
どんな舞台でも、輝ける場所がある
わたしには10歳の息子がいる。
おもちゃが好きで、ゲームが好きで、Youtubeが好きで。学校ではそれなりに友達とグラウンドで駆け回っているようだが、休日は家にこもって一人遊びに講じるのが何よりも大好きな息子である。
先日、息子の小学校の運動会があった。
息子の普段の様子から分かるかもしれないが、彼は運動があまり得意ではない。
足が速いわけでもなく、応援団員に選ばれたわけでもなく、リレーのアンカーでもなく、彼自身運動会をとても楽しみにしていたわけでもなかったので、私は彼の活躍に過度な期待はしていなかった。
天気が良ければいいな。転んだりケガをしたりしなければいいな。風邪をひいたりして欠席しないといいな。本人が「自分なりに頑張った」と思ってくれればいいな。
そんな風に思いながら、運動会当日を迎えた。
走るのが遅い順にスタートする徒競走は、最初の組にいた。「速い!」といった歓声も、追いつけ追い越せといったドラマもないまま、2位でゴールした(全校児童が少ない学校なので、同時に走る人数は4人である)。
障害物レースでは、コースの途中の平均台の上をゆっくり慎重に進みすぎて最後尾になったうえ、サッカーボールをドリブルしながらゴールするところで、蹴ったボールが観客席に入ってしまった。保護者から手渡しされたボールを恥ずかしそうに受け取り、それでも最後まで蹴って4位でゴールした。
4~6年生で披露した「よさこい」は、青い法被(はっぴ)を着て頑張って踊っていた。特段目を引くようなキレや華やかさはなかったけれど、正確に、しっかり腰を落とし、手を伸ばし、声を出し、最後までやり切っていた。運動が得意ではないけれど、決して手を抜くわけではない彼の性格が見えた気がして、十分うれしかった。
こういう時に活躍する一眼レフカメラで彼の姿を何枚も撮影しながら、私はそれなりに満足していた。
ところが、彼はこの運動会で、ちょっとした話題になった。
同じ学年のお母さんが、私に、
「〇〇君の放送、すごく上手ですね。ずっと聞いていたいくらい。」
と言ってきた。それも一人ではなく、私は他の学年の保護者含めて4,5人に言われた。
息子は放送委員だった。開会式で司会進行をし、自分が出ていない競技では出場する児童の名前の読み上げ、競技内容の説明をし、競技中は実況をしていた。
それがとても上手だと、保護者の間で話題になったのだ。近くに住んでいる上級生のお母さんに、「『あの放送、誰ですか?』って、1年生のお母さんに聞かれたよ。〇〇君ですって答えておきました。」と言われた時には、さすがに驚いた。
親である私はひいき目から当然上手だなと思っていたけれど、客観的に聞いても上手だったようだ。
友達の名前を読み上げる時は、その子が準備できたことを確認してから呼んでいた。
競技の説明は、原稿を読んでいるとはいえ、はきはきとわかりやすく伝えていた。
実況は、とても臨場感があった。「白組、がんばってください!」「やはり、卓球のボールをスプーンに乗せて走るのは、難しいですね!」「赤組、あと少しです!」
声変わりする前のかわいい声で、手に汗を握っていることが分かる様子で、一生懸命にしゃべっていた。
「放送聞いて、〇〇君じゃないと物足りないわ。今日のMVPは〇〇君ね。」
そんなことを言ってくれるお母さんもいた。
それを聞いて、そして放送席に座りマイクに向かう息子の姿を見て、私は思った。
運動会というイベントは、運動ができる人だけが活躍できるという場ではなかった。競技以外でも、いくらでも活躍できることがあるんだ。
自分が子供の時の運動会を振り返っても感じなかったことを、今回初めて気づくことができた。
そしてそれは、人生においても一緒。
どんな舞台でも、その人にとって輝ける場所はいくらでもある。
息子は私に、いつも大切なことを教えてくれる。