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全国「精神病」者集団の闘い


                                                                 長野英子

<全国「精神病」者集団結成>
 1974年5月21日東京において「第1回全国精神障害者交流集会」が開催された。各病院 自治会あるいは各地域患者会からの呼びかけで、この国初の「精神病」者の全国集会が開催され、その場で全国「精神病」者集団が結成された。

 そこで決議されたのは「保安処分新設反対、精神外科を禁止せよ、電気ショック療法に対する患者の拒否権を与えよ、自由入院を拡大せよ、今日の精神衛生法体制に反対する、優生保護法に見られる精神障害者差別に反対する、通信・面会の自由権を承認せよ」などであった。

 全国「精神病」者集団はこの結成集会に続きこうした決議をもって日本精神神経学会総会に臨み、当事者組織として精神科医の前でその存在を明らかにした。当時精神医学界では「精神病者は団結できない」という迷信が信じられていたそうで、こうした当事者組織の結成は精神科医たちを驚愕させた。

 しかしながら欧米においても全国的な当事者の闘いは60年代後半から70年代初頭に始まっている。当時日本の運動には国際的連携がなかったにもかかわらず、全国「精神病」者集団の結成もこうした国際的な「精神病」者解放闘争の歴史の中に存在する。

 この第1回集会で注目すべき発言が鈴木国男氏からされている。「キチガイよ刃物を持て。刃物を持って立ち上がれ」。集会でこの発言に共感し拍手をしたのはたった一人と伝えられているが、私はこの発言こそ「精神病」者解放闘争宣言として歴史に刻みつけれるべきものと考える。そして今この発言に共感し励まされる仲間は数多い。

 この集会の開かれた時代背景を考えると、この発言の意味がより明確になる。60年代後半から70年初頭にかけて日本政府=法務省は刑法を改悪し保安処分新設を目論んでいた。そして集会と時を同じくして5月29日に法制審議会は保安処分新設を含めた刑法全面改悪案である「改正刑法草案」を法務大臣に答申している。

 この法案における保安処分とは、禁固以上の刑にあたる行為をしたこと、精神障害者であり責任能力がないか低いこと、治療および看護を与えなければ将来再び禁固以上の刑にあたる行為をするおそれがあること、この3つの要件があるとき裁判所が決定できるもので、対象者は全国数カ所の法務省下の保安処分施設に場合によっては永久に監禁されることになる。この処分は刑罰を科せられたとしてもそれに併せて出されることもある。

 健常者はすでに犯した犯罪に限り刑罰を受け、決して「おそれ」を要件に拘禁されることはないのに、「精神障害者」のみを「おそれ」を要件として拘禁するという保安処分制度は、「精神障害者」差別に基づく予防拘禁制度である。

 鈴木氏の発言は「キチガイに刃物」という差別的な言葉を逆手に取り、鈴木氏はその意味を逆転させむしろ積極的な意味をもたせた。この発言は、「我々は危険でないから社会に受け入れてくれ」とお願いするのではなく、我々は「自分たちを抹殺しようとする危険な攻撃に対しては、もっとも危険な存在として闘う」という宣言であり、「我々の解放は自分たち自身で勝ち取る」という「精神病」者独自の自立した闘争宣言でもある。

 現実に結成以来一貫して全国「精神病」者集団の会員資格は「精神病」者のみである。

 ここで言う「精神病」者とは狭義の精神病患者だけではなく、精神病院あるいは精神科診療所、心理カウンセラーなどに入院中あるいは通院中、もしくは入院歴通院歴があり、「精神病」だけではなく「神経症」あるいは「人格障害」などのラベリングをされた経験のある者を言う。

 個別の課題ごとに(たとえば保安処分新設阻止、あるいは赤堀闘争など)、精神医療従事者も含め健常者と共闘することはあるが、それはあくまで全国「精神病」者集団として方針をもった上での課題別の共闘である。また健常者に対し全国「精神病」者集団の運動に対する支援も求めてきたが、支援も金か物理的労働の提供のみであり、組織運営、方針に会員以外の口出しを許したことはない。拙さや経験の不足、病状による混乱さえあっても、全国「精神病」者集団は「精神病」者のみの力で運営してきた。

