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ワーキングホリデーを2ヶ月で辞めた話①

25歳の冬。
「全てを置いて、1年だけ海外で働いてみよう!」と決心した。

そして半年間の準備期間を経て、2023年6月1日に単身でオーストラリアへ。

しかし、2023年8月上旬、帰国。

たった2ヶ月で帰国」この事実だけを抜き取ると、まるで失敗したかのように見えるだろう。1年いる予定がたったの2ヶ月になったのだから、そりゃそうだ。

しかし私目線、今回のワーキングホリデーは大成功だった。

今回は、私の学生時代の話から、社会人3年目でワーキングホリデーに行くことを決心した背景、渡豪までの準備、オーストラリアでの生活、ハプニング、出会った人々など、記憶が新しいうちにとにかく正直に、生々しく書いていく。

これからオーストラリアへの移住や留学を考えている方、海外生活にざっくりとした憧れを持っている方に読んでいただきたい。

とりあえず今回は関西空港から飛び立つまで、つまり日本で起きたことを中心に記憶の限り書いていく。


オーストラリアに飛ぶまで

そもそもキラキラ海外生活には興味が無かった。


「海外に行けば、きっと新しい人生が待っている!」

「そこには日本とは違った世界が広がっていて、違った体験ができて、今感じている不満は無くなる」

「だから、いつか海外に移住することが目標!」

 SNSが普及した今、こんなふうにぼんやりと海外への憧れを持つ人が増えたと思う。
 実際、私が渡豪することを決めた時、多くの友人から「いいなぁ海外。私も行こうかな」とよく言われていた。SNSで #海外生活 と検索すると、日本にはない景色、食べ物、イカしたアイテム、様々なアクティビティ、なんともオープンマインドに見えるゴージャスな会合など、インスタ映え(笑)な写真が多くヒットする。
特にコロナが落ち着いてからは、留学や海外旅行へのハードルが大きく下がり、そのタイミングを狙って航空会社や旅行会社が海外の魅力を発信していたように思える。

 海外生活へ憧れる理由はいろいろあると思うけれど、私の場合は「母国を離れても必要とされる人材」に強い憧れを抱いていた。

 理由は単純で、そんな優れた人材が身近にいたからである。

 父である。

ブルガリアンマフィアじゃないよ!

 父はブルガリア語と英語、日本語を専門に通訳と翻訳、企業への語学研修を生業としており、目の前で3つの言語を操る父を見るたび「こんな能力があったら、世界中の人と話せるし、いろんな本も読める!どこにでも住める!羨ましい!」と思っていた。

 いつかこの島国を飛び出して、この身体一つで生活してみたい。
 私がそんな夢を抱くのは、自然なことだったと思う。


英語だけは優等生だったから、コンプレックスが生まれた。


両親の人脈もあって、幼少期から外国人と関わる機会が多かったと思う。
そのお陰かアルファベットそのものに全く抵抗がなく、英語学習に困ったことはなかった。

中学生の頃、県の模試で全体のtop5%から落ちたことはなかったし、英検2級は高校1年生で受かった。高校3年生の文化祭で、クラスで取り組んだミュージカルでは、バーンスタイン作曲「ウエストサイドストーリー」を和訳して、日本語のセリフに直して、字幕がなくてもお客様が楽しめるよう楽譜に書き込んだ。


どれも全く苦ではなく、相当楽しんで英語に触れていた。英語だけは優秀だったと思う。(数学と物理は必ず赤点)


しかし大学4年の冬。
父と弟と一緒に海外旅行をし、ブルガリアの首都ソフィアで親族と食事をしていた時のこと。


とうとう気付いてしまった。

「私、英語が話せない!」


明らかに親族は「私のレベルに合わせて」「簡単な表現で」会話をしてくれていた。
接待されているような感覚があって、すごく嫌だった。
ペーパーテストがアホみたいに得意なだけで、英語が得意だなんて勘違いしていた自分がダサくて仕方なかった。

英語でコミュニケーションを取れないことがコンプレックスになったのである。

いつか絶対にこのコンプレックスを解消したい。
そんなことをいつも頭のどこかで企むようになった。


ボスに言われた、忘れられない一言。

大学院入学を控えた春に、私の人生を大きく変える出来事があった。
ミスユニバース日本大会の出場権を得たのである。

2019 Miss Universe Japan®

挑戦した経緯や、当時の生活についてはまた別の記事で書かせてもらうとして…

こんなにかっこいい写真を撮ってもらっているけれど、決して華やかな思い出ばかりではない。
私は今もまだ、日本大会に向けてトレーニングをしていた頃にナショナルディレクターである美馬寛子さんから言われた一言を忘れられずにいる。

たしか、日本大会の3ヶ月前くらいの頃。

「英語が話せないなら、世界大会には行かせられないから」

思わず、美馬さんから目を逸らしてしまった。
真夏なのに、冷や汗が止まらなかった。

ミスユニバースの世界大会は、毎年90カ国近くが参加する。
もちろん、全てのミスたちが英語を話せるわけではない。それぞれの言語でスピーチをして良いし、その場合は世界大会当日に通訳がつく。

