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【文書版】📗礼拝メッセージ「ひとりの人間として扱われること」新約聖書 ルカの福音書第17章11~19節
一昨日2022年10月9日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✴️スピリチュアルアビューズ(霊的虐待・信仰という名の虐待)についても途中から話します。
📗礼拝説教「ひとりの人間として扱われること」
新約聖書 ルカの福音書第17章11~19節(新改訳2017)
11 さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。
12ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、
13声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。
14イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。
15そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
17すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
18この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
19それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
これはですね「感謝のサマリア人」と呼ばれることも多い箇所でして、というのは、先ほど、聖書朗読でお聞きになった、10人のツァラアトと新しい翻訳ではなっていますけれども、これは重い皮膚病のことですね。昔の聖書では「らい病」と翻訳されていましたが、でもその翻訳は実は正確では無くて、さらに差別であるということで、当時者の方や、ご家族の方が、その病が罪の結果であるかのような表現がなされてきたことで、大変苦しまれた歴史がありまして、それで、翻訳が改善されて、新共同訳のある程度新しい版からでは「重い皮膚病」(一番新しい聖書協会共同訳では「規定の病」)新改訳では第三版からヘブル語のツァラアトという、そのままの発音で載せられています。
私は「重い皮膚病」が一番ベターだと思うんですけれども、翻訳はどれも一長一短があって難しいものですね。もともとは打たれるという意味から来たことばだと聞いたことがありますが、旧約聖書では家の壁のカビなどもツァラアトって呼んだんですね。ですから非常に広い意味で、このことばが使われていて、なんでも崩れているものは、打たれたもの、ツァラアトと呼んだというこなんだと思うのですが、
このルカ第17章の場合は、重い皮膚病のことで、10人の人がツァラアトになって住んでいた。その人たちが同病相哀れむということで、一つの隔離された村に住んでいたわけですね。
そこをイエス様が通られる。皆さんご存知の方もおられると思いますけれども、サマリア人の土地というのは、ユダヤ人は避けて通りました。ユダヤ人とサマリア人はこの当時犬猿の仲、非常にいがみあっていましたので、ユダヤ人は遠回りをしてでもサマリア人の土地を迂回して行くのがセオリーだったんですね。もう通ったら、流血沙汰になるぐらいに言われていたわけですね。
そこの境界線のところを、わざわざイエス様が通られる。ユダヤ人の土地とサマリア人の土地の間を通られるわけですね。弟子たちは多分一緒に行っていたでしょうから、「おい、こんなところ通っていいのかな」「でもイエス様が行くって言ったからなぁ」とおっかなびっくりついて来ていたかもしれません。「しかもあれ、ツァラアトの人たちが住んでる村だろ?」って、二重にびくびくしていたかもしれません。
この村に住んでいた10人、彼らは、差別されていた、という表現だけでは生ぬるくて、どこかに隠れて住むということも許されなかったそうです。というのも、絶対に健康な人とニアミスしてはいけなかったそうで、少なくとも4、50mもしかしたら100m離れていなければいけなかったそうです。こんにちの、ソーシャルディスタンスのように思えますけれども相当の距離ですね。そんな感染力無いと思いますけどね、でも、なるべく目立つような異様な格好をして、「タメー、タメー」と叫ばなければならなかった。これは、「汚れております」「汚れております」という意味で、「近寄らないでください。わたくしのけがれがうつりますから」といったニュアンスなんですね。ですからこれだけ見ても、どれだけ彼らが悲惨な生活をしていたかということが分かるわけですね。
その10人を、10人とも、イエス様がことばひとつでお癒しになる奇跡のできごとですね。しかし、それは、瞬時にではありません。
「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」
と言っただけですが、その祭司に見せに行く途中で10人とも癒された、ということですね。10人癒されたうち、イエス様のもとに帰ってきて、ひれふして、神を賛美して、感謝したのは、10人のうちのたった1人であった。それも、9人のユダヤ人ではなく、1人のサマリア人だった、ということですね。
だから「感謝のサマリア人」という題名がつけられることがある。神さまは、このみことばから、今日、私たちに何を語りかけておられるのでしょうか?
