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多元的現実

最近、幕張での放送関係のトレードショウInterBEEに行ったら、あるブースで、「VR」を盛んにPRしてました。「VRって何ですか」ってお聴きしたら、「バーチャル・リアリティ」だそうです。
それだったら、1980年代の終わり頃からいろいろ実験を見てきました。
僕自身も、1981年頃、ある研究所に務めており、そのころ初めて市場に出始めたカラーディスプレイのついたパソコソ、富士通FM8でを研究用に購入しました。勤務時間が過ぎたら趣味で、BASICをつかって徹夜で3Dのシミュレータを作ったことがあります。
コンピュータで遠近法のちゃんとした絵を描くことに熱中し、当時のPCの処理能力制約から線画のみで隠線処理などまでは出来ませんでしだが、無数の立方体を3次元に格子状にならべ、左右の眼の視界を赤と青の線画で作り、例の赤と青のセロハンのグラスで見て楽しむ立体グラフィックスや、そのょうな仮想空間の中を移動する視点から見た視野が刻々と変る様子等を描いていました。
あまり芸術的ではなかったので誰の眼にも止まりませんでしたが、そればっかりやっていればいれば一角のパソコソ3Dソフトが出来ていたはずです(余談ですがその3Dシミュレータの核たる部分は最初三角関数のかたまりで何とも理解困難でかつ誤差が大きく不正確だったのですが、改良を加え、関数の誤差を無くす努力をすると全ての三角関数が消えてしまい、やがて非常に単純な代数の四則演算のみで図形の座標が計算できるようになりました。その最後の式の単純さには感動して心を打たれました。)
その後、米国で勤務していました87から90年の間にも米国でのバーチャル・リアリティの世界に接する機会が多くありました。

そんななかで考えさせられたことは、現実の非現実性と個人の固有性とそして死の関係です。これは私にとって生きる意味を考えるのに大きな課題だと思いました。

バーチャル・リアリティのための技術が飛躍的に進歩したと仮定してください。現実の体験と全く同じ品質のレベルで全ての感覚が経験を体験できることが可能になったとします。このとき問題になるかも知れないのは「現実と非現実の間の区別は、現実化した仮想体験の品質のみにより可能かも知れない」ということです。すなわちアナログ的な品質差が唯一の現実と非現実の区別要素で有るかもしれないと言うことはそこにある本質的な問題を暗示しています。

因果関係の閉じた空間を一つの現実(専門用語は解りませんがこれを「一つの因果現実空間」と呼ぶことにします。)として、たくさんの因果現実空間を同時に持つことも可能になるかもしれません。(例えば、コンピュータゲームの世界は、その中に無限の広さがあり、1つの因果の空間を造っています)
どの因果現実空間に居る自分が本当の自分か? 自分を固有化し得るものは有るのか? という疑問がわきます。最近の人工知能会話ソフトで、自分のPCと会話して、技術が進んでくれば、その会話がけっこう噛合ってくれば、そこも居場所になってしまうかもしれません。例えば、ゲームソフトを設計するプログラマーにすごく創造的な方が居て、戦闘ゲームで、画面の中の味方の戦士がちょっとした休憩中に近寄って来て「ちょっと相談に乗ってくれない、実は息子の教育の事で、、、」と話しかけてきたらびっくりしますよね。「この現実の中では、因果は戦闘だけ」と思っているから。
もちろん、「それまでの人生を送ってきた時間と経験がその人を形づくるのだから自分は勿論固有なものである」という径験の蓄積が個人固有化の根拠であるという反論は有効です。しかし、そのいくつか有るうちの一つの因果現実空間に現れてくる自分の友人、知人が仮想のものであるかも知れない場合、そのような経験によったとしても自分が固有化されたといえるのでしょうか?
僕と君の違いは何か?疑問はつきません。もし、個人を複数の因果現実空間を持ちこれら全てからの経験により固有化されると定義した場合固有化そのものが非現実による物を含むわけですから現実における固有化という行為そのものが無意味化されてしまいます。別にそれでも良いのですが。

僕はスキーが好きで毎年欠かしませんが、若いときに友人達と、「猿の惑星」の猿のマスクをかぶってスキーをし、ゲレンデでさわいだり、レストランでおどけて見せたりしたことが有ります。おもしろかったのは、マスクをかぶっておどけている間、自分の心がいつもの自分とは違った仕組みで外の世界とつき合っていることに気づいた事です。「違った仕組み」などというと難しく聞こえますが要するに、いつもの自分とは違う人格がそこに有るように見えたのです。
僕には芝居や映画など役者の経験は有りませんが、もしかしたら役者さんは、こなしていく役毎に新たな自分を発見しているのかも知れないと思いました。
ここで重要なことは、新たな自己という非現実に、冷たく対面して感じているより高位の自分が、そこに有りこれが現実であるとすれば、内にあるものこそが現実で外にあるものは現実、非現実を問う必要の無いものかもしれません。

所詮、自分は体の中にいて、君達は体の外にある以上、自分自身は体内にある存在そのものであり、それ以外の全てのものは認識の産物であるという当たり前のことなのです。

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