事実、これまでの日本代表は英語が流暢でない人もいた。
ミスユニバース世界大会優勝者の森理世さん、準グランプリの知花くららさんも、世界大会では日本語でスピーチをしていた。

しかし、私が挑戦した年からナショナルディレクターに就任された美馬さんは、とにかくファイナリストたちに「グローバルスタンダード」を求めていたと思う。

ボスの目指す理想のミスユニバースジャパン像に、私は近づくことができなかった。

当然のように、私はその年の日本代表にはなれなかった。

2019年のグランプリに選ばれた私の1つ年下の加茂あこちゃんは、英語を流暢に話す知的な女性だった。

まりペト、あこちゃん、サラ

「心が綺麗な国際人になりたい」と世界大会への切符を手にした彼女を応援しない人はいなかった。

英語を話せなかったことは、私が日本大会で勝てなかった理由の一つだと思う。


「今なら、飛べるかも」

ミスユニバースジャパンへの挑戦を終え、大学院修了後の話。
世の中の状況を見て音楽の道を半ば諦め、2021年の4月に新卒で美容商社へ入社。

同期にはアメリカ・テキサス州の美容専門学校を卒業した女の子がいて、彼女の配属は「海外支援チーム」だった。配属された月から英語で海外の取引先とやりとりをしている彼女、かたや日本語でのみで国内向けの業務をする私。

なんだか最初から大きく差がついていると感じた。

英語が話せると、人材としての価値が全然違うのかも。
わかりきっていた現実を改めて突きつけられた感覚があった。

彼女の能力に、明確に嫉妬した。

今思えば、私の周りにはいつも、私のコンプレックスを蘇らせてくれる優秀な人がいてくれた。

そして社会人2年目の夏。
私はあるイベントを手がける会社に引き抜かれる形であっさりと転職。
詳細は省くが、その会社に提出する退職届を書きながら、ふとよぎったのである。

「私の行動を制限するものは無くなるし、今なら、飛べるかも



25歳の冬。一人でどこまででも行けるって本気で信じた。

こういう時、頭より先に身体が動くタイプ。
ワーキングホリデーという自由度の高いビザの制度を知ってからはとにかく行動が早かった。

すぐにビザの手配をし、オンライン英会話を申し込んで、父に報告。

「パパ、私、会社辞めた!」「半年後から1年間、オーストラリアに行くことにしたから」「確かパパも日本に来たのは25歳の時だったよね?」「もうビザ申請したから!」

今いる環境から飛び出してしまえば、きっと、私が欲しいものが手に入るはず。
パパだってきっと、そういう期待をして日本に来たんでしょう。

私にだってできるはず。

1年間のオーストラリア生活を終えた自分を想像したら、その後の人生が絶対に豊かになる気がして楽しみで仕方がなかった。


「お金はただの紙だから、経験に変えてしまいなさい!」

私の中の石田ゆり子が、強めに背中を押してくれた気がした。


オンライン英会話で戦友に出会えた

2022年の12月から翌年5月までの半年間、毎日1時間の英会話レッスンを受けてみた。
課題を順調にこなし、現地で面接を受けるための対策もした。
人間は期限があると不思議と頑張れるもので、私はこの期間で英語力をかなり伸ばしたと思う。

オンライン英会話は同じレベル同士で集まることが多くて、同時期にメルボルンへ到着する同い年の女性と知り合うことができた。
きっかけは、先生から「いつのフライトなの?」の回答が被ったこと。
テンションが上がった私たちはクラス内でLINEを交換し、現地で会う約束を取り付けた。

近い未来、まだ見ぬ土地で友達ができる予定があることは不思議な感覚だった。
彼女との思い出はまた別の後で書かせてもらうが、結果として彼女は私のオーストラリア生活を語るに欠かせない戦友となった。

これから海外へ飛ぼうと計画している方へ、先にメッセージを贈りたい。


オンライン英会話やSNSで、日本にいるうちから仲間を得ておくことを強く勧める。
日本語ばかり話してしまうのではないかと不安になる気持ちはよくわかるが、海外生活はとにかく情報戦である。

島国育ちの世間知らずのくせに「英語力を高めたいから日本人とは絡まない!」と無謀な縛りを設けている場合ではない。
戦友の数は自分の精神衛生に大きく関わるから、絶対に現地の日本人とは仲良くするべきだ。



父からもらった大きなスーツケース


これは渡航の2日前。実家で準備をした頃の話。

「そんな小さなスーツケースで行くのか!?キャビンクルーにでもなったつもりか!?」
父にめちゃくちゃ怒られました。笑

父がここ10年使い続けている、世界各国の空港で手荒い扱いを受けまくった百戦錬磨のスーツケースを借りることに。

ジブリ「魔女の宅急便」の序盤で、キキが母親の箒を持っていくシーンがありますね。

Ⓒスタジオジブリ


まさに、あの時のキキの気持ちでした。

現地についてから何度も痛感することになるわけですが、やはり父の言ったことは正しかったのです。

そんなこんなで、当時の恋人に今生の別れ(笑)を告げて関西国際空港から飛び立つまではあっという間でした。

次回は、オーストラリアのメルボルンに到着してから仕事を探すまでのことを書こうと思います。記憶の残っている限り。

それではまた。














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