったんです。イエス様と一緒に、エデンの園を、散歩している。その魂には何の不安も怒りもない。それが、神から和解、平安をいただいた私たちの姿なのであり、今、ここに立ち現われている小さな教会の姿なのです。お祈りをいたします。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様は、私たちをあわれんでくださり、御子主イエスをお遣わし下さり、全人類の、いや、私たちの、ののしりのすべてを、その御子の背に背負わせなさいました。その十字架につけたあなた様の悲しみは、いかばかりだったか想像すらできません。しかし、あなたはその御子の犠牲によって、私たちにいのちをもたらし、エデンの園の再来であるパラダイスにて、いのちの木の実を食べさせてくださいます。なおしばらくこの地上の旅路を続けますが、その平安を、楽園を、地上においても、お一人一人を生きさせてくださいますから、心から感謝申し上げます。どうぞおひとりひとりの心に、変わらない平安を、お与えくださいますように祝福して遣わしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
#三本の十字架
#賢い強盗
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