私はですね、今日のこのみことばから、「9人の恩知らずな者ではなく、1人の恩に報いる人になりましょう」とか、あるいは「不平不満や愚痴ばかりで感謝の無い人ではなく、感謝する人になりましょう・感謝の人になりましょう」とか、そういった教訓めいたメッセージをするつもりはありません。
確かにクリスチャンにとって「感謝の生活」というのは、とっっっても大切なことです。パウロはその手紙の中で「すべてのことについて感謝しなさい」と言いました。ありがとうの反対は「あたりまえ」、とよく言ったりしますね。私もそうなんですけれども、つい、当たり前、と思っちゃう。歩けることも、自分の口でものが食べられることも、自分で排泄できることも、これも大病したら、当たり前ではなかった、ということが分かります。だから、これらを、あたりまえ、と思わずに、感謝する。
そういうふうに、感謝の生活をこつこつ、こつこつと送り、人生の終わりに、天に召される時に「ああ自分の人生はすべて感謝だった」「ありがとう」って言って召されていく。そういうのは私たちの理想ですし、―もちろんですね、死に際がみっともなくてもいいんですけれども―感謝の生活を送れたら素晴らしいですよね。
しかし、この「感謝」という人間の素晴らしい性質でさえも、―まあ私連日のカルト関係の報道やネット記事などを目にするたびに心がひりひりするくらいに痛いんですけれども―「感謝」という言葉さえ悪用されることがある。
たとえば統一協会は、前にご紹介した神保タミ子さんの「脱会」という本の中で、前には言いませんでしたけれども、統一協会の中には95%の法則というのがあるそうですね。これは何かというと、95%は文鮮明がしてくださったので感謝しましょう、あなたがたがすることは5%でいいんですよ。という理屈です。この数字は何も根拠がないんですね。
即席の霊能師の人が、あなた1,200万円でいいです。などと言って、献金をだまし取る。でも文鮮明様が、95%をしてくださったので、あなたはたったこれだけでいいんですよ。感謝しましょうね、などと言って、マインドコントロールしていく。そういう手口が行なわれていたことが書いてありました。(これは2,000年代の本なので、今は手口が変わっているでしょう)
またエホバの証人では、もう心が本当に痛むんですけど、家庭内で親がわが子をベルトやゴムホースなどで作ったムチでおしりを叩いて、そして子供に「ありがとうございました」って言わせるんですね。でも親だけが悪いんじゃないと思います。このエホバの証人という団体が、純粋な親をだまして、子供に虐待しながら感謝を強要してコントロールしやすい二世信者を作っている。
まあカルト、だけではなくて、いろんなところで、あなたは感謝が足りないところがいけない、などと言って、感謝を強要して、「感謝」というモラルを持ち出してハラスメントをする、いわゆるモラハラ(モラルハラスメント)もあるでしょう。まあこれはマインドコントロールの軽いものにあてはまります。感謝というのは、その人の心の内のことですから、人が強要するものではないからですね。
だからこそ私は、「皆さん感謝の無い人ではいてはいけませんよ。感謝する人になりましょう」という説教はするまいと思っているわけですけれども、もう一つは、そもそも、この箇所は、よくよく読めば、そういった人生修養のようなことを、言っている箇所ではないんです。福音書記者のルカもそれをここで言っていないし、イエス様自体が、ここで、そのことをおっしゃっていないからです。
それで、ここの17節、18節のことばですね。
17すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
18この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
ここをよく読んでみていただくとお分かりになると思いますけれども、ここの9人をイエス様は責めていらっしゃるでしょうか?まあそうかもしれませんけれど、ただ質問しているだけかもしれませんね。
次の質問を投げかけてみたいと思いますが、この9人は感謝が足りない、と言っているでしょうか?あるいは、9人は恩知らず、だと言っているでしょうか?
答えはノーですね。恩という概念はここでは語られていないんですね(もちろん別の聖書箇所にはあります)。つまり、私たちは意識して気をつけないと、その聖書のことばに、日本の価値観の美徳や教訓というものを読み込んでしまいがちなんですね。そこを一旦はずして、時代背景なども調べながら、聖書が本来何を言っているのかを適切に解釈していくことが大事なんです。
つまりここに書いてある通り、「神をあがめるために」一人のサマリア人だけが戻ってきた。これは何を意味するでしょうか?
