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蝉がうるさくてポケモンスリープが捗らない
最近のわたしの生活の何パーセントかを蝉が占めている。
我が家は首都圏から近すぎず遠すぎずのところにあり、家の周囲にはこれまた多すぎず少なすぎずの自然がある。
そのため、夏になると蝉の声が私の視覚や聴覚に侵入してくる。
その声に夏の風情を感じることもあれば、苛立ちを感じることもある。
ヒグラシなんかは比較的好きだ。
カナカナカナという声は初夏を感じるし、縁もゆかりもない田舎の原風景が脳裏に浮かぶ。
それと同時に、かつてハマった『ひぐらしのなく頃に』のアイキャッチを思い出す。
一方で、朝昼夜問わずに喚き続けるアブラゼミにはポジティブイメージなんて湧きもしない。
睡眠妨害された際にはフラストレーションが募る募る。
ポケモンスリープの妨げでしかない。
夏もお盆を過ぎた頃になると、仰向けになって召されそうになっている蝉が家の近くに転がっている。
死んでいれば問題はない。
ただ、奴らは気配を察知すると、最後の力を振り絞って鳴き、飛び回る(通称・セミ爆弾)
せめて逝く時くらいは迷惑をかけないでほしい。
ここまで書くと、良いところと悪いところの比率は7:3くらいが妥当なところだと思う。
蝉が嫌いな理由はもうひとつ。
原因は子どもの頃に遡る。
といっても、大したエピソードがあるわけではない。
蝉というより蝉丸が嫌いだった。
あの坊主。
坊主めくりをすると必ず引いてしまう蝉丸。
ただの坊主ならいい。
自分の札を失うだけだから。
ただし、わたしの通う学校には「蝉丸ルール」があった。
蝉丸を引くとその瞬間にビリが確定する、というルール。
このルールを考えた人は蝉丸に親でも殺されたんじゃないかというくらいには理不尽。
小さい頃はそれにしてもよく蝉丸をひいた。
会ったことも見たこともない坊主姿を憎みたくなるほどに。
そこから少し時が経ち中学生となり、百人一首の授業で扱うことになった。
そこで句を一つ一つ学んでいく。
そこで学んだ蝉丸の句。
『これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関』
現代語訳はこのようになる。
これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関なのだなあ
なんか素敵なことを言っている。
恋についての句が多い百人一首で、今でも理解できそうなことを詠んでいる。
少し、蝉丸を見直した記憶がある。
確かに、「蝉」という単語をとっても、季語として用いられる程だし、蝉の声に趣を感じる人が大勢いたのだと思う。
かの松尾芭蕉だって、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」と詠んでいる。
蝉が鳴いている中を閑さと表現している。
蝉が鳴いているのに閑さがあると考えているのである。
そう思うと、私が蝉に抱いている憎しみ7割の気持ちは、心の狭さを表しているのか?
と思うけども、心が狭いと思われようと無理なものは無理だ。
蝉と共存するにはまだ鍛錬が足りないらしい。