貴族はすべからく軍人だった━「結婚商売」にまつわる雑学②
雑学①に続いて爵位に関連するお話。
本稿では「そもそも公爵とか伯爵とかって何?」という根本的な部分を掘り下げながら、フランスで爵位と貴族制度が確立するまでの長い長い歴史を見ていきます。
公と伯の語源と騎士の起源
ヨーロッパ貴族の爵位で最も古くからあるのは「公」と「伯」の2つです。
一般にヨーロッパの貴族制度は「中世の荘園制度に基づく」とされますが、実はさらに遡るとローマ帝政に起源を持ち、フランク王国時代にレーエン制(有力者に恩給地を与え、代わりに忠勤を負わせる一代限りの役職制度)、そして封建制(より強い者と主従関係を結び、報酬として土地と農奴を得ること)と合体して基礎を確立し、その後は各国で独自の展開を見せたものです。すなわち、フランスは中央集権が進んだ国としての爵位になり、皇帝を有力貴族が選挙で決める複合国家だった神聖ローマ帝国は、選帝侯や辺境伯といった各地の統治権を持つ貴族が強い国としての爵位になっていきます。
「あの国をモデルにした作品には、前に読んだ作品に出てきた爵位がないぞ?」といった経験をしたことがあるとしたら、それはつまり、そういうことです。
スタートはローマ帝政期の軍司令官
紀元前1世紀以降のローマ帝国は広大です。イタリアのみならず、ギリシャ、小アジア、アフリカ北部、そして「ガリア」と呼ばれていた今のフランスを中心とする中央ヨーロッパ、今のイギリスであるブルトン島までもが支配地域でした。
あまりにも広大なので、ローマから見て辺境の防衛や管理を担う役人が各地の豪族から選出されるようになります。dux(ドゥクス)、ラテン語で「案内者・指導者」を意味し、転じて将軍クラスの軍司令官を指し、公爵(duc デュク)の語源となりました。またドゥクスの副官であり、もう少し狭いエリアの防衛を担当したのがcomes(コメス)でした。伯爵(comte コント)の語源です。
彼らはローマ帝国の定める騎士の身分でした。
フランク王国が制度を継承して諸侯の基礎ができる
さてそのローマ帝国は5世紀後半の476年に崩壊します。
ちょうど同じ頃、ライン川より東側にいたゲルマン人が西ヨーロッパに入ってきます。世界史で必ず習う「ゲルマン民族の大移動」の始まりです。
そんな、ローマ帝国ではなくなったガリアでゲルマン諸民族をまとめたフランク人がいます。メロヴィング家のクローヴィスです。部族国家フランク王国(フランス、ドイツ、イタリアの直接のご先祖)の成立です。
しかし「王」と言っても、我々が想像するような王権はありません。そこで辺境の防衛にduxとcomesの制度を継承して各地の抑えとしました。
しかし、「現地豪族に恩給地(+農奴)を与える代わりに役を負わせる」レーエン制は、やがて一代限りではなくなり世襲化していきます。領主貴族の原形です。
8世紀になるとイスラームのウマイヤ朝が「結婚商売」のアラゴンよろしくピレネー山脈を越えてきます。これを732年にトゥール・ポワティエ間の戦いで撃退したのが宰相カール・マルテルで、彼の息子である小ピピンがカロリング朝フランク王国を開きました。
カロリング朝は中世の西ヨーロッパ世界の構築者でした。800年、2代目カール大帝(シャルルマーニュ)は教皇と結び、ローマ教会の守護者となる代わりにローマ皇帝として戴冠します。フランク王国こそ古代ローマ帝国の後継と周知してビザンツ帝国を牽制し、国内事情としては国教をカトリックに定めることで俗世のトップとして権力強化を図ったのです。
またカール大帝は各地の「伯」に自身の忠臣を送り込み、あるいは辺境の土着有力者にduxの称号を与えて取り込みました。duxが役職以外で使われるわけです。結果として称号が世襲されて、やがてその土地は公爵領となります。
国境付近の防衛にあたっていた伯がゲルマン語のMarkgraf(marka 境界線+Graf 伯)つまり「辺境伯」に変化したり、伯の副官vicomte、王との直接契約で封建領主の仲間入りをするbaronが現れたのもこの時代です。