 こうした全国「精神障害者」交流集会は1979年の第4回まで続けられたが、その後我々の力量不足のため開かれていない。第4回集会は名古屋で開催されたが、その年の5月26日から29日まで当時の天皇裕仁が愛知植樹祭で名古屋を訪れた。全国「精神病」者集団事務局メンバーはちょうど6月10日に予定していた第4回集会の準備のために名古屋に集まっていた。当時事務所は事務局員の大野の私宅であり、会議参加メンバーは地域患者会の憩いの家である「みんなの家」(大野宅から徒歩5分程度)に宿泊していた。

 5月26日から29日まで全国「精神病」者集団は徹底した警察による弾圧下におかれた。27日早朝から「みんなの家」から事務所へ向かうメンバーにあからさまな尾行がつくと共に、「みんなの家」と「事務所」は警察に包囲され、出入りする者には執拗な尾行がついた。メンバーは蟄居し買い物にも行けず、食事もとれない状態が続き、さらに再発者まで出た。

 全国「精神病」者集団は愛知県警に抗議すると共に、名古屋弁護士会に人権侵害として訴え、弁護士会もこれを重大な人権侵害と認め、もっとも強い対応である「警告」を愛知県警に対して出した。

 全国「精神病」者集団結成5年目に受けた弾圧であった。しかしこの天皇弾圧はこの国で我々の置かれている立場を象徴している。我々は常に「危険で何をするか分からない、犯罪を犯しやすい者」と規定され、常に監視対象とされてきた。この事態は今も変わらず、天皇・皇族の移動やサミットなどの大きな外交行事のある度に、特定の「精神障害者」への尾行や強制入院、精神病院の外出外泊禁止などが繰り返されている。
 
<生存権を求めて>
 我々「精神病」者にとって精神医療とは、医療ではなく弾圧であり抹殺であるという側面を持ち続けている。毎年のように精神病院で入院患者が医療ミスどころか暴力によって殺され、そして傷つけられている。そこまでいかなくても差別的な精神医療とりわけ強制入院、強制医療は私たちに身体的精神的外傷を与え、会員の多くはその後遺症に苦しみ続けている。

 福祉も我々の要求にはほど遠い実態であり、毎年どれほどの仲間が野垂れ死にという形で殺されているのか、その統計すらない。

 社会的そして法的差別は、「精神病」とレッテルを貼られたとたんに我々に襲いかかり、我々は家族、友人、職、すべてを奪われる。 

 すなわち我々「精神病」者はすべての人権を否定され、生存権すら否定されているのだ。そのうえ、感情、思考、感覚すらも「症状」として相対化し、我々の全人格を否定する精神医療体験そして被差別体験ゆえに、我々の多くは自己主張、権利主張の前提となる自らの存在そのものを肯定しえないでいる。

 こうした状況の中で、まず全国「精神病」者集団が任務としなければならないのは、生存権の保障であり、そして何よりも「精神病」者自身のありのままの存在肯定である。

 そのためも全国「精神病」者集団の日常的活動がある。まず全国「精神病」者集団ニュースの発行がある。毎月発行していた時期もあるが現在は隔月年6回の発行で、各会員および会員以外のニュース購読者に発送されている。会員の大半は患者会に組織されていない孤立状況にあり、そうした仲間にまず第1に「絆」の印としてニュースが送られている。第2に「精神病」者自身の発言の場が制限されている中で自由な発言の場の保障、そしてそうした発言により、仲間同士が多様なものの見方考え方に触れることにより、精神医療によって押しつけられた自己否定からの回復や差別と闘う視点の共有化をめざす、第3に医療法律福祉関係など「精神病」者の生活に大きな影響を与える情報提供、これらがニュースの主な目的である。

 さらに会員が誰でも参加できる例会があり、ここでは全国「精神病」者集団運営の事務的な議論や方針討論だけではなく、個々人の抱えている問題の共有化や精神医療体験の共有化なども重要な話題となる。ある時は後者が中心となるときもある。

