「骨の十字架」第3話
「あれあれ、もしかしてもう忘れちゃったのかな、ボクの事」ピエロはわざとらしく首を傾げた。
茶織は既に理解していた──ピエロは幻でなければ、普通の人間でもないという事を。
──化け物。
「うーん、残念だな……いや、やっぱりその顔は覚えているね! 良かった良かった!」ピエロは破顔し、大袈裟に手を叩いた。「でもキミ、高校生かと思ったけど、大人だったんだね」
茶織が何も答えずにいると、ピエロは肩を竦めた。
「さっきから反応が少なくてちょっと寂しいな、道脇茶織ちゃん」
名前を呼ばれても、茶織はそれ程驚かなかった。化け物なら興味を持った相手の素性を知る事くらい、朝飯前なのだろう。
「まあ、別にいいんだけどね、キミが高校生だろうが成人していようが、サオリだろうがカオリだろうが。予定通り実行させてもらうだけさ」
「……え?」
「察しが悪いなあ。つまりさ──」
ピエロは一旦言葉を切り、ぐっと身を屈めると──
「ベロベロバアーーーーーーッッ!」
ディスプレイに向かって勢い良く飛び掛かった。不気味な顔がアップになり、先端が若干尖った黄ばんだ歯と、飢えた獣のようにぎらつく真紅の両目がはっきりと見える。
茶織が短い驚きの声を上げると、ピエロは不満そうに顔をしかめた。
「ホントにもう、反応薄くてつまらないなあ……せっかく会いに来てやったのにさ!」
「……誰も頼んじゃ──」
次の瞬間、ピエロの右手がディスプレイを突き破った。茶織が先程よりも大きな驚きの声を上げると、ピエロは満足げにニイッと笑った。
「ほらぁ、そんなに離れてちゃ、握手が出来ないよ……ケケケッ」
──どうなってんのよ!?
茶織は後ずさった。
「そうそう、さっきの続きだけど……」
ピエロは白手袋の指を何度か曲げたり伸ばしたりすると、左手、頭と順番に突き破り、ズルズルと這い出て来た。
「キミには死んでもらうって事だよ! だって見られちゃったんだもの、口封じってヤツだよ。それとストレス解消も兼ねてね! ケケケ──」
茶織は骨の十字架をピエロの頭頂部に振り下ろした。
「……舌噛むかと思っただろ……ケケッ……次はボクの番だね……ケケケッ……ウケケケケッ!」
ピエロが完全に這い出す前に部屋を飛び出した茶織は、一目散に玄関へ向かうと、妙に軽いドアを一気に開いた。
「なっ……!?」
目の前に広がっていたのは赤錆色の空と、茶織がかつて通っていた東京都内の中学校の校庭だった。
わけもわからないまま振り返ると、ドアは消えていた。代わりに目に入ったのは移動式のバスケットゴールが二台と、その下に放置されている空気の抜けたバスケットボールが一つ。その後ろの汚れたコンクリートの壁には、所々に赤茶色のシミが付着している。
──血……?
シャキ。シャキ。
何か音がして、茶織は再び振り返った。四、五年前まで週に五日も通っていた、四階建ての古いコンクリート校舎の方から、白衣姿の太った女が歩いて来る。よく見れば、三年生時に国語担当だった教師、阿川だ。
シャキ。シャキ。
阿川はお気に入りの生徒には愛想が良く、見下した生徒には冷淡だった。茶織に対しては、初めのうちは後者だったが、日本国内でそれなりに有名な一族の娘だと知ると、露骨に媚を売るようになった。
「若い頃はオードリー・ヘプバーンに似てるってよく言われたわ!」
口癖のように自慢げに語る彼女に陰で付けられたあだ名は、〝大喰らい・デブババア〟であった。
シャキ。シャキ。
音源は阿川が手にしている物体──全長一メートル以上、刃渡りだけで七〇センチはありそうな、大はさみだった。五〇メートル以上は離れているにも関わらず、空鋏の音が不自然な程によく響いてくる。
「久し振りねぇ道脇さん。お元気?」
シャキ。シャキ。
「すっかり綺麗になっちゃって。まあ道脇さんは元から顔立ちが整っていたけど、より一層、ね。背も伸びたわねえ」
シャキ。シャキ。
「羨ましいわ。先生はどんどん衰えていくだけ。オードリーだったあの頃に戻りたいわ。ケケケッ。聞いてるのかしらぁ道脇さん」
シャキ。シャキ。シャキ。
一歩、また一歩と近付くにつれ阿川の姿が変化してゆき、キツネ目にお下げ髪、背が低く小太りの少女となった。二年生時にクラスメートだった横井だ。
「ちょっと、道脇さん! 何そんな所に突っ立ってんのよ!」
理由は不明だが、横井は茶織を目の敵にし、何かと突っ掛かってくる事が多かった。茶織が冷静に言い返すとムキになってキイキイ喚く姿は、空腹の小豚が騒いでいるようで滑稽だった。
「全く、お前らは何度同じ事言わせりゃ気が済むんだガキ共……赤ん坊か? ああ?」
「道脇ぃ! ほら挨拶しろ挨拶!」
横井は数学教師の海永になり、海永の次は英語教師の古林になった。どちらも阿川と同じくらい生徒たちから嫌われていた。
──何よこのオールスター大集合。
古林がピエロの姿に戻る頃には、茶織との距離は一五メートルも離れていなかった。
シャキ。シャキ。
「その音、さっきからうるさいんだけど」
「まあまあ、そんな神経質になるなって。しかし冷静だね。もっと怖がってくれなきゃ張り合いがないよ」
「むしろ笑えるわよ」
「へえ、そうかい」
シャキ! シャキ!
