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コンセプションとメディウム(孕むこと)[CCBT meetup #5]

東京にあるシビック・クリエイティブ・ベース・東京(CCBT)で連続開催されているメディアアーティスト藤幡正樹氏のゼミナール「アート&テクノロジーへの問い」Directed by Fujihata Masaki」も5回目を迎えた。

今回はコンセプションとメディウム、「孕むこと」と「メディア」の関係についての考察を行う。孕むこととメディア??と疑問に思う方も多いだろう。さてどのような授業だったのだろうか?


💡「コンセプト」とは何か?

「コンセプト」、この言葉は日常的に使われているが、その本質を理解しているかと問われると、何気なく使っているので答えに戸惑ってしまう人も多いだろう。例えば、企業においては「コンセプト」は以下の要素を含むものとして認識されることが多い。

  • 目的

  • 手法

  • スケジュール

  • 予算

商業資本主義の中では、コンセプトを立てた後に実行する段階で、資本の拡張やスケジュールや予算が計画に沿って運用されるかどうか、つまり「リターンがどうなるか?」という点も重要視される。

藤幡氏は「コンセプト」という言葉そのものが安易に使われすぎている現状に対して疑問を呈する。「コンセプト」という言葉が、実際には何を指しているのかが不明確なまま使われていることに違和感を覚えるべきだとも語る。

🎁「商品」「製品」「作品」から考えるコンセプト

「コンセプト」を理解するために、藤幡氏は「商品」「製品」「作品」の違いを問う。「製品」を作ったからといって必ずしも「商品」になるわけではない。「商品」はマーケットに出るものである。一方「作品」は「商品」を目的とせず、「作品」は作り手自身の問題を解決するために生まれるものだと述べる。
「作品」は作り手との対話の産物であり、広くオーディエンスに届くこともあれば、届かないこともある。最初から「商品」を目指して「作品」を作ることは芸術に対しての冒涜ではないかとも藤幡氏は語る。
 
ただし、「作品」だと思って社内開発している人もいる。このような場合は、本質をつくので、ヒットする商品にもなると言う。ウォークマンが良い例だ。ソニー黒木靖夫氏は「自分が楽しみたい音楽のあり方」を作り手である自分の中で対話して作ったものなので「作品」でもある。「作品」と言える「商品」は、人々の行動を変容することは歴史が証明している。
スティーブ・ジョブズも同じである、と藤幡氏は続ける。コンピューティングは手のひらにあるべきだという作り手である自分とプロダクトが対話してできたものがiPodでありiPhoneだった。

🪐レオナルド・ダ・ヴィンチ作品から学ぶ「コンセプト」

さて、コンセプトとは何か?これを歴史の美術論争や、絵画の世界から紐解いていく。

受胎告知』 Annunciation レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci

レオナルド・ダ・ヴィンチが描く『受胎告知』。フィレンツェのウフィツィ美術館で見たことがある方も多いだろう。この『受胎告知』は新約聖書の「ルカによる福音書」1章26節から38節で描かれる出来事で、天使ガブリエルが聖母マリアに、神の子イエスを胎内に宿すことを告げる場面だ。この告知の出来事自体が「受胎告知 = Annunciation」と呼ばれる。重要なポイントは、これは「告知」、つまり未来に起こる神の子の受胎(Conception コンセプション)を予告するものであるという点だ。

👶コンセプション = イエスの受胎 、 コンセプト = イエスそのもの

Conception コンセプションは何かが生まれる段階で、Concept コンセプトはそれが形になった結果を指す。「ルカによる福音書」を例にとると、コンセプションは、生物学的な受胎、つまりマリアが神の子を宿す具体的な出来事そのものを指す。これは、告知が行われた後に実際に起こる出来事で、マリアの胎内にイエスが宿る瞬間を意味する。Conceptionは、告知された未来の出来事が現実となる瞬間だ。マリアは未婚のまま、神の子を胎内に、身ごもる。これは、予想外の出来事、奇跡、受け入れがたい出来事を受け入れることと等しい。その結果生まれるのが Concept 「コンセプト」イエスなのである。つまり、この例で言うとコンセプトとはイエスを指すのである。

✍️ポエーシスを軸にコンセプトを考える

詩と芸術は密接な関係にある。まず、「ポエジー」の語源である「ポエーシス」の概念を例に挙げると分かりやすい。種を植えると、種の中に組み込まれたシステムが働き、やがて芽が出る。これは自然の中で生命が自己生成するプロセスだが、詩もこれと同様に、詩人の中にあるものが自然と芽生える現象といえる。

つまり、詩人は「メディア」としての役割を持っている。自分の内面にあるアイデアや感情が、詩という形で外に表現されるが、その表現は詩人自身が完全にコントロールできるものではない。詩は、詩人の意図や考えを超えたものとして生まれるのだ。これは、作家になるということを意識的に決めてなるものではなく、むしろ内に潜む作家性を発見し、それを引き出す過程にある。