事実上、9世紀には5爵位が揃ったわけですが、さてこれが制度になるまでがまた長い(笑)。
中世の象徴ー封建制度へ
カール大帝の八面六臂の活躍で西ヨーロッパ世界の覇者となったカロリング朝も、大帝が亡くなるとやっぱり弱体化してしまううえ、ゲルマン人の独特の相続のためフランク王国は3分割してしまいます。せっかく作った統一国家もズタズタです。そのうち有力な伯が「公」を名乗り始めたり、ノルマン人が越境してきて「公」になるなどします。ノルマンディー公、そしてイギリスのノルマン朝の大元です。
また雑学①で触れたとおり、この頃は自給自足経済であり、聖職者と農奴以外は皆「戦う人」にまとめられていました。彼らはレーエン制を経て、「自分より強く、そして土地を持つ有力者の臣下となって領地と農奴(=生活の糧)を得る」、その代わりイボンヌの語りを借りるならば「自らを軍馬として差し出す」封建システムに身を投じていきます。
ローマ帝政期からここまで千年を振り返って、「ああ」と思わされます。
貴族とは古来よりずっと<戦う運命の人>だったのだと。
確立する王権と爵位
弱小王家の救世主が中央集権に成功
さてカロリング朝が分裂→断絶し、10世紀末にやっと以降のフランス王朝すべての源流となるカペー家の登場です。
カペー家は「フランス公」そして「パリ伯」の称号を持つ、カロリング朝の親戚筋でした。マリー・アントワネットが断頭台に上がる時は「カペー未亡人」と呼び出されますし、現代21世紀にもいらっしゃる「フランス王位請求者」のおひとりは今も「パリ伯」の称号をお持ちです。
ただこのカペー朝も当初はとにかく弱かった。ブルゴーニュ公やノルマンディー公といった辺境諸侯のほうが全然強いし裕福でした。ノルマンディー公に至ってはフランス王の臣下のままノルマン・コンクエストを敢行してイギリス王になった挙げ句、カペー朝が終わるときにはフランス王位を主張して百年戦争のきっかけを作ってしまう有様です。そんなわけでカペー朝の始まりは、諸侯領主が跋扈し、あちこちで諸侯同士あるいは諸侯と騎士が封建的主従関係を結ぶ、そして領主同士で荘園の取り合いもあり得る、日本の戦国時代のような状態でした。この時代が封建制度のピークであったとも言えましょう。
ところが12世紀末に崖っぷちのフランス王国を救う人物が現れます。7代目のフィリップ2世です。彼が即位して最初に行ったのが婚姻政策でした。前王朝カロリング家の血を引くエノー伯家の娘と結婚して王朝の正当性を高め、対立気味だった有力諸侯のブロワ家を牽制します。その後は十字軍で親征して領土を広げたり、イギリス領になっていたノルマンディーを奪還したり、さらには諸侯の領地を次々征服して、王の直轄領を4倍にしたのです。
こうなると諸侯も王から領地を下賜されないと生活していけません。ようやくこの後から王がすべての諸侯の主君となり、諸侯は領主ではない騎士の主君となる貴族のヒエラルキーができあがります。そして10代目のフィリップ3世が13世紀後半に制度化したことで、やっと正式な貴族身分と爵位になりました。
カール大帝の戴冠式から500年近い歳月が流れていました。
長くなりましたがフランスの爵位とはこのように「役職(やがて主従関係)で得た特権で生活する代わりに、荘園と主君を守る軍事活動を行う者の呼称」が階級制度に変化したものです。
このあとフランスは14世紀にヴァロワ朝へ移り、「結婚商売」の時代であろうと思われる15世紀半ばに百年戦争を終わらせたシャルル7世によって、官僚制度の整備と国軍の設置が図られます。
騎士の時代は16世紀に終焉を迎えますが、彼らは貴族となって官僚や軍人として中央政府に取り立てられ、フランス革命がやって来る1789年7月14日まで特権を謳歌するのです。
爵位だけでアホみたいに執筆時間を使ってしまいました…。
そろそろ騎士道と貴婦人の人生に話を移したいです。
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