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感情は超高速

自分は象が好きです。大昔、新宿の西口のビル街の隅でテーブルを置いて、お爺さんが、象の写真のCDを売っていました。多分ご自分がアフリカに行って撮った写真をCDにして売っていたのだと思います。

ダニエル・ゴールマンがEQ(心の知能指数)について沢山の本を書いています。自分の理解では、「自分の感情の動きを適切に観察し、理解し、また他人にも同じような感情の起伏があるとこを理解することで、人生の価値が大きく変わりますよ」というメッセージだと思います。

脳神経科学と進化心理学の成果だと思いますが、感情を司る脳は爬虫類の時代からある脳で原始的ですが、処理速度が大脳に比べるとすごく早いそうです。
食うか食われるかの、爬虫類全盛の時代では、事にあたって逃げるか、戦うか、戦うならどういった戦略で戦うか、多分決断が急がれたのでしょう。
哺乳類になっても、脳の構造にその部分は残っていて、大脳でものを考えて結論を出すのに比べると、何千倍も判断も判断も情報転送速度も早いそうです。
だから、良識のある現代人は大いに気をつける必要があるのです。つまり、怒りに任せて怒鳴り散らした後で、大脳が働いて「しまった」と思っても遅いのです。それも自分なのですから。
この速さについて、若い時の自分の経験で面白い話がありますのでご紹介します。

1980年ごろだったと思います、自分は、当時、東急の田園都市線で通勤していました。朝の渋谷向きの電車で用賀から先の混み具合はハンパではありませんでした。「降りたい駅で降りれない」ことはしょっちゅうありました。

電車は超混んでいて、自分は、今、内側を向いてドアに張り付いていると想像してください。電車は用賀の駅につきました。ドアが開くと、初老の元気そうな頑固ジジイっぽい方が、座席の中の方で座席から立ち上がり降りるつもりでもがいていますが全く進まないのが見えます、彼は、このままだと降りれないと判断し直ぐに行動パターンが「凶暴モード」に切り替わりました。暴力的に人々を押し退けて進みだします。周りの通勤客は怖がって避けたいのですが、みんな鮨詰め状態で動きが取れません。そのジジイは周りの人を蹴ったりどついたり頑張って少しづつ自分のいるドアの方に近づいてきます。誰が見ても「頑固で、わがままで、自分勝手な嫌なジジイ」だと自分は思いました。自分としては、これ以上嫌な生き物はないくらいの印象でした。言い換えると、「嫌っているのは自分だけではない」と感じました。
もう、電車はドアが閉まって出発!くらいのタイミングで、自分のところまできました。
と、彼は突然、1mくらい宙に飛び上がり、ホームの向こう、乗ろうとしている通勤客の向こうに飛んでゆきました。何が起こったのかよくわかりませんでしたが、自分としては、一難去ったという感じです。
乗るべき人が乗った後、自分はまたドアで、お尻で中の通勤客を押しながら車中に戻ろうとしているときに、、
すると、どうでしょう、そのジジイがすごい剣幕で戻ってきました。彼は、我々ドアの所でドアが閉まるのを待っている我々3人の顔を睨みつけ、「どいつだー」と叫んでします。
ドアが閉まって、舞台は、これで安全裏に終わるのですが、、
ゆっくり考えると、どうも自分が、自分の膝で彼の去りゆくお尻を蹴り上げたらしいのです。合理的な解はそれしか思い当たらないのです。当時の自分は、登山とか、トライアスロンとかで鍛えていましたので太ももの筋肉は相当ありました。つまり人一人、1mほど蹴り上げる力は持っていました。また、足の先で蹴るわけではないので、膝が、彼の股間に後ろからうまくハマれば、あまり派手な動きは見せずに、彼を、斜め上え跳び上がらせることは出来ます。
今思えば、彼が「自分勝手なジジイ」だったのは事実ですが、申し訳ないことをしたと思っています。
しかし、自分の重要な発見は、「感情による判断は早すぎて、自分の知らないうちに、物事が始まって、終わってしまう事がある」、また「意識に知らされないうちに行動が起こされている事がある」という事です。自分が蹴り上げたという意識と記憶は全くなかったのですから。
つまり、重要な気づきは、「どこまでが自分なのか」という疑問です。
仮に、そのジジイ様が怪我をしてこれが刑事事件になったとしたときに、自分に責任があるのでしょうか?
目撃者がいて、「この人が蹴ってました」と言われれば有罪間違いなしですが、自分は本当に有罪?全く記憶にないのですが、、、、

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