 また全国「精神病」者集団窓口は手紙、電話、最近はインターネットを通じ、会員からのさまざまな相談、問題提起、などを受けていく。具体的な年金生活保護等の福祉関係の情報提供や地域の患者会やよりましな医療機関、人権関係の組織などを紹介できる場合もあるが、遠方の仲間に対して具体的アドバイスをできる場合は少ないし、また必要とする場合も少ない。手紙や電話もやはり「絆」の確認であり、差別や病気の苦しみを共に分かち合うことである。核心にあるものは「我々は孤立していない」という存在の相互確認だ。

 全国「精神病」者集団に参加し手紙や電話で交流できる仲間はある意味では「精神病」者の中でもそうしたことをする余裕がある、あるいは情報を得ている仲間である。全国175万人といわれる「精神病」者の圧倒的多数は「精神病」者運動のことなど一切知らず、仲間とすら交流を阻まれている。医療機関に通っていたとしても、何年間も医療従事者、家族以外と口をきいたことがない仲間も数多い。精神医療の支配の下で一切の自発的な発言や行動を封じられている実態がある。患者会組織もまだまだ数少ない。それゆえ会員のみでの討論、とりわけ窓口に連絡してくる仲間とだけの討論では我々の運動は現実離れした観念的な運動になりかねない危険を常にはらんでいる。

 我々の運動が反差別の闘いであるとしたら、もっとも差別される仲間がどうなるかということ抜きにはすすめることはできない。そう考えるとき、注目しなければならないのは獄中にいる「精神病」者である。彼ら彼女らの大半は全くの孤立状態の中で違法行為を行っている。そしてあえて言えば今最も苦しい状況におかれそしてもっとも差別されている仲間こそ、刑事事件を起こし獄につながれている仲間である。獄にいる「精神病」者をまさに仲間として理解しようとすること、それは我々「精神病」者仲間しかできないことである。そうした仲間との結びつこそは我々の反差別闘争の根底におかれなければならない。

 そして現在の刑事司法体制の中で、生命維持の最低限の保障すら脅かされているのが、被疑者被告人そして受刑中の「精神病」者である。この点について私たち全国「精神病」者集団は苦い体験をしている。組織結成後間もない1976年に私どもの会員である鈴木国男氏が大阪拘置所で殺されるという事件が起きた。患者同士のトラブルから仲間を刺した鈴木氏は逮捕され大阪拘置所に拘置されていた。当時経験不足から全国「精神病」者集団は彼の救援活動を有効に行えなかった。2月の極寒のなかで彼は裸体のまま換気扇が回る暖房設備のない独房に放置され、その上体温低下の作用のあるクロールプロマジンを注射され鈴木氏は凍死させられた。この虐殺について鈴木氏のご母堂により民事訴訟が起こされ国側の責任が認められ賠償金が支払われた。

 医療保障どころか生命の危機にさらされる獄中において、まず救援は生命保障、医療保障、そして適正手続きの実質的保障すなわち「精神病」者の病態に合わせた防御権の保障を求めていかねばならない。

 日本の獄中処遇は世界的に見て最低の部類に属し、通信面会権すら我々には獲得が困難であり、とりわけ確定囚に対しては親族弁護士以外は通信面会権は一切ない。それゆえ以上述べた救援活動も監獄の壁に阻まれ原則通り行えない例はあまたある。また物理的条件(人手、金)の貧しさゆえ、我々が実際手を差し伸べられる未知の獄中者は例外であり、せいぜい年に一人程度でしかないし、組織的というよりは個人的にしか行えていないのが現実ではある。

<反保安処分闘争>
 こうした日常的個別的な活動以外にも全国「精神病」者集団は政治活動も積極的に行ってきた。悪徳病院糾弾闘争、1983年精神衛生実態調査阻止闘争、1987年精神衛生法改悪阻止闘争、監獄法改悪阻止闘争、等々「精神病」者の人権と生存権に関わる課題には積極的に取り組んできた。1983年精神衛生実態調査については全国各地の仲間、医療従事者、その他の組織と共に、完全に粉砕することができた。

