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出会えるのは「新しい自分」ではない
尾石晴 さんが講師をつとめる「 感性的読書会 」というオンライン講座を受講しました。
今回は、第4回目(DAY4)にして最終回の内容について。
誰にきいても「いい本」。そんなことある?
受講からずいぶん間が空いてしまった。書こうとしても書く気分になれなかったのだ。
何故だろうと考えてみたら、今回の課題図書は今までと違ってスルスルと頭に入ってきたため、逆に書きづらかったからだと思う。
課題図書は以下。
「感性的読書会」では、講座を通して3冊の本を読む。
この本は、今まで意見が別れた2冊と違い、誰もが高得点をつけるという異例の本だった。例にもれず、自分も高得点をつけた。
けれど、疑問も残った。
誰にきいても「いい本!」そんなことって、あるだろうか?
講師のはるさんの見解では「この本は『〜はダメ』とか、何かを否定して何かを上げているわけではないという点で、みんなの評価が高かったのでは」とのこと。
たしかに、だからこそ誰にとっても好意的に受け入れられたのかもしれない。
けれど、裏を返せば、「万人に受け入れられる」というのは、もしかして「特に強い表現をしていないので、引っかかりも少ない」ということかもしれない。
私が高評価をつけたのも、それにも関わらずアウトプットがしづらかったのも、もしかしたら同じ理由かもしれないなと感じた。
「黒」を隠すと当たり障りのない色になる
どこがよかった?と聞かれれば「全部!」と答えたくなる本だったが、強いて言うなら一番気に入ったのが「黒歴史を隠すな」という話だった。
今思うと恥ずかしいような「黒歴史」や「厨二病」に「自分」が隠れていることがよくあるからです。
「厨二病」の時のような、隠したくなるくらい何かにハマった時期の「好きな気持ち」は、大人になると持てなくなることが多い。
だが、その純粋な好きな気持ちこそが「自分らしさ」だったのだと最近思う。
ではなぜ、隠す人のほうが多いのだろうか。
「隠さずに好きでい続ける」のは、決して楽な作業ではないからだ。
まずは、自然と熱を失うパターン。
人は忙しい。次々に関心事やタスクが降りかかり、気づいたときには自分の「好き」に対する熱がすっかり冷めている場合がある。
火は勝手に燃え続けるわけではない。
燃やし続けるためには「別の力」が必要なのだ。
次に、自ら手放すパターン。
「いつまでも好きでい続ける」を、よく思う人ばかりではない。
そんな他者の尺度に無理やり合わせると、「好き」を手放すことになる。
「もう高校生だから」「もう大学生だから」「もう社会人だから」「もういいトシだから」…。
他でもない「自分」より、誰のことを指すかもわからない他人の尺度に、従ってしまうパターンも多いのではないだろうか。(少なくとも、自分はそうだった)
そして、そのどちらのパターンも「好きでい続けること」に比べればはるかに楽なのだ。
「もったいないことをした」と思った。
自分だけの宝物を、自らみすみす捨ててしまったのだ、という感覚だった。
ターニングポイントで置き去りにしてきた「自分」
最終課題を読んだ時、きっと私はさまざまなターニングポイントで、「自分」を捨ててきたのだろうと思った。
進級、進学、就職、転職、結婚、妊娠、出産…。
新たな分岐点に立った時、一緒に抱えて進むには重すぎる「自分」。
身軽になりたくて、私はひとつずつ「自分」を置き去りにしながらここまで進んできたように感じる。
「独立」という新たなターニングポイントに立った時には、もう置き去りにする自分はおらず、現在の自分自身はというと誰とも見分けがつかないほどに「中身のない自分」だった。その事実に、愕然としたのだ。
けれど、本にはこうも綴られている。
起業家についてよく「原体験」という話をしますが、「原体験」には「黒歴史」的なものも多くあります。
別に著者の若宮氏も「現在も好きでい続けている」とは言っていない。
過去に好きだった。
それを隠さずに話すようになったのだ。
「自分」を捨て続けてきた自分。
本当なら過去に戻って、全部一緒に連れていきたい。
けれど、もうそれはできないから。
せめて色々な分岐点に置き去りにしてきた自分を「思い出す」ことなら、できるかもしれない。
「好きだった」
その記憶だけは、しっかりと思い出して誰かに話していこうと思った。
もしかして過去に自分が好きだったことが、いつの日か置き去りにしてしまった「自分」が、今後どこかでまた繋がるかもしれないと思うと、少し希望が持てた。
自分が「わからない」のではなく「忘れている」だけ
何が「好き」なのかわからない。なんとなくぼんやりとした自分。
「感性的読書会」参加当初は、新しい本や新しい人を通じて、「新しい自分」に出会えるのかな、などと漠然と考えていた。
けれど、私にとっては、いままで辿ってきた道を振り返るような感覚があった。
おそらく、自分が「わからない」というよりも、「忘れている」だけだったのだろう。
出会いたいのは新しい自分ではなく、自ら手放した「過去の自分」だった。
これから、置き去りにしてきた「自分」を少しずつ拾い集めにいく。
そして願わくば、これからはどこかで捨てることなく、その全てを含めて「自分」といえるように。