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【礼拝説教否定論?? その③】
【礼拝説教否定論?? 続き】*個人の感想です。
さて、この箇条書きになっている5つのうちの1番上の「説教者を集会の主役にしてしまい…」のところです。「説教観」には色々なものがあるとは思いますが、
たとえば私が説教塾で「(説教作成の時の)黙想の段階からずっと会衆の顔を思い浮かべながら作ります」と言った時にある牧師先生から、
「その会衆の顔の中に、自分の顔もないといけないよ」
とアドバイスしていただきました。
これはとても深い、そして大切なことで、私が受け取ったのは、つまり、説教者の説教作成の時からの心の姿勢です。
つまり、自分自身が神とキリストの前にひざまずき、その次の週に定められているみことばの前にひざまずき、そのみことばの前に自分自身をさらし、格闘し、悔い改めたり、また新しいいのちをいただいたりするのです。「初めの回心は説教者の書斎で起こる」と言われる通りです。
そのような経験を通って日曜日の礼拝で語るのは、当然、神、キリストが主役になっており、会衆と全く同じ立ち位置(つまりキリストの前に頭を垂れる)に共に立ち、必要ならば会衆の前で自身の悔い改めを説教の中で語ることもあります。(また過去に誤りを語ったことがあったことがあれば、会衆に謝罪などもすることもあるでしょう)
そのようにして、十字架のキリストを指し示し、神のことばの宣言をする、そこにおいて、説教者自身も会衆と同じ位置・同じ目線に立ち、先立って回心した者として語っているので、会衆が説教中に回心(大きな回心でも小さな回心でも)経験するのだと思います。
そしてこの動画前後編を聞いて感じたことは、「説教や説教者のカルト化」を危惧していらっしゃることだと思います。これは私も共感します。
そのためにも3つめの項目「説教者の考え方が非聖書的でも直せない」を言っておられたのだと思いますが、これは単立の教会などで起こりやすいでしょう。説教者が権威主義になり、自分の言っていることだけが正しいなどと思い、上から目線で「あなたたちは悔い改めなさい」「私に逆らうことは神に逆らうことだ」などといった態度が透けて見えたり、あるいはあまつさえ口に出して言ったりする場合です。
これは大変悲しいことで、起これば深刻な問題ですが、そもそもそれは、私が最初に書きましたような、説教者としての心の基本姿勢を説教者が忘れてしまったか、そもそもその基本姿勢自体を知らない、ということから起こる問題であり、「説教がもたらす問題」ではないわけです。
説教者とは、牧師と呼ばれていたとしても、(こういう言い方をすると語弊があるかもしれませんが)役目の異なる信徒であり、「説教と聖礼典(洗礼と聖餐)」の役目を負ったクリスチャン(他の信徒と上下関係は無い)」ということだと思います。改革派教会などでは「説教長老」という位置付けだそうです。
3つ目のポイント「説教者の考え方が非聖書的でも直せない」というのは、たとえばある改革派の流れの教会では、説教中、長老たちがずらっと前の方に座っていて、それは説教者が言うには、私が非聖書的なことを語ったら、説教卓から引きずり下ろしてもらうためなのです」というようなことだったと私は記憶していますが、そのように「説教者が説教者としての姿勢を忘れないこと」と「非聖書的なことを語り続けるなら、注意・勧告を経るなどして、その講壇・説教卓から降りてもらう(、その教会の教職を退いてもらう)」しくみ(あるいはそのようなことができる信頼関係か?)があれば防げることであり、説教そのものが原因であるかのように言うのは、やはり違うと言わざるを得ません。
また、1つ目のポイントで「礼拝」と言わずに「集会」の主役と言っており、動画中終始ローチャーチ(これもあまり良い呼称ではないとは思いますが、簡単に言えば儀式的色合いが薄いカジュアルな教会くらいのイメージです。)的な説教者像を想定しているのかな?と思ったら、2つ目の項目で、「聖職者」への依存と言っており、ここだけ突然ハイチャーチ(儀式的色合いが濃い教会)的なものを想定しているのか、書き間違いでなければ、どうもあまりどういう説教者像で語るかの論が詰められていないように思います。通常プロテスタントではほとんどが(特にローチャーチ的な傾向が強い教会では)「聖職者」とは呼ばず「教職」などの呼称を使うからです。教職の場合、依存するような対象ではないニュアンスが強くなるでしょう(「師と呼ばれてはなりません」というみことばについては別の機会に述べるかもしれません)。
そして私が前の投稿で述べた通り、これらの5つのポイントのうちの少なくとも上から4つ(もしくは5つ全部)は、"説教がもたらす問題"ではなく、まずい説教が継続してなされたことがもたらす問題」なのであり、よくよく考えると、【本当の意味での礼拝説教が教会から無くなっていることからくる問題】つまり【説教の不在がもたらす問題】とも捉えることもできます。(もしくは、教会における何らかの取り組みが足りないことがもたらす問題)
当然、きちんとした礼拝説教がなされている教会であればあるほど、これら5つは解消されている率が高いことになります。説教において語られる神のことばは、人を変える(当然、説教者が心理的圧力をかけるのではない)力があるので、能動的な信徒を育て、相互貢献を促進し、実践的な信仰へと導くからです。説教だけで難しいのであれば、実践のための教育やアシュラムなどのデボーション運動などで補うこともできます。…というよりそもそも、世界中で説教を聞いて変えられた人が大胆に(時には外国にまで)宣教に遣わされ、社会を変革し、「実践」しまくって来たではありませんか。歴史を見れば火を見るより明らかであるし、今だってそうでしょう。
*そういう点では、私、田村隆明の説教を聞き続けても、あるいは教会形成の努力も足りず、ほとんど変革が起きていないではないか、というご指摘もあるかもしれません。それは全く私の欠けと言わざるを得ず、どうか私のために良い説教ができるよう継続して祈ってください、と言うほかありません。
そして最後、5つ目として記されている重要なポイントですが、 「信徒同士の関係を希薄なものにしてしまう」これは私たちはうっかりすると、「希薄であれば聖徒の交わりは成立しない(あるいは足りない)」と考えてしまいがちなのですが、主イエスが想定しておられる「聖徒の交わり」とは、どうも私たちがそのように考えているものとは異なるようです。
それが実は、次の礼拝説教で与えられております、マタイの福音書第12章46-50節に記されていることなのです。