「キャンディは銀の弾丸と飛ぶ」第3話

 一一月二日。

「舞翔市内でまた不審火ですって」

「ん? この間もニュースになったばかりだよな」

「一〇月中旬から相次いでいるそうよ。嫌ね」

 両親の会話を耳にしながら、千穂実はリビングで朝食のトーストに嚙り付いていた。

「何だかこのところ、舞翔も浜波も物騒だな」

「そうね。千穂実も気を付けなさいよ?」

「うん」

「ところで千穂実、今日は何処か出掛けるの?」

「うん、ちょっとね」

 今日発売されたばかりのアメコミ邦訳本『イリンクスガール』を購入しに、浜波市内の大型書店〈あひる堂〉まで足を運ぶつもりだ。購入だけなら舞翔市内の書店やネットでも可能だが、〈あひる堂〉を含めた一部実店舗限定の初版限定特典を、何としてでも手に入れたい。

 ──まあ、流石に売り切れてるって事はないだろうけどね。

 しかし約二時間後、千穂実は〈あひる堂〉アメコミコーナーの前で呆然と立ち尽くす事となった。

「え……嘘でしょ?」

『イリンクスガール』は完売していた。

 ──信じらんない……特典付きとはいえマイナーなのに……!

 千穂実は、余裕こいてのんびり身支度していた朝までの自分を呪った。〈あひる堂〉を出ると、望みを賭けて徒歩圏内の別の本屋へ。

「え……アメコミの取り扱いなし?」

 更に徒歩圏内にもう一店舗を思い出し、早歩きで向かう。

「は……」

 店には深緑色のシャッターが閉まっており、そのど真ん中には、昨日で閉店した旨を伝える貼り紙がされていた。

 ──こういう時は、もう何もしないに限る。

 千穂実はとぼとぼと帰路へ就いた。他の店やゲームセンターに立ち寄るような元気は残っていなかった。


 浜波駅構内。
 明急線ホームは一階にあるが、千穂実は落ち込みのせいかうっかり地下まで下りてしまった。浜波駅構内は広大で、特にこの地下には地下鉄ホームだけでなく、様々な種類の店が存在している。常に賑やかである一方、入れ替わりはそれなりに激しい。
 千穂実は店の数々には目もくれず、人混みの中を進んだ。
 怒鳴り声が聞こえてきたのは、前方数十メートル先の階段が千穂実の視界に入ってきた時だった。

「邪魔だコノヤローッ!!」

 千穂実だけでなく、周囲の人間が一斉に振り向いた。

 ──あ。

 怒鳴り声の主は、千穂実が先程通り過ぎたばかりの飲食店の前にいた。五〇代半ばくらいの痩せた男で、禿げ上がった頭が頭上の照明により輝いてしまっているが、状況が状況なため笑えない。

「ぶつかっただろーが! 何処見て歩いてんだ? ええ!?」

 男が怒鳴り付けている相手は、小柄な妊婦だった。

「ご、ごめんなさい。ちょっと目眩がして」

 妊婦はそう言って丁寧に頭を下げた。しかし男は更に悪態を吐き始めた。

「妊婦だからって甘えてんじゃねーよ! これだから女はよ!」

 妊婦はもう一度頭を下げ、踵を返そうとしたが、男は目の前に立ち塞がり妨害した。

「聞いてんのかこのアマ!」男は周囲がザワつくのもお構いなしに捲し立てる。「最近の女は調子に乗り過ぎなんだよ! 男がいなきゃ何も出来ねー癖に偉そーに、女の権利がどーのこーのってよ!」

 周囲の人間は、遠巻きに様子を見やるだけで、誰一人として男を止めようともしない。しかしそれは、他ならぬ千穂実自身も同じだ。

 ──どうしよう。

「ヤバくない? アレ……」 

「ああ……でも下手に関わらない方がいいぞ……」

 千穂実の近くにいる、高校生らしい男女二人組の囁き声が聞こえてきた。

「警察呼ぶ?」

「そうした方がいいかな」

「こういう時、あの仮面のヒーローが来てくれないかな……」

 ──!

 仮面のヒーロー、シルバーブレット。

 ──こういう時、彼ならどうする?

 千穂実は自問し、ややあってから自答した。

 ──きっとこうする!

「あのーっ!」

 千穂実は勇気を出して男に近寄り、努めて明るく声を掛けた。

「ああん?」振り返った男の目は異様に吊り上がり、血走っている。

 ──普通じゃない。

 千穂実は気圧されそうになったが堪え、

「もうそろそろいいんじゃないですか? 色々言いたい事言えたでしょう」

「うるせえ、テメエにゃ関け──」

「周りも見てますし、あんまり酷いと警察呼びますよ?」

 警察という単語に反応したのか、男は明らかに動揺した様子を見せた。

「さ、早く──」

 千穂実が妊婦に逃げるよう促そうとしたその時だった。

「関係ねえっつってんだろーが!!」

 男は逆上し、右手で千穂実の胸倉に掴み掛かった。

 ──!

 周囲から小さな悲鳴が上がる。
 千穂実は反射的に、左手で男の右手首をがっちり掴んだ。そのまま今度は右掌を使い、男の右手の親指を捕らえると押し込んだ。最近習得したばかりの護身術だ。

「痛えっ!」

 男は右手を放すと親指を左手で握り、驚愕の表情で千穂実を見据えた。これで少しは懲りただろう──一瞬そう思った千穂実だったが、男は懲りるどころか逆上し、千穂実の首元に両腕を伸ばしてきた。

 ──これも最近習った!

