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不安、執着、憂鬱、不平不満の正体がわかったらもうバイバイ!

先週1~2週間のこと。私はにわかに自身の価値について疑問が湧きドツボにハマっていた。

(私って何なんだろう。)

落ち込むという感じではなく、素朴な疑問という感じ。でも、得体の知れない不安のような恐れのようなものも感じ、地味に、じんわり、苦しんでいた。

きっかけはわからない。何かがあったということはない。何かあったのなら覚えている。だからきっとこうだ。

日頃から理想の自分像に邁進する”意識高い系”の私は、日常の些細な出来事に一つひとつ下手に向き合いすぎて、追いつかなくなった足元がグラグラによろけていたのだ。

天体は周期で動いているし、流れのない川はよどむ。地球に生きている我々人間にも何かしら周期があるようだ。私はそのバイオリズムによって、先週までの私と今の私が違う波にいることを悟った。

こうして他人事のように先週の私を見られる視点は、自然の流れという抗えない周期があることを受け入れた結果である。そこから事態を眺めてみると、自分の価値を考えるなんて、時間がある人間にしかできないことだと思える。それも”無駄な”時間だ。

もしかすると、自分の価値を考えるためには能力や発想も必要かもしれない。だとしても、まず大前提として必要不可欠なのが時間だろう。能力や発想があっても時間がなければ考えることができないからだ。

要はこれに尽きる。私は暇だった。
自分の価値に疑問を感じるほどヘタクソな思考をやりすぎる時間があったということだ。

さらにこうした時間が”無駄”なのは、他人を介さず自分だけで思考する場合に多いと思う。他人という別の思考があれば至る方向性が変わってくるからだ。

「時間がある」、「無駄な時間」、「暇」、色々な表現がある。指し示すものはそれぞれ違うかもしれないし同じかもしれない。けれでも一概に言えることはその逆を考えるとわかりやすい。

忙しい人は悩まない。否、悩む時間がない。

「忙しい」の定義も議論できるが、忙しいという人の何がどう忙しいかは置いておこう。

みんながみんなそうだろう。忙しいときは意識を向ける先が忙しい内容に集中する。だから悩んでいる時間も、不安を感じている時間も、執着する時間も、憂鬱になるような想像力を膨らませる時間も、不平不満を口にする時間も、忙しい事柄に打って変わってしまっているから、「ない」のだ。

その意味で、悩む人は悩むのに忙しいとも言える。

結論、不安や鬱々としていた私はただの暇だった。それゆえ不安や鬱々とするのに忙しい結果となっていた。

そう考えると本当にそうで、先週までの私を振り返ると実際にやるべき仕事もなく何か必要なことに追われることもなく、実に時間を持て余していた。簡単に立証できたではないか。であれば、今後こうした芳しくない感情たちをお出迎えしそうになった時にはこうして意識を切り替えたらいい。

(あ、私、暇なんだ。)

極めて前向きな気付きとして。
だからこのありがたい時間を何に使うか、これは最も自分の為になる贅沢な投資であろう。

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