ある聖書学者か神学者かの方が、こんな内容のことを言っているんです。そのままのことばではないんですが、9人のユダヤ人たちは、旧約に帰って行った。1人のサマリア人は、新約に帰ってきた。これが、ルカが言っていることであるし、イエス様がおっしゃっていることです。
9人のユダヤ人たちが、旧約に帰って行った。これはどういうことでしょうか?旧約とは、神との古い契約ですね。その様式に従って行ったわけです。祭司に見せなさい、とイエス様はおっしゃいました。これは旧約聖書の厳しい規定や複雑な儀式があったんです。それはレビ記の第13章14章に書いています。今は読まずに割愛しますけれども、病気が綺麗に治った。完全に健康になった。それで彼らは仕事に就いたりして社会生活に戻れるかというと、そういうわけではありません。この当時祭司が医者の診断のようなことをしたわけですね。祭司に患部をよく見てもらって、治っていることを確認してもらって、そして複雑な儀式をして、さらに罪のためのいけにえなどをささげて、それでようやく、祭司に「きよい」と宣言してもらう。そうやって、ようやく、社会生活に戻れて、そして仕事に就くこともできるということですね。
しかしなお、それでも、おそらく周りからの差別は残っていたでしょう。「祭司にきよいと宣言してもらったと言っても、見た目は綺麗になってるけど、本当に治ったのかなぁ」などと思われたでしょうし、さらに、この病気は、罪と深い関係があると思われておりました。それが旧約の言わば当時の当たり前の考え方だったわけです。「この人は罪のためにいけにえをささげて祭司にきよいと宣言してもらったらしいけど、まぁ祭司様の手前、まぁ俺たちの仲間には受けいれてやらないこともないけれど、昔どんな罪を犯したのかねぇ、ま、また罪を犯さないかどうか、俺たちがしっかり監視しなくっちゃね」ってそういう目で見られたかも知れません。病気は罪の結果だと思われていたからです。
考えてみればイエス様の弟子たちでさえそうでしたよね?ヨハネの福音書の第9章。生まれつき目の見えない人が出て来ますね。弟子たちはイエス様に対してどう言ったでしょうか?「この人が目が見えないように生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか?この人本人ですか?それともこの人の両親ですか?」そう聞きましたね。(病気は、神との関係が断ち切られたことが、目に見える形で現れたものだと考えられていた。)病気は、本人の罪か、先祖の罪の結果だと思われていたんです。こうなるとどこかに似て来ましたね。家族に病気が出た。家系図を見てあげましょう。ここにこういう相が出ています。先祖の霊障で、今ご家族に病気が出ているのですよ。それを解くために(先祖解怨するために)なんとかかんとか。ところがイエス様は、この人でも、先祖でもない。神の栄光が表れるためだ、と言って、その人が周りのユダヤ人たちから言われていた霊的な・スピリチュアルな呪いのことばからも解放して、肉体の目を開いてくださったばかりか、霊的な目を開いてくださって、全く新しい価値観、全く新しい新約の世界に入れて下さったのです。
ともすればプロテスタントの教会の中でも(ごく一部の教会だとは思いますけれども)、悲しいことにこのような、病気に対する呪いの言葉が語られることがあると聞いたことがあります。それは、たとえばある信徒や求道者の方か誰かが、うつ病などか何かのこころの病になったと。それを、あなたがうつ病になったのは、悪霊のしわざですよ、サタンのしわざですよ、とか、そこまで言わなくても、あなたがそうなったのは、信仰が足らないからだとか、祈りが足りないからだとか、クリスチャンなのに鬱病にになるなんて、あなたの信仰に何かの問題があるからだ、とか、あなたは感謝が足らないから、すぐ鬱になるのですよ、であるとか、なんーーーの根拠もないテキトーなことを言ったりして、結果的に言葉の呪いをかけているわけですね。まぁ日常的にそういう霊的ハラスメントをしているから、やられた方が鬱になるんじゃないかとも思うんですけれども、私は精神科医ではないので確かなことは言えません。けれども、そういった言葉で呪いをかけられたら、人は病の辛さに加えて、前回スピリチュアルアビューズと言いましたけれども、そういう用語があります。ちゃんと。霊的に責められて苦しみが倍増するんですね。それは病気を、ざっくりとその人の罪のためだとするのは、まさに旧約の価値観なのです。(軽度のマインドコントロール?と言えるかもしれない)
