それでも、私はあゆみつづける
…… えーと私は、一生に、だいたい1億8千万歩ぐらい、歩きます。スキ
ップとか、けんけんとか、お墓参りとか、扇風機の首を追いかけたりとか、
お店に並んだり、デートしたり、夜中、喉が渇いてコップの水を飲んだり、
そーゆーの全部合わせて1億8113万1982歩、です。それが多いのか
少ないのかよくわからないですけど、そう思うとずいぶん遠くへ来たもんで
す。
(『あゆみ(長編)』柴幸男 より)
「人生100年時代」だとしたら、私はあと75年近く生きることになる。ということは,私は歩数にしてあと1億3500万歩は歩かなきゃいけないってことか。単純に1億8,000万歩の4分の3を後の75年かけて歩くわけじゃないし、これまでのおよそ25年間で1億8,000万歩の4分の1以上は歩数を稼いでいるかもしれないけども。
勘弁してくれ。傍から見たら大した出来事でないにしても、私のこれまでの人生だってまあまあいろいろあった。喜び、悲しみ、怒り、嫉妬、絶望、不安、孤独…大小あらゆる障壁にぶつかる度に、私は新しい感情を知った。知ることができてよかったと思う感情もあれば、できれば知りたくない感情もあった。
そういう、感情的にならざるを得ない障壁が、これからの人生まだまだ待ち受けているわけでしょう。しかもこんな、ちっちゃい石ころにつまずく程度の障壁じゃなくて、これから先もっと大きな山を越えなきゃいけない時もあるわけでしょう。それでも、息切れしても仮病を使って休みたくても筋肉痛になっても、1億3500万歩、歩かなきゃいけないわけでしょう。
ああ。長いなあ。長すぎて途方に暮れる。
振り返っても、もう何にも見えないですけど、
(『あゆみ(長編)』柴幸男 より)
「これまでの人生いろいろあった」...それは確かなはずなのに、その「いろいろ」を書こうとしてふと立ち止まる。私いったい何があったんだっけ。不思議なことに昔何があったのか、最近上手に思い出せない。少し前までは思い出したくない過去すらフラッシュバックして、記憶の洪水の中でもがいていたのに。昔のいろんな思い出たちが、砂の城が風や波によって少しずつ削られ消えていくように、いつの間にか「なかったこと」になっている。だけど、その時々に抱いた感情だけは、しつこく心に根をおろしている。
そうやって少しずつ忘れていかないと、残りの1億3500万歩、歩き続けられないのかもしれない。最初の4500万歩がいかに切なくて楽しい道のりだったか、忘れなきゃ前に進めないのかもしれない。だって、振り返るたびに美しい思い出たちが輝いていたなら、振り返るたびに苦しい思い出たちがそびえたっていたなら、いつまでも新しい道の先にある困難に立ち向かえないかもしれないから。その先の幸福を喜べないかもしれないから。
でも、ふとおもむろに( 止まって) 立ち止まったりして、で、( 歩き出
し) また歩きだしたりして、考えてみると、でもこれって元をたどれば最初は、一歩、なわけで。これまでも、これも、これからも、どこまで行っても、最初の一歩の続きなわけで。うれしくてなんか早足になっちゃったのも、行きたくないの我慢して無理矢理歩いたのも、全部そのあとの話だから、全部そこからはじまってるから。だから、まずはそこから。
(『あゆみ(長編)』柴幸男 より)
周囲の友人たちが次々に新しい道へと歩みを進める一方で、私はずっと同じ場所をぐるぐる歩き回るばかりだ。友人たちが結婚や妊娠、新しい就職先を決めている中で、私はずっと同じことに悩んでわだかまって、いったい何やってるんだろう。いつまでも私は人生の岐路の目の前で立ち止まって、友人たちが新しい道に進むのを手を振って送り出すだけなのか。大切な友人たちの門出は素直にうれしいけれど、自分だけ取り残されてしまったみたいで寂しくもある。友人として、彼女たちの背中を優しく押してあげたいけれど、心のどこかで焦りや孤独を感じている。『待って。いかないで。』
まだまだ長い私の人生と、その道のりにある分かれ道のあまりの多さに、私はまた途方に暮れる。どれだけの決断を下して、どれだけの歩数の先に、私はどこへ向かうのだろう。私はいったい何になるんだろう。敷かれたレールなんかとっくに外れてしまった今、位置情報を示せないGPSのように同じ場所をうろつく私は、いつまでも同じ場所で路頭に迷っている。分かれ道の先の景色に目移りして、結局自分は何がしたいのかわからない。だけどそんな、年中迷子な私に対して、ある親しい友人が言ったのだ。
「どうして自分は迷子だと思うの?散歩するのに目的地なんて決める必要ないのに」
はい。じゃあ、行きます。せーの。はじめのいーっぽ。
(『あゆみ(長編)』柴幸男 より)
はじめのいっぽをどのように踏み出したのかわからない。震えるようないっぽだったかもしれない。なんとなく踏み出したいっぽだったかもしれない。誰かに背中を押された末に踏み出せたいっぽだったかもしれない。大きな決断を背負って大股で踏みしめるいっぽだったかもしれない。誰かと手を取り合って進んだいっぽだったかもしれない。歩きたくないのを無理して進めたいっぽだったかもしれない。
でも、いかなるはじめのいっぽだったとしても、私たちはそのいっぽをいっぽいっぽ続けるだけなのだ。そのいっぽはどこかに向かっているかもしれないし、どこへも向かっていないかもしれない。私たちは何者になってもいいし、何にもならなくてもいい。だけど巡り巡って、結局は私へと向かうのだ。風化した砂の城のようにもろい過去の記憶だったとしても、それらは確かに私のあゆんだ道だ。それがなかったら私は私でなかったのだ。
私はあゆみつづける。同じ場所を行ったり来たりするだけだったとしても、自分が選ばなかった道の方が楽しそうに見えても、一緒に歩いていた仲間たちが私とは違う道を選んでも。
私はあゆみつづける。その道のりがどんなに複雑で長くて途方に暮れるものだったとしても。
私はあゆみつづける。だってほかにやり方を知らないから。他のやり方なんてないから。
私はあゆみつづける。どこかに向かって歩いてもいいし、どこにも向かわなくても歩き続けたらいいんだから。
私はあゆみ続ける。残りの人生のおよそ75年、約1億3500万歩を。
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あゆみ(長編)/ 柴幸男 全編はこちら
一週間前くらいに友達と近況報告をしあった。なんで泣いちゃったか全くわからないんだけど、泣きながら友達の嬉しい近況を聞いた。うれしいのと少し寂しいのがないまぜになったような気持ちだった。
今日はまだ終わってないので、「今日の良かったこと」コーナーはお休み。
そんな、皆様からサポートをいただけるような文章は一つも書いておりませんでして…