そのために重要なのは、自分の中の「種」に気づき、それに水をやる、すなわち成長を促す環境を整えることである。作家になるのではなく、作家としての才能や表現が自然に「なってしまう」ということなのだ。ポエジーという言葉も、本質的には外側から表れてくるものであり、詩人はそれを見つける存在だ。詩が芽生える瞬間は、まさに受胎告知(コンセプション)に似たタイミングであり、新しい創造が始まるとき、と藤幡氏は語る。

つまり、コンセプト(構想)の具体化、すなわちアイデアを現実にするためには、身体的な実践が不可欠であると言うのだ。アイデアやコンセプトが生まれても、それを形にするには行動が伴わなければならない。 

🤸ミニ・エクササイズ:リンゴの「コンセプト」とは?

リンゴの「コンセプト」。それは、リンゴそのものに履歴として、含まれている。リンゴのコンセプトは、そのリンゴがここに来る前に生まれていたもので、われわれは結果を知ること、つまり「なぜここに来たのか」を知ることが、リンゴの生命的理由になるだろう。
これは言葉だけで辿ることは難しい。イメージで辿ってゆくことによってのみ、コンセプトに触れることができる。つまり、リンゴを食べてみることだ。

藤幡正樹「アート&テクノロジーへの問い」CCBT連続ゼミナール

💡コンセプチュアルアートについて

19世紀にエドゥアール・マネが伝統的な美術様式を打破し、当時の社会や現実を直接的かつ大胆に描写する手法を導入したことで、モダンアートの流れが始まった。彼の作品『草上の昼食』や『オランピア』は、古典的なテーマや理想化された歴史、宗教的題材とは一線を画した。このマネの革新は後の印象派やキュビズムへと影響を与え、1960年代にはコンセプトの開拓を行うコンセプチュアルアートへと進化していく。

コンセプチュアルアートでは、アイデアそのものが作品の中心となり、その実現プロセスや物質性よりも「概念」が重要視される。我々が生きている時代(2024年現在)は、まさにコンセプチュアルアートの影響を強く受けたものであり、これから逃れることはできない、と藤幡氏は語っている。

⚡️ウォルター・デ・マリア:地球をコンセプション

The Lightning Field (1977)  Walter De Maria

具体的な例として、1977年にウォルター・デ・マリアが発表したアート作品『The Lightning Field』がある。ニューメキシコ州の高原に設置された400本のステンレス製のポールを使ったランドアートであり、自然現象である雷を引き寄せるように設計されている。この作品は、自然と人工物の対比を強く感じさせるものであり、デ・マリアの代表作となっている。

藤幡氏は、このようなランドアートの意図を「雷を呼び寄せる」という行為に例えている。アーティストは、まるで八百屋がトマトやとうもろこしを提供するように、人々に自然の本質を感じさせる存在である、と言うのだ。つまり、デ・マリアの作品『The Lightning Field』は、稲妻を感じることで、地球や自然そのものを感じさせるものであり、その意図はアーティストが人々に自然と向き合わせる行為と捉えることができる。

👤コンセプチュアル・アート提言者:ソル・ルウィット

コンセプチュアルアート(概念芸術)を定義した人物として最も影響力があったのは、アメリカのアーティストであるソル・ルウィット(Sol LeWitt)だ。ソル・ルウィットは「空間を再認識させる」コンセプトの作品を作る。
心を揺るがす情動を取り払い、我々と空間を素直に向き合わせる。数学的、ジオメトリックなアプローチで「空間とはどういうものか?」を作品は問う。彼の作品は指示書をもとに作品を作ることができ、アルゴリズムベースのGenerativeArtにも近しいものがある。
 
ソル・ルウィットは1967年のエッセイ「コンセプチュアルアートに関するパラグラフズ」("Paragraphs on Conceptual Art")で、以下のように述べている

コンセプチュアルアートにおいては、アイデアまたはコンセプトがもっとも重要である。作者がコンセプチュアルな芸術形式を用いたとき、それはプランニングや決定がすべて前もってなされているということであり、制作行為に意味はない。アイデアが芸術の作り手である。

ソル・ルウィット『コンセプチュアルアートに関するパラグラフズ』
(Paragraphs on Conceptual Art, Sol LeWitt)、1967年

 彼は続ける。

なぐり書き、スケッチ、素描、失敗作、模型、習作、考え、対話、そういうすべての間にあるものが興味深い。これらはアーティストの思考の過程を見せているし、それは出来上がった作品よりもさらに興味深い。

ソル・ルウィット『コンセプチュアルアートに関するパラグラフズ』
(Paragraphs on Conceptual Art, Sol LeWitt)、1967年

アイディアが大事であり、実現することは重要ではない!と言っているのだ。ある意味、今までの教科書通りのアート(アートはアウトカムの美しさや技巧が注目される)を学んでいる人には驚きを持って迎えられるものだろう。