 千穂実は男の両腕の間に上から左手を差し入れると、そのまま上げ、男の手に被せるようにフックし、外側に引き剥がした。同時に腰を回転させながら、男の腕の下から右手を送り──

「おりゃっ!」

 目を見開く男の顔面に拳を喰らわせた。

「ふがっ!」

 男はのけぞると、顔を押さえてよろめき、レンガ調タイルの床に尻餅を突いた。

 ──やった、上手くいった!

「痛ええ!」男は尻餅を突いたまま騒いだ。「暴力だ! 傷害罪だ!」

「はあ!?」千穂実は思わず素っ頓狂な声を上げた。

 ふと気付くと、周囲の人間の視線のほとんどが千穂実に向けられていた。

 ──あ……ヤバイ?

「先に手を出したのはあんただろう! 妊婦さんにも喰って掛かって!」

 男の近くにいた三〇代くらいの体格のいい男性が強い口調で言うと、それまで黙っていた周囲の人間も次々に声を上げ始めた。

「そうだそうだ!」

「正当防衛だ!」

「相手が女だからって調子に乗るからよ!」

 流石にまずいと思ったのか、喚いていた男は慌てて立ち上がった。

「今、わたしの息子が近くの交番まで行ってるよ!」

 高級果物店の前にいる老婆が叫ぶと、男は千穂実がやって来た方向へ逃げ出した。

「逃げたぞ!」

「誰か捕まえて!」

 ──あれ、このままだとわたしも事情聴取される……? 

「あの」妊婦が千穂実を呼んだ。その顔には、泣き出しそうでありながらも、うっすら笑みが浮かんでいる。「有難うございました」

「い、いえそんな──」

「もうじきお巡りさんが来るよ!」先程の老婆が千穂実たちに向かって言う。「だからお嬢ちゃんたち、もう平気だよ! さっきの男の特徴だとかをお巡りさんに教えてあげな!」

 ──いや、それは……。

 千穂実は改めて自分の行動を振り返り、背中に嫌な汗が流れるのを感じた。掴み掛かってきた男の手をほどくどころか、拳で殴ってしまった。
 千穂実は逃げ出した。階段を駆け上がり、明急線の改札を全速力で目指す。背後から呼び止めようとする声と僅かな歓声が聞こえてきたが、どうでも良かった。
 改札を通過しホームの階段を上り切ると、タイミング良く電車が来たので乗り込み、目に入った席に腰を下ろして一息吐いた。

 ──当分浜波には遊びに行けないよぉ……。

 そしてある事実を思い出すと、途端に自分自身に嫌悪感を覚えた。

 ──妊婦さん一人に警察押し付けちゃったじゃん!

 千穂実は深い溜め息を吐き、両手で頭を抱えて俯いた。


「ただいま……」

 沈んだ気分のまま、千穂実は一五時過ぎに帰宅した。

「あら、早いじゃない」

 千穂実の母はリビングのテーブルでナンバークロスを解いていた。最近何気なく手を出したところ、すっかりハマってしまったらしい。

「お父さんは?」

「近くにビール買いに行ってるわよ。急だけど、今日、俊也としやが帰って来て一晩泊まるから」

「兄貴が?」

 千穂実の兄、俊也は、千穂実の三歳年上で、都内のアパートで一人暮らししながら同じく都内の大学に通っている。前回帰ってきたのはGWゴールデンウィーク中で、夏休み中はバイトや恋人とのデートを理由に顔を見せなかった。

「ねえ千穂実、後でナンクロちょっと手伝ってくれない? どうしてもわからない箇所があるのよ」

「えー、やった事ないからよくわかんないよ」

「説明するわよ。簡単だから」

 一七時過ぎに俊也がやって来て階下が騒がしくなっても、千穂実は全く気付かなかった。自室で某週刊誌のネット記事に夢中になっていたからだ。

〝仮面のヒーローに次ぐ第二のヒーロー現る?〟

 記事によると、一昨日の深夜一時半頃、浜波市郊外のコンビニに強盗が押し入り、店員に刃物を突き付けレジの現金を奪おうとした。ところがその直後、頭に布をターバンのように巻き、目には黒いドミノマスクを装着した上下ジャージ姿の人物が現れ、手にしていた長い棒で強盗を撃退したのだという。
 逃走した強盗は、駆け付けた警官にコンビニ近くの路上で逮捕された。撃退した人物はすぐに姿を消し、正体不明だ。

 ──第二のヒーロー、か……。

 ドミノマスクは本格的だが、それ以外は間に合わせのようだ。

 ──それよりも……何だか先を越された気分。

 この第二のヒーローは、シルバーブレットに影響を受けているに違いない。

 ──第二のヒーロー……わたしが呼ばれたかった!

 不安が頭をよぎった。第二のヒーローが、千穂実が再会するよりも先にシルバーブレットに出会い、サイドキックになってしまったら……?

「そうはさせるか!」千穂実はスマホを握り締め、勉強椅子から勢い良く立ち上がった。「シルバーブレットのサイドキックは、このわたしがなるんだから!」

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