
SDGsと人権
あるキリスト伝道者が、SDGsと人権についての発言をしていた。
SDGsは人権も含んでいる。しかし、
「誰にも抑圧されないで尊厳や人権が守られることは大切な事」
としながらも、
「皆が皆、生きたいように生き、やりたいようにやったならば、この世界はめちゃくちゃになりますよね?」
という趣旨のことを述べていて「人権」の概念とは明らかに異なる何かを述べていた。人権とはむしろ、やりたいようにやられないためのものであり、自己中心とは逆の所にあるのが人権である。
(こうは言うものの、私も数年前まで、人権について今よりももっと分かっておらず、少し似たような概念で捉えていたので反省。日本ではいかに、本来の人権とは別モノとして誤解されて広まっているか、ということである。)
(私では説明が雑で細かい誤りも含むと思うが)まずはホッブスの論から、社会契約論によって、個人と個人の契約によって社会が形作られるが、自然のままだと皆が皆互いに闘争するようになる。そこで皆の暴力を全て一旦国家に預ける(警察や軍隊など)。
ところがこの国家(リヴァイアサン)の暴力装置(は暴走しやすく、個人を抑圧する風に向かいやすい。
だからこそジョン・ロックは、為政者は社会契約に従い統治し、人民の自由を守る義務があると説く。ロックは、こんにちの「人権」に当たる権利を保障するために人民は政府を設立する。また、人民は、人民の権利を保障しない政府に対しては、抵抗権によって、新たな政府を樹立する、と言っている。
ちなみに抵抗権は、宗教改革の時に、ルターが考案し彼の片腕のメランヒトンが記した「アウグスブルク信仰告白」の「市民生活について」の中で少し出て来、また改革派教会などで多く論じられてきた。プロテスタントの宗教改革が、人権思想の発展を助けたのは間違いない。
つまり、最初の話に戻れば、ことは逆で、個人の権利を守るために国家があるのであり、やりたいようにやる国家でも個人も、なんびとたりとも犯してはならない権利とした人類の発明が人権というようなことがよく言われる。私個人は「神のかたち(イマゴ デイ)」として作られた人間には、本質的に犯してはならない「何か」があり、それを長い年月をかけて、何とか言葉にしたのが「人権」ではないか、と思う部分がある。
現に、人権侵害をすれば、侵害した者はほぼ確実に、モーセの十戒のどれかを破って(あるいは抵触して)いるので、人間の本質的なものだろう。日本には(時にクリスチャンてあっても)個人(individual)が弱いか、もしくはindividualという考え方の枠組みそのものが存在しない場合が多いかもしれない。聖書はたびたび、全能者である神の前に一人立つ時を問うているけれども。
神の前に一人立つ個人、という概念が存在しなければ、常に何を気にして生きるかといえば「世間(あるいは場の空気)の前にどうか?」なので、世間や空気から外れれば、普通の主張でも"わがまま""自己中心"と見られる。
「人権」は「自分のしたいようにすること」というのとは大誤解で逆。「公共を考えること」である。
弱者とされている者の権利を守るように社会全体を変えるように訴えていけば、すべての人が生きやすい社会になる。これはルソーの言った「ピティエ(憐れみ)」であり、旧新約聖書が、弱者の権利を守れ、と繰り返し語っていることと共通する。そのピティエがまた、本当の民主主義の前提としても社会に必要なのだ。