卒業論文 -大学生活fin.-
ご無沙汰しております。
noteを書かないうちに大学生が終わってしまいました。社会に出たくない。
これから田舎から東京に旅立つ訳ですが、大学生活を過ごした街を離れる前に、大学生活の総括でもしておこうかと思い立ち、久々にPCを開きnoteを書いているところです。
随分と格好つけたタイトルですが、中身は「大学生活の思い出」ってやつです。
1回生
1回生の前半はコロナの影響で実家からオンラインで授業を受けていた。行きたい大学に進学できたのは喜ばしいけれど、田舎での生活が憂鬱で、地元の友達との集まりが多かった当時の私にとっては正直少し都合がよかった。車の免許も取れたしね。(本当はバイクが取りたかった)
そんな中でも私の通った大学の皆は他大学の学生よりも活発なもので、オンラインでも人と交流するイベントが企画され、私もいくつか参加してみたりした。
顔見知り程度の友人から、プライベートのことをほとんど何でも話せる友人ができた。
当時仲の良かった友人から、「俺ら対面になったら絶対ヨッ友になるよ」って言われて、本当にヨッ友になったりもした。
そんなこんなでオンラインの割には友人(仮)は増え、割といろいろな活動に手を出した。
zoom説明会に入って、雰囲気の良さを感じたサークルに勢いで入部した。毎週開かれていたzoomで先輩たちはすごく楽しそうだったけれど、その輪に入れない感じがして孤独を感じたりした。
大学のある田舎に引っ越してからは、初心者なりにイベントに参加したりして、のちにサークルの幹部を共に務めることになる友人と出会ったり、先輩に山の上のスーパーや動物園に連れて行ってもらったりした。サークルの活動を楽しむというより、サークルに所属してる個性豊かな先輩と同期との関わりを楽しんでいる感じだった。
友人が主催したSDGsイベントでたまたま同じグループになった人たちと、ノリと勢いで自販機を作ることになり、起業部に入部してみたり、SNS運営したり、メンサ会員の人からインタビュー受けたり、動画投稿コンテストで入賞して賞金をもらったり、空中分裂して活動が終わったりした。
「学生団体に入りたい」って安直な理由から入部した留学生サポート団体は、留学生が日本に来れずにオンラインで授業を受けていてまともなサポートができず、怖い先輩にビクビクしながら部署MTGを受け、同期ともまともな会話ができないまま半年が過ぎ、スケジュール管理が上手くいかずマルチタスクがこなせない自分にイライラしながら、団体に入った意義を見失った。
人生初めてのパン屋でのアルバイトは、お局に嫌われた地獄の2か月を乗り越えたのち、無事社畜に成りあがっていた。
当時これだけ色々な活動をしていたけれど、人に合わせることを基本として生きてきた私は考える力が弱すぎて、自分の意見を求められる場であるグループワークが苦手だった。
2回生
ようやく対面授業再開か!と思われた2回生、結局春まではオンライン生活が続いた。
この頃になるとオンライン授業の適度に適当な過ごし方が分かってきて、1限カメラオフの授業なんかは起きて30秒布団の中から受けるなんてこともざらだった。(良い子のみんなもきっと1度はやってたよね。)
惰性で続けていた学生団体の活動は2セメスター目に入り、「家族みたいな部署にしたい!」という思いをもった先輩のリードで家族みたいな仲間ができた。
団体の活動自体はオンラインで、イベントを作ったけれど正直何をしたのかなんて覚えていない。
一緒に海で花火をして、騒いで警察を呼ばれたりした。警察にどこの大学の学生か聞かれて、近所の別の大学の名前を答えようとした先輩は、後輩全員にアイスを奢ってくれた。
何を思ったのか公園で水風船をすることになり、あろうことか小学生が乱入して激しい攻防が繰り広げられたりもした。ついでに誕生日が近かった友人の顔面にパイも投げつけた。
同期の一人が留学に旅立つことになった日には、授業がオンラインなのを良いことに皆でプチ旅行をしながら空港まで見送りに行った。
ホテルで授業を受けながら飲んだウェルカムドリンクのビールのお陰で、苦手だったビールを克服した。
この時の同期お見送りは、交換留学を考え始めるには十分すぎる理由となった。
一方サークルも1回生の頃より楽しめるようになっていた。
皆勤賞レベルでイベントに参加していたら、気づいたら幹部を務めることになっていた。
幹部になってすぐに、大学オフィスから怒りの長文メールが来た時は絶望だった。
たまたまイベントが誕生日に被って、お花をもらったのはとてつもなく嬉しかった。
