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ウィグ子爵家の兄弟と家令ヴァンサンの事情ー「結婚商売」にまつわる雑学③

Accolade(騎士の叙任式)
Edmund Leighton, Public domain

via Wikimedia Commons

マンガ版「結婚商売」30話公開を受けて緊急考察!

貴族の階級制度を長々と書いたので次は女性の話を…と思っていたのですが、マンガ版「結婚商売」30話を受けて「これはやはり先に騎士の叙任や荘園、家令について書かねばならない!」と執筆順を変えました。ビアンカごめん!
※原作のかなり奥深いところまで取り上げるためネタバレ注意です※

このnoteは韓国の小説/ウェブトゥーン作品「結婚商売」の設定を独自に考証し、時代背景を深堀りして楽しく読むことを目的に書いているため、取り上げている内容に偏りがあります。「結婚商売」をご存じない方はこちらもどうぞ🔽

「一番潰しが効かない」世襲の果ての子爵家

主人公アルノー夫妻の人生を大きく変えた人が30話でようやく顔出し出演です。ザカリーの兄で、当代のウィグ子爵であるローラン・ド・ウィグ。
年齢は明かされていませんが、35歳前後(ザカリーの5、6歳上)に見えます。

ザカリーの実家ウィグ家は子爵家です。
雑学①・②に書いたとおり、フランスにおいて子爵(vicomte)は諸侯(公爵、侯爵または辺境伯、伯爵)と異なり、ローマ帝政期から連綿と続いたdux、comesに直接起因する階級ではなく「伯爵の副官」が始まりで、これがカール大帝の死後に巻き起こった封建制のピーク(日本で言うところの戦国時代)において伯爵から何らかの理由で自立し、ときに伯爵領の一部を簒奪さえして貴族階級に割って入ったようなものです。伯領以上の封土を持つ貴族の家で長男が早くに社会に出る場合や、複数の自領を持つ貴族が次男以下に相続させたりといった形でも成立します。
(ちなみにスペインでは「跡を継ぐまで嫡男が名乗る爵位」という色が濃いようです)

ただ筆者は、vicomteはそのなりたちゆえに「最も潰しが効かない中途半端な階級」という認識を持っています。というのも諸侯の封土は主君(主に国王)から貸与されている恩貸地の割合が大きいのに比べて、下級貴族は自領が多かったからです。自領割合が大きいというのは損で、相続や教会への寄進で目減りする資産のほうが多いことを意味します。結果として子爵家はコレといった収入源がない限り、世襲が続くにつれて荘園がどんどん小さくなり、困窮していく可能性が高いのです。また、このような規模では軍事活動で功勲を挙げるというのも厳しかろうと思われます。

●時代によっては男爵のほうが伸びしろがある!?
子爵より下の序列である「男爵」は主君との直接契約によって階級社会に加わったのが始まりで、本来は子爵と同じく自領が中心だったそうです。ただしおしなべて騎士が功勲を挙げて獲得する地位なので、初代がザカリーのように戦争の多い時代にその才覚と勢いでもって連戦連勝すると報奨金や恩貸地も増えて裕福になっていきます
なおザカリーは物語開始時点で伯爵位にありますが、マンガ版17話で結婚当初は男爵であったことが書かれており、原作2巻に「そうして九年の歳月が流れた。ザカリーは男爵から子爵となり、伯爵となった。」という記述があること、男爵位とともに得たアルノー領に則って「ザカリー・ド・アルノー」を名乗り続けていることから、どこかの伯爵領を得たことで伯爵となったのではなく、軍功によって伯爵位をセブラン王から授与されたものと思われます。
(15世紀は貴族階級制度が確立しているので有り得る話)

垣間見えるウィグ家の所領とローランの育ち方

「ウィグ家カネないなあ…(やっぱりな)」
というのが30話を読んで皆さん真っ先に思ったことではないでしょうか。

ウィグ家がどんな貴族だったのかは原作2巻の番外編「ザカリー・ド・アルノーの事情」で語られている要素も多いのですが、原作と多少異なるとはいえ30話で明らかになった様子からすると、こういった特徴があります。(順不同)

  • 住まいが領主館

  • 当時のヴァンサンも当主に意見ができる使用人だった

  • 使用人*の食事に事欠くほど困窮している

  • 父は子育て不干渉だが跡継ぎ問題は死の直前まで懸念していた

  • 父が逝去した時点の遺言は「ザカリーは修道士になること」

  • ローランの実母は彼を産んだ際に産褥死している

  • 父の後妻はローランを可愛がってくれたがザカリーが生まれるとその愛情は向けられなくなった(ザカリーが10歳の時に流行病で死去)

