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偏見の色眼鏡を外すということは自分に向き合うことに似ている

現在、 尾石晴 さんが講師をつとめる「 感性的読書会 」というオンライン講座を受講しています。

今回は、第3回目(DAY3)の内容について。

「村上春樹バイアス」という色眼鏡

今回の課題図書は村上春樹の小説「カンガルー日和」に収録されている「」という話。

私は学生時代に村上春樹作品をいくつか読んでみたがうまくハマれず、それ以来どうにも苦手になってしまった。

受講生同士で本について対話し合う「勉強会」でも、話題に上がったのが、これほど有名な作者だと「村上春樹バイアス」が良かれ悪かれついてくるというものだった。

そして当然ながら、自分も「村上春樹バイアス」という色眼鏡をかけていた。
いうまでもなく、私の場合は悪い意味のほうだ。

そういった経緯で、今回は読み込むのに苦労したが、何とか自分なりの「仮説」を立ててみた。

一番怖いのは「自分自身」に向き合うこと

どこか自信ありげな主人公は、ある夜、学校の見回りで全身が映る大きな「鏡」を見る。
鏡に映る自分を眺めながら一服していた主人公だが、ふと違和感を感じ、鏡の中の自分にとてつもない「恐怖」を感じる…。

というのが、色々と端折ったあらすじの一部。

主人公は「自分が思い描いている自分ではない」ということが一番怖い。
それを物理的に「鏡を見れない」というオチにして、怪談のような形式で表現しているのがこの文章だとしたら?

これが私の考えた仮説だった。

主人公は、鏡に映った自分自身に愕然としてしまったのではないだろうか?「これが自分なのか?」と…。

鏡の中の自分は、そんな自分を変えようとしてくる。
でも、自身は変わることを望んでいない

それ以来、自己と対峙することを避けている、という意味で「鏡が見れない」のだとしたら…?

自分にもあった「鏡が見れない時期」

思えば、私も鏡を見るのがたまらなく苦痛な時期があった。

0歳育児中だった。

その時期は、鏡なんてまじまじと見ている暇はなかった。
せいぜい最低限の身だしなみとか、何か違和感を感じて確認してみたらできものができているとか、そんな程度だ。

そんな折、鏡の中の自分をふと改めて見て「これが自分だろうか」と感じたことがある。

明らかに「思い描いていた自分像」とは違っていた。
自分の脳内にあるのは何故かいつまでも「産前の自分」で、その自分はいつもキレイに化粧をし、長い髪を茶色に染め、キチンとコテで巻いていた。

今の自分はどうだろう。
髪はバッサリと短くカットし、真っ黒な髪で、化粧なんか最低限のBBクリームくらいしか塗っていない。クマやシワもひどい。

鏡の中の自分を見ていると、当然ながら鏡の中の自分も自分を見つめてくる。

「生きていても特に楽しみが感じられない」とでも言いたげな不満げで虚な目が、自分へと向けられていた。

正直、苛立った。
「何見てんだよ」という気分にすらなった。

鏡を見るのが不快なので、必要な時以外は見ない時期が確かに自分にもあった気がする。写真を撮られるのも嫌いだった。

鏡や写真の中の自分が嫌いだった。
姿を見るのが嫌だったし、見るのが怖かった。

薄々とは気づいていた。

鏡の中の自分を不幸たらしめているのは自分だと。
でも、認めたくはなかった。

かたくなに「自分のせいじゃない」と、思っていたからだった。
自分の状況を決定づけているのは、自分以外の全てだと思っていた。

土日にすら夜泣きの対応を一切しない夫。
自分以外の人に抱かれると大泣きして離れない娘。
自由時間を削って作る離乳食の冷凍準備。
調べてもキリがない膨大な育児グッズ。
不眠の薬を処方してくれない近隣の病院。
バスに30分乗らないと行けない美容院。
子供と公園に行くことを想定されていない洋服。
膨大な予防接種の書類、スケジュール管理。
待ち時間が長く、午前中は余裕でつぶれる小児科。

でも、望んでいないその状況全てを選んでいたのは、結局のところ自分だったのだろう。
当時はそれがわからなかったし、そもそも考えたくなかった。

鏡の中の自分は無視され続けて、たいそう不満だったと思う。

そんなわけで、やっぱり主人公の男性が一番恐れていたのは「思い描いていた自分でない自分自身を直視すること」なのではないのだろうか、と思えてならないのだ。

思いもかけず、苦手だった村上春樹作品で過去の自分を重ねてしまい、しまいには涙まで流した。

何事も偏見はよくないというお話。
とはいえ、色眼鏡を外すという作業はなかなかに大変だ。

DAY1内容:

DAY2内容:

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