応募を決意した交換留学は一次募集が終わっており、ほぼノー勉で挑んだIELTSのスコアを片手に二次募集に申し込もうとして、たまたま発見したアメリカ留学プログラムに申し込んだ。志望理由書と面談審査を潜り抜け、派遣されることになった。
勉強の方は、学んだことを形にしておきたいなんて軽い気持ちからゼミに入ることを決意した。
徐々に対面授業が復活してきて、対面授業がない日でも図書館に通い詰めて課題や諸々をこなす優等生ぶりも発揮していた。(100円朝食に釣られただけ)
このころから3回生春のキャパオーバーを心配するようになった。
サークル幹部、学生団体、ゼミ、留学準備、バイト。
すでに熱量を上手く配分することができていなかった当時、学生団体を2回生秋で卒業するか、3回生春まで続けるか結構真剣に悩んだ。
どの活動も中途半端になるくらいなら取捨選択をすべきなことは重々承知だったけれど、やりたいことを全部やりたい欲張りな私は軽く病むくらい考え込んで、結論を出せずにコーチングの資格を持った先輩に頼った。
内容はあまり覚えていないけど、やりたいことに優先順位をつける感じだったと思う。
結果、継続申請締め切り5分前まで悩んで、学生団体の活動を春まで継続することに決めた。
パン屋のアルバイトはどういうわけかお局に気に入られ、私がシフトの時だけグリスト清掃を頼まれるくらいには店長の信頼を勝ち取った。
3回生
キャパオーバーが危ぶまれる3回生春
授業はほぼ対面となり、週5.6キャンパス登山生活が始まった。
留学生もようやく日本に入国できるようになり、学生団体の活動もオンラインを脱却した。この頃は自分のアイデアも出しながら、後輩の面倒を見る余裕も出てきたと記憶してる。イベントのファシだって1番苦手だったけど、最後には自分で立候補してやるようになった。
サークルの方も対面が復活し、普段の活動なんて経験したことがないにも関わらず、週2回の練習とコンサートの運営が始まった。
ガクチカではよく当時のサークルの話をしていたんだけど、正直目の前のことにがむしゃらになっていただけなので、何をどう頑張ったかなんて記憶が薄くて苦戦した。日記は付けるべき。
留学の方も事前授業に出席したり、大阪にVISA面接に行ったりなど結構バタバタしてた。
バイトは留学に伴って辞めることにした。
留学の話は割愛
帰国後もなかなかハードスケジュールで単位を取っていくことになる。
セメスターの半分に20単位を詰め込み、期末レポートは7個書いた。
ゼミでは戻ってきたら皆テーマが決まっていて、自分だけ決まっていなかったところから先生に褒められるくらいには研究計画書を書き進めた。
アメリカでお金を使いすぎてしまったので、新たに始めたマ◯ドのバイトも週4-5で入った。
お陰様で、2週間全休がない日が続くこともあった。
ずっと体調が悪かった気がするけどよく耐えた。
そんな余裕がない中、参加必須の留学の事後授業の日程が1週間前に発表されることに苛立ちを覚えてオフィスに抗議のメールを送ったりもした。オフィスの人が結構反省されてて若干の申し訳なさを感じた。
そんなこんなで授業を切り抜けた3回生の秋、サークルの方は先輩方の卒業コンサートに向けた曲練に勤しんだ。
過去1難しい曲を振られたのに、レポート7個のせいで満足に練習ができず結構後悔した。でも最後の最後で、先輩たちとの距離が縮まったことは嬉しかった。
そういえばこの頃から本格的に就活を始めて、第一志望のインターンにも参加した。
4回生
3回生の秋に無理をしたおかげで、4回生は残り4単位で迎えることができた。
1個上の先輩が最終セメスターに2単位落として留年したのを見ていたので、春で単位を取り切った。
4回生といえば就活という話で、1ヶ月おきに第一志望の選考があった私はモチベーションとメンタルの維持に苦戦した。
特に第一志望の最終面接前々日に、別の企業に提出するESをキャリアオフィスの人に添削してもらう最中、自分でも気にしていたガクチカについて詰められた。その瞬間、何故か涙が止まらなくなり、ドトールで1人大号泣したのを覚えている。
そんな私のSOSを受けて急遽マク◯で励ましてくれたのは、同じ職種を目指すゼミの友人だった。本当にありがとう。
最終面接前日、東京に前乗りして、品川駅のblue bottle coffeeで休学中かつ就活中の友人と就活について語り合った。あれがなかったら当日あんなに喋れなかったってくらい思考が整理されて、モチベも上がった良い時間だった。ありがとう。
最終面接から結果が出るまでの1週間、ざわざわして落ち着かない心を騙すように色んな会社の面接を受けに行った。
憂鬱だった面接も最後の方はただの大人との会話に思えてきて結構楽しかった。いかに面接官に変なやつだと思われ、インパクトを残し、楽しんでもらうかを考えて会話をしていたら、面白いくらい通過した。