 政治活動の中で結成当初より、もっとも力を注ぎそして組織理念の根底を作った闘争が、反保安処分闘争である。

 保安処分は我々「精神病」者を「危険な犯罪を犯しやすいもの」と差別的に規定し、「危険性」を理由としてその「危険性」を取り除くために予防拘禁し、強制医療を施しその人格まで矯正しようとするものである。こうした考え方は何も刑法に新設される保安処分にだけあるものではない。精神保健福祉法の下での強制入院制度の根底にあるのもこの保安処分思想である。「精神病」者に対してだけ強制入院を定めた法律が存在するのは、「危険な精神病者」から社会を守ろうとする社会防衛が目的である。

 それゆえ全国「精神病」者集団は単に刑法改悪=保安処分新設のみを問題にするのではなく、今ある保安処分として一切の強制入院制度強制医療すなわち精神保健福祉法体制、そしてそれを支える「精神病」者差別と排外に対して闘い続けてきた。そしてその実践として刑法保安処分の対象者となるであろう、現実に違法行為を行った「精神病」者仲間と共に生きる道を模索してきた。具体的には刑事事件の救援活動であり、また全国「精神病」者集団は組織として一人の仲間も排外しないという原則を堅持してきたことである。

 70年代の刑法改悪=保安処分新設という動きは80年代には「処遇困難者専門病棟」新設というように姿を変え、そして90年代後半から2000年代にかけてはより鮮明に「精神病」者を分断していく「触法精神障害者対策」として変化してきた。

 70年代から80年代にかけて、我々は精神医療従事者団体、各政党、弁護士会、市民団体、労働組合、障害者団体などなどと共闘し、今に至るも刑法改悪=保安処分新設を阻止している。これは世界的に見ても貴重で希有な勝利である。さらに「処遇困難者専門病棟」新設についてはとりあえずは、医療従事者はじめ様々な団体との共闘により阻止しえたが、保安処分攻撃はよりあからさまになっており、「社会復帰やノーマライゼーションのためには触法精神障害者対策を」という「精神病」者分断が露骨に語られている。

 「危険な者は厳重に監禁しました。私たちは危険でないので社会参加させて下さい」というのか、それとも「一人の仲間も隔離拘禁されている内は我々に社会参加はない」というのか、いま我々はいずれの立場に立つのかが問われている。われわれ全国「精神病」者集団は「反保安処分」の原則、仲間を排外しない、違法行為を行った仲間と共に、という姿勢を我々はより鮮明にしていかなければならない。

<赤堀闘争>
 1954年静岡県島田市で幼女誘拐殺害事件が起きた。赤堀さんは同年5月に逮捕され、犯人にでっち上げられ1958年に第1審死刑判決を受け、1960年に最高裁が上告を棄却し死刑が確定した。1989年1月31日に再審無罪判決を受け釈放されるまで、何と35年間えん罪により赤堀さんは獄にとらわれて
いた。

 全国「精神病」者集団は結成以来「我々はシャバの赤堀だ」として、赤堀さんの救援に取り組んできた。赤堀さんの事件には我々自身が受けている「精神病」者差別と排外の全構造がある。

 まずなぜ赤堀さんがデッチ上げ逮捕の対象となったか? 赤堀さんは事件当時地域で「精神病」者差別から放浪生活を余儀なくされており、それゆえ明白なアリバイがあるにもかかわらず、それを証明することが困難な状態にあった。この放浪生活を強いられることがなければ赤堀さんがでっち上げられることはなかったと言える。

 そして警察は差別と偏見に基づき犯人像を作り上げ、「精神障害者」、「放浪者」、被差別部落民などを中心に二百数十名をリストアップした。そして警察は精神病院入院歴のある赤堀さんに目をつけ逮捕し、拷問を加え自白を強制した。