茶織は無意識に骨の十字架を胸元に抱き寄せていた。その激しい脈動と、火で炙っているかのような熱さが、最愛の叔父の言葉を思い出させた──〝その身に危険が迫ったら、サムディを呼び出すんだ〟
──……どうやって?
茶織はピエロから目を逸らさず後ずさった。
──どうやるのよ、綾兄?
シャキ! シャキ! シャキ!
──……?
茶織は、第三者の気配を感じた。ピエロ以外にもろくでもない化け物が存在し、襲い掛かるチャンスを窺いながら舌舐めずりしているとでもいうのだろうか。横目で探すも、その姿は見当たらない。
──いる。間違いなく誰かがいる。
「困ったねえ、だぁれも助けてくれる人がいなくて」
骨の十字架を握る手に力が入る。手も胸元も火傷しているかもしれないが、ほとんど気にならなかった。
──まさか……バロン・サムディ?
「こんな時、キミのおじさんが来てくれれば良かったのにねえ」
──!!
「キミのおじさん、キミをほったらかしにして、今頃何処をフラフラしてるんだろうねえ。仕事だなんて嘘でさ、ホントはあちこちにいる女の所を転々としてヒモ生活しているだけだったり! ケケケッ!」
茶織は無言で俯いた。
「もっと酷いのはキミに関心のなかった両親だ。あんな奴ら、親と呼ぶのも嫌じゃないかい? 今、目の前で倒れて苦しんでいたらキミはどうする?」
シャキ!
「助けないだろ? 絶対に!! むしろトドメ刺しちゃうだろ? わかる、わかるよ。ボクだってそうするもの!!」
シャキシャキシャキシャキシャキ!
「──したな」
「ん?」
「綾兄を侮辱したな」
怒気を含んだ低く威圧的な声と共に、茶織の顔がゆっくりと上がった。
「あの二人はどうでもいい。でも綾兄を侮辱するのは許さない。綾兄を侮辱していいのはこの世でわたしだけ」
「キミ……ちょっと変わってるね」ピエロは僅かに顔を引きつらせた。「いやむしろ、イカれてるよ。自分が今どんな顔してるかわかる? 目が据わっちゃってさ」
「黙れ」
「それに、ボクにここまで歯向かってきた人間は初めてだよ。皆すぐにビビっちまうのにさ。でもその威勢の良さはいつまで保てるかな?」
ジャキ!ジャキ!ジャキ!
「じゃあまずは腕からいこうか。そのヘンテコな十字架ごとチョッキンとね! ウケケケケッ!」
大きく開かれた刃が茶織に迫る。
──信じるわよ、綾兄!
茶織は、牽制するように骨の十字架を突き出した。
「いるんだったらとっとと出て来なさいよ、バロン・サムディ!!」
応えるように、骨の十字架が一際大きく脈打った。
目も眩むような閃光。あるいは、地の底から響き渡る自信に満ちた低い男の声──は、いつまで経っても、見えなければ聞こえもしなかった。
「……で、何だって?」静寂を破ったのは、呆れたようなピエロの声だった。「助けを呼んだみたいだけど、だぁれも来ないね」
茶織は眩暈を覚えた。
──き、決まった方法があるなら教えときなさいよ、綾兄……!
すっかり聞き慣れてしまった耳障りな笑い声が、茫然と立ち尽くす茶織の耳から耳へと通り抜けた。
「飽きちゃったよ。腕からって言ったけど、やっぱ首一発で終わり! じゃあね! ケケケッ!」
眼前に広がる、交差した大きな刃。
──綾兄の馬鹿!! 阿呆!! それから──……
綾鷹への恨み言を中断させたのは、はさみではなかった。
茶織は突然数メートル後方に吹っ飛ばされた。打ち付けた背と尻が痛いが、とりあえず今はまだ首が繋がっている。
──何があったの……?
「な……なああっ!?」
ピエロの動揺する声に茶織が起き上がると、直前まで自分が立っていた場所に第三者の姿があった。
──誰……?
恐る恐る斜め後ろから覗くと、驚くべき事に第三者は、白手袋をはめた手に握った黒茶色の杖らしきものを、大はさみに噛ませていた。
茶織は第三者の姿をまじまじと見やった。夜の闇のように黒い、ボロボロの山高帽と燕尾服にブーツ。一九〇センチ以上はありそうな長身で、吹けば飛んでしまいそうな華奢な体型。皺が刻まれた真っ白な顔にはサングラスを掛けている。髪は見えないが、帽子で隠れてしまう程に短いのか、そもそも生えていないのかはわからない。
──もしかして。
茶織は思い当たる名前を口にした。
「バロン・サムディ……?」
ヴードゥーの精霊のリーダーはゆっくりと振り向くと、
「その通り!」
場違いなくらい陽気な声で答え、ニカッと笑ってみせた。