オープンチャットの情報で第一志望の合否が出たのを知り、マイページに書かれた内定の2文字を見た時は涙が溢れた。夢への切符を手に入れた瞬間だった。
同じ会社を受けた友人からも合格連絡が来て、2人でスシローに行ってお寿司を食べた。
その後海辺を走って、スミノフを飲んで、電話で友人のお母さんからおめでとうの言葉をいただいた。
一生忘れられない日、最高に青春だった。
それからマイナビ、リクナビから退会した瞬間が最高に気持ちよかった。
後日ゼミの友人も競合他社から内定を貰って、3人でお祝い会を開いた。一緒に夢を叶えようと切磋琢磨してきた仲間が全員受かったなんて、奇跡なんて言ったら失礼なくらい、それだけ皆が魅力的な人間なんだと思う。
就活を終えてから、有り余る時間を有効に使いたくて、友人の紹介で有給インターンを始めた。
オンラインでモチベーションの維持が大変だったけれど、就職する会社とは全く別の業界で、今度は就活生とは逆の立場の人事として働いてみるのはなかなか良い経験だった。
学生団体でできた友人たちと、タイに1週間旅行にも行った。ハスキーカフェは皆行くべきだし、サムイ島は3泊以上は必須だった。あと、SIMロックは解除してから出国すること。
大きな喧嘩なく旅を終えられたのがこの旅行で一番良かったことだと思っている。
ゼミの教授に後押しされて、卒論の現地調査のために北海道のある地域にも行った。卒論調査が進んだのはもちろん、他大学の学生と意見交換をして、私の通う大学がいかに特殊な環境にあるのかを実感したのと同時に、グループワークに慣れていない人たちをリードしていく大変さも味わった。
かなりのハードスケジュールの中で、脳味噌を振り絞り毎晩徹夜でプレゼン準備をしたのも、ブラック企業で働く社会人のようで良い思い出にはなった。人生で1番寝不足な5日間だった。
個人的にはプレゼンに対する苦手意識は高校時代から持っていたけれど、なんだかんだ大学での授業や活動を通して苦手じゃなくなっていて、中間発表と最終発表、どっちもスイッチが入って緊張せずに提案できたことは成長を感じたポイントだったし、自信にもつながった。
地域の人たちの話を聞いたり、議論を交わす中で、地域への熱い思いを聴いたり、たかが大学生が一夜漬けで考えたアイデアに対して本気のフィードバックをくれたり、田舎の良さなのか、こういう大人になりたいなっていう理想の大人像みたいな人と関われたことも貴重な経験だった。
発表の質疑応答で、そんな地域の人たちの真剣なフィードバックに応えるのに頭をフル回転させていたら、運営陣の癖の強い大学教授から「あなたの質問に対する誠実な姿勢が素晴らしいです。質疑応答はこうあるべきだ。」的なことを言われて素直に嬉しかった。真剣に聞いてもらえたのが嬉しかったから、私も誠実な態度で返したかったのだと思う。
こんな魅力的な地域の文化を日本と世界に伝えたいという新しい夢もできた。
卒論の現地調査のために、大好きなオーストラリアにも1人で行った。オーバーブッキングで帰れなくなったりもしたけど、お陰で普段の生活で交わることのない人たちと関わることができてなかなか新鮮だった。
卒論は途中方向性に血迷って進まない期間があったけど、オーストラリア渡航で方向性が定まって、そこからはスムーズとは言えずとも、書きたいことが書けたかなと思っている。優秀論文おめでとう。よく頑張った。二日酔いで発表はするなよ。
サークルはこの半年が1番充実してた。
春に就活に打ち込んだ私は秋からサークルに顔を出すと知らない面々も多かったけれど、曲やったり、飲んだり飲んだり、ご飯行ったり、遊園地行ったり、気がついたら色々な人と仲良くなることができていた。
曲も沢山演奏できた。
吹奏楽を辞めて以来、初めて大きなホールで演奏できたのが嬉しかった。
変なプレッシャーなく人前で演奏するのは楽しいと思えた。
無茶振りに全力で応えてくれる後輩たち、最高だった。
同期との繋がりも今まで以上に深くなった。
楽譜作るのもすごく時間が掛かる人間だけど、最後はだいぶ早くなっていて自分でびっくりした。
一旦楽器をやる時間は取れなくなりそうだけれど、その間楽器は修理に出して、色んな音楽と知識をインプットする時間にしたい。
卒業式
大学生活でお世話になった友人、後輩が駆けつけてくれた。4年前の私は、こんなに多くの人にお世話になるなんて想像もできなかっただろう。
人生で一番多くのおめでとうを貰った1日だった。
本当は親も呼びたかったけれど、自分の思い出づくりを優先してしまった結果、破産して呼べなかった。これから親孝行していくのでお許しください。