この文章を藤幡氏は「ソル・ルウィットは敵に向かって語っている」と語る。「そこには敵がいる。という想定でテキストを読まないとものの本質には辿り着けない。なぜコンセプチュアルアートをわざわざ定義したのか?敵がいるからだ。敵とは手業を駆使して作品を作るがコンセプトを持たないアーティストの仕事と見ることができる」と語る。

作家個人の独創性に依拠せず、アルゴリズムを先に作ることで、誰でもがそのコンセプトを経験できるようにすると言うのがコンセプチュアルアートなのだ。

藤幡氏は「メディアアートの作品を見て工学部の人が「僕だったらもっと上手く作ります」とコメントすることがある。コンセプト、アイデアに注目するという視点が日本では足りない。よりよく作る。作り手の手業にフォーカスするのが日本なので、まだまだ1960年台に始まった西洋のコンセプチュアルアートの前提まで辿り着けていない」とも語る。

誰もがアートに参加できる。アイデアさえあれば、技術は必要ない。アイデアがメディウムであり、アイデアの具体化はルールに基づいて行われる。これにより、作家の独創性やユニークネスに依存せず、誰でもそのコンセプトを経験できる。制作行為そのものが重要なのではなく、アイデアが重要であり、技術的なスキルに頼る必要はない。」

ソル・ルウィット『コンセプチュアルアートに関するパラグラフズ』
(Paragraphs on Conceptual Art, Sol LeWitt)、1967年

ソル・ルウィットは、1960年代に活動を開始した。彼の作品は、公民権運動やベトナム戦争、ヒッピー文化といった時代背景の中で、誰もがアートを創造できるという思想に基づいていた。この考え方から、コンセプチュアルアートが生まれたと言うことも忘れてはならない。サンフランシスコで制作された彼の作品では、指示書をもとに誰でも参加できるように設計され、制作のプロセスが開かれていた。
 
さらに、コンセプチュアルアートは「ホワイトキューブ」と呼ばれる従来の美術館やギャラリーの形式に対する批判でもあった。ホワイトキューブは権威が意図的に作品を展示し、作品の解釈/価値を変更することができる場所だ。だが、ウォルター・デ・マリアの『The Lightning Field』では誰が地球の価値を変更することできるだろうか。

🤖人間機械論から見るコンセプチュアルアート

コミュニケーションについて考える際、メッセージや通信がどのように相手に影響を与えるか知ることが重要である。ノーバート・ウィーナーのサイバネティクスの考え方に基づけば、人間同士が情報を交換するとき、その情報はどのように作用するのか、というサイバネティックな視点が必要となる。コミュニケーションの重要性はここにある。

情報とは、われわれが外界に対して自己を調節し、かつその調節行動によって外界に影響を及ぼしてゆく際に、外界との間で交換されるものの内容を指す言葉である。

ノーバート・ウィーナー『人間機械論』(Cybernetics: Or Control and Communication in the Animal and the Machine, Norbert Wiener)、1948年

ウィーナーの「人間機械論」では、情報とは、外界とのやりとりの中で自己を調節し、その行動によって外界に影響を与える際に交換される内容のことを指している。これは、外界との間で行われるフィードバックループを通じて情報がやりとりされるプロセスである。

コンセプチュアルアートの一例として、ウォルター・デ・マリアの『THE LIGHTNING FIELD』は、人間が地球や環境にどのように関わっていくのかを問いかける作品であった。動いている環境、たとえば宇宙や風といった要素に対して、サイバネティックな関係でどのように関わっていけるのかを考える。このようなコンセプチュアルアートも存在し得るだろうと、藤幡氏は語る。

💡作品を作ることは、情報を作ることか

藤幡正樹「アート&テクノロジーへの問い」CCBT連続ゼミナール

最後に、藤幡氏は「作品を作ることは、情報を作ることか」と問いかける。私自身、コンセプチュアルアートや他の美術運動の作品から作家のメッセージを受け取り、作品は確かに情報を伝達するメディアであると感じている。しかし重要なのは、その情報が作品の中にあるわけではなく、受け取る側の中で新たに生まれてくるものである、という点だ。藤幡氏は「情報というのは読み取る側の中に産み落とされていくものだ」と強調している。

藤幡氏が語る「ポエジー」とポエーシスの概念を適用するならば、受け取る側が作品をもとにどれだけ自律的に詩や新しい意味を生み出していけるかが問われる。

作品を受け取る側がその「種」に気づき、それを育てていくことが大切であり、コンセプトの具体化、すなわちアイデアを現実化するためには、身体的(詩人であり、鑑賞者であり)な実践が不可欠である。作品が、受け手の中で新たな詩や意味として自己生成されることが、芸術の力であるといえるだろう。


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