  • 実母の愛情と世話を受けて育つ弟への嫉妬は凄まじく兄弟仲は悪い

*マンガ版の27話と30話で度々出てくる「家族」という日本語訳は、文脈から判断すると「家臣」や「使用人」と翻訳するべきで明らかに誤訳です。

さあ、ウィグ家、アルノーと全然違いますね。
まず領主の住まいが「邸宅」(マナーハウス)と訳されており、実際の外観も城ではありません。このことから、ウィグ家の所領は「塊村」と呼ばれる形態であり、主な収入源は荘園運営ではないかと思います。
しかし先述の通り特段の収入源がない子爵家は往々にして裕福ではありません。
実際ウィグ家は当主の葬儀のあとに家臣たちに与える食料さえないという有様です。

そんな子爵家でも既得権益ではあります。
ローランは嫡男ですから、放っておいてもいずれ跡を継ぐことはできるはずですが、悲しむべきは異母弟があまりにも優秀だったことです。原作ではザカリーのほうが明らかに秀でていると親が見ていたことが示唆されています。
さらには本人が語ったとおり、「自分は実母の愛を受けることなく、幼少期にあたたかく接してくれた継母も実子が生まれてからは同様の扱いをしてくれなかった」と、愛情を受けて真っ直ぐ育った弟への僻みに塗れています
結果として、既得権益である所領を継ぐことだけが人生の目的になり、「ザカリーの排除」はローランが家を継ぐにあたっての心理的必須要件だったのでしょう。
しかしそれをしたがためにザカリーは英雄になったのですから、人生ってわからないものです。人間、真面目に生きなければなりませんね。

30話公開直後、筆者のTwitterのフォロワーさんの間で「ご飯もないのにワインは飲むのか!」というツッコミが複数挙がったのですが、ヨーロッパは今も昔も飲料水のほうが高価です。水が悪いのでワインやシードルといった果実酒、麦芽酒を盛んに作ってきた歴史があります。美味しい軟水をふんだんに使って清酒を作ってきた日本とは酒の存在意義からして違うのです。
原作ではビアンカの起き抜けの水分補給がワインですし、荘園においては生産されたワインは全て領主館の酒樽に納められる決まりがありますから、食料がなくてもワインはあるってことなのでしょう。

ちなみにどこまでもローランとザカリーを比較するようで兄さんには大変申し訳ないのですが、アルノーは城壁に囲まれた堅固な城と城下町がある「インカステラメント」と呼ばれる形態を取っています。ご存知の通りアルノーはザカリー率いる騎馬隊の軍事活動がメインの家です。アルノーの正規軍は3,500(3,000出兵してなお領地に500の軍が残っている)、厩舎には家1軒の価値があるとされる軍馬がひしめき、その華々しい軍事活動で得た報奨金で非常に裕福です。
またザカリーはアルノー領を得てから強固な築城をしており、数ヶ月の籠城も可能なだけの物資を城内に抱えています。
さらにヴァンサンの説明によるとアルノー領は農業、林業、畜産すべて可能な土地で、原作によればワイン用の葡萄も盛んに栽培している様子が伺えます。
ヴァンサンはビアンカにアルノー領の特徴を「ありがたい限りです」という言葉で表現しています。おそらくウィグ領との比較が念頭にあったのでしょう。

家令ヴァンサンの決断がザカリーの運命を変えた?

さてアルノーでは執事長という役回りのヴァンサンの事情はどうだったのでしょうか。
マンガ版の序盤でも彼が16歳のザカリーに付き従っている姿が描かれており、ウィグ家の時代から苦楽を共にしてきた家臣であることが示唆されていました。
原作ではヴァンサンがザカリーに付いたのは「幼い坊っちゃんをそのまま行かせることが忍びなかったから」と描写されていますが、使用人としての彼の格は記述がありません。しかし30話でヴァンサンは「ザカリー坊ちゃまを放擲するのを1日延ばしてほしい」と当主になったローランに請願しており、それが可能な立場にあったことが明確です。また身につけている衣装も下男のような見窄らしさがないことから、おそらく家令だったのだろうと推察します。