総括
こうして振り返ると随分と濃い4年間だった。きっとここに書いていない思い出も沢山ある。
私はこの4年間、誰よりも充実した大学生活を送るために、興味を持ったことはまずやってみること、誘いをなるべく断らないこと、勉強も遊びも全力でやることを意識して生活してきた。
この活動は削っても良かったんじゃないか、と思うものも正直あるけど、やらない後悔はしなかったんじゃないかと思っている。
多少の無理を強いてきたからこそ、どんな状況でもなんとかできるって自信もついた。
前述のとおり、4年間通して大学の鑑と言っても過言なくらいにはたくさんの活動をしてきて、いろんな人に出会ってきた。
ただそのなかで出会った人たちのほとんどは、昔の自分だったら関わってないんじゃないかなと思う。
中学・高校時代より精神的に少し成長した今だからこそ、自分と違う価値観を持つ相手のことを理解しようとする姿勢を持つことができて、相手を通して今まで自分が見ることができなかった世界を見ることに面白みを感じるんじゃないだろうか。未知の世界を見せてくれた皆様、ありがとう。
そういう姿勢はこれからも大切にしていきたい。
そしてやっぱり人に恵まれたなと思う。
仲良くしてくれる人は皆、個性はバラバラだけれど誠実で、ユーモアがあって、向上心に溢れていて、思慮深い人が多い傾向にあると思っている。
そんな素敵な人たちと切磋琢磨しながら大学生活を送れたことは、非常に幸せなことだ。
そしてきっとその人たちは、私自身を誠実に、向上心とユーモアを持たせ、思慮深さを身に付けさせてくれたと思っている。
卒業式が近づいて、「最後の集まり」が続いた時に感じたことは、私は器用な人間なんかじゃないってことだ。
活動たちのお陰で人脈こそ広いものの、もうちょっと仲良くなりたかった人、充分大切にできなかった人もいた。そこが少し心残りではある。
誰かがたった1人に注ぐ愛と同量の愛を、複数人に同時に注ぐなんてことは出来ないから、浮気は良くないんだろう。
恋人を1人に絞るのと同様に、活動も絞れば良かったと思わないことはない。
正に、やらない後悔じゃなくやる後悔を体現した形になってしまった。
ただ当時は、高校の分を取り返すくらい色々な経験がしたかったし、キャパオーバー寸前まで予定を詰め込んで、忙しない日常を過ごすことで生きている実感を得ていたのだと思う。
ある意味大学の色にまんまと染まってしまったのかもしれない。そう考えると恐ろしいけれど、それもまた私が望んだ大学生活だったのだろう。
自分自身が大きく変わったところでいうと、自分の意見を言えるようになった。
昔はグループワークの時も、なかなか自分の意見を伝えられない、意見がない人になりがちだった。大学での大量のグループワークだったり、学生団体のMTGだったりを通して、人に合わせるのではなく、自分なりに考える力が遅ればせながら少しは身についたと思う。
コミュニケーション能力も多少は身についたと思っている。
今でも人見知りはするし、スイッチが入らないと殻に閉じこもってしまうこともあるけれど、相当な数の人と関わってきたおかげで、その頻度は減った。
”自分”を見せられるようにもなった。
それは自分の本当の姿を見せても大丈夫という安心感のある人たちとの関係性が構築できたことも意味するけれど、そうでない場面でも、どこか取り繕ってしまう部分を取り壊して、”自分”を見せることへの恐怖心は前ほどなくなった。
ずっと”自分”ってなんだろうって考えてきたけど、その軸も少しは確立できた気がする。
それが意見を言えるようになったことにも関連しているのではないだろうか。
もっともっと成長ポイントはあると思うけれど、パッと思い浮かばない(笑)ので、そのうち追記するかもしれないです。
勉強も課外活動も遊びも全力を尽くした大学生活、”誰よりも”なんて生意気なことは言えないけれど、私史上一番充実した学生生活になったことは間違いない。
何はともあれ、非常に充実した大学生活、田舎暮らしでした。
次に帰ってくる時は、立派な社会人の端くれくらいにはなれていますように。
こんな長文を最後まで読んでくれたあなたに、ちょっと良いことが起こりますように。
高校時代の私へ
この大学を選んでくれてありがとう。
田舎の大学生活、間違いなくそこでしか体験できない人生の貴重な財産になったよ。高校時代とは比べ物にならないくらい沢山の挑戦と経験をして、一回りも二回りも成長できたよ。
入学したら楽しい出来事と素敵な人たちが待っているから、どうか未来を諦めないでね。
大学を卒業した私より
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