 第1審中に死刑判決を避けたいという弁護側の苦肉の策として行われた精神鑑定によって、精神科医がこのデッチ上げに加担していく。鑑定した精神科医は警察検察の資料を鵜呑みにし、赤堀さん自身のえん罪の主張には一切耳を貸さなかった。さらにイソミタールを注射し「自白」をとろうとしたが、もちろん赤堀さんは「やっていない」と言うだけ、しかし薬から醒めた赤堀さんに、「やったと言った」とデッチ上げまでしてせまったのが精神科医である。そして鑑定医は「うそつきで、反省の色のない赤堀」という誤った差別的人間像を鑑定書に描き、これが死刑判決に大きな影響を与えた。再審開始後にこの鑑定に携わった鈴木医師は精神鑑定取り下げの上申書を裁判所に提出している。

 第1審判決は赤堀さんのアリバイ主張を「知能程度の低い赤堀が覚えているはずがない」と切り捨て、さらに「かような行為は、おそらく通常の人間にはよくなし得ない悪逆、非道、鬼畜にも等しい」だから「精神障害者」の赤堀さんの犯行であり、かつ「被告は……知能程度が低く、軽度の精神薄弱者であり、その経歴を見るとほとんど普通の社会生活に適応できない」だから「死刑」と言い放った。

 捜査、取り調べ、公判、判決、と全過程を通し「精神病」者差別が貫かれている。

 全国「精神病」者集団は赤堀さんのえん罪事件を「精神病」者差別裁判ととらえ、全国障害者解放運動連絡会議と共に赤堀中央闘争委員会結成し、アムネスティ、弁護士会、日本精神神経学会などの団体、精神科医等医療従事者、その他の労働者市民と共に赤堀さんの救援の闘いを継続してきた。

 再審無罪判決は勝ち取ったものの、赤堀さんのデッチ上げを許した「精神病」者差別の構造はいまだ強固に続いている。「精神病」者差別によるえん罪事件は続いている。「精神病」者を地域から追放する「精神病」者差別は今も我々に襲いかかっている。九〇年代後半からのマスコミによる「精神病」者差別キャンペーン、とりわけ「危険な精神障害者対策を」というキャンペーンはひどくなる一方である。

 いまだ我々は「シャバの赤堀」である状態から抜け出すことはできない。再審無罪判決で赤堀さんの救援が終結したわけではない。赤堀さんと共に、そして赤堀さんに学ぶ闘いは継続され続けなければならない。赤堀さん自身の人権の完全な回復もいまだ道は遠い。赤堀闘争を今後いかに継続していくのかはいまだ我々の最も重要な課題の一つである。

<組織運営> 
 全国「精神病」者集団は全国の「精神病」者個人、団体の連合体であり、組織形態としては上部組織下部組織という形ではなく、各会員、会員団体は完全に独立しており、それらをつなぐネットワーク型の組織である。

 それゆえ中央の指令の下各会員一斉に動くなどという活動形態はとるべくもない。何らかの明確な綱領が存在するわけでもない。それぞれの会員の考え方は多様であり、それを「まとめる」ということはあえてしてこなかった。代表も会長も存在しない。かつては事務局長という役があったが、それも今はない。

 とはいっても全国「精神病」者集団としての行動や意思表明は「精神病」者全体の利益のためという基準で上記のように積極的に行っている。会員の中には中心的活動家は存在し、それらのあるものは事務局員となり、当初は毎月1回連絡会議をここ15、6年は隔月に例会を開催し、そこに集まった会員と事務局員で討論しながら会の運営を行ってきた。もちろん例会に参加できる会員は例外的であり、たとえば精神病院閉鎖病棟や保護室に監禁されている仲間は当然参加できない。そこで手紙や電話による問題提起や議論も例会で討論されている。

 意志決定は例会および事務局員間の議論で、とはなっているが、実はこれも規約に明確化されているわけでもない。事務局員の選出方法も決まっていない。よくいえば柔軟、「精神病」者以外の運動体と比べればルーズきわまりない運営とも言える。