「家令」とは荘園の実質的な運営を行う領主直属の部下のことで、家政(結婚商売では家事と訳されているアレ)と領土の監督者です。彼らは地場の有力者や自由民の富農、あるいは騎士階級の家から読み書きができる者が選ばれます。このことからヴァンサンはウィグ領土着の裕福な家庭の出身だったことが伺えます。年齢的にも先代(ローランとザカリーの父)への忠誠心がまずあり、その中でこの兄弟の成長を見守ってきて、ローランには後継ぎとしての資質が見込めないと常々感じていたのでしょう。
かくして30話でヴァンサンはローランのいるマナーハウスを苦々しげに一瞥するや、ザカリーの荷物を持って歩きだしました。
家令が領主を捨てた衝撃の瞬間です。
家令にまで見捨てられるローラン…

ローランの誤算が生んだ時代の寵児

さて、弟のザカリーです。
マンガ版のザカリーは「寡黙で何を考えているかはよくわからないが、領地民にも慕われる心優しい青年伯爵」ですが、原作ではもう少し重々しい雰囲気の漂う大人の男で、騎士としての精神に殉じる姿が描かれています。

騎士になったのはどちらかというと遅いほうでしょう。というのも原作でザカリーは、
「信心のない自分が(父の遺言に従って)聖職者になるなど話にならなかった。貴族としての名誉を守り、出世のために騎士を選んだ」
と回想しています。つまり父はザカリーを騎士にするつもりはなかったのです。

一般的に貴族の男子は7歳頃から騎士見習いとして軍事活動が盛んな他家に出仕し、そこで基礎訓練を受け、礼儀作法や情操教育は教会で習得します。14歳頃になると「従卒」となり、本格的に戦士としての教育訓練を受け、17歳〜20歳で騎士叙任を受けて正規の騎士となります。
従卒は礼拝堂で徹夜で祈りを捧げ、夜が明けるとミサと祝宴が開かれます。そこで新しい武具と拍車(馬具のひとつであり、剣とともに騎士の象徴の一つ)を与えられ、主君は新たに騎士となる者の頬や肩を掌か剣で打ちます。
そう、本稿のタイトル画像「アコレード(騎士叙任式)」です。

しかし、おそらくザカリーはこうした正規ルートを辿っていません。若い頃のザカリーは「遍歴騎士」と揶揄されていることからも、領地を出奔してすぐ傭兵のように戦場に出て、喧嘩殺法的に軍人としての経験を積んだのでしょう。
実際、原作でも「兄への復讐心が湧く余裕もないほど戦場は慌ただしかった。目の前で人が死んでいく。命の保全などない状況だった。戦争に出てしばらくは出世など眼中にもなくなった。夢中で剣を振り回した。死なないためにはそれ以外に方法がなかったのである。(中略)幸いにもザカリーには才能があった。相手の死に巻き込まれず戦況を冷静に読む目を持っていた」とあります。

かくしてザカリーは僅か3年で男爵の位とアルノー領を獲得して「時代の寵児」、「家門を継げない同年代の貴族の偶像」となるのです。

原作では大貴族ブランシュフォールの嫡男であるビアンカの兄ジョアシャンでさえザカリーの立身出世物語に夢中だったことが書かれています。妹が幼くして結婚してしまうショックよりもザカリーが義弟となることに諸手を挙げて歓迎し、妹は幸せに豊かに暮らすだろうと思いこんでいたそうです。お兄様ぁ…

余談:大元帥となった子爵の物語

なにしろ話の発端がローランなので「子爵なんて碌なもんじゃない…」みたいな流れになってしまったのですが、最後に夢のある人物を紹介しましょう。
不世出の軍人、テュレンヌ子爵 アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュです
彼の場合は貧乏子爵ではなく、実家が大貴族で子爵領を分割相続した人ですが、彼もまたザカリーのように戦場で地道に軍功を重ね、最終的にフランス王国史上6人しかいない「大元帥」に上り詰めた人で、ナポレオン・ボナパルトが挙げた7傑の一人です。
彼と同時代を生きた華やかな英雄「大コンデ」ことルイ2世・ド・ブルボンとの関わり含めて、彼の戦歴は非常にドラマティックです。Wikiなどを読むだけでも面白いですが、たいへんわかりやすく彼の人生をまとめているページがありますので興味があればご高覧を。


当初の目算ではガスパルをモデルにして騎士叙任式を書きたかったんですが、安物兄のせいで全然違う形になってしまいました。まあ結果としてはウィグ家の話も見えてきたので満足ですけどね。

主な参考資料
「図解 中世の生活」(池上正太)
「ギ=フルカン「領主制と封建制」 : 比較研究のための覚書き」(東出功、北海道大学人文科学論集, 14, 17-44)



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