そういった苦しんでいるいわば現代のツァラアトの人が、いっぱいいるんです。何もこころの病や皮膚病の人だけではない。抑圧されたり差別されてたり仲間はずれにされたりして苦しんでいる人みんなそうです。障害者、社会の片隅に置かれている人、いないことにされている人、(宗教二世の方々、やっと社会が声を聞くようになってきた。)人間性(人権の一部と言ってもいいかもしれませんけれども)を奪われて、一人の人間として、生きることを奪われた人たち。でも私たち皆が、どこかそうかもしれない。一人の人間として扱ってほしい。この魂からの叫びが、「あわれんでください」という叫びになるのではないか。「イエス様、先生、あわれんでください。」「主よ、あわれみたまえ」って。
そこに、わざわざ来られる。イエス様はやって来られる。皆が迂回して行こうとして、自己責任でしょ、って、通り過ぎるような、そんな無数の人々とは違って、優しい目を向けて、あなたを見つめられる。そして癒される。あなたの人生を癒される。10人のうちのたった一人の、あなたを探して、見出すのです。
先ほど、まあ子供向けの讃美歌ですけれども「ひとりひとりの名を呼んで」「ちいさいひつじが」という歌をご一緒に歌いました。「ちいさいひつじが」というのは、
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もちろんルカの福音書第15章が語る、イエス様のたとえ話、99匹の羊を野に残して、一匹の羊をとことんまで探し続ける羊飼いの姿を歌った歌ですね。これが、まさに一人の罪びとを、見つかるまでとことん探し求める神のお姿であるし、同時にイエス様のお姿です。
それは一枚の銀貨を見つかるまで探し求める女の人のたとえ話にも現れています。なぜ命の無い生き物ではない銀貨にイエス様は一人の罪びとをたとえられたか、銀貨とは、肖像が刻まれています。創世記で人間をつくられた時の、神のかたち、神の肖像が、私たちのいのちに、皆さんひとりひとりに刻まれているからです。
そういう一貫した意識で、ルカは書いています。場面は移り変わっていますけれども、文脈は多分切れていなくて、イエス様の意識も、ずっと、神から離れた一人のひとを探し求める、という意識でずうっと続いていると思います。この神のかたちである人間が、本来の神のもとに帰って、そして抑圧されない、生き生きとした、のびのびとした人間本来の姿を回復する。イエス様は私たち一人一人に花を持たせるかのように「あなたの信仰が」「あなたを救った」と言われる。この救った、というのは、罪がゆるされて天国に行けるというのが一番大事なことですけれども、(抑圧からも、マインドコントロールからも解放された)一人の人間としてイエス様に扱われるという、全人格的な救いなんです。私たちはこうして人間性を回復すると、自然に、喜び、感謝と神への賛美があふれるのではいでしょうか。
皆さん一人一人に、イエス様は今、「立ち上がって行きなさい」とおっしゃいます。この、「立ち上がって」ということばは、「復活して」とも訳せることばです。味わい深いことばですね。再び立ち上がって、もう一度立ち上がって行きなさい「行きなさい」ということばも、「歩み続けなさい」と訳した方がニュアンスが出ることばです。何度くじけても、主イエスによって何度でも立ち上がらせていただいて、そして、生き生きと、人間としての歩みを、歩ませていただき続けようではありませんか。
お祈りをいたします。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
この世には、人間性を奪うものが数多くあります。それは、この世であっても、ともすれば、キリストの教会の中にもあるかもしれません。ひとがひととして扱われず、抑圧され、差別され、いないことにされ、迷惑な存在とされ、役に立つか立たないかで価値を決められ、自己責任で切り捨てられるようなそんな片隅に、光が来てくださった。主イエスは、迂回せずに私たちのところに来てくださり、声なき者の、「あわれんでください」という叫びを聞き取ってくださり、ひとりの人間として、見つけてくださり、神のかたちとしての人間性を、回復してくださいましたことに、心から感謝申し上げます。どうぞ私たちが、足りない者でありがらもなお、この一筋の光を、社会の片隅に、届けて行くことができますように、祝福して遣わしてください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
#信仰的虐待
#スピリチュアルアビューズ