 我々はこうした運営方法を意図的選んできたわけではない。むしろ個々人が病状を抱え生き延びる闘いで必死であり、それでも各地で仲間が身を寄せ合い助け合う毎日をおくっている。その上で圧倒的な保安処分攻撃や多大なエネルギーを要する赤堀闘争に追いまくられる中で、「精神病」者として可能なやり方はこれしかなかったというのが正直なところであろう。

 「精神病」者の存在を会員である故吉田おさみはその著書の中で「市民社会の外にある者」とし「狂気は市民社会への反逆」と規定した。この規定によれば近代市民社会の人間像「自由で主体的な人間」(こんな人間が現実に存在するか否かはさておき)とはかけ離れた存在が我々「精神病」者のありようで、市民社会の契約概念、権利や義務の概念など守れるなら「精神病」者ではないということ
になる。

 我々の反差別の闘いは単に「健常者と同じ人間なのだから差別するな」ではなく、我々の存在が丸ごとありのままに認められる社会をめざすものでなければならない。「精神病」者解放闘争はこうした「精神病」者のありのままをそのまま突き出す闘いでなければならない。
「精神病」者解放闘争は成果だけではなく、その過程そのものが重要なのだ。

 その意味では既成の組織運営のやり方は「精神病」者運動には一切役に立たない。我々は私たち「精神病」者独自の組織運営を創造していかなければならないのだこの原則にたつならば、この「ルーズきわまりない運営」もまた一つの「精神病」者文化として積極的に評価することもできる。

 精神医療による強制、押しつけからの解放こそ、我々のめざす自己解放の条件の一つである以上、我々がまた押しつけや強制をしないことは「精神病」者解放運動の重要な要素であると考える。その意味で会員の独立を守り多様性を保障し、あえて「まとめない」ことは、全国「精神病」者集団にとって最も重要なことである。そして「ルーズな運営」を「一部の会員の勝手気ままと独裁」に陥らせないためにも重要なことである。

 しかしながら全国「精神病」者集団として今後もこうした「精神病」者らしい匂い、文化を堅持しつつそれでもなお組織目標である「精神病」者全体の利益を追求していくためには、こうした運営を普遍的な言葉で表現し、そして新しい会員に説明していく努力もまた求められている。そして外部に対してもこうした運営方法を積極的に主張していかなければならない。新しい会員が爆発的に増えている現在、これは今後の大きな課題である。


『自立生活運動と障害文化ー当事者からの福祉論』現代書館 2001年5月1日全国自立生活センター協議会(編集)より


鈴木国男さんの「きちがいよ刃物を取れ、刃物ををとってたちあがれ」
の現代的な意味は私たち精神障害者は安全ですだから地域社会に入れてくださいという主張に真っ向から対峙すること
危険な人はいくらでもいる精神疾患というラベリングに限らず
私は人間だから人権があるそれだけの話

医療観察法廃案闘争の中でわかりやすい、という意味で私も精神障害者の犯罪は少ないということ言ったし、そういう原稿も書いた。しかし本来はそういう問題ではない。
危険だから、精神障害者に限り予防拘禁してしまえという差別こそが問題。
危険だとしても排除するな拘禁するなと主張し続けなければならない。
鈴木国男は、刑法保安処分新設策動の時にこそこの言葉を言ったのだ。
精神障害を一つの要素とした拘禁を一切否定した障害者権利条約は、危険か危険でないかを問題にしていない。
この地平にようやく世界が追いついてきた。

田原牧さんの『人間の居場所』集英社文庫
2016年ゲイプライドのイベントに稲田議員が登場した時の話
最後のほうでの啖呵がかっこいい
「はっきり言っておきたい。理解と共生は全く別物だ。メディアや良識派は『理解の促進が大切』と説く。自民党も同じだ。しかし、ここで使われる理解とは多数派の言語で説明することだ。その同化と融和圧力こそが、少数派への自覚なき暴力に他ならない。ここでは理解が差別を生むのだ」

精神障害者権利主張センター・絆 会員 世界精神医療ユーザーサバイバーネットワーク理事